第1166話 2016/04/11

近江朝と庚午年籍

 『古田史学会報』133号に発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「『近江朝年号』の実在について」は九州王朝説の展開について重要な問題を提起していることに気づきました。
 『二中歴』などに見える九州年号とは別に「中元(668〜671)」「果安(672)」という不思議な年号が諸資料に散見されることが、九州年号研究者には知られていました。正木さんはこの「中元」を天智天皇の年号(天智7年〔即位元年〕〜10年)、「果安」を大友皇子の年号、すなわち「近江朝年号」と理解されました。「中元」を天智の年号ではないかとする見解は竹村順弘さんやわたしが関西例会で発表したことがあるのですが、正木さんは更に「果安」も加えて「近江朝年号」と位置づけられたのです。ここに正木説の「画期」があります。
 九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻が白村江戦敗北により唐の捕虜となっている間、九州年号「白鳳」(661〜683)は改元もされず継続するのですが、その最中に「中元」「果安」が出現しているのです。すなわち、日本列島内に二重権力状態が発生したと正木さんは主張されました。そこで、正木さんとの懇談の中で、「それでは庚午年籍(670)は誰が命じて造籍したのか」というわたしの質問に対して、「近江朝でしょう」と答えられました。その瞬間、わたしの脳裏は激しく揺さぶられました。(つづく)


第1165話 2016/04/09

尾張国分寺の多元性

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)の多元的「国分寺」研究に刺激を受けて、尾張国分寺跡についてネット検索してみました。頻繁に出張で訪れる愛知県一宮市には尾張一宮の真清田神社がありますから、国分寺も一宮市にあるのかと思っていたら、南隣の稲沢市にありました。

 ウィキペディアなどの説明では、尾張国分寺跡は金堂・講堂・南大門が一直線上に配置される様式で、塔はその東側に位置しているとのこと。しかも塔と講堂の主軸方位が異なっており、同時期に造営されたのか疑問がもたれます。
多元的「国分寺」研究における主要な視点には次のようなものがあります。

1.主要伽藍と塔の主軸方位のずれの有無。
2.出土瓦の編年と『続日本紀』の国分寺建立詔時期のずれ。
3.近隣をはしる古代官道などの方位とのずれ。
4.一国に複数の国分寺の存在。
5.塔の位置が寺域(回廊)の外か内か。

 以上の視点からの検証により、九州王朝による7世紀の国分寺と聖武天皇による8世紀の国分寺との区別を行うという方法が試みられています。皆さんのお近くに国分寺がありましたら、一度、調査していただけないでしょうか。


第1164話 2016/04/08

古田武彦初期三部作が売れ行き良好

 名古屋出張から久しぶりに帰宅すると、多くの郵便物とパソコンには数十通のメールが届いていました。ミネルヴァ書房からは「新刊案内」のパンフレットが届いており、その2月号には『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)が次のように紹介されていました。

 「古田武彦が『「邪馬台国」はなかった』を発表して四四年、この間の考古学・文献史学における新事実が、邪馬壹国が九州に存在していたことを裏付けし、その科学的研究手法の正しさが証明されている。本書では、その絶え間ない研究を集大成する。」

 そして、2015年12月の「ミネルヴァ書房の売れ行き良好書」のランキングには、「人文科学」の分野の3位に『「邪馬台国」はなかった』、4位に『失われた九州王朝』、5位に『盗まれた神話』が入っていました。古田先生の古代史初期三部作がそろって上位にランキングされていたのです。通常ですと新刊書が上位に入るのですが、この現象は珍しいことです。恐らく、10月に先生が亡くなられ、その訃報を新聞記事などで知った多くの方々がこの初期三部作を購入され、そのために書店からの在庫補充の注文が12月に集中したのではないでしょうか。古田先生の根強い人気がうかがわれました。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』も上位にランキングされるとよいのですが。「洛中洛外日記」の読者の皆さん。ぜひお買い求めください。なお、今年の夏には東京で同書の出版記念講演会を「古田史学の会」主催で行うべく、計画を立てています。詳細が決まりましたら、ご報告します。


第1163話 2016/04/05

『古田史学会報』133号のご案内

 『古田史学会報』133号が発行されましたので、ご紹介します。本号も岡下さんや正木さんらの好論が満載です。特に正木さんの「中元」「果安」を「近江朝」年号とする仮説は魅力的かつ衝撃的です(検証すべき疑問もありますが)。天智天皇の「不改常典」とも関わり合いそうなテーマですので、これからの論争や展開が楽しみです。
 わたしからは久しぶりに前期難波宮問題を取り上げた論稿「『要衝の都』前期難波宮」を発表しました。前期難波宮九州王朝副都説を提唱してから8年が過ぎましたが、九州王朝説論者からの反論がありますので、改めて説明と再反論を行いました。わたしは「学問は批判を歓迎する」(武田邦彦さんの言葉)と考えていますので、自説への批判は歓迎しますが、その上で、前期難波宮副都説を批判される方には、次の質問をすることにしています。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 この質問に対して、史料(あるいは考古学的)根拠を示して合理的に回答された九州王朝説論者をわたしは知りません。わたしの前期難波宮副都説はこの四つの疑問に答えるための数年に及ぶ苦心惨憺の中から生まれた説ですから、それを超える合理的な仮説があるのでしたら、是非お答えいただきたいと思います。
 133号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

 『古田史学会報』133号の内容
○「是川」は「許の川」  京都市 岡下英男
○「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕
○岡下論文『「相撲の起源」説話を記載する目的』の補遺としての考察 -筑前にも出雲があった-  福岡市 中村通敏
○「要衝の都」前期難波宮  京都市 古賀達也
○「善光寺」と「天然痘」  札幌市 阿部周一
○令亀の法  八尾市 服部静尚
○追憶・古田武彦先生(3)
 蕉門の離合の迹を辿りつつ  古田史学の会・代表 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅳ
 九州年号が語る「大和朝廷以前の王朝」 古田史学の会・事務局長 正木裕
○久留米大学公開講座のお知らせ 5月28日
 講師 正木裕 「聖徳太子」は久留米の大王だった
 講師 古賀達也 九州王朝の「聖徳太子」伝承
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2016年度会費納入のお願い


第1162話 2016/04/03

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(2)

 鳥取県東伯郡の天神川右岸に位置する長瀬高浜遺跡は、古墳時代におけるこの地域の支配者らの住居跡と見られていますが、その遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることから、天孫族(倭国)の西日本支配以降もこの地域では銅鐸を用いた祭祀が続けられたと考えられます。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、「倭の五王」の時代に入った5世紀前半にはこの銅鐸が廃棄されていることから、大和朝廷による全国支配の確立による変動がこの地の在地豪族に影響を与えたと考察されています。これを九州王朝説の視点から考えると次のような歴史的変遷が想定可能です。

1.「天孫降臨」や「国譲り」により、出雲や山陰地方の銅鐸勢力は東へ逃亡した。
2.天孫族に降伏した大国主命らは、その後も在地勢力として残ったが、銅鐸祭祀を継続できたか否かは不明。
3.鳥取県の天神川流域の勢力は、古墳時代中期頃まで長瀬高浜地区の高殿で銅鐸を祭祀に使用していた。
4.古墳時代中期以降にはこの銅鐸が廃棄され、長瀬高浜に割拠していた勢力は移動した。

 概ね以上の変遷をたどったと推定できますが、もしこの推定が正しければ、この地域では銅鐸祭祀の継続が許されていたが、古墳時代中期に至り、何らかの事情で銅鐸を廃棄したということになります。
 そうであれば、出雲に残った大国主命たちは銅鐸祭祀を続けたのでしょうか、それともやめたのでしょうか。従来は、荒神谷遺跡。加茂岩倉遺跡などからの銅鐸出土を根拠に、天孫族の侵略により、この地の銅鐸圏の権力者たちは銅鐸を地中に隠して逃亡したと、古田説では考えられてきました。しかし、長瀬高浜遺跡からの銅鐸出土により、山陰地方における古墳時代の銅鐸祭祀が想定されることから、再検討が必要かもしれません。(つづく)


第1161話 2016/04/02

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(1)

 弥生時代の日本列島には銅矛・銅弋などの武器型青銅器圏と銅鐸圏という二大青銅器圏があったことは著名です。この銅矛圏が邪馬壹国を中心とする倭国であり、銅鐸圏は関西にあった狗奴国であると古田先生は指摘されましたが、銅鐸圏は倭国の侵略(天孫降臨や神武東侵など)により、東へ東へと逃げるようにその中心は移動しています。
 中には大和盆地のように、壊された銅鐸の出土もあり、激しい侵略や弾圧の痕跡がうかがえます。銅鐸は時代とともに大型化し、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化し、祭祀のシンボルとして重用されたものと思われますが、天孫族の侵略により、銅鐸祭祀は禁止され、銅鐸は廃棄されたものと考えてきたのですが、鳥取県東伯郡の長瀬高浜遺跡から古墳時代の遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることを知り、驚きました。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、長瀬高浜遺跡は古墳時代前期後半から中期前半の大集落遺跡を中心とした複合遺跡と説明されています。その中の平面プランが六角形に近い大型竪穴式建築跡(SI-127)が廃絶したあとの竪穴内の埋土中から、高さ8.8cmの小型銅鐸が出土していました。この銅鐸は弥生時代中期に製造されたものと見られており、それが古墳時代中期初頭頃に廃絶した遺構の埋土中に含包されていたことから、弥生中期から古墳時代中期の長期にわたって祭器として使用されていたことが推察されます。その紐の内側部分が吊り下げによる磨耗で大きくすり減っていることからも、その使用が長期間にわたっていたことを証明しています。
 出土した大型竪穴式建築跡(SI-127)に隣接して、高殿と思われる大型祭祀遺構(SB40)が出土しており、この銅鐸はこの高殿で祭祀に使用されていたと推察されています。こうした出土事実から、銅鐸が破壊された大和盆地とは異なり、この地域では弥生時代に銅鐸圏が滅亡した後も、祭祀のシンボルとして銅鐸が古墳時代まで使用されていたことになり、このことはとても興味深い現象と思われます。(つづく)


第1160話 2016/04/01

3月に配信した

「洛中洛外日記【号外】」のご紹介

 3月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 3月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/03/02 絶景富士山!静岡側と山梨側から拝観
2016/03/08 韓国で発見された前方後円墳
2016/03/15 『古田武彦は死なず』が3月18日に発行
2016/03/20 百田尚樹さんの『カエルの楽園』を読む
2016/03/25 『古田武彦は死なず』が刊行
2016/03/26 『東京古田会ニュース』No.167のご案内
2016/03/29 名古屋駅の三省堂とジュンク堂の落差
2016/03/30 和田家文書研究のための用語定義


第1159話 2016/03/31

小保方晴子さんがホームページ開設

 小保方晴子さんがご自身のホームページ「STAP HOPE PAGE」を開設され、STAP細胞作成の詳細なレシピを開示されました。全文英文で、分子生物学の専門用語が駆使されていますので、時間をかけて少しずつでも読んでみようと思っています。
STAP細胞製造の詳細なレシピが開示されていますので、恐らく世界中の研究者が再現性試験を開始していると思われますが、実は昨年11月にアメリカのテキサス医科大学の研究チームによる、機械的に損傷させた細胞からSTAP現象の再現に成功したとする研究論文がネイチャーの電子版に掲載されました。小保方さんのハーバード大学(バカンティー研)での研究論文も参考にしたことが同論文には記されています。
理研の発表では小保方さんは酸による刺激でSTAP細胞を作成していますが、物理的刺激でも作成可能と説明されていました。テキサス医科大学の研究チームはこの物理的刺激を機械的損傷という処方で行ったことになり、小保方さんのSTAP現象が別の方法で再現されたことになります。
残念ながら日本の大手マスコミはこの研究論文をほとんど報道しませんでした。あれほどのメディアスクラムで笹井さん(自殺)や小保方さん(NHKの取材で全治3週間の怪我、博士号の剥奪)をバッシングしてしまった手前、いまさら「アメリカでSTAP現象の再現に成功」とは報道できなかったのでしょう。
今回の小保方さんのホームページ開設をきっかけとして、世界中でSTAP現象が追試されることにより、学問研究に対するマスコミの報道姿勢や「弱いものバッシング大好き社会」が少しはまともになると良いのですが。和田家文書偽作キャンペーンによる古田バッシングを体験したわたしの切なる願いです。


第1158話 2016/03/31

『邪馬一国への道標』が復刻

 古田先生の追悼会で、わたしは先生の代表的著作21冊を紹介しながら、そこに展開された学説や学問の方法、研究史上の位置づけなどについて紹介させていただきました。その概要は『古田武彦は死なず』に略載していますので、ご参照ください。
 3冊ずつ7項目に分けて紹介したのですが、時間的制約などのため紹介できなかった著作も少なくありませんでした。もし、あと一冊だけ紹介できるとしたら、躊躇なく『邪馬一国への道標』を上げるでしょう。その『邪馬一国への道標』が本年1月にミネルヴァ書房から復刻されました。喜びにたえません。
 同書には全編が口語体の柔らかい表現で読者に語りかけるように歴史研究の醍醐味や新発見が綴られています。巻末には小松左京さんとの対談録も収録されています。わたしが同書の中で最も感銘を受けたのが『三国志』の著者陳寿の生涯や人となりを紹介された第二章でした。『晋書』陳寿伝に記された陳寿の性格「質直」について、古田先生は次のように翻訳・解説されています。

 「(陳寿は)文章のもつ、つややかさは、司馬相如には劣りますが、“質直”つまり、その文章がズハリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている『三国志』を天子の認定による“正史”に加えられますように」(『晋書』陳寿伝中の上表文)

 この中にある「質直」について、古田先生は次のように解説されました。すなわち、「質直」とは「飾り気がなく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない」ということで、『論語』顔淵編の次の一文を出典として紹介されました。

 「『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり」

 この文を古田先生は次のように解説されています。

 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」

 この古田先生の解説を読み、わたしは初めて自分の名前「達也」の出典が『論語』にあったことを知ったのです。「達とは質直にして義を好む」この一文を知り、以来、わたしは自らの名に恥じぬよう、「質直」を人生の指針としました。残念ながらとても陳寿のような立派な人物になれそうもありませんが、陳寿を尊敬することはできます。こうして古田先生の名著『邪馬一国への道標』は、わたしにとって忘れ得ぬ一冊となったのでした。


第1157話 2016/03/29

古田武彦は死なず

古田武彦は死なず

好評『古田武彦は死なず』の目次紹介

 この度、明石書店から発刊された『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)はご好評をいただき、「古田史学の会」内外からたくさんご注文をいただいています。「古田史学の会」2015年度賛助会員(年会費5000円)の方へは、明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員の皆さんも、お近くの書店などでお買い求めいただければ幸いです。
 同書の目次を紹介します。ご覧のように古田先生の追悼特集にふさわしい内容とすることができました。また、優れた研究論文も収録しています。おかげさまでとても良い本となりました。今は亡き古田先生にも喜んでいただけるものと思います。

『古田武彦は死なず』 目次

○巻頭言
二〇一五年、慟哭の十月  古田史学の会代表 古賀達也
古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦氏  古田史学の会全国世話人・事務局長 正木 裕

○追悼メッセージ
古代史学の「天岩戸」を開いた古田先生を讃える  荻上紘一
弔意  創価学会インターナショナル会長 池田大作
古田武彦先生を悼む  東北大学教授 佐藤弘夫
古田武彦さんを悼む  学校法人旭学園理事長、考古学者 高島忠平
古田武彦さんを忘れない  中山千夏
古田先生を悼む  桂米團治
追悼 古田武彦先生  森嶋瑤子
同志、古田武彦先生を悼む  明石書店代表取締役会長 石井昭男
古田武彦先生を偲んで  古田武彦と古代史を研究する会会長 藤沢 徹
追悼  多元的古代研究会会長 安藤哲朗
古田先生と齋藤史さん  古田史学の会まつもと 北村明也
古田先生との思いで  古田史学の会・北海道代表 今井俊圀
古田武彦先生への追悼文  古田史学の会・仙台会長 原 廣通
古田武彦という人をどこまでも愛して  古田史学の会・東海会長 竹内 強
古田史学とわたし  水野孝夫
古田先生をしのぶ  古田史学の会・四国会長 阿部誠一
古田武彦先生 追悼文  久留米地名研究会(編集長) 古川清久
「倭人伝」のご返事-古田先生の書簡のご紹介-  野田利郎

○特別掲載 古代史対談
      桂米團治・古田武彦・古賀達也
     (KBS京都ラジオ「本日、米團治日和。」の妙禄。茂山憲史氏による)

○〔再録〕古田武彦先生の記念碑的遺稿
村岡典嗣論 -時代に抗する学問-  古田武彦
アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉  古田武彦
真実と歴史と国家 -二十一世紀のはじめに-  古田武彦

○論説・古田史学 〔資料 古田武彦研究年譜〕
古田武彦先生の著作と学説  古賀達也
学問は実証よりも論証を重んじる  古賀達也
「言素論」研究のすすめ  古賀達也
資料 古田武彦研究年譜  西村秀己

○研究論文
孫権と俾弥呼
 古田武彦氏の「俾弥呼の魏への戦中遣使」論証を踏まえて  正木 裕
四天王寺と天王寺  服部静尚
盗用された「仁王経・金光明経」講説
 -古田武彦氏の「持統吉野行幸の三十四年遡上」論証を踏まえて-  正木 裕
鞠智城神籠石山城の考察  古賀達也
「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 -古田武彦氏の『隋書』イ妥国伝、「釈迦三尊光背名」の解釈を踏まえて-  正木 裕
九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎  合田洋一
『日本書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城
 -古田武彦氏の『書紀』斉明紀の解明を踏まえて-  正木 裕
「唐軍進駐」への素朴な疑問  安随俊昌
倭国(九州王朝)遺産一〇選  古賀達也
「坊ちゃん」と清  西村秀己

○古田史学の会・会則
○「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
○編集後記  服部静尚
○二十一集投稿募集要項
○古田史学の会 会員募集


第1156話 2016/03/26

『肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事』

 「古田史学の会」会員の肥沼さんから『肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事』が送られてきましたので、ご紹介いたします。肥沼さんとは、多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げて、共同研究しています。以下、肥沼さんのブログからの転載です。

 肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事

 上記のミニガリ本を作ったので,お知らせしておく。
 最近『歴史地理教育』誌に書かせてもらったので,それを収録して仮説や古田史学の資料集とした。
 内容を説明すると,以下のようなものだ。
(1) 肥さん年図
(2) これまで書いた「論文」たち
(3) 「私の授業の工夫」(「くわ」1月号掲載)
(4) 小川洋著『空 見上げて』の書評(『たの授』11月号掲載)
(5) 「仮説実験授業の《世界の国ぐに》と立体教材「GDPボックス」」(『歴史地理教育』2月号掲載)
(6) 「国分寺」はなかった!
(7) 多元的「国分寺」論に有利な事象
(8) 12弁の菊花紋は,九州王朝の家紋か?
(9) 「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地
(10) 日本古代ハイウェーは,九州王朝の作った軍用道路か?
 付録 (国分寺の塔が,回廊の「内」か「外」かのグラフ)


第1155話 2016/03/25

「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内

 古田史学の会・事務局長の正木裕さんが主催されている「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内をいただきましたので、ご紹介します。6月のセッションにはわたしも「カタリスト」として出席予定です。少人数を対象とされており、古田史学入門編として面白いテーマが毎回取り上げられています。ふるってご参加ください。

【お知らせ】
 「誰も知らなかった古代史」セッションの第3回、第4回を事務局長の正木さんの主催で次の通り開催されます。

第3回 4月22日(金)18時30分〜20時。
「縄文・弥生人は南米に渡った」
【カタリスト】大下隆司さん(古田史学の会・会員)

下に掲載済み

第4回 5月13日(金)18時30分〜20時。
「実在したイワレヒコ(神武)」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

□会場 森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩五分)の二階「まちライブラリー」。
□定員20名(参加費ドリンク代500円)。

□申し込みは正木さんまでメールで。
 Babdc106@jttk.zaq.ne.jp