第1014話 2015/08/03

九州王朝説への「一撃」

 先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、最勝会の開始時期を『二中歴』「年代歴」の記事にあるように白雉年間とするのか、通説のように「金光明最勝王経」が渡来した8世紀以降とするのかという服部さんの研究テーマについて意見交換しました。そのおり、仏教史研究において、九州王朝説への「一撃」とも言える重要な問題があることを指摘しました。
 九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。
 同様の問題が宮殿遺構においても、九州王朝説への「一撃」として存在していました。すなわち7世紀中頃としては列島内最大規模で初の朝堂院様式を持つ前期難波宮の存在でした。通説通り、これを孝徳天皇の宮殿とすれば、この時期に評制施行した「難波朝廷」は近畿天皇家となってしまい、九州王朝説が瓦解するかもしれなかったのです。この問題にわたしは何年も悩み続け、その末に前期難波宮九州王朝副都説に至り、この「一撃」をかわすことができたのでした。
 これと同様の「一撃」こそ、7世紀初頭の寺院分布問題なのです。このことを正木さん服部さんに紹介し、三人で論議検討しました。この検討結果については、これから少しずつ紹介したいと考えていますが、こうした問題意識から、わたしは『古代に真実を求めて』20集の特集テーマとして「九州王朝仏教史の研究」を提案しました。今後、編集部で検討することとなりますが、この九州王朝説への「一撃」を古田学派は逃げることなく、真正面から受けて立たなければなりません。


第1013話 2015/08/02

新入会員、急増中!

 このところ新入会の会員が急増していると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から報告がありました。入会申し込みされた方に対して、正木さんは電話などで入会受付したことを連絡し、入会動機などを聞かれているのですが、その中には「洛洛メール便」配信希望が理由の方もおられ、「洛中洛外日記【号外】」を読みたい為とのこと。「洛中洛外日記」を書いているわたしとしては大変ありがたく、うれしいことです。
 最近、「洛洛メール便」で配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次のようです。会員の皆さんの配信申し込みを受け付けていますので、この機会にお申し込みください。配信担当者は竹村順弘事務局次長です。

「洛中洛外日記【号外】」(2015/07/11〜08/01) タイトル
2015/07/11 『月刊 加工技術』連載コラム
太宰府防衛の巨大要塞「水城」
2015/07/13 『「邪馬台国」論争を超えて』の目次(案)
2015/07/14 『古代に真実を求めて』19集のタイトル検討
2015/07/19 愛知サマーセミナー受講者の感想文
2015/07/22 ユーチューブで「古田史学解説」企画中
2015/07/29 KBS京都ラジオ「本日、米團治日和」に出演依頼
2015/08/01 9月6日、東京講演会の打ち合わせ


第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。


第1011話 2015/08/01

宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝

 7月29日(水)の読売新聞朝刊に不思議な記事が掲載されていました。「大和王権と続縄文 交流と軋轢」という大和朝廷一元史観丸出しの見出しで紹介された宮城県栗原市・入の沢遺跡の記事です。
 記事によれば、宮城県栗原市の入の沢遺跡で発見された、古墳時代前期(4世紀)の集落跡から銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土したとのこと。集落は標高49mの丘陵上にあり、環濠で囲まれており山城のような防御遺構とされています。
 わたしが注目したのは建物跡から出土した珠文鏡などの銅鏡です。銅鏡をシンボルとする文明圏に属する集落と思われますから、いわゆる「蝦夷国」ではなく、九州王朝系に属する遺構と思われるのですが、その時期が4世紀と編年されていますから、邪馬壹国の卑弥呼と「倭の五王」の間の時間帯です。わたしのこれまでの認識では、倭王武の伝承と思われる『常陸国風土記』の倭武天皇伝承によれば、5世紀段階でも九州王朝の勢力範囲は北関東・福島県付近までと考えていたのですが、入の沢遺跡の発見により4世紀段階で宮城県北部まで「銅鏡文明」が進出していたこととなり、九州王朝説の立場からも再検討が必要と思われます。
 また、「洛中洛外日記」515話で紹介した新潟県胎内市の城の山古墳(4世紀前半と編年されている)から出土した盤龍鏡とともに、この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです。現地の古田学派研究者による調査検討が期待されます。


第1010話 2015/07/31

古田武彦著

『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』復刊

 1993年に原書房から刊行された古田先生の著作『古代史をゆるがす — 真実への7つの鍵』が、この度ミネルヴァ書房から復刊されました。
 同書巻頭には美しいカラー写真が収録されており、印象深く記憶に残っている一冊でした。今回、改めて読み直しましたが、7つの重要な論点がそれぞれ独立していながらも、九州王朝という概念を明確に浮かび上がらせるという見事な構成となっています。その7つの論点は次の通りですが、古田史学や九州王朝説が初学者にとっても興味深く理解できる好著です。お持ちでない方は、この機会に是非書架に揃えていただきたい本です。

『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』の論点

第1の鍵 足摺に古代巨石文明があった
第2の鍵 宮殿群跡の発見と邪馬一国
第3の鍵 祝詞が語る九州王朝
第4の鍵 「縄文以前」の神事
第5の鍵 立法を行っていた「筑紫の君」磐井
第6の鍵 「十七条憲法」を作ったのは誰か
第7の鍵 もうひとつの万葉集


第1009話 2015/07/28

九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補に

 今日は出張で高松市に来ています。三年越しのビジネスが成立したこともあり、高松市にお住まいの西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)と夕食をご一緒し、祝杯につきあっていただきました。もちろん話題は最近の古代史研究についてと「古田史学の会」のこれからの展開についてでした。
 夜遅くホテルに戻りますと、テレビニュースで玄界灘の孤島「沖ノ島」が世界遺産候補になったと報道されていました。「海の正倉院」とも呼ばれている「沖ノ島」は島全体が古代祭祀遺跡ともいうべきもので、出土した遺物数万点は国宝に指定されています。
 女人禁制の島としても有名ですが、九州王朝の聖地でもあります。古田先生の『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房より復刊)で詳しく論証されていますが、記紀の建国神話(国生み神話)に登場する「天両屋(あまのふたや)」は「沖ノ島」であると指摘されています。その決め手となった根拠は「沖ノ島」の傍らにある小さな島の名前が「小屋島」ですから、「沖ノ島」の本来の名前は「大屋島」となり、この大小二つの「屋島」が「天両屋」と呼ばれていたと考えられることです。「沖ノ島」という名前は宗像から見て沖にある島だからそう呼ばれたと思われます。
 九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補になったことは九州王朝説論者としては喜ばしいことであり、これを機会に更に「沖ノ島」の多元史観による研究の深化が期待されます。

『ここに古代王朝ありき』第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 沖の島の探究


第1008話 2015/07/27

米團治さんとの京の一夕

 昨日、落語家の桂米團治さんと夕食をご一緒しました。とても上品で誠実な方でした。加えて、関西落語界のホープと目されるだけあって、「花」がある方でした。
 米團治さんと知り合うきっかけは、米團治さんのブログで四天王寺に関するわたしの説を紹介されたことでした。地名は「天王寺」なのに何故そこにあるお寺は「四天王寺」なのかということを「洛中洛外日記」で論じたことがあるのですが、そのことを知った米團治さんがご自身のブログで触れられたのです。今年になって、そのお礼として『盗まれた「聖徳太子」伝承』をお贈りし、昨日の食事会となったわけです。
 たまたまご近所に米團治さんのお父様の米朝師匠と親しかったご婦人がおられ、家族でおつき合いをしていたこともあって、米團治さんの連絡先を教えてもらえたことも幸いでした。
 米團治さんとはもちろん古代史の話で盛り上がったのですが、古代史関係の本を実にたくさん読んでおられたのには驚きました。わたしが知らない著者の本もお持ちでした。また、共通の知人に上岡龍太郎さんがおられることもわかり、上岡さんが古田ファンであることもご存じでした。わたしからは、古田学派による最先端研究の状況を説明させていただきました。
 前日に古田先生から『古代に真実を求めて』17集に米團治さん宛のサインを書いていただいていましたので、その本も進呈させていただきました。ちなみに、古田先生の奥様は米朝師匠のファンだったそうです。
 これをご縁に、これからも古代史談義の場を持てることとなりそうです。とても素敵な京の一夕でした。


第1007話 2015/07/25

古田先生へのご挨拶

 本日、JR桂川駅のイオンモール2階の食堂で、古田先生と「古田史学の会」役員とで昼食をご一緒し、役員交代のご挨拶をしました。「古田史学の会」からは水野顧問・正木事務局長・竹村事務局次長・服部編集責任者とわたしが出席し、古田先生のご子息の古田光河(ふるたこうが)さんも同席されました。2時間ほど懇談したり、古田先生の新発見テーマなどをお聞かせいただき、楽しい昼食会となりました。
 服部さんからは、ミネルヴァ書房から発行予定の『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の企画概要が説明され、古田先生のメッセージ執筆依頼を行いました。
 わたしからは、最近取り組んでいる鞠智城や熊本県あさぎり町才園古墳出土の鍍金鏡について報告し、古田先生のご見解を求めました。先生も関心を持っておられたようで、まず鍍金鏡の実物を見ることが重要とのご指摘をいただきました。
 この8月8日で古田先生は89歳になられますが、研究や執筆意欲は旺盛なご様子でした。足腰が弱られているようで、光河さんが車椅子で先生をご自宅まで送られました。皆で記念写真をとり、お別れの際、先生は車椅子から立ち上がられ、丁重にお辞儀をされました。わたしたちは先生のご長寿を祈り、古田史学の継承・発展を心に誓いました。

古田史学会役員交代挨拶

向かって左から水野前代表、正木事務局長、古賀代表、古田光河氏、服部編集長、中央が古田武彦氏


第1006話 2015/07/22

「愛知サマーセミナー」の反省点

 7月19日に開催された「愛知サマーセミナー」の私自身の反省点についても考えてみたいと思います。思いつくだけでも次の技術上の反省点があります。

1.どのような参加者層なのかの事前調査が不十分だった。そのため、中学生の参加という想定外の事態が発生し、講義途中に反応を見ながら、説明の内容やレベルを修正する事態となった。マーケットリサーチの欠如との批判を免れません。企業活動では絶対に許されないミスでした。

2.高校生を対象としてパワーポイントの映像を作成したつもりだったのですが、ビジュアル化が不十分であり、印象に残るような画像演出ができていなかった。ただし、これは改善が容易です。既に技術的には解決策が確立されていますので、事前の準備時間をどれだけ確保できるかという問題です。

3.講演者間の事前打ち合わせがなされていなかった。そのため、当日になって他者のレジュメを見て、内容の重複を知り、これも講義内容を変更して対応するという事態が発生しました。事前打ち合わせを今後は徹底的に行う必要があります。あるいは講演者を一人とするという解決方法もあります。

4.レジュメも中高生向けのテキストとしてパンフレット様式で作成したほうが効果的でした。パンフレットの方が、その後の保管や利用にあたり便利だからです。これは講演者個人の課題ではなく、「古田史学の会」の事業として作成すべきと思われました。

 他にも演出上の工夫、テーマの選定など、様々な克服すべき課題がありましたが、逆にこれらの対策を確立できれば、来年以降はもっと素晴らしいセミナーとすることが可能ですし、未来の古田学派研究者の輩出も期待できます。「古田史学の会・東海」のみなさんとも相談して、ぜひ、戦略的に取り組んでみたいと思います。


第1005話 2015/07/22

「愛知サマーセミナー」の成果と特長

 7月19日に開催された「愛知サマーセミナー」はとても有意義でした。参加者が高校生だけではなく、中学生も熱心に聴講されており、「感想文」を読むと中学生とは思えないほどの意識の高さがうかがわれました。同感想文は「洛中洛外日記【号外】」で紹介しましたが、概ね好評のようでした。そこで、今後のために成果と特長について、わたしの感想を述べてみたいと思います。
 今回のサマーセミナーには開催校の愛知淑徳高校だけではなく、愛知県各地の高校生や中学生が参加されていました。中には大型観光バスで団体参加されている高校もあったほどです。したがって、マーケティングとしてはターゲットが最初から絞り込まれており、セグメンテーションが明確かつ容易でした。すなわち、古代史に関心があるまじめで優秀な中高生が、こちらが集めなくても向こうから集まってくれるというメリットが大きいのです。このことは当サマーセミナーの第一の特長でしょう。もちろん一般参加の社会人も少なくないのですが、今回の目的からすれば主要ターゲットではありませんから、申し訳ありませんが、それほど気にする必要はありません。
 次に会場が愛知淑徳中学の教室であったことは幸いでした。講義用のプロジェクターが常備されていますし、廊下にはベンチもあり休憩や待機もできます。もちろん空調もあり快適な受講環境です。ドアや窓を閉めれば、外部の雑音も入らないとても良い教室でした。しかも施設の使用が無料で、主催者が宣伝広報活動(パンフレット・広報紙・ホームページ)までしてくれますから、まさに「至れり尽くせり」です。このようなイベントに今後も参加しない手はありません。「古田史学の会」としての戦略的イベントとして位置づけ、取り組みたい事業です。


第1004話 2015/07/21

猪垣(ししがき)と神籠石

 今日は久しぶりの北陸出張です。特急サンダーバードの車窓から湖西線沿いに電気柵が設置されているのが見えました。静岡県で鹿除けの電気柵で感電死事故が発生するという痛ましいニュースが流れたばかりでしたので、特に目に付いたのかもしれません。
 湖西線沿線や比叡山付近にはお猿さんが出没し、農作物被害を受けているとの話を聞いたことがあります。日枝神社ではお猿さんを神様の使いとしていますから、周辺住民も駆除しにくいのかもしれません。日本の信仰では動物が神様の使いとされたり、神様の化身とされるケースが少なくなく、たとえば奈良の春日大社の鹿なども有名です。もっとも現在は「神様のお使い」としての役割以上に「観光資源」として鹿さんたちは役立っていますから、少々の被害は目をつぶることになります。また、アイヌの「熊」も同様の例と言えるでしょう。
 現在は電気柵で獣害から農作物を守っていますが、昔は石積みの「猪垣(ししがき)」を巡らしてイノシシによる作物被害を防いでいました。今でも和歌山県熊野地方には長蛇の猪垣が山中や人里に連なっています。以前、古田先生や小林副代表らと熊野山中の猪垣を見学に行ったことがあります。古田先生はこの猪垣を神籠石のような山城の防壁跡ではないかと考えられ、現地見学となったものですが、実際に見てみますと高さも低く、石積みも堅牢とは言い難いもので、これでは敵の侵入を防げるものではないことがわかりました。やはり、ずっと昔から農家が累々とイノシシ除けに築造した「猪垣」だと思われました。小林さんも同意見だったようです。
 猪垣は山から降りてくるイノシシの田畑への侵入防御施設ですから、平地から攻めてくる敵軍の山城への侵入防御を目的としている神籠石とはその構造が全く異なります。すなわち、防御する向きと、「敵」がイノシシなのか武装集団なのかという防御対象も全く異なりますから、その構造が異なるのは当然です。
神籠石は大きな列石とその上に築かれた版築土塁、更にその上には柵が巡らされており、下からの侵入が困難な構造です。対して猪垣は山から降りてくるイノシシが超えられない程度の高さの積石による石垣と、山側にはイノシシを捕まえるための「落とし穴」が設けられています。
 「猪垣」調査のときは私自身の不勉強もあって、その差を十分には理解できていませんでしたが、最近の古代山城の研究により、こうした認識にまでようやくたどり着けました。引き続き、勉強していきたいと思います。なお、小林副代表は「猪垣」調査時点で既にこうした差異に気づかれていたようです。


第1003話 2015/07/19

『二中歴』九州年号の「最勝会」

 最近、「古田史学の会」役員間のメールでのやりとりで、『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号の「白雉」の細注記事の「最勝会」が話題となっています。次の記事です。

  「白雉九年壬子 国〃最勝会始行之」

 大意は、白雉という年号は九年間続き、元年干支は壬子(652年)。国々で最勝会を始めて行う。」ということですが、この「最勝会」とは国家鎮護の経典「金光明最勝王経」を読経する法会です。
 ところが、この記事について服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)より、「金光明最勝王経」が日本に渡来するのは早くても8世紀初頭であることから、この白雉年間(652〜660年)に倭国で「最勝会」は行えないとの指摘がありました。従って、この記事は後代になって書き換えられたものではないかとされたのです。
 これに対して、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)より次のような反論がなされました。白雉年間以前に成立している漢訳「金光明経」内には「最勝」という表現があり、この経典による法会が九州王朝において「最勝会」と表現されていた可能性を否定できないという反論です。
 本格的な史料批判に関する論争であり、なかなか興味深いものです。今のところ判断は保留したいと思いますが、ことの当否は「年代歴」全体の史料批判に基づいて考える必要があり、他の細注記事の性格から判断して、西村さんが言われるように、九州王朝内で「最勝会」と呼ばれる法会がなされていたと考えるのがよいように今のところ思います。「年代歴」編者が元史料にあった法会の名称を書き換える必要が感じられないからです。
 いずれにしましても、白雉年間といえば白村江戦の直前ですし、九州王朝下の諸国で国家的危機を前にして国家鎮護の法会が催されたと思われますので、『二中歴』「年代歴」細注記事は九州王朝史を復元する上で貴重な史料であることは間違いないと思います。
 この件、引き続き論争が深化することが期待されます。