第998話 2015/07/10

祇園山鉾、昔は66基

 京都の町も祇園祭の準備が本格的に始まり、鉾町では鉾の組立が進められています。今日乗ったMKタクシーのドライバーの方は観光課所属とのことで、祇園祭についてかなり詳しく解説していただきました。さすがは京都を代表するタクシー会社らしく、博学な方でした。
 そのお話しによれば、現在の山鉾は33基ですが、本来は66基とのこと。そこで、わたしは「66基とは日本国内の国の数ですか」とたずねると、「その通りです」とのご返事。「聖徳太子」が分国して66国になったとする論文「『聖徳太子』による九州の分国」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』収録)で、九州王朝の天子、多利思北孤が66国に分国したと書きましたので、それが京都の祇園祭にも影響を及ぼしていたことを知り、感慨深く思いました。
 祇園祭のクライマックス「山鉾巡行」は毎年7月17日に執り行われますが、鉾町に転居した新参者が商売の売り上げが増えるよう、土日に開催してはどうかと意見したところ、「祇園祭の伝統を何と心得る」と厳しい叱責を受けたとのエピソードもあったそうです。伝統文化を護る京都らしい話しです。
 なお、山鉾巡行が最も有名な行事ですが、一番重要な行事は御神体を乗せた3基の御神輿による八坂神社から御旅所への往復です。スサノオの命と奥さんと子供を乗せた3基の御神輿が祇園祭の「主人公」なのです。この御神輿の行列には厳しいしきたりがあり、少なくとも三年は参加しないと、担がせてもらえないと聞いたことがあります。
 祇園祭が終わると京都も梅雨明けします。そして本格的な夏を迎えるのですが、体調管理に気を付けて、今年も乗り切りたいと思います。


第997話 2015/07/09

老松堂の韓国内陸行

 先日、名古屋で「古田史学の会・東海」の竹内会長らと懇談したとき、倭人伝の行程記事における「韓国内陸行」が話題に上りました。そのおり、後代史料ですが朝鮮通信使の記録『老松堂日本行録』を紹介し、その通信使節が韓国内を陸行していることを説明しました。
 わたしが岩波文庫から出されている『老松堂日本行録 朝鮮通信使が見た中世日本』を読んだのは25年ほど昔のことですが、同書は李氏朝鮮の文官「宋希環(老松堂)」が通信使として来日したときの記録で、1420年、朝鮮の首都漢城(今のソウル)を出発した通信使節団が日本に来るとき、朝鮮半島内は内陸部を斜めに縦断(陸行)していたことが、その記録(地名)からわかります。古代も中世も国家使節団は半島内を斜めに陸行しているのです。現在の地図で確認してもその行程が韓国内の幹線道路とほぼ重なっていますし、わたしも韓国出張のとき、同様のルートを高速道路で移動した経験がありますので、よく納得できます。
 逆に、朝鮮半島の西岸を「水行」するのは、大勢の犠牲者を出したフェリーの沈没事故などを見てもわかるように、古代も現代もリスクが大きいルートではないでしょうか。
 このようなことを竹内会長や林さん、石田さんと夕食をご一緒しながら懇談させていただきました。各地に「古田史学の会」の組織や会員がおられますから、これからも機会があれば懇談を続けたいと願っています。


第996話 2015/07/08

「洛中洛外日記」【号外】好評配信中

 「洛洛メール便」配信希望者も増え続けており、「洛洛メール便」受信のため新たに入会される方もおられます。また、読者からのご質問や情報提供、誤字誤変換のご指摘までいただいており、感謝しています。
 今回、埼玉県所沢市の会員、肥沼さんから「十二弁の菊」の紋章が古代ユダヤにもあったとの情報が提供されました。このことについては肥沼さんご自身のホームページにも紹介されており、興味のある方は検索してみてください。「肥さん」「中学」「古田史学」などの検索ワードでヒットします。
 なぜ菊の紋章がユダヤで古代から使用されていたのか、とても興味深い情報ですが、わたしの知識や想像が及ぶところではなさそうです。これから少しずつでも勉強していければと思います。
 最近配信した「洛中洛外日記」【号外】のタイトルをご紹介します。【号外】はホームページには掲載しない会員限定情報です。「洛洛メール便」配信を希望される会員は、ぜひこの機会にお申し込みください。

「洛中洛外日記」【号外】(2015/06/12~07/08) タイトル
2015/06/12 『月刊 加工技術』連載コラム「万葉集の中の金属媒染」
2015/06/15 6月21日記念講演会講師、米田敏幸先生のご紹介
2015/06/22 箸墓古墳の絶対編年の謎
2015/06/23 『月刊 加工技術』連載コラム「太平洋を渡った縄文式土器」
2015/06/25 理系の古田ファン
2015/06/26 文系の古田ファン
2015/06/28 愛知サマーセミナーの日程のご連絡
2015/07/02 フェースブック開設を検討
2015/07/06 愛知サマーセミナーでの「高校生へのメッセージ」
2015/07/08 「古田史学の会・東海」役員と懇談


第995話 2015/07/06

愛知サマーセミナーの会場決定済み

 本日、「古田史学の会・東海」の竹内会長と林さんから「愛知サマーセミナー2015」での講義会場決定の連絡が入りました。下記の通りです。
 なお、わたしのテーマは「教科書に書けない本当の古代史! 卑弥呼のご子孫を教えます!」というもので、レジュメの他にパワーポイントによる映写も行い、「九州王朝系図(草壁氏系図)」などをお見せします。東海地方の方はぜひご参加ください。

〔日時〕
7月19日(日)
① 第3限(13:10〜14:30)
講師:古賀達也
② 第4限(14:50〜16:10)
講師:「古田史学の会・東海」会員

〔会場〕
・愛知淑徳中学校・高等学校本館・北棟(※同一棟に中学・高校が同居)4F 中学3年5組教室
(名古屋市千種区桜が丘23)

〔交通アクセス〕
・地下鉄東山線「星ヶ丘」駅、3番出口より徒歩5分
※東山線「名古屋駅」〜「星ヶ丘」駅:約25分


第994話 2015/07/05

天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠

 『日本書紀』天武紀では壬申の乱の年(672年)を「天武元年」とし、「即位」記事は翌天武2年2月にあります。ところが、「東方年表」等では672年は「弘文天皇(大友皇子)」の即位年とされ、天武元年は翌年の673年(癸酉)とされています。このように、天武の元年に『日本書紀』とは異なる説があるのですが、学問である以上、そうした説を唱えるためには史料根拠が必要です。ということで、今日のテーマは天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠についてです。
 西ノ京の薬師寺東塔に次のような銘文があります。書き下ろし文で紹介します。

「維(こ)れ清原宮馭宇天皇の即位の八年、庚辰の歳、建子の月、中宮の不(忿)を以て、此の伽藍を創(はじ)む。(以下略)」
※(忿)の字は、「分」を「余」にしたもの。

 天武天皇が即位して八年、庚辰の歳(680)の11月、后(中宮、後の持統天皇)が病にかかったので、この伽藍を創建したという内容ですが、天武の八年が庚辰の歳とされていることから、即位年は673年癸酉の歳となり、天智没年(671)の翌々年に即位したことになります。従って、空白の一年間(672)が生じることになり、その一年間に大友皇子が即位したとする説の史料根拠とされているのです。
 この薬師寺東塔銘文はちょっと成立過程がややこしいのですが、薬師寺が完成する前に天武天皇は崩御し、持統天皇により完成されます。元々は藤原京にあったのですが(本薬師寺)、平城京遷都にともない、今の西ノ京の位置に移転されます。この銘文も藤原京の寺にあった銘文を平城京の薬師寺の東塔完成時(730年頃)に新しく刻んだと考えられています。
 730年頃といえば、すでに『日本書紀』は成立(720年)しています。すなわち天武元年を672年とする「公式見解」が成立していることから、それとは異なる内容が、天武や持統に縁が深い完成したばかりの薬師寺東塔に記されたことになります。なんとも不思議な現象(史料事実)と言わざるを得ません。わたしは『日本書紀』の天武2年条に見える「即位」記事から年数を数えれば、東塔銘のように「(天武)天皇即位八年庚辰」となりますから、同銘文作成者は『日本書紀』とは別の立場(認識)で年数表記したのではないかと考えています。
 ただ、この1年のずれについては、もう一つの可能性があります。それは干支が1年繰り上がった暦により年干支を記載した場合です。すなわち、干支が1年ずれた暦であれば、実際の年は『日本書紀』と同じ672年「壬申→癸酉」が天武元年となります。
 この干支が1年繰り上がった暦については拙論「二つの試金石 ー九州年号金石文の再検討ー」(『「九州年号」の研究』に収録)で触れていますが、九州年号金石文の一つ「大化五子年」土器は干支が1年繰り上がった暦によった干支表記となっています。すなわち、九州年号の大化5年(699)の干支は「己亥」で、翌700年の干支が「庚子」ですから、この土器は1年干支がずれた暦により表記されていると考えられます。
 これと同様に、薬師寺東塔銘の「(天武)天皇即位八年庚辰」も「庚辰」が1年繰り上がった干支表記であれば、679年のこととなり、『日本書紀』の天武8年と同年のこととなります。もっとも、近畿天皇家中枢の寺院で公認の暦と異なった暦の年干支を使用することは考えにくいので、可能性としてはきわめて低いと思います。
 いずれにしましても、九州王朝から大和朝廷への王朝交替時期に関わる金石文ですので、複雑な歴史背景がありそうで、九州王朝説多元史観による検討が必要です。


第993話 2015/07/04

「肥人の字」「肥人書」のこと

 このところ、鞠智城や「肥後の翁」など肥後の古代史を集中して研究しているのですが、古代において「肥人の字」「肥人書」というものが存在していたことを思い出しました。
 平安時代(10世紀)の『日本書紀』の解説書ともいえる『日本書紀私記』(丁本)に、大蔵省御書所(皇室の蔵書を保管する機関)にある「肥人之字」について次のような「問答」が記されています。

「問ふ、假名の字、誰人の作る所か、と。
師説、大蔵省御書所の中、肥人の字六七板許ある也。先帝(醍醐天皇)、御書所において之を写さしめ給ふ。その字、皆な假名用ふ。或いは「乃」「川」等の字は明らかにこれ見ゆ。若しくは彼を以て始めと為すべきか。」

 大蔵省御書所に「肥人の字」が所蔵されており、それは「仮名」で書かれてあり、「乃(の)」や「川(つ)」などと読める字もあり、これが仮名の始めではないかと説明しています。すなわち、「肥人の字」と記していることから、この謎の「仮名」は肥後か肥前の人の字であるとの認識が示されているのです。同時に「仮名」は大和朝廷(近畿天皇家)で作られたのではないという、平安時代の知識人の認識をも示しており、とても興味深い史料です。
 わたしは、この『日本書紀私記』の記事を20年以上も前に旧友の安田陽介さんの論文「日本書紀私記と『肥人の字』」(『「続日本紀を読む会」論集』創刊号、1993年。非売品)で知りました。当時、わたしは京大で日本史を専攻していた安田さんらと、「続日本紀を読む会」を京都で開催しており、年下の安田さんから多くのことを教えていただきました。「肥人の字」もその勉強会で教えていただいたものです。
 今回、肥後の古代史を研究することになり、20年以上昔のことを思い出しました。更に「肥人書」「薩人書」という史料も御書所にあったと、『本朝書籍目録』(鎌倉時代後期の図書目録)に見えます。おそらくは、これら「肥人の字」や「肥人書」「薩人書」とは九州王朝に淵源する史料であり、近畿天皇家はそれを入手(没収か)し、大蔵省御書所に保管したものと思われます。これらの史料についても九州王朝説による研究が望まれます。どなたか、取り組まれませんか。


第992話 2015/07/03

九州王朝の家紋「十三弁の菊」説

 現在の皇室の御紋は「菊(十六八重表菊)」とされています。それでは九州王朝の家紋は何だったのかというのが、今日のテーマです。もっとも、九州王朝の時代に「家紋」などというものがあったのかも、はなはだ疑問ではありますが、「十三弁の菊」が九州王朝の「家紋」だという「説」があります。
 九州王朝の子孫で、高良玉垂命の末裔である稲員(いなかず)家では江戸時代に「菊」を家紋としていましたが、「上に差し障りがある」としてやめたと稲員家文書『家訓記得集』に記されています。また、稲員家墓地の墓石の上部の、家紋が彫られていたと思われる箇所が、現在では削られているのを随分昔に見たのですが、おそらくはその部分に「菊の紋」があったのではないでしょうか。
 こうした知見から、九州王朝の末裔は「菊の紋」を家紋としていたことは確かなのですが、それが古代の九州王朝の時代まで遡れるのだろうかと漠然と考えていました。そのようなとき、稲員家の分家筋にあたる松延さん(八女市在住)から次のような話をうかがいました。

「九州王朝の家紋は十三弁の菊で、筑後国府から出土した軒丸瓦に十三弁のものがある。弁の数は少ない方が偉い。」
(わたしはこの瓦は未見です。報告書を調査中)

 というものです。松延さんが何を根拠にそのように話されたのかはわかりませんが、不思議な「伝承」だなあと聞いていました。
 その後、筑後の浮羽郡にある「天の長者」伝承の現地調査を行ったとき、「天の長者」を現在も祀っておられる家(後藤家)が偶然見つかり、その家の近くに祀られていた石祀(「御大師様」と呼ばれていた)に彫られていた紋が「十三弁の菊」でした。しかも、均等に13分割されたものではなく、不均等に強引に13弁にしたものでした。12分割は簡単ですが、13分割は困難なため、無理に十三弁にしたと考えざるを得ない彫り方だったのです。
 この偶然とは思えないような「十三弁」が筑後国府出土軒丸瓦や「天の長者」伝説の地にあったことから、松延さんの「十三弁の菊」九州王朝家紋説もあながち荒唐無稽とは言いにくいと考えるようになりました。(拙稿「天の長者伝説と狂心の渠」を参照下さい)
 まだ学問的仮説と言えるレベルではありませんが、ちょっと気になったまま十数年たっていますので、このまま埋もれさせるにはもったいないと思い、今回、書いておくことにしました。将来の研究の進展や新たな発見を待ちたいと思います。


第991話 2015/06/30

9月6日(日)東京講演会を企画中

 『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)発刊記念講演会を9月6日(日)午後1時から東京家政学院大学千代田キャンパスにて開催することを企画中です。同書を関東の皆さんに広く紹介するために、明石書店のご協力を得て企画しているものです。友好団体の「多元的古代研究会(多元の会)」「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」のご協力もいただけるはこびです。
 当日はわたしと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が講演させていただく予定です。つきましては、当日の受付や書籍販売をお手伝いしていただける協力スタッフを募集しています。関西からは講師二名の他、講演会を企画推進されている服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)が参加しますが、現地協力スタッフが必要です。
 謝礼などはお出しできませんが、当日、協力してもよいという方がおられましたら、下記の服部さんのメールアドレスか電話でお知らせいただけないでしょうか。服部さんより詳細の説明とお手伝いしていただく内容などについてご相談させていただくこととなります。どうか、よろしくお願い申しあげます。

【東京講演会 スタッフ協力申込先】
服部静尚 連絡先消去


第990話 2015/06/29

7月19日(日)愛知サマーセミナーで講義します済み

 愛知淑徳高校で毎年開催されている「愛知サマーセミナー」で講義することになりました。主に高校生を対象とはしていますが、一般の方の聴講もOKとのことです。
 同イベントには多くのセミナーや特別講師陣による講演もあり、古田先生も講演されたことがあります。いわば愛知県での一大教育イベントです。このセミナーには「古田史学の会・東海」が毎回参加されており、今回も2時限の古代史講義を担当され、その内の1時限をわたしが受け持つことになりました。
 当日はレジュメの他にプロジェクター映写も予定しています。「九州王朝系図(草壁氏系図)」などもお見せする予定です。東海地方の皆様のご参加をお願いいたします。
 メイン会場は愛知淑徳高校(地下鉄東山線、星ヶ丘駅下車)とされていますが、詳細の連絡はまだ入っていません。日時などは次の通りです。

「愛知サマーセミナー2015」
【日時】7月19日(日) 13:10〜14:30 講師:古賀達也
14:50〜16:10 講師:古田史学の会・東海
【タイトル】教科書が書かない!日本古代史の真実とは!
【紹介文】紀元前から七世紀まで、倭国と呼ばれ中国と通好していたのは、卑弥呼以降も連綿と続いた九州王朝だった。緻密な史料調査をもとに近畿天皇家よりも先に九州王朝が存在していたこと明らかにする。

会場と交通アクセスは、995話をご覧ください。済み


第989話 2015/06/28

九州王朝の「集団的自衛権」

 連日のように国会やマスコミの集団的自衛権や憲法解釈、安保法制の論議や報道が続いています。この問題は、不幸なことに好戦的な国々に囲まれている日本を今後どのような形にして子供たちや子孫に残してあげるのかという歴史的課題ですから、小さなお子さんをお持ちの若いお父さんやお母さんが国会議員以上に真剣に考えるときではないでしょうか。わたしもそのような問題意識を持ちながら、遠回りではありますが、クラウゼヴィツの『戦争論』を再読しています。
 『戦争論』などでも指摘されているように、「好戦的」というのは国際政治における国家戦略の一つですから、いわゆる「善悪」の問題ではありません。その国が、「好戦的」で「軍事的」「威圧的」であることが自国の国益(自国民の幸福)に適うと考え、あるいは結果として国家間秩序(戦争ではない状態)を維持できると考えているということです。そこにおいては「善悪」の議論は残念ながらほとんど意味がありません。「好戦的」であることが自国にとって「善」と考えている国々なのですから。
 そこで、九州王朝の「集団的自衛権」について考えてみました。「洛中洛外日記」980話で、「九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。(中略)九州州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。」と記しましたが、九州王朝(倭国)が九州本土決戦による防御ではなく、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦を選んだ理由を考えてみました。
 一つは唐や新羅との対抗上から百済との同盟(集団的自衛)を自国防衛の基本政策としていたことです。朝鮮半島南部に親倭国政権(百済)の存在が不可欠と判断したのです。これには理由があります。倭国は新羅などからの侵攻をたびたび受けており、朝鮮半島南部たとえば釜山付近に新羅の軍事拠点ができると、倭国(特に都がある博多湾岸や太宰府)は軍事的脅威にさらされるからです。
 たとえば『二中歴』年代歴の九州年号「鏡當」(581〜584年)の細注に「新羅人来りて、筑紫より播磨に至り、之を焼く」とあるように、新羅など異敵からの攻撃を受けたことが多くの史料に見えます(『伊予大三島縁起』『八幡愚童訓』など)。ですから、九州王朝(倭国)にとって、朝鮮半島南部に親倭政権(同盟関係)があること、更には朝鮮半島に複数の国があり互いに牽制しあっている状態を維持することが自国の安全保障上の国家戦略であったと思われます。中国の冊封体制から離脱したからには、当然の「集団的自衛権」の行使として、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済再興を目指して、白村江戦まで突入せざるを得なかったのではないでしょうか。
 ところが思わぬ誤算が続きました。一つは倭王と思われる筑紫君薩夜麻が捕らえられ唐の捕虜となったこと。二つ目は国内の有力豪族であった近畿天皇家の戦線離脱です。おそらく唐と内通した上での離脱と思われますが、その内通の成功を受けて、唐は薩夜麻を殺さずに帰国させ、壬申の大乱を経て、日本列島に大和朝廷(日本国)という親唐政権の樹立に成功しました。こうして唐は戦争においても外交においても成功を収めます。
 現代も古代も国際政治における外交と戦争に関しては、人類はあまり成長することなく似たようなことを繰り返しているようです。歴史を学ぶことは未来のためですから、現在の安保法制問題も日本人は歴史に学んで意志決定をしなければならないと思います。


第988話 2015/06/27

「鞠智城九州内第二拠点」説の考察

 未完成古代山城「見せる城」説を提起された向井一雄さんが、「西日本の古代山城遺跡 -類型化と編年についての試論-」(1991年、『古代学研究』第125号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しを示されていることを「洛中洛外日記」985話で紹介しました。もちろん向井さんは大和朝廷一元史観に立っておられますが、このご意見はとても興味深く思いました。今回はこの「鞠智城九州内第二拠点」説ともいうべきテーマについて考えてみます。
 鞠智城を大宰府陥落後の九州内第二拠点とみなす前提は、大宰府陥落後に南にある鞠智城へ逃げるということですから、想定される敵国は北から侵攻してくることが前提でしょう。この点を九州王朝説に立って理解すれば、豊前・豊後・日向ではなく、肥後に第二拠点を置くということですから、仮装敵国として北方の朝鮮半島諸国だけでなく、東の大和に割拠する近畿天皇家も入っていたのかもしれません。そうでなければ、朝鮮半島からはより遠く、大和には近い豊後・日向か瀬戸内海方面に第二拠点を置くなり、逃げればよいはずだからです。この点、大和朝廷一元史観では肥後に第二拠点を置くという発想はちょっと微妙な感じがします。
 更に大和朝廷一元史観では決定的に説明困難な問題があります。それは南九州にいたとする「隼人」と8世紀初頭に何度も大和朝廷は戦っていることから、周囲に神籠石山城群や「水城」のような防衛ラインが皆無の鞠智城が、はたして「大宰府陥落後の九州内拠点」にふさわしいのかという問題を説明できないのです。すなわち、ポツンと肥後に孤立している鞠智城は南側からの「隼人」の攻撃を想定しているとは考えられないのです。むしろ南九州は安定した味方の領域という大前提があって初めて鞠智城の「孤立」は理解しうるのです。ですから、「隼人」と敵対している大和朝廷による「鞠智城九州内第二拠点」説は成立困難と言わざるを得ません。
 それでは九州王朝説の場合はどうでしょうか。九州王朝内の徹底抗戦派が南九州で最後まで抵抗したとする論稿をわたしは発表していますのでご参照いただきたいのですが、九州王朝と南九州の勢力(「隼人」と表現されている)と九州王朝は友好関係あるいは同盟関係にあったと考えられます。ですから、太宰府の南方の肥後に鞠智城を築くことは不思議ではありません。こうした九州王朝説によって鞠智城の位置づけが可能となるのではないでしょうか。
 なお、『続日本紀』の文武2年五月条(698)に見える大野城・基肄城・鞠智城の繕治記事と、文武4年六月条(700)に見える「肥人」に従った薩末比売らの「反乱」記事も、7世紀最末期の王朝交替時の対立事件として、九州王朝説による検討が必要です。

〔次の拙稿をご参照ください〕
○「最後の九州王朝 -鹿児島県「大宮姫伝説」の分析-」(『市民の古代』第10集所収。1988年、新泉社)
「続・最後の九州年号 -消された隼人征討記事-」(『「九州年号」の研究』所収。2012年、ミネルヴァ書房)


第987話 2015/06/24

「古田史学の会」新役員体制が発足

 6月21日に開催された「古田史学の会」第21回定期会員総会で全国世話人および新役員体制が承認されました。創立以来「古田史学の会」の代表を勤められていた水野孝夫さんが顧問に退かれ、代わってわたしが代表を務めさせていただくこととなりました。
 水野さんからは数年前から代表退任の要望をうかがっていたこともあり、創立20年の節目でもあることから新体制発足となりました。水野さんには引き続き顧問としてご指導いただくことになっています。また、古田先生との日常的な連絡・相談役も引き続きお願いをしております。水野代表と共に創立以来副代表をされてきた太田斉二郎さんも勇退されることとなりました。
 小林嘉朗副代表には留任していただき、事務局体制の復活により、正木裕さんには事務局長、竹村順弘さんには事務局次長として「古田史学の会」の運営にあたっていただきます。インターネット事務局は横田幸男さん、書籍部は不二井伸平さん、『古代に真実を求めて』編集責任者は服部静尚さん、会計は西村秀己さん、会計監査は杉本三郎さんという体制です。『古田史学会報』編集責任者はわたしが引き続き担当し、西村さん・不二井さんに同編集を担当していただきます。
 創立20年を越えて、「古田史学の会」は新たなステージへと向かいます。古田先生と古田史学を支持応援し、古田史学を世に広め、古田史学の発展と会員交流という創立以来の使命を胸に前進してまいります。全国の会員、支持者の皆様のご協力をお願い申しあげ、新体制発足のご報告と決意表明といたします。