第949話 2015/05/11

「肥後の翁」の現地伝承

筑後地方(うきは市)の「天の長者」伝説が九州王朝の天子・多利思北孤かその一族の人物の伝承ではないかと考えていますが、同様に肥後地方にも九州王朝の長者伝説があれば、それが「肥後の翁」ではないかと思い、調査しました。
まだ調査途中ですが、鞠智城がある山鹿市米原には「米原(よなばる)長者伝説」があり、同じく山鹿市には「駄の原(だのばる)長者」伝説もありました。この他にも肥後には「長者伝説」があり、この中に九州王朝に関係する長者がありそうです。
今回、わたしは「米原長者伝説」に注目しました。ウィキペディア等の解説によれば、同伝説は三段階に分かれており、一段目は菊池郡の四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む貧乏な男に都から高貴なお姫様が嫁ぎ、その男は裕福な長者になるというものです。これは各地にある「炭焼き長者伝説」と同類の説話です。
二段目は、山鹿市あるいは山本郡(熊本市植木町周辺)に権勢を誇る駄の原(だのはる)長者と、お互いの宝物を比べあい、金銀財宝を並べた米原長者に対して、多くの子供(子宝)を持つ駄の原長者が勝ったというもので、同類の伝説は筑後のうきは市にもあります。
三段目は、用明天皇の頃に長者という称号を賜った米原長者が、その広大な領地の田植えが昼間の内には終わらなかったため、沈みかけた太陽を引き戻して強引に田植えを続けたことに、天が怒って火の輪(玉)を降らして米原長者の領地(日岡山)を焼き尽くしたというものです。
この米原長者伝説の三段目に、わたしは特に注目したのですが、その理由は「用明天皇の頃(在位585〜587年)に長者という称号を賜った」という年代設定を持つ伝承だからです。これは多利思北孤の時代とほぼ同時期で、九州年号の勝照1〜3年に相当し、多利思北孤が即位した端政1年(589年)の直前なのです。
さらに、沈む太陽を引き戻すという行為が「昼を司る天子(弟)」に相応しい説話と思われることと、最後は「天」の怒りに触れて滅んだということも、九州王朝の兄弟統治を「義理なし」として隋の天子により廃止させられたことを反映した伝承ではないかと思われるのです。
このような長者伝承は後世において脚色されたり、その時代(後世)にふさわしい人名や事件に変質するという性格があるので、どの部分がどの程度の歴史事実を反映しているのかを見極めることが難しいのです。しかし、この米原長者伝説のケースは、時代が特定でき、鞠智城という九州王朝の造営による山城がある地域が舞台となっており、その鞠智城遺跡も出土し、「長者原」「長者山」「米原」という地名も現存しているという点で、大変有力な九州王朝系伝承と見なすことができるのです。引き続き、同伝説を記したより古い出典史料を探索したいと思います。(つづく)


第948話 2015/05/10

「肥後の翁」の考古学

 わたしが「肥後の翁」を九州王朝の天子ではないかと考えた理由は次のようなことでした。

1.筑紫舞の「翁」で主に活躍するのが「都の翁」ではなく、「肥後の翁」であること。
2.肥後地方に「天子宮」が濃密分布すること。
3.『隋書』によれば隋使が阿蘇山の噴火が見える地域(肥後)まで行っていること。
4.(タイ)国では、兄と弟により兄弟統治していること。従って、多利思北孤とは別にもう一人イ妥王がいたことになる。

 以上のような理由から、肥後に九州王朝の有力者がおり、それが筑紫舞の「肥後の翁」ではないかと考えたのです。そこで、今回は「肥後の翁」の考古学痕跡について紹介します。
 まず一つは弥生時代の鉄器出土数です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の論稿「鉄の歴史と九州王朝」(『古田史学会報』124号2014年10月所収)によれば、福岡県と熊本県の鉄器出土数の変遷は次の通りで、両県が群を抜いた国内最多出土県です。

    弥生前期 弥生中期 弥生後期・終末期(本)
福岡県    50  411   984
熊本県    1   41  1565

 服部さんの表では「鉄鏃」と「その他鉄器」を分けて表示されていますが、転載にあたり合計しました。このように、弥生後期・終末期になるとそれまでトップだった福岡県を抜いて、熊本県がダントツのトップとなるのです。その理由や出土状況の詳細は知りませんが、肥後が九州王朝内で重要な地域であったこと、すなわち有力者がいたことをこのデータは指し示しています。
 ちなみに、奈良県は前期0、中期0、後期・終末期6と、全国や近畿の他県よりも「圧倒的に貧相」な出土状況なのです。これは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者や歴史学者の常識や理性を疑うに十分な考古学的出土事実と言わざるを得ません。
 二つ目の考古学的痕跡は、装飾古墳の出現が肥後地方が国内で最も多く、時期も早いという点です。昨年、玉名郡和水町にうかがったおり、当地の考古学者の高木正文さんからいただいた報告書「肥後における装飾古墳の展開」(高木正文著。『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、97-150頁、1999年3月発行)によれば、次のように肥後における装飾古墳の変遷が説明されています。抜粋します。

 「肥後(熊本県)には、現在約190基の装飾古墳が確認されており、数の上では全国一を誇っている。」
 「(八代市・天草島地域は)肥後で最も早い段階で朝鮮半島から横穴式石室が導入された所の1つでもある。肥後の装飾古墳はこの地域で出現し、他の地域へ波及したものと考えられる。」
 「八代・天草地域で出現した装飾古墳は、5世紀半には宇土半島に広がり、5世紀後半には熊本平野へも波及する。」

 このように装飾古墳が肥後の八代・天草地域から発生し、宇土半島・熊本平野へと波及しているのですが、全国的にも原初的発生地域と考えられ、また宇土半島で産出する石棺用のピンク石が他県や近畿の古墳でも使用されていることは有名です。こうした考古学的事実も肥後に九州王朝の有力者がいたことを指し示しているのです。(つづく)


第947話 2015/05/09

「肥後の翁」考への批判2件

「洛中洛外日記」で展開した「肥後の翁」考に対して、早速厳しいご批判2件をいただきましたので、紹介します。
本日、正木裕さん(古田 史学の会・全国世話人)が拙宅に見えられ、わたしの「肥後の翁」考に対して次の理由から間違っているのではないかとされました。すなわち、「肥後の翁」が 天子(兄)であり、隋使が肥後まで行って接見したのなら、『隋書』にそのことが書かれるはずである。しかし、全く書かれていない。従って、仮に隋使が肥後 で九州王朝の有力者に会ったとしても、それは天子(兄)ではない。『隋書』の文脈からも多利思北孤こそ天子(兄)であり、「肥後の翁」はむしろ「弟」と考 えるべきとされました。
その上で、多利思北孤は大善寺玉垂宮にいたと思われ、当地の地名に「夜明」があり、これこそ「夜明けまで政務を執ってい た夜の天子、多利思北孤(兄)」に相応しいのではないかとのこと。更に「日出ずる処」というのも、それまで「夜」だったということであり、これも「夜の天 子(兄)」に対応した呼称との考えも示されました。
なるほどもっともな批判だなあと恐れ入っていたところ、ちょうどそのとき高松市の西村秀己さ ん(古田史学の会・全国世話人)から電話があり、次の理由から「肥後の翁」考の根拠が不適切との、これまた厳しい批判がなされました。その不適切な根拠と は、「秦王」が「天子の弟」という記事は『隋書』にはなく、正しくは天子(高祖)の息子楊俊が秦王であり、兄の煬帝が天子に即位する前に亡くなっていると のこと。楊俊の子供も煬帝が天子に即位してから秦王に任ぜられており、いずれも「天子の弟」のときではないとのことでした。ちなみに、このことは古田先生 が『古代は輝いていた3』に記されていると指摘されました。
たしかに秦王国を「天子の弟の国」と理解し、そこに多利思北孤がいたことを前提に「肥後の翁」天子(兄)という「思いつき」を展開したのですから、その根拠が間違っていれば、「思いつき」も間違っている可能性大です。
このように、厳しいご批判2件の登場により、わたしの「思いつき」も見直しが必要かもしれません。まことに恐れ入りました。よくよく考えてみることにします。やはり持つべきものは、率直な学問的批判をしてくれる友人です。ありがとうございました。

第946話 2015/05/05

鞠智城の「肥後の翁」

 「肥後の翁」考も今回で最後の考察です。ここまで論理の飛躍や論理構成に無理や矛盾がないか、研究仲間の意見も聞きながら進めてきましたが、いよいよ最後の局面です。皆さんも「本当かいな」と批判的に読んでください。
 秦王国にいた昼を司る天子(弟)が多利思北孤とすれば、夜を司る天子(兄)はどこにいたのでしょうか。ここからは全くの推論ですが、筑紫舞の「翁」におい て、「都の翁」よりも中心人物(主役)とされる「肥後の翁」こそ、天子(兄)だったのではないでしょうか。そうであれば隋使がわざわざ阿蘇山の噴火が見え る肥後まで行った理由がわかります。天子(兄・肥後の翁)に接見するためだったのです。
 それではなぜ隋使は肥後まで行き、天子(兄)に会う必要 があったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、一つだけ考えられる理由と史料根拠があります。『隋書』の次の記事です。開皇20年(600年)国の使者が九州王朝の兄弟統治を説明したところ、隋の天子は次のように言って、その制度をとがめています。

「高祖曰く『此れ、はなはだ義理なし』と。是に於いて訓令して之を改めしむ。」

 兄弟統治などには「義理」がないので、止めさせたというのです。この高祖の訓令に従って、大業四年(608年)に九州王朝を訪れた隋使、裴清は秦王国で多利思北孤に会った後、更に十余国を経て、阿蘇山が見える地まで行ったのです。そしてその地で天子(兄)に接見し、兄弟統治をやめろという高祖の訓令を伝え たのではないでしょうか。
 隋使は肥後のどこで天子(兄)に接見したのかは不明ですが、あえてその候補地として「長者原」という地名を持つ城塞都 市・鞠智城をあげたいと思います。あの大規模な大野城をはじめ各地の神籠石山城に、その域内に「長者原」という地名が残っているのは、管見では鞠智城だけ です。また、鞠智城には九州王朝の他の山城には見られない八角堂の遺跡が発見されています。八角堂といえば九州王朝の副都前期難波宮にもあることが注目さ れます。両者の一致は、鞠智城が他の山城とは異なり、天子(兄)がいたことの傍証になるかもしれません。また、肥後に濃密に分布する天子宮の存在理由も、 「肥後の翁」である天子(兄)に淵源したと考えれば、うまく説明できそうです。
 以上のように、筑紫舞の「翁」で主役として活躍する「肥後の翁」 を、九州王朝の兄弟統治における天子(兄)とする考察を続けてきました。細い一筋の論理性と推論に依拠した仮説ですので、絶対に正しいとは言いませんが、 少なくともこの仮説により今まで疑問とされてきた様々なことが説明できるようになりました。他に有力な仮説がなければ、相対的に有力なものとして、今後検 証していただければと思います。


第945話 2015/05/04

「秦王国」の多利思北孤

今回も「肥後の翁」考の続きで、いよいよ核心部分の考察に入ります。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」に記された国名で、その所在地について古田学派内でも意見が分かれており、具体的な有力説が出されていない「秦王国」についての考察です。
秦王国は竹斯国の東と記されていますから、単純に考えれば福岡県の東部、あるいは更に東の瀬戸内海沿岸にあったとする理解も不当ではありません。しかし、 その後に「更に十余国進んで海岸に至った」とありますから、秦王国は内陸部にあったと考えなければなりません。そうすると豊前や瀬戸内海沿岸に秦王国が あったとする説は成立しません。従って、筑豊地方(飯塚市・田川市など)であればこの点はクリアできますが、ただ筑豊からは阿蘇山の噴火は見えません。
このように、秦王国を竹斯国(博多湾岸・太宰府付近)の真東とする理解よりも、古代官道の西海道を東南に進み、杷木付近で筑後川を渡河した先にある筑後地 方説が相対的に有力な説と考えられるのです。「九州王朝の筑後遷宮」という説をわたしは発表していますが、今の久留米市・うきは市に九州王朝が遷宮してい た、「倭の五王」時代から条坊都市太宰府造営(倭京元年、618年)までの期間に、『隋書』に記された多利思北孤の時代(600年頃)は入っていますか ら、そのとき都は筑後にあり、秦王国と称されていたことになるのです。
そして、真の問題はここから発生します。古田先生はこの「秦王」につい て、『隋書』には「隋の天子の弟」のこととして表れていると紹介されています。もしこの用例が倭国でも同様(模倣)であれば、多利思北孤は「日出ずる処の 天子」であると同時に「天子の弟」でもあることになってしまいます。この矛盾した「天子」概念が九州王朝ではあり得ることが、『隋書』「イ妥(たい)国 伝」に次のように記されています。

「(開皇20年、600年)使者言う。イ妥王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴くに跏趺して坐す。日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

このように九州王朝では国王兄弟で夜と昼に分けて統治していたとあるのです。従って、「日出ずる」天子・多利思北孤は昼間の政治を担当していた「弟」と考 えられ、このことは既に古田先生も言及されておられたことです。従って、天子であり、弟でもある多利思北孤が秦王国(天子の弟の国)に居たとする理解は決 して荒唐無稽なものではないのです。なお、古田先生によれば、九州年号の「兄弟」(558年)も、こうした倭国における兄弟統治を背景に成立した年号とさ れています。(つづく)


第944話 2015/05/04

隋使行程記事と西海道

前話に続いて「肥後の翁」問題を考えます。隋使はどのような行程で「肥後の翁」に接見し、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。この問題を考えるために『隋書』「イ妥(タイ)国伝」を見直しました。そこには、隋使の倭国への行程記事として次のように記されています。

1.百済を渡り竹島に至り、南にタンラ国を望み、
2.都斯麻国(対馬)を経、はるかに大海の中に在り。
3.又東して一支国(壱岐)に至る。
4.又竹斯国(筑紫)に至る。
5.又東して秦王国に至る。
6.又十余国を経て海岸に達す。

()内はわたしが付したものですが、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、筑紫(博多湾岸から太宰府付近)までははっきりしているのですが、秦王国や「十余国を経て海岸に達す」については論者によって見解が分かれますし、この記事からは断定しにくいところです。
この行程記事では方角を「東」と記されていますが、実際には「東南」方向ですから、秦王国の位置は、二日市市・小郡市あたりから朝倉街道(西海道)を東南 方向に向かい、杷木付近で筑後川を渡河し、その先の筑後地方(うきは市・久留米市)ではないかと、わたしは考えています。もちろん、太宰府条坊都市の成立 (倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝の都は筑後にあった時期です。
問題は「十余国を経て海岸に達す」です。方角が記されていませんから、この記事だけでは判断できませ。しかし、隋使が阿蘇山の噴火を見ていますから、肥後方面に向かったと考えるのが、史料事実にそった理解と思われます。
従来、わたしは「十余国を経て海岸に達す」を久留米市から柳川市・大牟田市方面に向かい、有明海に達したという意味に理解すべきと考えてきましたが、近 年、熊本県和水町とのご縁ができたこともあって、土地勘が少しずつですがついてきましたので、この行程も古代の官道「西海道」を隋使は進んだと考えたほう が良いと思うようになりました。それは次の理由からです。

(1)筑紫(福岡市)から小郡、そして東へ朝倉街道(西海道)を進み、筑後川を渡り、久留米に到着してたとすれば、これは古代西海道のコースである。
(2)十余国を経て海岸に到着していることから、久留米市から大牟田市までの間にしては国の数が多すぎるように思われる。
(3)これが内陸部を通る西海道に沿って十余国であれば、久留米市から肥後に向かい、菊池川下流か熊本市付近の海岸に達したとするほうが、国の数が妥当のように思われる。

以上のような理解から、わたしは筑後(秦王国か)に着いた隋使は古代官道の西海道を通って、鞠智城や江田舟山古墳方面に行ったのではないかと、今では考え ています。こうした理解から、この地域(菊池市・玉名郡・熊本市など)で隋使は「肥後の翁」と接見し、阿蘇山の噴火も見たのではないでしょうか。更にこの ルートを支持する『隋書』の記事として、「鵜飼」があります。筑後川や矢部川は鵜飼が盛んな所でした。(つづく)


第943話 2015/05/03

筑紫舞「肥後の翁」考

前話に続いて筑紫舞がテーマです。筑紫舞の代表作「翁(おきな)」には「都の翁」が必ず登場するのですが、西山村光寿斉さんの説明では、舞の中心人物は「肥後の翁」とのこと。筑紫舞でありながら、「都の翁」(九州王朝の都、太宰府か)が「主役」ではなく、「肥後の翁」が中心であることも、不思議な ことでした。
実は、九州王朝研究において、肥後は重要な地域であるにもかからず、筑前・筑後地方に比べると研究が進んでいませんでした。そうし た事情もあって、この筑紫舞における「肥後の翁」の立ち位置は研究課題として残されてきたのです。ところが幸いにも、昨年から「納音付き九州年号」史料の 発見により、玉名郡和水町を訪れる機会があり、肥後地方の地勢や歴史背景などに触れることができ、わたし自身もより深く考えることとなりました。その結 果、様々な作業仮説(思いつき)に恵まれることとなりました。そこで、今回はこの「肥後の翁」について考えてみました。
古代史上、「肥後」関連 記事が中国史書に出現したのは管見では『隋書』の「阿蘇山」記事です。筑紫に至った隋使たちは何故か阿蘇山の噴火を見に行っています。隋使は何のために肥 後まで行き、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。観光が目的とは考えにくいので、この疑問が解けずにいました。そこで考えたのですが、隋使は筑紫舞に登場す る「肥後の翁」に接見するために肥後へ行ったのではないでしょうか。
それでは肥後にそのような人物がいた痕跡あるでしょうか。わたしの知るとこ ろでは次のような例があります。ひとつは肥後地方に多い「天子宮」です。当地に「天子」として祀られるような人物がいた痕跡ではないでしょうか。二つは鞠 智城内の地名「長者原」です。筑後地方(浮羽郡)には「天の長者」伝説というものがあり、その「天の長者」は九州王朝の天子のことではないかと、わたしは 考えていますが、恐らく九州王朝が造営した鞠智城内にある「長者原」という地名も、同様に九州王朝の天子、あるいはその王族の一人ではないでしょうか。
筑紫舞の「翁」において、中心人物とされる「肥後の翁」を九州王朝の天子、あるいは九州王朝の有力者とする理解は穏当なものと思われるのです。


第942話 2015/05/02

筑紫舞「加賀の翁」考

 古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)に、筑紫舞の伝承者、西山村光寿斉さんとの出会いと筑紫舞について紹介されています。古代九州王朝の宮廷舞楽である筑紫舞が今日まで伝 承されていたという驚愕すべき内容です。その筑紫舞を代表する舞とされる「翁」について詳しく紹介されているのですが、その内容についてずっと気になっていた問題がありました。
筑紫舞の「翁」には三人立・五人立・七人立・十三人立があり、十三人立は伝承されていません。三人立は都の翁・肥後の 翁・加賀の翁の三人で、古田先生はこの三人立が最も成立が古く、弥生時代の倭国の勢力範囲に対応しているとされました。ちなみに都の翁とは筑紫の翁のことですが、なぜ「越の国」を代表する地域が「加賀」なのかが今一つわかりませんでした。
ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から教えていただいた、次の考古学的事実を知り、古代における加賀の重要性を示しているのではないかと思いました。
庄内式土器研究会の米田敏幸さんらの研究によると、布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする定説は誤りで、胎土観察の 結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかったというのです。しかも北陸の土器 の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現するとのこと。日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきたので す。
この考古学的研究成果を知ったとき、わたしは筑紫舞の三人立に「加賀の翁」が登場することと関係があるのではないかと考えたのです。古田先 生の見解でもこの三人立は弥生時代にまで遡る淵源を持つとされており、この加賀南部で発生し各地に伝播した布留式土器の時代に近く、偶然とは思えない対応 なのです。絶対に正しいとまでは言いませんが、筑紫舞に「加賀の翁」が登場する理由を説明できる有力説であり、少なくともわたしの疑問に応えてくれる考古学的事実です。
なお、6月21日(日)午後1時からの「古田史学の会」記念講演会で米田敏幸さんが講演されます。とても楽しみです。(会場 i-siteなんば)


第941話 2015/05/02

続・九州王朝滅亡の一因を考える

 九州王朝から大和朝廷への権力交替にあたって、九州王朝の首都太宰府は「無血開城」されたかのように、宮殿は破壊されず、巨大な防衛施設の水城も 健在のままでした。すなわち、九州王朝はその滅亡期において、「首都決戦」を行った痕跡が文献史料的にも考古学的にも見あたらないのです。この事実は、九州王朝の滅亡がどのようなものであったのかを考える上で重要なヒントになるように思われます。
 九州王朝が白村江の敗戦以後、実質的にも名聞的に も権威と実力を急速に失っていったと思われますが、7世紀末頃から8世紀初頭にかけて、列島内で「一大決戦」ともいうべき大きな戦争が2度行われました。
 一つは有名な「壬申の大乱」(672年)、もう一つは『続日本紀』にその痕跡が残されている「隼人の大乱」(712年、九州年号最終年の大長9年)です
(「続・最後の九州年号」『「九州年号」の研究』所収をご参照下さい)。

 わたしはこの二つの「一大決戦」こそ、九州王朝滅亡期の姿を考える上で、重要な事件だと推察しています。 「壬申の大乱」は近江朝廷の大友皇子と大海皇子(天武天皇)の争いとして『日本書紀』には特筆大書されていますが、わたしは「九州王朝の近江遷都」が白鳳元年(661年、『海東諸国記』の遷都記事による)になされたと考えていますから、大友皇子は父の天智天皇が定めた「不改常典」により九州王朝の権威を継承した、あるいは九州王朝の対唐徹底抗戦派を支持した人物ではなかったかと推察しています。とすれば、「壬申の大乱」は近江京などを中心とした九州王朝の 「首都決戦」だったと言えるかもしれません。
 もう一つは南九州での「隼人の大乱」で、これは最後の九州年号である「大長」の最末年「大長九年」 (712年)に起こっていますから、九州王朝の最終年の「大乱」であり、これも九州王朝の対大和朝廷徹底抗戦派による「一大決戦」と考えざるを得ません。
 この二つの「一大決戦」がともに九州王朝の首都太宰府から遠く離れた地で行われたことが、太宰府「無血開城」の遠因になったのではないでしょうか。
 さらにもう一つの理由、これは全くの想像ですが、九州王朝の天子は首都太宰府の有力氏族や人民からの信頼を決定的に失っていたのではなかったでしょうか。 白村江戦に先立ち、唐の脅威から逃げるように、難波副都や近江京を造営し、天子や百官百僚たちは首都の人民を見捨てて「遷都」したとき、残された太宰府の人々からの信頼を決定的に失ったのではないでしょうか。ですから「首都決戦」などできる条件を九州王朝は既に失っていたものと思われるのです。
 以上、今回の帰省で大野城(大城山)の遠景を見ながら考えたことでした。


第940話 2015/05/01

九州王朝滅亡の一因を考える

 このゴールデンウィークを利用して、家族で実家の久留米市に帰りました。今回は、博多から久留米までは鹿児島本線の在来線快速を利用しましたので、今までよりもしっかりと沿線の風景を眺めることができました。
 宝満山(御笠山)や大野城がある大城山の懐かしい遠景ですが、今回は今までにない視点で大野城を凝視しました。というのも、正木裕さんにより、大野城が 『日本書紀』斉明紀2年条に見える「田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。復た嶺の上の両の槻の樹の辺に観(楼閣・たかどの)を起つ。号(なづ)けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。」の「田身嶺」であるとする新説が発表されていたからです。たしかに大野城はその規模といい、内部の施設や水源の豊富さなどから、太宰府(倭京)の住民が籠城できるように造営されています。
 今回の帰省で改めて実見したのですが、そうした視点で大野城をとらえたとき、確かにその規模は尋常ではありません。恐らく、隋や唐からの侵略に備え、「国家総動員」で造営されたことを疑えません。そのとき、造営に参加した多くの住民も、この城があれば大丈夫と信じ、九州王朝の天子の命に従ったはずです。「いやいや」では、あれだけの防衛施設を長期にわたり造れないと思うのです。
 侵略者が博多湾に上陸し、水城を突破し、太宰府に侵攻できたとしても、住民ともども大野城に籠城され、その後、夜討ち朝駆けといった九州王朝軍の反撃に対して、見知らぬ地域に侵攻した他国の軍隊は兵站も延びきっており、長期戦に耐えられるとは到底思えません。しかも、安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)の研究によれば、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍2000名の内、その多くは船団を操る「送使団」であり、実戦部隊としての軍隊は600名ほどではなかったかとのこと。敵地で戦い続け、軍事制圧するにはあまりにも少人数と言わざるを得ません。
 しかし、歴史事実として九州王朝は滅びました。何故でしょうか。このことを車窓から大野城を眺めながら、わたしは考え続けました。九州王朝を滅ぼした主体が唐であれ、近畿天皇家であれ、なぜ九州王朝は水城や神籠石山城、そして大野城に立てこもって徹底抗戦しなかったのでしょうか。水城も壊されていませんし、太宰府政庁2期の宮殿も701年の 王朝交替期に焼かれていません。明治維新の江戸城と同様に「無血開城」したかのようです。(つづく)


第939話 2015/04/30

古田武彦著

『古田武彦の古代史百問百答』が復刊

ミネルヴァ書房から古田先生の『古田武彦の古代史百問百答』が復刊されました。同書は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊されたものです。
同書冒頭の藤沢徹さん(東京古田会・会長)による「はしがき」に「敗戦後、節操なき『思想の裏切り』に絶望した旧制高校生が、老年に至るまで反骨の『心理の探求』に没頭した」とあるとおり、古田先生の古代史研究から思想史研究に至る、「百問百答」の名に偽りのない質疑応答が展開された一冊に仕上がっていま す。東京古田会による優れた業績として、後世に残る本です。
同書は古田先生の近年の研究成果と、それに基づいた問題意識が、「百問」に答えるという形式をとって、縦横無尽に展開されています。かつ、その「百答」は「結論」ではなく、新たな問題意識の出発点ともいうべき性格を有しています。古田学 派の研究者にとって、古田先生から与えられた「課題」「宿題」としてとらえ、そこから新たなる「百問」が生まれる、というべきものです。同書を企画編纂された東京古田会の皆様に敬意を表したいと思います。


第938話 2015/04/29

教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事

 九州年号研究をしていると思わぬ発見や成果が得られることがあります。たとえば『二中歴』「年代歴」の九州年号「教到」(531〜535年)の細注に「舞遊始」(舞遊が始まる)という変な記事があり、かねてから不審に思っていました。「舞遊」など、それこそ縄文時代からあったはずで、それが6世紀 の教到年間に始まったとする細注の記事はナンセンスなものと映っていたからです。
ところがその謎を解く鍵が本居宣長の『玉勝間』にありました。この情報は冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員、横浜市)から教えていただいたのですが、『玉勝間』に九州年号の教到が記されているのです。

「東遊の起り
同書(『體源抄』豊原統秋:古賀注)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれ ゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわ ち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、」
(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

このように教到年間の「舞遊始」(舞遊が始まる)とは「東遊(アズマアソビ)」の起源記事だったのです。こうした九州年号による記事が本居宣長の『玉勝間』に記されていたとは思いもよりませんでした。
しかも、普通九州年号群史料によれば「教到」は5年間で終わり、翌年は改元され「僧聴元年」となっており、教到六年丙辰ではなく僧聴元年丙辰とされるべき ところです。しかし教到六年丙辰とあるのは、その年の内の「僧聴」に改元される前に記された記事に基づいていると考えられるので、元史料を後世の認識で 「僧聴元年」などと改訂していない、いわば一次史料を正確に引用している記事であることがわかります。従って、この「東遊」関連記事の史料価値は高いと判 断できるのです。
このような九州王朝系史料の、しかも史料批判により、原文に近いと判断できる記事に遭遇できたことは、まさに学問研究の醍醐味 です。ちなみに、江戸時代のバリバリの一元史観論者である本居宣長はこの「教到六年」という近畿天皇家にない年号をどのような気持ちで自著に引用したの か、興味深いところです。
なお、当研究の詳細は『古田史学会報』64号(2004.10.12)所収の「本居宣長『玉勝間』の九州年号 -「年代歴」細注の比較史料-」をご参照下さい。