第918話 2015/04/10

伊勢神宮外宮末社の伊我理神社

 『筑後志』に「威光理明神社」とあった旧三潴郡の神社が、現在は伊我理神社に名称変更になっているようですが、この理由を明治時代に行われた記紀に見えない「地方神」を淫祠邪教として排斥する運動に対抗して、神社存続のため名前の訓みが類似した伊勢神宮外宮末社の伊我理神社に改名したことによるのではないかと、わたしは推測しています。他方、それでは伊勢神宮の伊我理神社とはいったいどのような神様なのかについて興味がわきました。
 インターネットで簡単に調べてみたところ、御祭神は「伊我理比女命」(いがりひめのこと)とのことで、田畑を荒らすイノシシを狩る神様(猪狩・いかり)と説明されていました。この説明にわたしは「?」でした。イノシシを狩る神様が女性とは、ちょっと理解しにくいと感じたのです。本当にそうだろうか、「いがり」という訓みから、「猪狩」のことと判断され、後付けで「イノシシ退治の神様」とされたのではないかという疑問を抱いたのです。
 たとえば、埼玉県秩父市にある猪狩神社は倭武命のイノシシ退治に由来するとされており、お姫様のイノシシ退治ではありません。なぜ、伊勢の伊我理神社の御祭神は女神なのでしょうか。やはり、本来はイノシシ退治とは無関係な女神ではないでしょうか。(つづく)


第917話 2015/04/09

『古田史学会報』

  127号のご紹介

 今日は仕事で加古川市に来ています。途中、JR新快速の車窓から見える六甲山にも、まだ所々に散り始めた桜を遠望できました。この沿線途中のお気に入りスポットは明石城です。天守閣はないのですが、二つの櫓を両脇に持つ石垣やお堀がとても美しい城郭です。
 『古田史学会報』127号が発行されましたので、ご紹介します。掲載稿は次の通りですが、平田さんは入会間もない新人ですが、テーマも筑後方言に基づく『日本書紀』の史料批判という新たな研究分野で、論証の方法論も手堅くまとめられています。もう一人、安随さんも会報には初投稿ですが、関西例会では古参のメンバーです。関西例会で発表された研究を投稿していただきました。
 安随さんは、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍(2000人)の大半(1400人)は船団を操る「送使団」であり、侵略軍・武装集団ではないとされました。この安随説が正しければ、唐の進駐軍は筑紫を「軍事制圧」するには「少人数」ですし、ましてや九州王朝の「陵墓破壊」などが目的ではない可能性が高くなります。今後の論争や研究の進展が期待されます。
 正木さんと西村さんからは短里についての新発見が報告されました。ますます短里説が正しかったことが明らかになりました。これらの論稿により、『三国志』の短里研究は更にレベルの高い段階へと進みました。
 服部稿は、近年の考古学研究成果を紹介され、大和朝廷一元史観の根拠の一つとなっていた、大和の庄内式土器が全国にもたらされたという従来説は誤りであり、全国に普及した庄内式土器の多くは播磨産であることが、胎土の研究により明らかになったとされました。この間、精力的に取り組まれた服部さんの「考古学」研究により、近畿天皇家一元史観の根拠がまた一つ崩れ去ったようです。
 以上のように、『古田史学会報』127号は大変優れた内容となりました。わたしたち古田学派の陣容が確実に強化された手応えを感じました。
 最後に、古田先生からはギリシア旅行「断念」の一文をいただきました。断念せざるを得なかった先生には申し訳ないことですが、わたしとしてはご高齢をおしてのギリシア旅行を心配していましたので、複雑な心境ではありますが、やはり「安心」しました。先生にはご無理はなされず、長生きしていただきたいと願っています。

【『古田史学会報』127号の掲載稿】
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦
○2015年度会費納入のお願い
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集


第916話 2015/04/08

「吉野河の河尻」

  の威光理(いひかり)

 わたしが『筑後志』三潴郡条に見える「威光理」を記紀の神武東征説話中の「井氷鹿」「井光」のことではないかと考えたのは次の理由からでした。
 『古事記』の神武東征説話中の「天神御子」説話は天孫降臨におけるニニギの肥前侵攻説話の盗用と考えられ、たとえば「吉野河の河尻(河口・下流)」という表現は大和山中の吉野川(上流域に相当)は妥当せず、佐賀県吉野ヶ里付近の「吉野河の河尻」と理解しました。この考えが正しければ、神武(わたしの説ではニニギ)が吉野河の河尻で会った「井氷鹿」もこの地方の「神」であったことになり、『筑後志』の「威光理明神」を見たとき、これこそその痕跡ではないかと思ったのです。
 ですから、この仮説の傍証ともなる久留米市の「威光理明神社」を調査したかったのです。現在では「伊我理神社」と表記されているようですが、現地調査により、『筑後志』の「威光理」が本来表記であることが確認できれば、わたしの仮説を強化することができるのです。

(補記)本日、正木裕さんからいただいたメールによると、久留米市の伊我理神社に「威光理神社」という表記があるという報告がネット上にあるとのこと。近藤さんからの調査報告を待って判断したいと思いますが、どうやらわたしの推論は間違っていないようです。


第915話 2015/04/07

久留米市の「伊我理神社」

 わたしたち「古田史学の会」のホームページには多くのメールが送られてきます。スパムメールも少なくないのですが、わたし宛のメールはインターネット事務局の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)から転送されてきます。なるべくご返事を書くようにしているのですが、内容的に返答に困るものもあり、かつ忙しいこともあってご返事が滞ることもあります。
 そうしたホームページ読者の近藤さん(久留米市在住)から久しぶりにメールをいただきました。「洛中洛外日記」911話で紹介した『筑後志』に見える三潴郡「威光理明神社、同郡六丁原村にあり。」「威光理明神社、同郡高津村にあり。」の両神社を調査していただけるというご連絡でした。
 わたしは「威光理」を「いひかり」と考え、記紀の神武東征説話に登場する「井光」「井氷鹿」のことではないかと考えていますが、近藤さんが地図で事前調査されたところ、久留米市城島町の六町原(ろくちょうばる)と高津にあるのは「伊我理神社」とのことで、「いがり」と読めます。「いひかり」とは異なりますので、不思議に思いましたが、本来はやはり『筑後志』にある「威光理」ではないでしょうか。
 というのも、明治時代に全国で荒れ狂った廃仏毀釈騒動のとき、破却されたのはお寺や仏像だけではなく、記紀に見えない「地方神」も淫祠邪教として統廃合や弾圧の対象になりました。そこで、地元の人々は神社名を変えたり、御祭神を記紀に見える有名な神名に変更して神社を守ったという歴史があります。この久留米市の「威光理明神社」も同様に記紀に見えず、神社の破却を免れるため、有名な伊勢神宮下宮の末社の一つ「伊我理神社」に名称変更したのではないかとわたしは推察しています。
 もし、そうであれば「威光理」と似た読みの「伊我理(いがり)」へ変更されたと考えられ、このことは「威光理」が「いひかり」と読まれていたとする理解を支持するのです。そこで、わたしは近藤さんに久留米市城島町の「伊我理神社」調査に当たり、現地の人は既に改名後の「いがり」と発音している可能性が高いので、江戸時代の石碑や鳥居などに「威光理」とあるのか「伊我理」とあるのかを調べてほしいとお願いしました。近藤さんから調査報告がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。とても楽しみにしています。


第914話 2015/04/05

ギリシアからのメール「会員10倍増」

 ギリシア旅行に行かれている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)からメールが届きました。楽しく旅行を続けられているようです。
 メールによれば、オリンポス山からバスで1時間ほどのボロスのホテルで、東京古田会の藤沢会長さんらとの夕食後、赤ワインを飲みながら、服部さんが「古田史学の会は会員10倍を目指している」と口を滑らせたとのこと。服部さんらしい前向きな発言です。この一見無謀なビジョンですが、わたしは不可能ではないと考えています。
 関西例会後の懇親会などで時折わたしも言っていることなのですが、インターネットを駆使したweb会員制度というシステムを構築できれば、会員は飛躍的に増やせるのではないでしょうか。年会費2000円程度に設定し、『古田史学会報』をネット配信し、SNSで会員のみを対象としたサイバー例会を行うのです。
 今でも、会の役員間でメールのやりとりを行っていますが、そこでは会運営の事務連絡以外にも、研究に関する意見交換も行っており、とても有意義です。これに一般会員もSNSで参加できれば、もっと活発で有意義な論議が進むことでしょう。現状では管理体制や課金システムなどの課題を克服できませんが、いずれ実現できればと願っています。インターネットやパソコンが得意な方のご協力が得られれば有り難いと思います。


第913話 2015/04/03

5月31日(日)、

 熊本県和水町で講演 済み

昨年5月に「納音(なっちん)付き九州年号史料」をテーマに講演した熊本県和水(なごみ)町で、今年も講演させていただくことになりました。久留米大学での公開講座の翌日の5月31日(日)です。お近くの方は是非ご参加ください。
今回のテーマは「邪馬壹国から九州王朝へ -江田船山古墳と九州年号の意味するもの-」というテーマで、昨年よりも一歩踏み込んだ九州王朝の歴史と、当地の江田船山古墳や鞠智城の位置づけについて説明します。九州王朝の歴史をわかりやすく講演しようと考えています。
和水町は江田船山古墳があるところで、同古墳から出土した銀象嵌銘鉄剣はとても有名です。ところがその鉄剣は東京国立博物館にあるため、同町では江田船山古墳出土品資料館新設に向けて取り組んでおられ、鉄剣の「里帰り」を目指しておられます。わたしの講演が、そうした取り組みの一助になれば幸いです。
何より、九州王朝説にとっても同地域は重要なところです。恐らく7世紀初頭、九州王朝(倭国)を訪れた隋の使者は、この地を通って阿蘇山の噴火を見たはずです。こうしたことを声を大にして訴え、町民のみなさんの「町おこし」のお手伝いをさせていただこうと思っています。再び、当地の皆さんにお会いできることを楽しみにしています。

 


第912話 2015/03/30

わがとも友(ども)と

      めでよ人々

 昨日、放送されたNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は安政5年(1858)まで進行し、翌6年には安政の大獄が起こり、吉田松陰は29歳で刑死するので、前半のクライマックスに近づきつつあるようです。
 この「花燃ゆ」のオープニングに流れる主題曲はなかなかの名曲ですが、歌詞の意味がよく聞き取れずインターネットで調べたところ、川井憲次さんの作曲で次のようでした。

愚かなる 吾れのことをも 友とめづ人は わがとも友(ども)と
吾れをも 友とめづ人は わがとも友(ども)と めでよ人々
吾れをも 友とめづ人は わがとも友(ども)と めでよ人々 燃ゆ

 その意味するところは、愚かな私を大切な友と思ってくれる人があれば、わたしの友のことも大切に思ってほしい、ということでしょうか。この歌詞のもとになったのは、松陰が刑死の前日に友人や松下村塾の弟子等に宛てた遺書『留魂録』にある和歌のようです。
 全16章からなる『留魂録』冒頭の「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」は有名ですが、同書の末尾に記された次の和歌が出典です。

「愚かなる 吾れをも友とめづ人は わがとも友と めでよ人々」(吉田松陰『留魂録』)

 死の直前まで、友人や弟子らのことを思いやった松陰の人となりに胸を打たれます。この『留魂録』は弟子等のもとに無事届き、書写され、この松陰の志を受け継いだ松下村塾の塾生たちが明治維新の原動力となりました。
 全国の古田学派のみなさん。松下村塾の塾生たちがそうであったように、わたしたちも古田先生の志を自らの志とし、真実の歴史と真の学問のため、共にこの時代を生きようではありませんか。


第911話 2015/03/29

『筑後志』の威光理明神社

 京都は早朝から雨が降っています。京都御所の桜が咲き始めたとのことなので、雨がやんだら見に行きたいと思います。御所は拙宅から歩いて5分ほどのところにあり、途中、娘が通っていた京極小学校があります。同校は湯川秀樹さんの母校で、明治2年に開校された知る人ぞ知る歴史的小学校です。
 四月には実家の母親の米寿のお祝いに、家族で久留米に帰省します。久留米で調査したい神社があるのですが、今回は時間に余裕がないので行けません。それは『筑後志』に次のように記された「威光理明神社」です。

『筑後志』三潴郡
 「威光理明神社、同郡六丁原村にあり。」
 「威光理明神社、同郡高津村にあり。」

 『古事記』『日本書紀』の神武東征説話で吉野に現れる「井光」「井氷鹿」(いひかり・いひか)が『筑後志』に見える「威光理明神社」と同一ではないかと以前から考えていました。
 拙稿「続・盗まれた降臨神話 -『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判-」(『古代に真実を求めて』第6集、2003年)において、神武東征説話の一部(「天神御子」説話部分)がニニギによる天孫降臨説話(肥前侵攻説話)の盗用ではないかとしました。「三潴郡」は筑後川下流付近の東岸に当たりますが、西岸の佐賀県には吉野ヶ里遺跡などがあり、この吉野ヶ里が神武東征説話の「吉野」に相当するとすれば、「井光」「井氷鹿」もこの付近にいたことになります。「いひかり」とは吉野ヶ里のように佐賀県に多く見られる「○○ケ里」と同じで、本来は「いひケ里」に由来するのではないでしょうか。
 こうした理解により、「威光理明神社」の「威光理」は「いひかり」と訓むのではないかと考えているのですが、現地調査ができていませんので、まだ断定できずにいます。どなたか、当地にお住まいの方で調査していただけないでしょうか。


第910話 2015/03/28

月刊『加工技術』に

  古代史コラム連載

 株式会社繊維社(大阪市)から発行されています月刊『加工技術』に、古代史の連載コラムを執筆することになりました。
 「古代衣装・染色技術などの生活文化を紹介していただくことで、現代にも通ずる素材開発や技術革新などのあり方などを探るコラム」という執筆依頼で、結構ハードルが高そうです。写真や図・絵なども付けてほしいとのこと。同誌は古代史とは関係のない繊維や繊維加工関連の業界誌ですから、読みやすく、かつ現代の開発にも役立つという依頼内容ですから、簡単ではありません。
 繊維社の阪上社長とは学会などの会合で親しくさせていただいており、かねてより機能性色素についての専門書の執筆依頼もいただいているのですが、わたしが忙しいのと、企業機密に抵触する懸念もあって、良いご返事ができずにいました。そのような経緯もありましたので、今回はご期待に応えたいと、お引き受けしました。
 月刊誌への連載ですから、毎月、読者に興味を持っていただけるようなテーマがどれだけあるのか、今から考え込んでいます。もちろん、古田史学・多元史観がベースです。何か面白いテーマやアイデアがあれば、是非、ご教示ください。


第909話 2015/03/27

古代史のブルーオーシャン戦略(3)

 「九州年号」などのテーマが「ニッチ(隙間)」ではなく、新たな「ブルーオーシャン(競争なき市場)」であることに気づき、後にそれが確信に変わったのは、服部静尚さんによる考古学分野での研究(庄内式土器・他)と考古学者との交流により明らかとなった、考古学界における「学問の実体」を知ったことでした。
 遺跡や遺物を研究対象とする考古学ですから、出土物に対する「解釈」に異説があるのは学問ですから当然なのですが、考古学的出土事実に対しては等しく合意や情報の共有化が果たされていると、わたしは思っていたのです。ところが服部さんの調査によると、自説に都合の良い出土事実のみに基づいていたり、不都合な出土事実そのものを知らないまま立論されているケースがあるとのこと。このように近畿天皇家一元史観は文献史学だけではなく、考古学の諸説も結構ずさんであることがわかってきたのです。その結果、わたしたち古田学派の研究者は、一元史観論者との「他流試合」でも有効に戦えるということが明らかとなり、ブルーオーシャン(一元史観論者が論争したくないテーマ)は結構たくさんありそうなのです。
 とすれば、どのようなステージやツールで競争するのが有効なのかを検討すればいいわけです。今のところ考えているのが、インターネット上のサイバー空間や書籍の発行、各地の講演会といったステージでの展開を検討しています。既にユーチューブを利用した動画配信事業が正木裕さんらにより準備が進められています。将来的には「古田史学の会」会員を中心としたSNSも視野に入れています。講演会も久留米大学の公開講座や愛知県では高校生を対象とした公開講座も「古田史学の会・東海」により続けられています。
 ブルーオーシャン戦略は計画段階での様々な分析手法がありますので、わたしも再度勉強しなおして、「古田史学の会」の運営や事業計画に採用したいと考えています。


第908話 2015/03/26

古代史のブルーオーシャン戦略(2)

 「ブルーオーシャン戦略(Blue Ocean Strategy)」とは、新規需要を主体的に創造し、競争が存在しない状況を作り出すという、従来にない新しい戦略論です。提唱者であるW・チャン・キムとルネ・モボルニュの同名の著書は、2005年に販売されると、たちまち世界的ベストセラーとなりました。限られた市場における価格競争などの血みどろの争い(レッド・オーシャン)ではなく、競争のない市場空間(ブルーオーシャン)を生みだし、競争戦略そのものを無関係なものにするというのが「ブルーオーシャン戦略」の要諦です。
 わたしが「古田史学の会」のような非力で弱小の組織でもブルーオーシャン戦略の採用が可能ではないかと最初に気づいたのは、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年1月)の発行と熊本県和水町で「九州年号付き納音史料」についての講演(2014年5月)を行ったときでした。これらの反響から、「九州年号」という九州王朝説の中核的テーマは一般の方にもわかりやすく、近畿天皇家一元史観側からすれば、なまじ論争などしてその存在そのものを国民に知られたくないという事情から、学問論争(競争)のない空間、ブルーオーシャンではないかとはっきりと自覚できたのです。
 この「九州年号」と同様に、一元史観側にとって国民に知られたくないテーマは他にもあります。たとえば『旧唐書』倭国伝と日本国伝の別国表記の存在、『隋書』の「阿蘇山」記事や男性の「日出ずる処の天子」多利思北孤などです。これらは論争が公に開始されると、国民にその存在が知られてしまい、一元史観の矛盾が白日の下に晒されてしまうという恐怖心から、彼ら(古代史業界のリーダーたち)は絶対に論争や反論をしかけてきません。もし反論があれば、その勇気を称えるにやぶさかではありませんが。
 ですから、これらのテーマはわたしたち古田学派の独壇場(ブルーオーシャン)となり、その戦うステージとタイミングやツールが適切であれば、古田史学の支持者や読者、ファン、会員を獲得することが今まで以上に容易となるはずです。(つづく)


第907話 2015/03/25

古代史のブルーオーシャン戦略(1)

 わたしは仕事で主にマーケティングに携わっていますので、マーケティング戦略や理論について勉強する機会が多くありました。ドラッカーを手始めに、マイケル・ポーターやコトラーなどの著作や解説書はかなり読み、仕事に応用してきました。そして、一時期流行した「ゲーム理論」まではそれなりに理解・応用できたのですが、新しい「ブルーオーシャン戦略」は難しくて、わたしの手には負えませんでした。
 そうした経験から、「古田史学の会」の運営においてもビジネスのマーケティング論を援用したり、参考にしてきました。「洛中洛外日記」723話でもホームページの「フリーミアム戦略」について触れたことがありました。「古田史学の会」創立以来、戦略的には「ニッチ戦略」という視点で運営してきましたが、その理由は、古田史学・多元史観は学問的には優れていても運動論・組織論的には国家体制に組み込まれた巨大な近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観)の学界やメディアと真正面からぶつかっても「勝てる相手」ではありませんし、また相手にもされないと考えたからです。そこで、独自に「古田学派」として、日本古代史では少数派(ニッチ)の多元史観・九州王朝説に特化して、そのステージで力をつけるという戦略をとってきました。組織拡大を意識的に行わなかったのも、こうした基本戦略に基づいてきたからです。
 ちなみに、マーケティング論的には「ニッチ戦略」とは業界のトップリーダーと「戦わない」という戦略でもあります。すなわち、業界のトップリーダーにとって、小規模マーケットであるニッチ(隙間)に参入してもメリットがないため、ニッチは業界の主戦場とはならないのです。結果として「ニッチ」企業は業界のリーダー企業と戦わなくてもすみ、生き残ることができます。これが「ニッチ戦略」のキーファクターです。
 ところがあることが契機となり、今まで続けてきた「ニッチ戦略」から「ブルーオーシャン戦略」へ転換しようと、わたしの考えが変わりました。それは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の研究や活躍に触発されたためです。(つづく)