第877話 2015/02/19

竜田関が守る都

 「前期難波宮」

 今日は朝から東京で仕事です。夕方までには仕事を終えて、名古屋に向かいます。今はお客様訪問の時間調整と休憩のため、八重洲のブリジストン美術館のティールーム(Georgette)でダージリンティーをいただいています。同美術館では五月からの改築工事を前にして「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というテーマで美術館所蔵名画の展覧会が開催されています。改築に数年かかるとのことで、このお気に入りのティールームともしばらくの間、お別れです。

 さて、古代の「関」で有名なものに「竜田関(たつたのせき)」があります。河内から大和に入るルートとして大和川沿いの道(竜田越)があるのですが、そこに設けられたのが「竜田関」です。その比定地は河内側ではなく大和側にあります(「関地蔵」が残っています)。ということは、関ヶ原と同様に、守るべき都から見て、峠の外側(下側)に「関」はあるはずですから、この竜田関は大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということになります。そして、河内方面にあった都とは「前期難波宮」しかありませんから、竜田関は前期難波宮防衛の為の施設であり、「外敵」として大和方面からの侵入者を想定していることになります。
 このことに気づかれたのが服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)です。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされたのです。
 この服部説には説得力があります。もし、前期難波宮が「大和朝廷」の都であったとしたら、自らの故地であり勢力圏でもある大和との間に「関」を造る必要性は低く、もし造るとしても河内方面からの大和への侵入を防ぐ位置、すなわち河内側に「関」を作るのが理の当然ですが、どういうわけか大和側に竜田関は造られたのです。従って、この竜田関の「位置」は「前期難波宮」九州王朝副都説を支持しているのです。少なくとも、大和朝廷一元史観では合理的な説明ができません。
 このような竜田関の位置関係から、次のように言えるでしょう。すなわち、九州王朝は副都「前期難波宮」の造営に伴って、大和からの侵入に備えたのです。このことから、九州王朝は「大和朝廷」を無条件で信頼していたわけではないこともわかります。
 この「関」についての服部論文が『古代に真実を求めて』18集に掲載されますので、是非、ご一読ください。


第876話 2015/02/18

雪の関ヶ原を通過して

 今日の午前中は京都市内の代理店を訪問し、今は新幹線で東京に向かっています。車窓の風景が急に吹雪に変わったので、どこらへんだろうかと注視すると関ヶ原でした。吹雪は一瞬だけで、関ヶ原を抜けると青空が見えてきました。
 ご存じのように関ヶ原は有名な合戦場で、石田三成率いる西軍は、徳川軍を大垣城で迎え撃つことをやめ、関ヶ原で迎え撃っています。関ヶ原という地名からもわかるように、古代から「関」(不破関・ふわのせき)が置かれていた要衝の地です。京都防衛のため峠の外(東)側に「関」はあったのではないでしょうか。東山道を東から京都へ攻め上る外敵を待ち受けるには、峠の上に布陣し、美濃平野から狭い関ヶ原に進む敵を上から攻撃するほうが有利だからです。
 明治時代にこの「関ヶ原の戦い」の布陣図を見たドイツ参謀本部のメッケルは西軍の勝利と判断したそうです。それほど有利な布陣を敷いて石田三成は徳川軍を待ち受けたのですから、勝利を確信していたのではないでしょうか。結果は小早川の「裏切り」やその他の「日和見」により東軍の勝利となったわけですから、徳川家康の方が一枚上手だったということです。ちなみにメッケルは明治政府の要請で日本陸軍参謀教育のために来日していました。後の日露戦争のとき、欧州では誰もがロシアの勝利を予想していましたが、メッケルだけは日本陸軍には自分が育てた優秀な参謀がいるから、日本が勝つと言っていたそうです。
 なお、「参謀本部」を最初に創設したのはナポレオンに負けたドイツ(プロイセン)でした。天才ナポレオン一人に対して多数の秀才参謀によるチームワークで戦うという方針のもとに、敗戦国ドイツは参謀本部(軍事の強化)とベルリン大学(自然科学の強化)を創設し、ナポレオンとの次の戦いに備え、普仏戦争やワーテルローの戦いで雪辱をはたしたことは有名です。
 このように守るべき都から見て、峠の外側に「関」を置くということは軍事上からも当然のことなのですが、服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)はこの「関」について大発見をされました。(つづく)


第875話 2015/02/17

松浦光修編訳

『【新釈】講孟余話』を読む

 今朝は加古川行きのJR新快速の車中で松浦光修編訳『【新釈】講孟余話』(PHP研究所、2015年1月)を読んでいます。『講孟余話』は吉田松陰の主著として有名です。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の影響もあり、約20年ぶりに吉田松陰の本を読んでいます。
 前回の「花燃ゆ」は松陰が野山獄で囚人に対して『孟子』の講義を行っている場面でしたが、この『孟子』講義が出獄後も家人らを対象にして続けられ、その講義録が『講孟余話』です。松陰の生き様や思想が綴られており感動的な内容ですが、中でも下田の獄舎での金子重之助(松陰とともに密航しようとした人物)とのことを記した「尽心」上・首章の記述は、学問を志す一人として胸を打たれました。その原文を抜粋します。

 「余(松陰)、甲寅の歳、渋木生(金子重之助の変名)と下田獄に囚はる。僅か半坪の檻に両人座臥す。日夜、無事なるに因(よ)りて番人に頼み、『赤穂義臣伝』・『三河後風土記』・『真田三代記』など、数種を借りて相共に誦読す。時に両人、万死自ら期す。今日の寛典に処せらるべきこと、夢にだも思はざることなり。
 因りて余、渋木生に語り云はく、「今日の読書こそ真の学問と云ふものなり(中略)
 両人獄に在る時、固(もと)より他日の大赦は夢にも知らぬことなり。然れども道を楽しむは厚く、学を好むの至り、斯(かく)の如し。今、吾が輩両人、亦(また)此の意を師とすべし」と云へば、渋木生も、大(おおい)に喜べり。」『講孟余話』(「尽心」上・首章)※()内は古賀による。

 畳一畳の狭い獄舎に繋がれ、死罪になる身にもかかわらず、このような状況だからこそ「真の学問」が行えると、松陰は金子重之助に中国の故事をあげて説明しているシーンの回想です。下田の獄舎での講義を松陰は他の囚人にも聞こえるように大声で行い、この講義を聞いた多くの囚人が感激したと松陰は記しています。この『講孟余話』執筆時も松陰は萩の自宅で謹慎の身でした。
 この獄舎での松陰の行いは、南アフリカのマンデラ大統領が長期の獄中生活にあっても他の囚人への教育活動を続け、「マンデラ大学」と称されていたことと相通じるもので、たいへん感慨深い話です。ですから、山口県の人々(安倍総理も)が今も吉田松陰のことを「松陰先生」と敬愛の念を込めて呼ぶことは深く理解できるのです。
 現代日本では、学問や歴史の真実よりも、お金・地位・名誉が大切な御用学者による御用史学が跋扈しています。このような時代だからこそ、わたしたち古田学派は吉田松陰のように「真の学問」が行えるのであり、それは大いに喜ぶべきことと思われるのです。


第874話 2015/02/15

京あすか「ロゼッタ石の解読」

 「古田史学の会・四国」の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)から同人誌『海峡』第33号(平成27年1月)が送られてきました。「古田史学の会・四国」会員の白石恭子さん(ペンネーム:京あすか)のエッセー「ロゼッタ石の解読」が掲載されていました。
 エジプトのロゼッタ石の古代エジプト文字を解読したフランソワ・シャンポリオンのことを記したエッセーで、2006年にロシアで出版されたワレーリー・ミハイロビッチ・ボスコイボイニコフ著『すばらしい子供たちの日々』(オニクス社)の一節を白石さんが訳されたものです。シャンポリオンの生い立ちや子供の頃から天才的才能の持ち主であったことなどが紹介されており、とても興味深く読みやすいエッセーでした。
 末尾には古田先生のことをシャンポリオンに匹敵する歴史学者であると、次のように紹介されています。

 「現在、日本のシャンポリオンとも言うべき偉大な歴史学者がいます。元昭和薬科大学教授で、文献史学の研究に打ち込んでこられた古田武彦先生です。シャンポリオンは四一才で亡くなりましたが、古田先生は八八才で現在もお元気です。先生は、これまで日本書紀に基づいて語られてきた日本の古代史に数々の疑問を呈してこられました。四〇年余り前に先生の著作『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』という本が朝日新聞より刊行され、話題になりました。」

 このように紹介され、次の一文でエッセーを締めくくられています。

 「古田先生は日本の古代史の常識を覆した歴史学者として歴史に刻まれることでしょう。」

 このように、様々な分野の人々により古田先生の偉業が語られ、発信されています。わたしも古田先生のお名前が歴史に刻まれることを全く疑っていません。


第873話 2015/02/15

須玖岡本D地点出土

「キ鳳鏡」の証言

 「洛中洛外日記」872話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「キ鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
 北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
 しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのでは ないかと考えられたのです。そして、昭和34年(1959)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。
 同論文にはキ鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。

 「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であること が伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」
 「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められ る。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 更にそのキ鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を3世紀前半とされたのです。

 「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
 「戦後、所謂(いわゆる)考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ) そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し 須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
 「如上の新たなキ鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」

 このように梅原氏は自らの弥生編年をキ鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。
 なお、この梅原論文の詳細な紹介と解説が次の古田先生の論文でなされており、本ホームページにも掲載されていますので、是非お読みください。

 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(角川選書 謎の歴史空間をときあかす)所収「第二章 邪馬一国から九州王朝へ III理論考古学の立場から」


第872話 2015/02/14

弥生時代の絶対年代編年の根拠?

 昨日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)と服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)が京都にみえられ、拙宅近くの喫茶店で3時間以上にわたり古代史鼎談を行いました。主なテーマは弥生時代や古墳時代前期の土器編年の根拠、畿内出土画文帯神獣鏡の位置付けについてでした。さらには「古田史学の会」におけるインターネットの活用についても話題は及びました。
 近年の考古学界の傾向ですが、畿内の古墳時代の編年が古く変更されています。大和の前期古墳を従来は弥生後期とされていた3世紀中頃に古く編年し、「邪馬台国」畿内説を考古学の面から「保証」しようとする動きと思われます。すなわち、卑弥呼が魏からもらった鏡が弥生時代の遺跡から出土しない畿内地方を「邪馬台国」にしたいがために、銅鏡が出土する畿内の前期古墳を3世紀前半に編年しなければならないという「動機」と「意図」が見え隠れするのです。
 その編年は主に土器(庄内式土器など)の相対編年に依っているのですが、それら土器の相対編年が絶対年代とのリンクがどのような根拠に基づいているのか疑問であり、その「本来の根拠」を調査する必要があります。服部さんは関西の考古学者と討論や面談を積極的に行われており、考古学者の見解がかなり不安定な根拠に基づいているらしく、人によって出土事実知識さえも異なることが明らかになりつつあります。考古学界の多数意見となっている「邪馬台国」畿内説の「本来の根拠(土器編年の絶対年代とのリンク)」を、丹念に調べてみたいと思います。「邪馬台国」畿内説という「結論」を先に決めて、それにあうように土器編年を操作するという学問の「禁じ手」が使われていなければ幸いです。
 他方、北部九州の弥生時代の編年も大きな問題があります。その最大の問題の一つが須玖岡本遺跡(福岡県春日市)の編年です。主に弥生中期(紀元0年付近)と編年されてきたのですが、古田先生は梅原末治さんの晩年の研究成果として須玖岡本D地点出土の「き鳳鏡」が魏西晋時代のものであり、従って須玖岡本遺跡は3世紀前半とされたことを繰り返し紹介されています。ところが、梅原さん自らが作成した従来説を梅原さん自身が否定した画期的な報告を古代史学界や梅原さんのお弟子さんたちは「無視」しました。
 この梅原新編年によれば、須玖岡本遺跡は邪馬壹国の卑弥呼の時代に相当します。弥生遺跡の編年が100〜200年近く新しくなる可能性がある梅原新編年こそ、『三国志』倭人伝の内容と考古学的出土事実が一致対応する重要な学説なのです。この点を九州の考古学者は正しく認識すべきです。
 倭人伝の考古学的研究の再構築が大和朝廷一元史観の考古学者にできないのであれば、わたしたち古田学派がやらなければなりません。こうした問題意識に到着した今回の鼎談はとても有意義でした。


第871話 2015/02/14

難波宮遺構から「五十戸」木簡出土

 出張を終え、週末に帰宅したら古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人、枚方市)からお手紙が届いており、2月4日付「日経新聞」のコピーが入っていました。それほど大きな記事ではありませんが、「『五十戸』記す木簡出土」「改新の詔の『幻の単位』」という見出しがあり、木簡の写真と共に次のような記事が記されていました。

 大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。
日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。
しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。
同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。(以下略)

 そして、この「玉作」という地名が陸奥や土佐にあったと紹介され、ゴミ捨て場とされる谷からの出土とのことで、そこからは古墳時代から平安時代までの出土品があり、木簡の正確な年代決定は難しいようです。

 写真で見る限り、肉眼による文字の判読は難しく、「作」「戸」「俵」は比較的はっきりと読めますが、他の文字は実物と赤外線写真で判読しなければ読めないように思われました。記事で紹介されていた高橋さんの見解のように、簡単に説明はしにくいのですが、その書式や字体は確かに古いように感じました。

 「洛中洛外日記」552話、553話、554話で紹介しましたように、「五十戸」は後の「里」にあたり、「さと」と訓まれている古代の行政単位です。すなわち、「○○国□□評△△五十戸」のように表記されることが多く、後に「○○国□□評△△里」と変更され、701年以後は「○○国□□郡△△里」となります。

 今回の「五十戸」木簡が注目される理由は、この「五十戸」制が孝徳期まで遡る可能性を指し示すものであることです。わたしは「洛中洛外日記」553話で次のように指摘し、「五十戸」制の開始は評制と同時期で、前期難波宮造営と同年で九州年号の白雉元年(652)ではないかとしました。

 わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目しています。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないようですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(「洛中洛外日記」553話より抜粋)

 この「五十戸」木簡を自分の目で見て、更に論究したいと思います。それにしても難波宮遺跡や上町台地からの近年の出土品や研究は通説を覆すようなものが多く、目が離せません。


第870話 2015/02/13

古代における「富の再分配」

 極端な富の集中と格差拡大に警鐘を打ち鳴らした『21世紀の資本』ですが、その対策として著者のトマ・ピケティ氏は富裕層への国際的な累進課税を提案されているとのこと。
 確かマルクスが言っていたと記憶していますが、資本主義のメカニズムは、労働者の賃金を「労働力の再生産」が可能なレベルまで引き下げるとされています。「労働力の再生産」とは労働者夫婦が二人以上の子供(将来の労働力)を産み育てることで、これが不可能なほどまで賃金が下がると、労働人口が減少し、社会や国家がいずれ消滅し、商品を購買するマーケットさえも縮小します。そのため、労働者の最低賃金は本人が生きていくだけではなく、子供二人以上を養えるレベルが必要であり、同時にそのレベルまで賃金は下がるとマルクスは指摘しています。十代の頃に読んだ本の記憶ですから、正確ではないかもしれませんが、本質的な指摘だと青年の頃のわたしの心を激しく揺さぶった記憶があります。
 『21世紀の資本』ブームの影響を受けて、古代日本において「富の再分配」は行われたのか、行われていたとすればそれはどのようなものだったのか、というようなことをこの数日考えています。
 『日本書紀』『続日本紀』には、天災や不作のときには当該地域の「税」を免除する記事が見えますが、これは「富の再分配」とは異なります。国家の制度、あるいは習慣などによる政策的な「富の再分配」として、どのようなものがあったのでしょうか。公共事業(都や宮殿、大仏・寺院の造営など)の実施により、権力が蓄えた富を消費するという経済活動も、ある意味では「富の再分配」を促しますが、もっと直接的な「富の再分配」はなかったのでしょうか。
 『続日本紀』には高齢者(70歳や80歳)に対して、ときおり「褒美」が出された記事がありますが、国家が行う経済政策としての「富の再分配」にしては規模が小さいように思われます。このようなことは「古代経済学史」ともいうべき学問分野かもしれません。どなたかご教示いただければ幸いです。


第869話 2015/02/12

トマ・ピケティ

『21世紀の資本』ブーム

 フランスの経済学者トマ・ピケティ著『21世紀の資本』がブームとなっているようで、700頁の分厚い経済学の本が国内で既に13万部も売れているのには驚きです。大勢の人が並んで買うようなモノには、ブームが過ぎた頃にしか手を出さないというクセがわたしにはあるので、まだ同書を読んでいません。しかし、ちょっとは気になりますので、同書が特集された『週間ダイアモンド』2/14号を京都駅の書店で購入し、新幹線の車中で読みました。
 同書の核心は先進国の税務当局などが公表した公式データに基づいて、資本収益率(r)が経済成長率(g)を常に上回ることを「実証」した点にあるようで、平たく言えば「資本」の持ち主は労働者の所得よりも常に富を増やすことができる。つまり、金持ちはより金持ちになるということですので、たしかに「格差」が広がっている今の日本で売れるのも理解できます。
 詳細な内容は読んでいないのでわかるはずもないのですが、著者のピケティは15年間かけて世界各国の200年以上にわたるデータを実証的に調査分析したというのですから、この点はすごいと思います。古田先生が『三国志』全文から「壹」と「臺」を全て抜き出して、両者が間違って混用された例はないことを実証的に証明された方法に相通じるものを感じました。そういう意味では、学問分野は異なりますが、古田学派の研究者なら読んでおくべき本かもしれませんね。


第868話 2015/02/11

九州王朝の「建国記念日」

 今日は建国記念日で祝日ですが、わたしは出社して仕事をしています。社外からの電話やメールがほとんど来ませんので、集中できて仕事がはかどり、たまっていた雑用を片づけ、デスクに積み上げられていた書類に目を通しています。明日からまた出張が続きますので、デスクワークを今日中に終えなければなりません。
 わが国の建国記念日が『古事記』『日本書紀』の神武即位記事に基づくことは著名ですが、九州王朝説の立場から考えると、近畿天皇家にとっての「建国記念日」は文武天皇の時代の701年頃だと思われます。それでは九州王朝にとっての「建国記念日」はいつ頃と考えられるでしょうか。神武が大和盆地の一角に侵入し、橿原で「即位」した日を「建国記念日」の根拠にしている現行例にならうのであれば、ニニギが糸島半島の一角に侵入(天孫降臨)した頃が「建国記念日」に相当しそうです。しかし、この程度のことを「建国」とするのは、ちょっと大げさで不当です。それでは九州王朝にとっての「建国」はどんな時期がふさわしいでしょうか。
 東アジアの大国の中国から「国際認定」された頃、たとえば「志賀島の金印」をもらった時などが「建国」の有力候補かもしれません。あるいは国内事情を重視するなら、「まえつ君」らが九州島を平定(景行紀等の盗用記事)した頃かもしれません。それとも大国主(出雲王朝)から「国譲り」された時でしょうか。
 こんなことを考えながら、建国記念日の一日を過ごしました。みなさん、九州王朝の「建国」をいつ頃とするのか、何をもって「建国」とするのか、よいアイデアはありませんか。


第867話 2015/02/10

尼崎市武庫之荘の

 大井戸古墳散策

 今日は仕事で尼崎市武庫之荘に来ています。当地は初めての訪問です。約束よりもちょっと早く着いたので、好天にも恵まれたこともあり、阪急武庫之荘駅の近くにある大井戸古墳を散策しました。大井戸公園内にある径13mほどの円墳で、あまり目立たないこともあり、公園内を探し回りました。
 案内版によると、1400年前の古墳時代後期の古墳で、群集墳が主流だった当時としては珍しく平地にある横穴式石室を持つ古墳とのこと。南側に入り口があり、花崗岩の天井石や須恵器が出土しています。
 この古墳以上にわたしが興味をひかれたのが「武庫之荘(むこのそう)」という地名です。「武庫」という地名から、古代律令制による武器庫があったのではないでしょうか。ところが有力説としては難波から見て「むこう」側にある地域なので「むこう」と言われ、「武庫」の字が当てられたとされています。しかし難波からは遠すぎるように思われますし、これほど離れた地域が難波から見て「むこう」と呼ばれたのであれば、大阪湾岸のあちらこちらに「むこう」という地名があってもよさそうですので、この難波の「むこう」という説にはあまり納得できません。もう少し考えてみたいと思います。


第866話 2015/02/08

『古代に真実を求めて』

  18集の掲載稿

  第865話に続いて、『古代に真実を求めて』18集の掲載稿の全てをご紹介します。編集責任者の服部静尚さんから同目次を送っていただきました。下記の通りです。掲載稿の題名を見ただけでも、「古田史学の会」の総力をあげての多元的「聖徳太子」研究の最先端であることを想像していただけるのではないかと思います。わたしも発行が待ち遠しく思います。
 18集の発行が終わったら、別冊の『三国志』倭人伝研究をテーマとした『古代に真実を求めて』の企画編集に入ります。こちらも乞うご期待です。

『古代に真実を求めて』18集 目次

◎巻頭言
 真実の「聖徳太子」研究のすすめ 古賀達也

◎初めて「古田史学」或いは「九州王朝説」に触れられる皆さんへ  西村秀己

◎特別掲載 古田武彦講演録
 深志から始まった九州王朝 真実の誕生

◎特集 盗まれた『聖徳太子』伝承
≪古田武彦氏インタビュー≫
 家永三郎先生との聖徳太子論争から四半世紀を経て
○聖徳太子架空説の系譜 水野孝夫
○「聖徳太子」による九州の分国 古賀達也
○盗まれた分国と能楽の祖 正木裕
○盗まれた遷都詔 正木裕
○盗まれた南方諸島の朝貢 正木裕
○九州王朝が勅撰した「三経義疏」 古賀達也
○虚構・聖徳太子道後来湯説 合田洋一
○九州王朝の難波天王寺建立 古賀達也
○盗まれた「聖徳」 正木裕
○「君が代」の「君」は誰か 古賀達也
○法隆寺の中の九州年号 古賀達也
○「消息往来」の伝承 岡下英男
○河内戦争 冨川ケイ子

◎研究論文
○もう一つの海彦・山彦 西村秀己
○「伊予」と「愛媛」の語源 合田洋一
○「景初」鏡と「正始」鏡はいつ、何のために作られたか 岡下英男
○関から見た九州王朝 服部静尚
○畿内を定めたのは九州王朝か 服部静尚

◎資料・他
○『隋書』イ妥国伝 同訳文(古田武彦)
○古田史学の会・規約
○古田史学の会・全国世話人名簿
○古田史学の会・地域の会連絡先
○19集の原稿募集要項
○編集後記 服部静尚