第933話 2015/04/25

メルマガ「洛洛メール便」配信のお知らせ

このたび「古田史学の会」では会員を対象としたメールマガジン「洛洛メール便」配信サービスをスタートさせます。コンテンツは当面次のような内容で始めます。

(1)「洛中洛外日記」
ホームページでは週1回のペースで更新していますが、「洛洛メール便」にて随時配信します。
(2)「洛中洛外日記」号外
号外はホームページには掲載されない会員向け限定情報です。
(3)会員へのお知らせ・他。

最初は試行錯誤で進めますが、徐々に充実させたいと考えています。また、会員からのメールでのご質問やご要望などにも、可能な限りお答えしたいと考えています。
「洛洛メール便」配信を希望される会員は、下記のメールアドレス宛に「洛洛メール便配信希望」と記して下記の内容を記入して下さい。会員名簿によるご本人確認の上、「洛洛メール便」配信を開始します。

○お名前
○『古田史学会報』発送先のご住所
○電話番号
○会員番号
○配信先のメールアドレス

【配信申し込み先アドレス】
yorihiro.takemura1@gmail.com
担当者 竹村順弘(古田史学の会・全国世話人)

なお、配信はbccで行います。会員の皆さんのお申し込みをお待ちしています。

参照:当会の入会案内


第932話 2015/04/24

『二中歴』九州年号細注の史料批判

 今回は『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号に付記された細注について、その史料性格を考察してみます。
 既に何度も指摘しましたように、同九州年号の下に付記された細注記事は九州王朝系史料に基づいていると考えられ、九州王朝史研究にとって貴重なものです。しかしながら、それら細注は後世に改訂された痕跡を残しており、いわゆる同時代史料の忠実な書写ではなく、その二次史料的性格を有しています。従って、九州王朝系史料に基づいてはいるものの、取り扱いには慎重な史料批判や手続きが必要です。
 たとえば、細注が「年代歴」に記録された時期は、その当該細注が付記された各九州年号の時代ではありません。そのことが端的に現れているのが細注記事に散見する「唐」という国名表記です。例をあげれば「法清」「端政」「定居」「仁王」「僧要」に付記された次の細注です。

「法清四年 元甲戌 法文ゝ唐渡僧善知傳」
「端政五年 己酉 自唐法華経渡」
「定居七年 辛未 法文五十具従唐渡」
「仁王十二年 癸巳 自唐仁王経渡仁王会始」
「僧要五年 乙未 自唐一切経三千余巻渡」

 いずれの記事も「唐」より「法文」「法華経」「仁王経」「一切経」が渡ってきたという内容ですが、唐王朝が成立したのは618年で、九州年号の「倭京」元年に相当します。従って、それ以前の九州年号「法清(554〜557)」「端政(589〜593)」「定居(611〜617)」の時には中国の王朝はまだ 「唐」ではありません。ですから、これら細注記事は「唐」の時代になってから付記され、その際に当時の中国王朝名の「唐」という表記にされたと考えられます。おそらく原史料にはその当時の中国王朝名が記されていたと思われますが、「年代歴」編纂時(正確には「年代歴」中の九州年号史料部分の成立時)に「唐」と統一した表記にしたのです。
 このような編纂時の国名で過去の記事も統一して表記することは普通に行われ、それほど不可解な現象ではありません。現代でも「中国の孔子」とか言ったり書いたりするように、孔子が生きた時代の国名で表記するとは限らないのです。
 このようなことから、「年代歴」九州年号の細注には、細注付記当時の認識で書き換えられたりする可能性がありますから、論証などの史料根拠に使用する場合は注意が必要です。史料性格を十分に確認し、その史料の有効性(どの程度真実か)と限界を見極める作業、すなわち史料批判が文献史学では大切になるのです。残念ながら、古田学派の論考にも、わたしも含めて史料批判が不十分であったり、問題があったりするケースが少なくありません。お互いに切磋琢磨し研鑽していきたいと願っています。


第931話 2015/04/23

『二中歴』「年代歴」の武烈即位記事

 今朝の京都は快晴です。比叡山や大文字山は春霞でうっすらとしており、鴨川端のしだれ桜並木はすっかり葉桜に衣替えです。満開の桜や紅葉の京都、雪化粧の京都も美しいのですが、このような季節の変わり目の京都も風情があり、わたしは好きです。

 昨日に続き、『二中歴』がテーマです。『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いと判断されている理由の一つに、その九州年号が近畿天皇家の年号や記事とは別に記されており、各九州年号の下に付記された細注が九州王朝系記事と理解できることがあります。そして成立年代が他の九州年号群史料よりも古い(鎌倉初期)ことなどです。
 ところが、その細注に一見して近畿天皇家の天皇名と思われる記事があり、以前から不審に思っていました。次の記事です。

「善記四年 元壬寅同三年放誰(※)成始文 善記以前武烈即位」
 ※「放誰」の二字には草冠があります。

 この意味するところは、「九州年号の善記は4年間続き、元年干支は壬寅(522年)。善記3年に放誰が始めて文を成す。 善記以前に武烈が即位。」というものですが、「放誰が始めて文を成す」の意味はまだわかりません。注目されるのが「善記以前に武烈が即位」という記事です。普通に考えれば、近畿天皇家の武烈天皇が善記年間以前に即位したということですが、武烈の在位年は『日本書紀』によれば、499〜506年ですから、正確に表現すれば「善記以前」というよりも「継躰(九州年号、517〜521年)以前」とされるべきでしょう。しかも、なぜ武烈天皇の即位年に関する記事が細注に記されたのか、その理由もよくわかりません。そもそも、「年代歴」細注は近畿天皇家ではなく九州王朝系記事が記されていると考えられますから、ここだけ「武烈」という『日本書紀』成立以後に付けられた漢風諡号がなぜ存在するのかという合理的説明も困難です。
 わたしが十数年前に関西例会で発表したことですが、この「武烈即位」というのは近畿天皇家の武烈天皇ではなく、九州王朝にいた「武烈」という倭王の名前ではないかと考えています。『宋書』倭国伝などで明らかなように、この時期の九州王朝の倭王は中国風一字名称も名乗っていますから、この「武烈」という二字名称は不自然です。従って、この「武烈」というのは、倭王武と倭王烈の二人のことではないでしょうか。倭王武は『宋書』に「倭の五王」の最後の一人として見えますから、その次代の倭王が一字名称として烈を名乗っていたというアイデア(思いつき)です。
 この作業仮説(思いつき)は他に傍証がなく、「年代歴」細注は九州王朝系の記事という一点の論理性を突き詰めた結果ですので、仮説として提起することさえ怖いくらいです。今のところ、「古賀の思いつき」程度に受け止めておいて下さい。

 今朝は京阪電車で出町柳駅から大阪の淀屋橋駅に向かっています。もうすぐ到着です。大阪も好天で、出張日和の一日となりそうです。


第930話 2015/04/22

『二中歴』「人代歴」の建元記事

 九州年号群史料として最も優れている『二中歴』(鎌倉時代初頭の成立)には、九州年号が記されている「年代歴」が第二冊に収録されています。『二中歴』の最初である第一冊冒頭には「神代歴」があり、以下「人代歴」と続きます。今回、ご紹介するのは「人代歴」にある「建元記事」についてです。
 ご存知のように、年号のことを記した「年代歴」では「継躰」から始まる九州年号が「大化」まで記され、その後、近畿天皇家の「大宝」年号へと続く編成となっています。従って、九州年号の「継躰」が最初の年号という認識で編纂されています。これとは別に、神武天皇を先頭にして近畿天皇家の歴代天皇名が記されている「人代歴」には、次のような記事があります。

「継躰二十五 應神五世孫 此時年号始」

 この記事は「継躰天皇の在位は25年であり、応神天皇の五世の子孫である。このとき年号が始まる。」という意味ですが、「年代歴」と同様に、「人代歴」も九州年号が継躰天皇の時に始まった、すなわち建元されたという認識で編纂されているのです。ちなみに、『続日本紀』で「大宝」を建元したと記されている文武天皇については、「人代歴」に次のようにあります。

「文武治十一 天武太子 持統南宮 大寶三 慶雲四」

 意味するところは、「文武天皇の治世は11年 天武天皇の太子であり、持統天皇の南宮(皇太子か?)。大宝は3年間、慶雲は4年間」というもので、ここで初めて近畿天皇家の年号「大宝」「慶雲」が現れ、以下、歴代天皇名とその年号が記されます。このように『続日本紀』で「建元」とされた「大宝」を文武天皇の細注に記してはいるものの、「建元」や「初めて」といった注記はありません。
 このように、『二中歴』「人代歴」も九州年号が最初の年号であるという認識で編纂されていることがわかります。他方、第二冊に収録されている「都督歴」冒頭には「孝徳天皇大化五年三月」という記事が見え、『日本書紀』孝徳紀の「大化」年号が記されています。このように、『二中歴』は年号に関して異なった認識を持つ複数の編者により記されたという史料性格を持つことがわかります。従って、史料批判は少なくとも個別の「歴」毎に行う必要があります。
 この「人代歴」編者の認識は、我が国における「建元」(最初の年号)は九州年号の「継躰」であるということであり、このことから少なくとも鎌倉時代以前において、九州年号が最初の年号であり、実在していたとする認識が『二中歴』を読むようなインテリや官僚にとって「常識」であったことがうかがえます。九州年号が鎌倉時代以降に僧侶により偽作されたという九州年号偽作説が全く史料事実に反した、論証抜きの憶説であったことは明らかです。従って、九州年号偽作説は非学問的と言わざるを得ないのです。


第929話 2015/04/21

6月21日(日)、米田敏幸さんを迎え、

記念講演会開催済み

 今日は仕事で宝塚市仁川に行きました。途中、阪急梅田駅で乗り換え待ち時間がありましたので、紀伊国屋書店で時間つぶししました。もちろん古代史書籍コーナーに直行したのですが、『盗まれた「聖徳太子」伝承』も聖徳太子コーナーの書棚に並んでいました。『古代に真実を求めて』の他の号は置かれてなかったので、「聖徳太子」特集を前面に押し出したリニューアルの効果が、こうしたところにも出てきているようです。
 一昨日の「古田史学の会」の編集会議で、6月21日(日)開催予定の定期会員総会での記念講演講師を検討しました。今回は庄内式土器研究のスペシャリストである米田敏幸さんと正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)のお二方に講演していただくこととなりました。米田さんからは庄内式土器の胎土研究の成果から、「邪馬台国」畿内説の考古学的根拠の一つとされてきた庄内式土器産地(中心地)が大和ではなかったことや、河内での考古学的出土状況などをお話しいただけることと思います。正木さんからは倭人伝の文献史学研究と「呉の年号鏡」研究の成果など、邪馬壹国と争った狗奴国について発表していただけます。
 いずれも、関西(銅鐸文明圏)にあった狗奴国研究において、今後の起点(問題提起)になるものと期待されます。多くの皆さんのご来場をお待ちしています。非会員の方も聴講できます。
 なお、お二人の講演録は、今秋発刊予定の『「邪馬台国」論争を超えて ・・邪馬壹国の歴史学』(仮称、古田史学の会編・明石書店刊)に収録を計画中です。こちらもご期待下さい。
記念講演会の詳細は後日改めてお知らせしますが、会場は「i-siteなんば」で、6月21日(日)午後1時に開演です。


第928話 2015/04/20

拡大する網野町銚子山古墳

 古田史学の会・会員の森茂夫さん(京丹後市網野町)からお便りが届きました。森さんは当地の日下部氏の末裔で、有名な「浦島太郎」の御子孫でもあり、系図も伝わっています(「洛中洛外日記」27・30話、森茂夫「浦島太郎の二倍年暦」『古田史学会報』53号・2002年12月を御参照下さい)。
 森さんからのお便りによると、当地にある日本海側最大の古墳として有名な銚子山古墳(前方後円墳)の従来の推定規模が誤っており、実際は200mを越す箸墓型古墳であるとのことです。現在の復元推定規模は全長198m、前方部幅80mで佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプとされています。ところが、平成20年に古墳の専門家である奥村清一郎さん(当時、京都府立ふるさとミュージアム丹後の学芸員)が銚子山古墳測量図を精査した結果、全長207m、前方部幅110mの箸墓タイプ、より正確に言うと西殿塚(奈良県天理市)タイプというもので、全長が延び、両翼がせり上がりながらバチ状に開いていく美しい形状であることが判明しました。ちなみに従来説の佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプはどちらかというと手鏡型に近い、前方部の両端があまり開かないタイプとされてきました。
 この精査された古墳測量図は25cm刻みの等高線を持つもので、かなり詳しく古墳の形状がわかります。わたしは古墳については専門外の素人ですが、測量図の後円部から前方部のくびれ部分を注視しますと、古墳の一段目のテラスが前方部へ外側に広がっていることがわかります(インターネットでも見ることができます)。それを延長すると前方部がバチ状に開く箸墓タイプと推定するのが自然です。逆に従来説のように佐紀陵山タイプに復元すると、テラスの幅を急激に狭くしなければならない上、前方部の幅を狭くする分だけ、墳丘の斜面が急勾配となり、後円部と比較して、かなり不自然な形状になります。
 後方部の先の部分が崩落などにより失われていますので、その部分の復元は現存している墳丘や他の同時代の古墳の形状と無理なく整合させる必要があり、この点、奥村さんの新説の方が従来説よりもはるかに有力な見解だと思います。
 この奥村新説は当地の教育委員会でも発表会が持たれ、注目を浴びたようですが、どういうわけかその後今日に至るまで「無視」されているとのこと。森さんは奥村さんを招いて講演会の開催を京丹後市の関係機関に二度にわたり訴えてきたとのことですが、これも実現されていません。ここでも旧説が居座り、新説を学問論争としてさえも受け入れない実体と何らかの裏事情があるのかもしれません。森さんの御奮闘を応援したいと思います。


第927話 2015/04/19

「邪馬台国」論争を越えて

・・・邪馬壹国の歴史学

 今日はi-siteなんばで、「古田史学の会」の編集会議を行いました。今秋、発行予定の『三国志』倭人伝研究の本に関する書名や章立て、掲載稿について審議しました。
 書名について様々な案を検討し、従来の「邪馬台国」本とは内容もレベルも異なることが印象づけられる古田史学らしい書名として次の案が採択され、明石書店に提案することにしました。

 『「邪馬台国」論争を越えて ・・・邪馬壹国の歴史学・・』古田史学の会 編

 章立ても検討中ですが、次のような項目(仮称)と切り口で古田史学・邪馬壹国説を説明します。

 ○巻頭言
 ○初めて古田史学、邪馬壹国説に触れられる皆様へ
 ○古田先生からのメッセージ
 ○倭人伝の位置づけ
 ○短里で書かれた『三国志』
 ○倭人伝の二倍年暦
 ○倭人伝の文物
 ○全ての史学者・考古学者に問う
 ○講演録
 ○『三国志』原文(紹煕本)と古田先生の訳文

 若干の変更はあると思いますが、概ね以上のような内容となります。この本もかなり面白く、かつ後世に残る一冊になりそうです。
 ところで、3月に発刊しました『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)が好評により、明石書店の在庫も底をつきそうですので、増刷の方向で検討を進めています。お買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。


第926話 2015/04/18

アポローンは太陽神か?

 本日の関西例会も盛りたくさんの発表で、楽しく有意義な一日となりました。
 冒頭、西村さんからは、ギリシア神話のアポローンは太陽神ではないと史料をあげて説明されました。アポロドーロス著『ギリシア神話』(高津春繁訳、岩波文庫)によれば、アポローンは予言者・神託にかかわる神とされており、古代ギリシアにおける太陽神はヘーリオスとされています。ちなみにヘーリオスはオリンポス山には住んでいないとのこと。アポローンがいつ頃から太陽神とされたのかと質問したところ、5〜6世紀頃ではないかとのことでした。
 原さんは、『住吉神代記』に記された住吉の神領が難波京を取り囲むように位置していることから、これら全体で「一国」を形成していたのではないかとされました。そして『二中歴』「年代歴」細注にある「新羅人来たりて筑紫より播磨を焼く」という記事は、新羅が住吉神社の勢力圏を攻撃したのではないかとされました。
 出野さんからは前回に引き続いて、『漢書』『三国志』倭人伝に見える「倭」と「倭人」が別国(朝鮮半島の「倭」国と日本列島の「倭人」国)であるとする持論を展開されました。先月、茂山憲史さん・正木さん・西村さんから出された批判について、改めて反論されました。特に興味深く思ったのが、西村さんへの反論で示された「在」と「有」の違いについての説明です。『漢書』の「楽浪海中有倭人」にある「有」は倭人の「初見」を表す際に用いられ、既知の場合は「倭人在帯方東南海中」(『三国志』倭人伝)のように「在」の字が使われるとのことで、面白い指摘と思われました。
 岡下さんは、『万葉集』で宇治川を「是川」と表記する例(2427・2429・2430)があるが、これは「この川」と訓むのではないかとされました。そして、古墳時代の銅鏡の銘文で倭人は漢字を習得したとする森浩一説を批判され、交易により記録が必要なため、渡来人から倭人は交易業務と共に文字を習ったとされました。倭国の文字受容の時期や仕方について論議が交わされ、認識が深まりました。
 この間続けられてきた「大化改新詔」論争が今回もなされました。服部さんは、前回の正木さんからの批判は決定的なものではないと反論され、「大化改新詔」は九州王朝により7世紀中頃に前期難波宮で出されたと考えても問題ないとされました。
 正木さんからは「大化改新」論争の研究史と諸説を概説され、自説の「常色の改革」説を再論されました。そして、なぜ九州年号「大化」(695〜703年)を『日本書紀』では645〜649年にずらして盗用したのかが根本の問題とされ、その理由が説明できない服部説を批判されました。
 次に、「短里」の起源が殷まで遡ることを『礼記』などから論証され、「短尺(16cm強)・短寸(2cm強)」と「短歩(25cm強)・短里(75m強)」(周制三百歩を一里とす。『孔子家語』)が別系統の長さの単位であることを漢字の語義などから明らかにされました。
 最後に、服部さんから「長者」の意味について発表があり、「長者」は仏教用語(ギルドの頭領・指導者・組合長を意味するシュリイシュティンの漢訳)として6世紀後半から7世紀にかけて日本に伝来したとされました。そして「長者」は九州王朝の天子の呼称としてふさわしいと締めくくられました。時間が少し余りましたので、ギリシア旅行の報告が服部さんからなされました。
 以上、4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①アポローンは太陽神に非ず(高松市・西村秀己)
②住吉神代記と九州王朝(奈良市・原幸子)
③松本清張氏の見解を再び(奈良市・出野正)
④鏡は文字習得に役立ったか(京都市・岡下英男)
⑤「大化年号は何故移設されたか」論考に問う(八尾市・服部静尚)
⑥大化の改新問題について(川西市・正木裕)
⑦「短里」の成立と漢字の起源(川西市・正木裕)
⑧長者考(八尾市・服部静尚)
⑨ギリシア旅行報告(八尾市・服部静尚)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(お元気で好調、津軽の金光上人新史料入手、太田覚眠新史料入手)・新年度の会役員人事・橿原市博物館ハイキング・テレビ視聴(北摂の窯業生産、平安遷都と瓦生産)・大塚初重氏「三角縁神獣鏡国産説に転向」・その他


第925話 2015/04/17

久留米市「伊我理神社」調査報告

 久留米市の犬塚さんから、同市城島町の「伊我理神社」調査報告のメールが届きました。ホームページ読者からのこうした現地調査報告は大変ありがたいことです。しかも、かなり詳細な報告でしたので、様々な問題点が明らかとなり、今後の研究にとても役立ちました。犬塚さんのご了解を得ましたので、メールを転載し、わたしの考察を付記します。

【調査報告】※メールより抜粋。(転載文責:古賀)

古賀達也様
 
 洛中洛外日記第911話の「威光理神社」に関し、資料及び現地調査(2015.4.15)から以下のようなことが分かりましたのでご報告します。他の方からの情報と重複する部分があればご容赦ください。

1 威光理神社(伊我理神社)は、城島町に4社存在します。
 
(1)伊我理神社      久留米市城島町楢津1364
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理宮(神社仏閣并古城跡之覚書)
  威光理明神社(筑後志)
 伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)
 
  現地調査の結果:鳥居(昭和15年建立)の神額及び境内の芳名録(昭和13年)には「威光理神社」とあり、建立祈念碑(平成20年)では「伊我理神社」と なっている。
 
(2)伊我理神社       久留米市城島町六町原847
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理神社(神社仏閣并古城跡之覚書)
    威光理明神社(筑後志)
    伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:鳥居(平成18年再建)の神額には「伊我理神社」とある。境内には、小さな拝殿があるのみで神社名や祭神を示すものは何もない。
 
(3)天満宮        久留米市城島町大依190
  祭神 菅原道真
    合祀  威光理神社

  末社 威光理五社大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
  境内神社 伊我理社(福岡県神社誌下巻)
    合祀 威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    合祀 威光理神社(城島町誌には「昭和37年10月18日天満神社神殿に遷宮し、合祀した。」とある。)

 現地調査の結果:境内には由緒を説明するものはなく、威光理神社を示すものも見当たらなかった。

(4)高良玉垂神社(旧七社大権現)久留米市城島町楢津942-1
  祭神 正座七社 高良玉垂命・住吉大神・八幡大神・須佐之男命・川上大神・熊野大神・天満宮
    相殿二社 伊我理社・諏訪社
    末社 威光理大明神社(寛文十年久留米藩社方開基)
    すき崎 威光理大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
     末社 威光理神社(筑後志)
     伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財「昭和39年3月合祀、末社として境内に祀った。」)
     末社 伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:由緒に「昭和三十八年十月諏訪神社・伊我理神社合併本社に合祀する。」とあった。境内東側に、上記合祀に伴い境外から移設した鳥居(建立年代不詳)があり、その神額には「伊我理神社」とあった。

2  高良玉垂神社に対する聴き取り調査(2015.4.16)
 上記四社の管理を行っている高良玉垂神社に対し電話で聴取を行った。禰宜の大石さんから以下のような話をいただいた。

 高良玉垂神社の境内にある伊我理神社の鳥居は、昭和38年の合祀の際、別の場所にあった伊我理神社から移設したものである。現在その場所には何もない。鳥居が建立された時期についてはよく分からない。
 大依の天満宮には、伊我理神社が昭和37年に合祀されている。本殿が新設された際境内にあるすべてのものを本殿に納めたので境内には何もない。
 神社の名称が「威光理神社」から「伊我理神社」に替わったという認識はない。従前「いかり」という名に「威光理」や「伊我理」の漢字を当てはめ、併用されてきたと思われる。現在は「伊我理神社」に統一されている。楢津の「伊我理神社」も鳥居には「威光理神社」とあるが、正式には 「伊我理神社」である。名称が四社とも統一されたのは、第二次大戦後宗教法人として登録する際煩雑さを避けるためであったと聞いている。

 

3  その他
 城島町誌103頁に、城島の地名の由来として次のような記述があります。

「井上農夫の調査によると、光孝天皇の仁和三年(887)、豊島真人時連が高三潴の役所に近い大依に土着し、氏神伊我理神を祀り、周囲の海岸・潟地・洲島を開拓して勢力を広めた。」

 この郷土史家井上農夫の調査の内容、資料については何も示されていないため、当初から「伊我理」という神名であったのか確認ができない状態です。今後何か分かれば追ってお知らせしたいと思います。

  久留米市 犬塚幹夫

【古賀の考察】
(1)現在は「伊我理神社」に名称は統一されているが、江戸時代の史料には全て「威光理」とあることから、本来の名称は「威光理」と考えられる。

(2)江戸時代よりも後に「伊我理」の名称が採用されたが、御祭神は「天照大神荒御魂」とあり、伊勢神宮末社「伊我理神社」の御祭神伊我理比女命とは異なる。従って、神社名は伊勢神宮末社と同名に改称したが、御祭神まで同一にはしなかった。ただ、いずれも女神という点で一致しており、留意したい。

(3)「井上農夫の調査」によれば、仁和三年(887)に豊島真人時連が当地に氏神として祀ったとあり、これが正しければ「威光理」は当地あるいは近隣地域の氏神であり、「現地神」ということになろう。

(4)現地神であれば、「威光理」とは地名か神の固有名の可能性が高い。

(5)そうすると、現在の御祭神「天照大神荒御魂」も本来の名称ではなく、いずれかの時代に御祭神が変更・改称されたと考えられる。恐らく、神社名が「威光理」から「伊我理」に変更されたときではないか。

 以上のように考察しましたが、引き続き調査検討します。犬塚さん、ありがとうございました。


第924話 2015/04/16

『二中歴』九州年号 校訂跡の証言

 昨日、出張で加東市から香川県に向かう途中、サービスエリア(淡路南SA)で休憩していたとき、『二中歴』「年代歴」所収の九州年号に見える校訂跡が重要な問題を示していることに気づきました。それは「兄弟六年 戊寅」(558年)の「六」の字の右に記された「一イ」という傍書(縦書き)です。
 この「一イ」という傍書の意味は、異(イ)本によれば「六」の字は「一」とある、という意味です。他の九州年号史料によれば「兄弟」という九州年号は元年だけで、翌年は「蔵和」と改元されています。このことは『二中歴』「年代歴」自身からも明らかで、この「兄弟六年 戊寅」という文の意味は「兄弟」という年号は六年間続き、その元年干支は戊寅(558年)であるということです。ところが、「兄弟」の次の年号「蔵和」は「蔵和五年 己卯」とあり、元年干支「己卯」は「戊寅」の翌年の559年ですから、「兄弟」は元年しかないことがわかります。従って、「兄弟六年」というのは誤りで、正しくは「兄弟元年」とあるべきなのです。
 それでは何故「六年」と書かれたのでしょうか。これは単純な誤写によるものと思われます。すなわち「元年」の「元」の字を「六」と読み間違えた書写者がいたのです。「元」と「六」は字形が似ていますから、わたしは同様の誤写を他の史料でも見た記憶があります。そこで、「年代歴」部分を書写した人がそのことに気づき、他の九州年号史料(異本)により校訂し、「六」の字の右に「一イ」と傍書したのです。
 このように「一イ」という傍書が直接意味するところは、わたしは『二中歴』研究の当初から気づいていましたが、実はこの傍書が重要な問題の証拠・証言になるという論理性に、昨日気づいたのです。それは次のようことです。箇条書きします。

(1)「年代歴」に示された九州年号史料とは別の九州年号史料が、その当時(平安時代以前)、存在していた。だから比較校訂できた。
(2)「年代歴」の校訂跡はここだけなので、校訂時に参照した九州年号史料との異同が「兄弟」の他にはなかったと考えられる。
(3)『二中歴』タイプとは異なる年号立ての九州年号群史料がある(鎌倉時代以降成立の史料)。たとえば「聖徳」「大長」があり、「継躰」「朱鳥」が無い一群である。このタイプの九州年号群史料は、この校訂を行った時には存在していなかったことになる。もし存在していたのなら、校訂者はそれらとの差ついても校訂の傍書をしたはずだから。
(4)従って、『二中歴』「年代歴」の示す九州年号が現存九州年号群史料としては最も成立が古く、かつ原型に近いと考えられる。

 以上の論理性が成立することに、わたしは気づいたのです。


第923話 2015/04/15

法道仙人開基の

  朝光寺訪問

 今日は兵庫県加東市に行きました。お客様との約束時間より早く到着しましたので、昼食の休憩を兼ねて近くの朝光寺を訪問しました。大きく立派な本堂(国宝)が見事でした。
 朝光寺は法道仙人が白雉2年に開基したとする寺伝を持つ古刹ですが、観光案内パンフレットなどでは、この白雉2年を『日本書紀』の白雉2年(651年)と紹介されていますが、やはり九州年号の白雉2年(653年)と理解すべきと思われます。開基伝承の出典は『朝光寺文書』などのようですので、これから調査したいと思います。
 朝光寺の他にも播磨地方には法道開基とされる白雉年間の創建伝承を持つ寺院が多く、九州年号研究でも注目されている地域なのです。ちなみに、加西市の一乗寺も法道による白雉元年の開基とされています。
 恐らく、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」(白雉元年壬子・652年)木簡も白雉年間における播磨地方の寺院創建ラッシュと関係するのではないかと推察しています。さらにはこの白雉年間の寺院創建は、九州年号の白雉元年(652)に完成した九州王朝の副都「前期難波宮」と無関係ではないようにも思われるのです。今後の研究の深化が期待されます。


第922話 2015/04/14

『新撰姓氏録』「佐伯本」と学問の方法

 20年ほど昔のことですが、わたしが『新撰姓氏録』の研究をするためにどのテキストを使用するべきか、古田先生にご相談したことがあります。比較的手に入りやすく、各写本や版本の解説がある佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館)を用いようとしたのですが、そのとき古田先生から文献史学にとってとても大切なことを教えていただきました。
 それは、同書は各写本・版本間に文字の異同などがある場合、佐伯さんの判断でそれぞれの諸本から取捨選択されており、言わば『新撰姓氏録』「佐伯本」ともいうべきものであり、文献史学における史料批判の基本から見ればテキストとして使用すべきではないと指摘されたのです。すなわち、文献史学において諸本間に文字や記述の異同がある場合は、現代人の認識や判断で取捨選択するのではなく、史料批判や論証の結果、最も原文に近いと判断できる写本・版本をテキストとして依拠しなければならないという学問の基本姿勢について注意されたのでした。
 わたしはこのとき古田史学の学問の方法で最も大切なことの一つである史料批判について学んだのです。このことは、後の研究にも役立ちました。一例をあげれば、数ある九州年号群史料の中で、最も原型に近いと判断される『二中歴』を重視するということも、このときの経験によるものでした。初期の九州年号研究において、なるべく多くの史料を集め、その中で最も多い年号立て、あるいは最大公約数的な年号立てを九州年号の原型と見なすという手法が盛んに行われましたが、古田先生は終始この方法を批判され、史料批判に基づいて最も成立が早く、原型を保っている『二中歴』に依拠すべきとされたのです。すなわち、学問は多数決ではなく、論証に依らなければならないのです。そして、このことが正しかったことは、現在までの九州年号研究の成果により確かめられています。
 思えば古田先生は『「邪馬台国」はなかった』のときから、この立場に立たれていました。『三国志』版本の中で紹煕本が最も原型を保っていることを論証され、その紹煕本に基づいて研究をされたことは、古田学派の研究者や読者であればよくご存知のはずです。『万葉集』でも同様で、「元暦校本」を最良のテキストとして古田先生は研究に使用されています。
 たとえば『三国志』倭人伝の原文が、「邪馬台国」と「邪馬壹国」のどちらであったのかを論じる場合、国会図書館の蔵書中の表記を全て数え、多数決で決めるという方法が非学問的であることはご理解いただけるでしょう。それと同様に、現存する九州年号史料をたくさん集め、その多数決で九州年号の原型を決めるという方法も非学問的なのです。20年前の古田先生の教えを、今回『新撰姓氏録』を再読しながら懐かしく思い起こしました。
 「必要にして十分な論証を抜きにして、安易な原文改訂にはしってはならない」という古田先生の教えとともに、この史料批判に対する姿勢についても忘れないようにしたいと思います。