第723話 2014/06/09

「古田史学の会」のフリーミアム戦略

 Eテレの「辞書を編む人たち」という番組を見ました。『大辞林』の編集部の様子を紹介したもので、若者が使う新語の語釈に苦労する編集員の仕事ぶりや、電子版の普及により、紙版の発行部数が往年の二十分の一にまで減少したことによる、編集方針やビジネスモデルの変更などが紹介されていました。
 インターネット時代にあって、紙媒体(『古田史学会報』『古代に真実を求めて』)と電子媒体(HP「新古代学の扉」)をどのように位置づけて活用するのかは、わたしたち「古田史学の会」にとっても重要な課題です。そこで今回は電子媒体(HP「新古代学の扉」)のマーケティング戦略について解説したいと思 います。
 ある日の関西例会後の懇親会で、会員の伊藤隆之さん(神戸市)からHP「新古代学の扉」について、次のような質問をいただきました。
 「ホームページで『古田史学会報』等を、数年遅れで無償で公開しているが、これでは会費を支払って会員になるメリットが減り、入会者数に影響するのではないか。」というものです。
 まことにもっともなご質問でした。そこで、わたしはマーケティング論でいうところのフリーミアム戦略を採用していることを説明しました。このフリーミアムというマーケティング用語は、フリー(無料)とプレミアム(割増金)の合成語で、無料でサービスを利用できるが、より良いサービスへアップグレードした い人は課金される有料サービスを選択できるというビジネスモデルのことです。このフリーミアムというビジネスモデルはインターネットの普及により、様々な分野で採用されています。有名なものではケータイやスマホのゲームでしょう。
 このフリーミアム戦略の特長は、サービスを無料にすることでターゲット顧客を劇的に増やせることと、その無料サービス提供にかかるコストが低いことで す。そして、このビジネスモデルが成功する条件として、無料使用の顧客の中から一定の比率で有償顧客を獲得しなければならないということです。そのためには、多くの無償顧客が集まるような面白いコンテンツを用意することと、その面白さを更に上回る有償サービスを準備することが不可欠となります。業種やサー ビスの内容で異なりますが、無償顧客から有償顧客にかわる比率は2%程度が想定されているようで、それで事業継続を可能とする利益が得られるように事業設計されています。このように、フリーミアムというマーケティング戦略が飛躍的に発展したのは、インターネットの普及でターゲット顧客が劇的に増加し、無料サービス提供コストが圧倒的に少なくてすむようになったからです。
 わたしたち「古田史学の会」がホームページを開設した当初は、古田史学や「古田史学の会」を世に広く紹介するという広報宣伝活動が主目的でしたから、戦略的マーケティングの一環としてはそれほど深く意識していませんでした。わたしが会運営等にマーケティング論を意識し始めたのは、勤務先での職種を製造・ 品質管理・研究開発部門と渡り歩き、7年前に企画開発を含むマーケティング部門に異動になったことがきっかけでした。
 30代前半の頃、勤務先の中期経営計画策定プロジェクトメンバーとして経営コンサルタントから猛特訓を受けた経験がありましたから、経営戦略やマーケ ティングの初歩について少しは聞きかじっていたのですが、50代になりマーケティング部門への異動に伴って、最新の経営戦略やマーケティング理論を再勉強しました。そうしたこともあって、「古田史学の会」の運営にマーケティング理論を意識的に応用するようになりました。そして、顧客(会員)獲得のためのプ ラットホームとしてホームページを位置づけ、更にフリーミアム戦略を採用することにしたのでした。
 幸い、インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のご尽力により、HP「新古代学の扉」のコンテンツを強化し、「古田史学のことを知りたければこのHPだ」と言われるまでになりました。しかし、更にHPの知名度を上げ(検索で上位にヒットさせる)、「無償顧客」を飛躍的に増やすには十分ではなかったので、HPへのアクセス件数(来場者数)を増やすため、常にHPを更新する必要を感じました。そこで、わたしは「洛中洛外日 記」を連載することを決意し、「古田史学の会」役員会の承認を得て、連載を開始したのです。そして、この企画は予想通りの成果を上げました。HPを見て、 例会に参加したり、入会する人が増え始めたのです。
 紙媒体(『古田史学会報』『古代に真実を求めて』)は初期の古田ファンの獲得には有効でしたが、草創期会員の高齢化による退会が常に発生する時代に突入しましたから、会の財政基盤を支えるためにも会員数維持・増加が不可欠です。そうしたことから、インターネット世代の会員獲得が重要テーマとなり、フリーミアム戦略の採用は必然の流れでもありました。おそらく、無償顧客から有償顧客(会員)への変更率(入会率)は0.1%以下だと思いますが、「古田史学の会」は非営利組織ですので、その程度の変更率でも十分にビジネスモデルとして機能します。
 今後は無償顧客の満足度を高めつつ、有償顧客(会員)の満足度を更に高める施策が重要です。『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』の充実(読みやすく、面白い、役に立つ紙面作り)と同時に、記念講演会・例会・遺跡巡りなどのイベント、書籍発行事業など、課題は山積みです。これらの課題を解決し、成果を上げ続けるためには、みなさんのご支持ご協力が必要です。
 最後に一言付け加えますと、どれほど優れたマーケティング戦略を採ろうと、わたしたち「古田史学の会」のような非営利組織にとって最も大切なものはミッション(歴史的使命)です。ここがぶれたり曖昧にしたら組織の未来はありません。このことを申し述べて、これからもよろしくお願い申しあげます。


第722話 2014/06/08

九州王朝の建元は「継体」か「善記」か

 「洛中洛外日記」721話の「NHK『歴史秘話ヒストリア』のウラ読み」を綴っていて、『三国史記』新羅本記に法興王による年号の制定記事(「建元」元年、536年)があることを思い出しました。ある王朝が年号を最初に制定することを「建元」といい、その後、年号を変更することを「改元」というのですが、新羅の場合、建元した際の年号名がそのものずばりの「建元」です。そして改めて気づいたテーマがありました。
 それは九州王朝の年号「九州年号」の建元年号は「継体(517~521年)」(『二中歴』にのみ遺存)か、「善記(522~525年)」(『二中歴』以外の史料)かというテーマです。古田先生を始め古田学派内の大勢としては「継体」を最初の九州年号とされているようです。その理由は、『二中歴』の史料的優位性(成立の古さ。内容が九州王朝系史料に基づく)と論理性(継体天皇の漢風諡号が誤記誤伝により年号と間違われ、『二中歴』に記録されたとは考えにくい)によるもので、わたしも同様に考えています。
 しかし、圧倒的多数の年代暦類が「善記」を最初の九州年号としていたり、「善記」を我が国の年号の最初と説明する後代史料が少なからず見えることから、 どちらが最初の九州年号かを確定できる実証や論証ができないものかと考え続けてきました。今回、新羅の建元年号名が「建元」であることからもわかりますよ うに、新たな権力者が新王朝を立ち上げたときに建元するのですが、その年号は新王朝最初の年号にふさわしい漢字や単語を採用することは当然でしょう。王朝内の最高の知識人や歴史官僚・文字官僚を動員して検討したことを疑えません。
 このような視点から見ると、中国最初の本格的年号の最初は前漢の武帝による「建元元年」(BC140年)からとされていますが、この「建元」という年号も最初に元号を建てるという字義そのものです。おそらくは新羅もこの武帝の年号をならって、自ら最初の年号名を「建元」としたのではないでしょうか。
 ちなみに、前漢を滅ぼして「新」を建国した王莽の年号は「始建国」(9年)で、そのものずばりの年号名です。
 また、近畿天皇家の最初の年号「大宝」も、天子の意味を持つ「宝」の字が使用され、新王朝の初めての天子(宝)を礼賛する「大宝」という名称は最初の年号にふさわしいものです。ちなみに、天子の位を「宝位」といいます。
 同様に九州王朝の最初の年号の字義として、「継体」と「善記」のどちらがふさわしいでしょうか。古田先生によれば、「善記」は筑紫君磐井による律令(善き記)制定による年号と考えられています。「継体」はそれまで九州王朝・倭国が臣従していた中国南朝からの自立と、その権威を引き継ぐという意味で制定された年号ではないかと、古田先生は講演などで発表されています。こうしたことから、九州王朝最初の年号としては「継体」の方がよりふさわしいのではないでしょうか。現時点ではそのように考えています。


第721話 2014/06/07

NHK「歴史秘話ヒストリア」のウラ読み

「洛中洛外日記」720話でNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理について指摘し、その最後に「それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。」と記しました。
 卑弥呼は伊都国から纒向に「遷都」したという学問的に荒唐無稽な珍説に基づいた番組でしたが、もしかするとNHKの番組関係者に真実を伝えたいと密かに願う良心的な人がいて、番組の中に真実の痕跡を残したのかもしれないと、そんなウラ読みをしています。そう思った理由は次のことからですが、深読みしすぎでしょうか。
 まず思ったのが、弥生遺跡の中で最大級の豪華な出土物を持つ糸島の平原王墓が紹介されたことです。あの圧倒的な出土物(内行花文鏡・翡翠・水晶・他)を見た人に、纒向遺跡の「桃の種」よりも強烈な印象を与えることは明白ですから、番組の「編集意図」を越えて、倭国の中心地は北部九州であるというメッセージとなっています。
 次に、ナレーションでは「ヤマタイ国」と説明される一方、『三国志』倭人伝の画像では「邪馬壹国(やまいち国)」と記された部分をマーキングして紹介されており、見る人には「ヤマタイ国」ではなく「やまいち国」が真実(史料事実)であることがわかるようになっていました。もし、 このウラ読みが当たっていれば、この番組関係者は古田説を知っていたことになります。
 こうした表向きの編集意図とは異なり、真実を密かに伝え、後世に残そうとする試みは様々な分野で、いろんな時代で行われてきました。一例をご紹介します。
 『三国史記』新羅本記第五(1145年成立)の「真徳王(即位647~654)」の記事です。唐に赴いた新羅の使者に対して唐の天子太宗から「新羅はわが朝廷に臣事する国であるのに、どうして別の年号を称えるのか」と叱責されます。そして、『三国史記』の編者は「論じていう」として次のような解説を加え ています。

「偏地の小国にして天子の国に臣属する国は、もともと私に年号をつくることはできないものである。もし、新羅が誠心誠意をもって中国に仕えて、入朝と朝貢の道を望みながらも、法興王がみずから年号を称したのは惑いだというべきである。(中略)これはたとえ、やむを得ずしたことであったとはいえ、そもそも、あやまちというべきで、よく改めたものである。」『三国史記』林英樹訳(三一書房、1974年刊)

 『三国史記』新羅本記には法興王による年号の制定(「建元」元年、536年)以来、真徳王まで改元を続けたのですが、12世紀の高麗の知識人である編者たちは朝鮮半島の国が年号を持ったことを隠さず記したものの、中国の目をはばかって、それは過ちであり、よく改めたとしています。すなわち、中国の属国としての高麗の公的立場を表面的には守りつつ、その実、新羅が年号を持ったという歴史事実だけは書き残したのです。小国の歴史官僚の意地とプライドがそうさせたのではないでしょうか。
 このように、権力者(上司)の意向に表向きは従いつつ、メディアにかかわる人間としての良心とプライドにより、ぎりぎりのところで平原王墓の考古学的出土事実と「邪馬壹国」という史料事実を番組の中に潜り込ませたのではないか、そのようにウラ読みしたのですが、はたして当たっているでしょうか。


第720話 2014/06/05

NHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理

 昨晩は出張先の福井市のホテルでNHKの「歴史秘話ヒストリア」を見ました。テーマが「邪馬台国」や「卑弥呼はどこから来たか」というものでしたので、どうせまた一元史観「邪馬台国」畿内説の非学問的・非論理的な内容だろうとは予想していましたが、まさにその通りでした。ただ、視聴率を上げたいためか、今回はやや手の込んだ、奇をてらった番組作りを目指したようです。その要点は、卑弥呼は糸島半島の伊都国生まれで、大和の巻向に「遷都」したというものでした。
 要約しますと、糸島半島の平原王墓(2世紀末と解説)の被葬者を卑弥呼の母親か姉妹とし、そこで生まれた卑弥呼が「遷都」して巻向遺跡(3世紀初めと解説)の大型住居に住んでいたというものです。学問的には荒唐無稽(「倭人伝」には倭国が遷都したなどという記事はなく、「そうとれるかもしれない」という記事さえもありません)と言わざるを得ないのですが、そこは「天下のNHK」です。「そういう説がある」という表現でしっかりと「逃げ」を打っていました。しかし、放送された「考古学的事実」は正直です。この番組の荒唐無稽ぶりを見事に証明していました。
 たとえば、巻向遺跡から大量に出土した「桃の種」をずらっと並べ、いかにも倭国の女王にふさわしい「ものすごい出土物」とでもいいたいような演出をしていました。他方、平原王墓や同遺跡から出土した大型で大量の内行花文鏡や大量の宝石類(めのう・翡翠・水晶等)の加工品や原石が紹介されていました(番組ではなぜか紹介されませんでしたが、同遺跡からは鉄製品も出土しています)。まともな理性を持つ人であれば、どちらが倭国の中心地にふさわしい出土物かは一目瞭然でしょう。それとも、糸島で生まれた卑弥呼はお母さんから銅鏡の一枚も持たされずに、巻向に「遷都」し、鏡や宝石の代わりにせっせと「桃の種」を集めたとでもいうのでしょうか。噴飯ものです。この番組を制作放送したNHKの担当者に聞いてみたいものです。
 ちなみに、NHKもさすがにこれではまずいと考えたようで、大和の黒塚古墳(3世紀後半から4世紀前半と編年されています)を紹介し、出土した三角縁神獣鏡などが映った画像をしらーっと放送していました。ようするに、彼らは「(邪馬台国畿内説は学問的に無理と)知っていて、(巻向が邪馬台国だと)嘘をつく」というかなり不誠実な番組作りを行っているとしか考えられないのです。また、「倭人伝に記されているヤマタイ国」という主旨の虚偽のナレーションも流していました(「倭人伝」には邪馬壹国〔やまいちこく〕と記されています)。NHKの放送倫理はどうなっているのでしょうか。
 そういえば福島原発爆発事故のときも、NHKは御用学者を次々と登場させ、「原発は安全に停止した」「メルトダウンはありえない」「ただちに健康に影響はない」との報道を続け、福島第一原発を撮影する定点カメラだけを残し、自社の社員は早々と避難させたと聞いています。そのNHKの報道を信じて逃げなかった多くの福島県の人々が被爆し、子供たちの甲状腺ガンが今も増え続けていることを考えると、NHKに放送倫理を期待するほうが無理なのかもしれません。多くの高校生を残し、沈没船から早々と逃げた船長や、「その場から動くな(逃げるな)」と船内放送した船員を非難する資格は、日本にはないのかもしれ ません。NHKがこの様ですので。
 しかし、それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。その「社名」に愛する祖国「日本」を冠しているのですから。


第719話 2014/06/02

因幡国宇倍神社と「常色の宗教改革」

 「洛中洛外日記」614話『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」に おいて、正木裕さんの「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号 2008年4月)という仮説を紹介しました。九州年号の常色元年(647)に九州王朝 により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そして、その史料根拠となる天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』の次の記事の存在も紹介しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘された通り、天武十年正月条の「宮を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応した記事です。
 その後、正木さんとこのテーマについて意見交換したとき、7世紀中頃の常色年間(647~651)や白雉年間(652~660)での創建伝承を持つ神社が多いことから、この現象は九州王朝による「常色の宗教改革」の反映であり、各地の寺社縁起の調査分析が必要との結論にいたりました。特に『日本書紀』の影響を受けて、九州年号「常色」を『日本書紀』の「大化(645~649)」に年号が書き換えられているケースが想定されるので、その「大化」年号により記された寺社縁起の史料批判が必要と思われました。
 そんなこともあって、高円宮家典子さんとご婚約された出雲大社神職千家国麿さんの御先祖や系図などを調査していたとき、因幡国一宮の宇倍神社の創建が 「大化四年(648)」とされていることを知りました。この年は九州年号の「常色二年」に相当し、「常色の宗教改革」のまっただ中の時代です。現地調査や史料調査の機会を得たいと思います。
 出雲の千家家と因幡の宇倍神社の関係ですが、千家家の御先祖は天孫降臨した側の「天穂日命」とのことですが、天孫降臨された側(国を取られた側)の神様を祖先とする系図に、著名な『伊福部氏系図』があります。「大己貴命」を始祖とした系図ですが、その御子孫は今もご健在とうかがっています。その御子孫の伊福部家が長く宇倍神社の神職をされていたようです。こうした調査をしていたときに、宇倍神社の創建が「大化四年(648)」とされていることを知ったのです。
 全国的に分布している「常色年間」創建伝承を持つ寺社の調査を行いたいと考えていますが、わたし一人では全国の神社を調べたり、訪問することは困難です。皆さんのご協力をよろしくお願いします。


第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。

 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。

 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。

 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。

 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。


第717話 2014/05/31

『五行大義』の「納音」

 熊本県和水(なごみ)町で発見された「石原家文書」の「納音(なっちん)付き九州年号史 料」により、わたしは「納音」というものを知ったのですが、それがいつの時代にどこで成立したのかはわかりませんでした。インターネットや関連書籍の説明 では中国の唐代には成立していたようなのですが、出典などが不明で今一つ確信が持てませんでした。そのような中、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から隋代の書籍『五行大義』に「納音」に関する記述があることを教えていただきました。
 『五行大義』巻第一に、次のような書き出しで「納音」についての説明が見えます。

「第四、納音の数を論ず
 納音の数は、人の本命の属する所の音を謂(い)ふなり。」(以下略)

 以下、「木火土金水」などと関連付けながら難渋な説明が続くのですが、たとえば「山頭火」などの「納音」の冒頭の二文字「山頭」とかについては記述がありません。従って、今日見るような「納音」とは趣が異なるようです。
 明治書院のホームページにある説明によれば、『五行大義』5巻の編者は蕭吉で、「先秦時代から隋までの五行説を集め、組織的に整理、分類した書物。伝来の歴史は古く、『続日本紀』や日本国見在書目録にも載せられ、多くの鈔本が伝えられている。日本文学や平安貴族文化に多大な影響を与えたほか、陰陽道の教科書的存在にもなった。」とあります。
 服部さんから教えていただいた『五行大義』を手がかりに、引き続き「納音」の調査を行っていきます。


第716話 2014/05/30

吉野ヶ里遺跡の「ひみか」

 「洛中洛外日記」698話「梅花香る邪馬壹国の旅」で、古賀市立歴史資料館では「邪馬台国」の「台」の字が古田説に従って「壹」の字に貼り替えて展示されていることを紹介しましたが、合田洋一さん(古田史学の会・四国、事務局長)から再び「朗報」が届きました。
 「古田史学の会・四国」会員の井上在身(のぶみ)さん(高松市)が、3月に佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問されたとき、遺跡のマスコットキャラクターの絵が各所に掲示されており、その名前が「ひみか」と表記されていたとのことなのです。送っていただいた写真を見ても、はっきりと「ひみか」「HIMIKA」と表 記されています。たとえばJR「吉野ヶ里公園駅」への大きな案内板にも、古代人の衣装を着た「マスコットキャラクター ひみか」と説明された手を振る男の 子の絵が描かれています。公園内の各所にも同様のマスコットキャラクターの絵が描かれており、「ひみか HIMIKA」とあります。
 『三国志』倭人伝に記された倭国の女王「卑弥呼」は「ひみこ」と訓まれてきましたが、古田先生は緻密な倭人伝研究や現地伝承(筑後国風土記逸文のミカヨリ姫説話)の分析により、「ひみか」と訓む新説を発表されました(『古代は輝いていたⅠ』1984年刊、『よみがえる卑弥呼』1992年刊)。すなわち、 吉野ヶ里遺跡では従来説の「ひみこ」ではなく、古田説の「ひみか」をマスコットの名前にふさわしいと考え、採用されていたのです。このように古田史学(九 州王朝説・邪馬壹国説・ひみか説等)が九州王朝の故地では確実に公の場でも浸透しているのです。ちなみに井上さんが撮られた写真によれば、吉野ヶ里遺跡の 解説掲示板には四カ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)が使用されており、マスコットキャラクターを通じて世界へ「ひみか HIMIKA」が紹介されて いることがわかります。
 日本を代表する弥生時代最大規模の遺跡公園「吉野ヶ里」のマスコットキャラクターの名前に古田説「ひみか」が採用されたことについて、その経緯をインターネットで調べてみました。「吉野ヶ里歴史公園」のHPによりますと、マスコットの命名にあたり、一般公募が行われ、その中から「ひみか」が採用された とのことです。命名は平成10年(1998)に行われたとありますから、古田先生による「ひみか」説の発表以後です。説明では吉野ヶ里遺跡がある3町村 (東背振村・三田川町・神崎町。いずれも当時の地名)の最初の字をとってネーミングしたとのこと。偶然の一致とはいえ、「ひみか」の名称で応募した人の中 には、おそらく古田説の「ひみか」をご存じだった方もおられたのではないかと思います。
 吉野ヶ里遺跡のような「施設」は東京ディズニーランドなどのようにアトラクションや大型イベントを常時開催できませんし、その施設性格から修学旅行客や青少年の見学者、そして歴史好きの高齢者が主たるターゲット顧客となります。従って、いずれもリピーターにはなりにくく、おそらく1回きりの顧客が大半でしょう。これでは開園当初は物珍しさも手伝って、一定の集客が期待できますが、結局、時間とともに来園者も減少を続け、赤字運営に転落し、例外なく公的資 金(税金)の投入ということに落ち着きます。まともな経営者であれば、少なくともそのようなシナリオを想定し、事前に対策を考えます。
 そこで集客力アップのための様々なアイデアが「吉野ヶ里歴史公園」でも検討されたはずです。当然のこととして「吉野ヶ里歴史公園」もプロのマーケターが検討を重ねたことでしょう。そして手っ取り早い方法として、マスコットキャラクターを作り、関連グッズを販売し、「ゆるキャラ」としてデビューさせることぐらいは、安易ではありますが低コストで比較的効果的な対策として実施するでしょう。そして、吉野ヶ里遺跡にふさわしい古代人のマスコット、しかも「倭人 伝」で有名な「卑弥呼」などを模したキャラクターを造るというアイデアはすぐに思いついたはずです。
 次いで、そのマスコットのネーミングを行いますが、そこで重要なのが「商標権」などを侵害しないようにすることです。キャラクターグッズ販売も当然想定されますから、このネーミングは極めて重要です。恐らく、当初は「ひみこ」が一案として俎上に上がったとは思いますが、ご存じのように「ひみこ」はあまりにも有名な名前ですから、日本各地にある「邪馬台国」関連施設のお土産などで「商標権」が既に成立している可能性があります。少なくとも、様々な法的制約を受けるリスクを避けられないでしょう。他地域との差別化も難しそうです。
 こうした問題をも想定して「吉野ヶ里歴史公園」の担当者は公募による多くの候補の中から「ひみか」を採用することにしたはずです。この名称「ひみか」は 商標権などの問題をクリアしただけでなく、現在の女の子の名前に多用されている「きらきらネーム」の「○○カ」「☆☆ナ」にも対応し、「△△コ」たとえば 「ヒミコ」や「タケヒコ」よりも現代風です。主要ターゲット顧客である子供たちやそのお母さんたちにも受けがいいと思われます。
 ところが次に問題となるのが、結果として古田説「ひみか」と同じ名称を採用することへの抵抗や懸念が、今度は歴史学関係者(学芸員や学者)から出された はずです。少なくとも真剣に検討されたことをわたしは疑えません。古田説(邪馬壹国説・九州王朝説)を無視すること、「なかった」ことにするのは古代史学 界の暗黙のルールですから、一元史観の研究者にとっては自分が古田説支持者と見られかねない名称「ひみか」に賛成することには相当の躊躇があったはずで す。
 しかし、現実には「ひみか」が採用されたことから、そうした抵抗や懸念を押し切って決めた事情があったものと推測します。ただ、よくある手法として「一 般公募」の形式をとって、「古田説採用」への批判をかわすというのもリスクヘッジになったでしょう。また、「ひみか」と命名されたマスコットキャラクター は「男の子」ですから、女王(女性)の卑弥呼(ひみか)とは直接関係ない、という言い逃れもできそうです。ちなみに「女の子(妹)」の名前は「やよい」 ちゃんとのことです。ビジネス的にも「学閥」的にも、よく練られたネーミングだと思います。
 佐賀県や「吉野ヶ里歴史公園」の関係者にお会いする機会があれば、ネーミングの経緯などについてうかがってみたいものです。そして何よりも、わたしも久しぶりに「吉野ヶ里公園」に行ってみたいと思いました。吉野ヶ里遺跡にはわ
たしは三十代の頃、古田先生と訪れて以来行っていません。当時はまだ発掘中でしたが、古田先生の来訪を知った当地の学芸員の方々から歓迎され、発掘現場のすぐ側まで案内していただきました。当時から、古代史学界よりも考古学界の方が、古田先生や古田説に好意的でした。吉本隆明さんも「わたしが知っている若手の考古学者の半分は古田説支持者です」と言っておられたそうですから、より 「理系」に近い考古学者の方が古田説を正しく評価できる人が多いのでしょうね。


第715話 2014/05/28

神武の故郷

 「洛中洛外日記」714話にて、神武の出身地(故郷)を北部九州(糸島半島)と記したのですが、それが古田説であることを出典も明記して説明するようにとのご意見を水野代表よりいただきました。よい機会でもありますし、古田史学の学問の方法にも関わることですので、改めて説明することにします。
 神武の出発地について、当初、古田先生は「日向(ひゅうが)」(宮崎県)とされていました(『盗まれた神話』)。その後、長野県白樺湖畔の昭和薬科大学 諏訪校舎で1週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年)において、糸島半島説へと変更されました。そのときの古田 先生の説明として、『記紀』に見える神武軍団の主力の「久米」と、糸島半島にある「久米」地名の一致を根拠(傍証)として説明されたため、古田学派内から も批判の声があがったほど「討論」は熱を帯びたものとなりました。
 「地名当て」による比定という方法は、古田先生が批判された旧来の「邪馬台国」論争における「地名当て」と同類の方法であり、納得できないという批判で した。これは古田学派らしい学問の方法に関するもので、もっもとな批判ともいえるものでした。こうした厳しい批判に古田先生も当惑されていたように見えました。しかし、この批判は古田先生の新説成立の根拠や論理展開に対する誤解により生じたようでした。
 実は神武糸島半島出発説の根幹は「地名当て」ではなく、『古事記』の史料批判・新読解によるものでした。ところがシンポジウムにおける古田先生の説明が「地名当て」から始められたため、聴講者に誤解が生じたのかもしれません。
 『古事記』「神武記」によれば、神武等は「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」とあることから、従来から「日向」(宮崎県)を出発して「筑紫」(福岡 県)へ向かったと解され、神武の故郷を宮崎県とする理解が通説となっていました(ただし、「神武」架空説が学界の多数説)。当初、古田先生も同様に理解されていました(古田先生は「神武」実在説)。ところが、『古事記』の天孫降臨説話にはニニギが「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」に降臨したと記されています。従来はこの「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」も宮崎県とされてきたのですが、古田先生は『盗まれた神話』において、糸島博多湾岸の高祖(たかす) 山連峰に現存する「くしふる岳」「日向(ひなた)峠」であることを論証されていました。
 こうした背景があって、先のシンポジウムにおいて、古田先生は天孫降臨の「日向(ひなた)」が糸島博多湾岸であれば、その直後の『古事記』「神武記」に見える「日向」も同様に糸島博多湾岸の「日向(ひなた)」と理解するのが、史料批判上の正しい読解であるとされたのでした。そして、「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」の「筑紫」は小領域の地名であり、「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽」の「竺紫」は大領域地名とされ、その「筑紫」と「竺紫」の書き分けを指摘されたのです。すなわち、「日向を発(た)たして筑紫に行幸し」とは、「竺紫の日向」から「竺紫の筑紫」へ向かったことを意味するとされたのです。
 わたしはこの新説を聞いて、その学問の方法を徹底させ、自説さえも覆す古田先生の史料批判(フィロロギー)に感動したものです。この新古田説は考古学的事実ともよく一致し、その正しさは明らかです。「三種の神器」が出土する糸島博多湾岸と、それらが弥生時代の遺跡から出土しない南九州とでは、明らかに 「三種の神器」を自らのシンボルとした近畿天皇家の祖先に地として、糸島半島が神武の故郷にふさわしいのです。
 こうした学問的経緯により、「神武、糸島半島出身」説が古田史学の中で不動の真説として今日に至っているのです。詳しくは『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(1992年刊、新泉社)をご覧ください。


第714話 2014/05/25

古代史の中の「鳥」

 今月の関西例会の時、出野正さん(古田史学の会・会員、奈良市)から張莉さんの論文「古代中国・日本の鳥占の古俗と漢字」(同志社女子大学総合文化研究所『紀要』第29巻、2012年3月30日刊)の抜き刷りをいただきました。
 張莉さんは古田先生の九州王朝説を支持されている漢字学の研究者で、白川静さんの後継者です。聞けば御夫君の出野さんから日本古代史を学ばれたとのことですが、同論文には中国古典のみならず、『日本書紀』『源氏物語』『古今和歌集』『拾遺和歌集』などの日本古典や現代の研究書が引用されており、その博識に驚かされました。「鳥」に関わる様々な漢字について考察されており、白川漢字学の後継者にふさわしい論稿です。
 わたしも古代史研究において、これまでも何度か「鳥」をテーマにしたことがありますが、最近では熊本県和水町の江田船山古墳出土の鉄刀にある銀象嵌の「鳥」は鵜飼の鵜ではないかとしました。「洛中洛外日記」704話「『隋書』と和水(なごみ)町」でも紹介しましたが、九州王朝(倭国)では鵜飼が盛んだったようで、『隋書』の他にも『古事記』にも神武の東侵説話に「島つ鳥、鵜養(うかい)が伴(とも)、今助(すけ)に来(こ)ね。」とあり、窮地に陥っ た神武が「鵜養が伴」に援軍を要請していることから、神武の出身地である北部九州(糸島半島)に「鵜養が伴」がいたことがわかります。古代における「鳥」 研究においても、古田史学・多元史観が必要なのです。


第713話 2014/05/24

古田武彦『古代は輝いていたII』復刊

 「洛中洛外日記」693話で紹介しました『古代は輝いていた I』に続いて『古代は輝いていたII』がミネルヴァ書房より復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史全3冊の2冊目ですが、副題に「日本列島の 大王たち」とあるように、古田史学の中でも「多元史観」を理解する上で重要な著作です。
 九州王朝以外にも銅鐸国家、関東王朝、近畿天皇家などが著述されており、古代日本列島における多元的国家の成立が解説されています。九州王朝は「倭の五王(『宋書』倭国伝)」時代を中心にその歴史が解説されています。
 巻末には松本郁子さんによる「第10回古代史セミナー~古田武彦先生を囲んで~日本古代史新考 自由自在(その6)」(2013年11月)の「実施報告」が収録されています。気鋭の研究者である松本さんならではの見事な解説です。セミナーの様子や古田先生の直近の研究動向などを知ることができます。ご一読をお勧めします。


第712話 2014/05/23

古田史学の会HP中国語版「史之路.网站」

 最近、「古田史学の会」のHP「新古代学の扉」のトップページが少し変わったことにお気づきでしょうか。中国語版のページ「史乃路」にトップページから入れるようになりました。中国語版を充実強化させる方針については既に述べてきましたが、その準備として、インターネット担当の横田さんにお願いして、中国語版ページにトップページから入れるようにしていただきました。
 現在は古田先生の小論「全ての歴史学者に捧ぐ--政・棕・満の法則」の中国語訳など3編を掲載していますが、今後、古田史学の紹介文などを掲載したいと計画中です。幸い、中国語訳を中国人研究者(漢字学)の張莉さんに手伝っていただけることになりました。このように、古田先生や古田史学の支持者が次々と現れ、様々な分野で協力していただける時代となり、ありがたいことです。
 古田先生の中国語でのメッセージを掲載することも、古田先生と相談中です。古田史学を世界に発信していきたいと思います。こうした事業も会員からいただく会費で成り立っています。皆さんのご協力をよろしくお願いいたします。

 

(インターネット事務局より 2017.5.10)

中国語ドメインを収得しました。