第584話 2013/08/20

天智天皇の年号「中元」?

 わたしは第580話「近江遷都と王朝交代」に おいて「天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年(671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝の継承者としての「改元」もされていません。」と記したのですが、先日の関西例会の質疑応答のとき に、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)から、天智天皇の年号「中元」について関西例会で報告したことがあるとの御指摘がありました。
 確かに2011年5月の関西例会で竹村さんはそのことを発表されていました。そのときの発表を、わたしは失念していますので、恐らく「中元」を九州年号ではなく誤記誤伝の類と判断したのだと思います。しかし、現在では研究や認識が進んできたこともあり、この竹村さんの指摘には大変驚きました。
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発し たと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年 (668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
 それにしても、こうした予想外の御指摘をいただけるのも「古田史学の会」関西例会ならではと、竹村さんや参加者の皆さんに感謝しています。


第583話 2013/08/18

『古田史学会報』117号の紹介

 『古田史学会報』117号が発行されました。今回も古田先生から原稿をいただきました。古谷さんからも前号に続いて中国周代史書に見える「短里」 の発見報告がなされました。古田史学の会・四国の白石さんからは、同会による壱岐・糸島の遺跡巡りツアーの報告かがなされました。掲載稿は次の通りです。

〔『古田史学会報』117号の内容〕
○「いじめ」の法則 — 続、「古田史学」の理論的考察-  古田武彦
○古田武彦講演会「真実の歴史を求めて — 私の歩んで来た道、歩み行く道」の案内
○前期難波宮、九州王朝副都説批判
 「史料根拠と考古学」について  豊中市 大下隆司
○古田先生にお応えする。  高松市 西村秀己
○古代ロマン邪馬壱国への道
  — 魏志倭人伝の一大国と伊都國を訪ねて  今治市 白石恭子
○古田史学の会 第十九回定期会員総会の報告
○「墨子」と「呂氏春秋」における里数値の検討  枚方市 古谷弘美
○「古田史学コーナー」がオープン
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記


第582話 2013/08/17

西井さんの「歴史記事スクラップ」

 「古田史学の会」関西例会では様々な研究発表を聞けたり、質疑応答など本当に刺激的で素晴らしい勉強会です。終了後の懇親会も楽しみですが、わた しが楽しみにしているものがもう一つあります。それは懇親会などを担当していただいている西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)が毎回配布されてい る古代史や歴史関連の新聞記事を切り抜いて編集されている「歴史記事スクラップ」(A3、4ページ)です。仕事が忙しくて、日頃は新聞の隅々まで読むこと がないわたしにとって、この西井さんが作成されたスクラップ記事のコピーは大変貴重な情報源となっています。こうした史料を毎月多数入手できる関西例会に みなさんも是非お越し下さい。会費は500円です。
 8月例会の発表は次の通りでした。服部さんの「荒神」に関する報告や、正木さんの発表に対する質疑応答時に、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人、関西例会担当)から指摘された天智天皇の年号「中元」など、驚きの内容でした。
 なお、9月例会は9月22日(日)で、通常の第三土曜日ではありません。ご注意下さい。

〔8月度関西例会の内容〕
1). 張莉論文を読んで(木津川市・竹村順弘)
2). 多利思北弧の国交断絶(木津川市・竹村順弘)
3). 古代天皇の父子継承について(八尾市・服部静尚)
4). 荒振神・荒神・荒についての一考察(八尾市・服部静尚)
5). 薩夜麻の都督・倭国王即位と近江朝の日本国改名(試案)(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・ミネルヴァ書房からの古田書籍続刊・張莉さん論文『「倭」と「倭人」について』・古田先生八王子セミナーの案内・古田先生『研究自伝』記念講演会・浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」・『先代旧事本紀大成経』の国生み神話の小豆島・その他


第581話 2013/08/16

古田先生自伝刊行記念講演会のご案内済み

 この二ヶ月ほど出張が連日のように続き、かなりバテています。円安による輸入原材料価格高騰の影響で、価格改定交渉のため全国を飛び回ってきまし た。お盆明けには鹿児島・宮崎出張や上海出張も予定されており、体力回復に努めています。早く本来業務のマーケティングや開発に戻りたいものです。
 本日、ミネルヴァ書房の神内冬人さんが拙宅までみえられ、古田先生の研究自伝『真実に悔いなし』刊行記念講演会の案内チラシをいただきました。明日の「古田史学の会」関西例会で配布します。内容は次のとおりです。是非、お越しください。

「真実の歴史を求めて -私の歩んで来た道、歩み行く道-」

 講師 古田武彦

 講演内容
 ○これまでの学究生活を振り返る
 ○最新の研究成果、発見について
 ○『真実に悔いなし』(シリーズ「自伝」my life my world)「古田武彦・歴史への探究」刊行を機に

 ※講演終了後、質疑応答、書籍販売(サイン本も有)を予定しています。

 とき 9月21日(土)13時30分~16時

 ところ 京都教育文化センター
     京都市左京区聖護院川原町4-13
        電話075-771-4221

 定員 350名(先着順に座席をご用意しております)

 参加費 1000円(当日受付でお支払い下さい)

 主催 ミネルヴァ書房

 

(お問い合わせ・お申し込み)

 電話・FAX・はがき・Eメールでお申し込み下さい。先着順にて受け付けますので、定員になり次第、締め切りとさせて頂きます。
 氏名・住所・電話番号・参加人数を連絡して下さい。
 〒607-8494 京都市山科区日ノ岡堤谷町1番地
 株式会社ミネルヴァ書房内 古田武彦講演会「真実の歴史を求めて」事務局:石原

 電話 075-581-0296
 FAX 075-581-0589
 E-mail eigyo@minervashobo.co.jp


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第579話 2013/08/11

近江遷都と天智紀重出記事

 近江遷都年には、『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説がありますが、この「6年の差」について注目すべき問題点として『日本書紀』天智紀の「重出記事」があります。
 天智紀には5~7年の差で似たような記事があり、通説ではこれらを同一の事件が「重出」したものと説明されています。もちろん「重出」なのか実際に似た ような事件が二回発生したのかは、記事毎に慎重な検討が必要です。「重出」がなぜ5~7年の差なのかは、それぞれに史料根拠や理由があるのですが、「6年 の差」については、天智紀に記されている「称制元年(662)」と「即位元年(668)」の6年の差が発生原因とされています。すなわち『日本書紀』編纂 時に、元史料にあった記事を「称制年」と「即位年」の双方に「重出」して記載したと考えられています。
 近江遷都年もこの「重出」と同様の現象が発生したのではないかと考えることができます。たとえば、天智の「称制元年」の前年(661、白鳳元年)に行わ れた九州王朝による近江遷都記事を、『日本書紀』編纂時に「天智即位年」の前年(667)の事件として記録したというケースです。この場合、「重出記事」 にならずに天智6年条のみの記載となったのは、その内容が「近江遷都」なので、さすがに『日本書紀』編者も「重出」するような不手際はなかったものと考えられます。もちろん、これは近江遷都年二説の「6年の差」を説明できる一つのアイデア(思いつき)に過ぎませんので、現時点で絶対に正しいとするものでは ありません。(つづく)


第578話 2013/08/09

近江大津宮の造営年と遷都年

 今日は大阪に来ています。わたしが理事をしている繊維応用技術研究会の講演会に出席しています。様々な分野の講演が続きましたが、中でも高輝度光科学研究センター(スプリング8)の熊坂崇さんの講演「放射光施設SPring-8における生体高分子の構造研究」は大変興味深い内容でした。最先端科学でここまで高分子構造が解明できるのかと驚きました。歴史研究に応用できれば、もっと多くの科学的知見が得られ、歴史の真実の解明が一層進むことと思われました。
 さて、第577話において、大津宮遷都年の二説の6年の差が、歴史理解において大きな問題点を含んでいることを述べました。ここでのキーポイントは、その6年の間に白村江戦の敗北という九州王朝における大事件が起こっていることです。ですから近江大津宮遷都年が661年なのか、667年なのかの検討が必要です。このテーマを考古学と文献史学の両面から迫ってみましょう。
 まず確認しておかなければならないことですが、造営年と遷都年が同時期かどうかという点です。『日本書紀』天智6年条の遷都記事を根拠に、従来は何となく大津宮造営年(完成年)も同年と考えられてきたようですが、『日本書紀』には大津宮造営に関する記事は見えません。前期難波宮は652年に完成したことが記されていますが、大津宮はいきなり遷都記事があるだけで、造営年(完成年)は記されていないのです。このことに留意する必要があります。
 というのも、第566話で紹介しましたように、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報 16』(2012年12月)によると、『日本書紀』天智紀には大津宮遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。
 この考古学的知見が正しければ、大津宮は白村江戦以前に完成していた可能性が高く、そうであれば第577話で指摘したように、その宮殿は九州王朝の宮殿 と考えざるを得ないという論理性により、遷都年は『海東諸国紀』に記された白鳳元年(661)とする理解へと進みます。それでは、『日本書紀』天智6年条の遷都記事は九州王朝史書からの盗用だったのでしょうか、それとも史実なのでしょうか。(つづく)


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)


第576話 2013/08/04

近江大津宮の朝堂院

 吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)を読んでいて、ありがたかったのが古代宮殿の平面図が掲載されており、中でも近江大津宮の近年の発掘調査に基づいた平面図がとても印象的で参考になりました。
 同書87頁に掲載されている「近江大津宮」図によれば、内裏や内裏南門の南側に広がる朝堂の東と西に並んでいると推定されている建造物の一部が、南門の 南西側から出土しており、大津宮が前期難波宮と同様に北に内裏が位置し、その南側に朝堂院を有する「北闕型」の王宮であったことがほぼ明確となりました。 ということは、その様式は652年に完成した前期難波宮を模倣したこととなり、確かに平面図も前期難波宮とよく似ています。
 従って、大津宮は九州王朝の副都前期難波宮を先例として造営されたこととなり、九州王朝との関係を無視することはできないでしょう。『日本書紀』によれ ば、近江遷都を天智6年(667)のことと記されていますから、白村江の敗戦後のことになります。そうすると、敗戦後の疲弊した九州王朝による造営とは考 えにくくなります。他方、
『海東諸国紀』には近江遷都を九州年号の白鳳元年(661)のことと記されており、こちらが正しければ大津宮造営は白村江戦以前のこととなり、それであれ ば九州王朝による造営も可能となります。近江遷都や大津宮造営の時期は、どちらの記事が正しいのでしょうか。(つづく)


第575話 2013/07/28

白雉改元「小郡宮」説

 わたしはこれまで、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、その時期は九州年号の白雉元年(652)であることを論証してきました。そのキーポイントは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)の白雉改元記事は、九州年号の白雉元年二月(652)に行われた 行事の白雉年号ごと二年ずらしての盗用であることを明らかにしたことです(宮殿完成記事は652年九月条)。
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤 海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。

 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書 紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測 されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117~118頁)

 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。
 そして、『日本書紀』に記されている三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「白雉」のみがその改元の様子が詳細に記されていることから、近畿天皇家が改元儀式に参列し、その様子を見ることができたからこそ、『日本書紀』に記すことができたと思われます。そうすると、孝徳の宮殿と改元の儀式が行われた九州王朝の宮殿は参列可能な程度の近くにあったことになります。この点も、前期難波宮九州王朝副都説でしかうまく説明できない『日本書紀』の史料事実なのです。


第574話 2013/07/27

へんてこな大極殿、エビノコ郭

 吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)の89頁に掲載されている飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3-B期)の平面図には、いびつな台形の宮殿区画(内郭)の南東に、東西に長い建造物「エビノコ郭」が記されています。このエビノコ郭も内郭と同様に周囲が塀で囲まれており、その中に飛鳥宮では最大規模の建造物があります。
 このエビノコ郭を『日本書紀』天武紀に見える「大極殿」とする見方が有力となっているようですが、このエビノコ郭を囲む塀も、よく見ると長方形ではなく、内郭と同様に台形です。しかも、その塀の西側部分に門があり、南側には門は発見されていません。
 大極殿の「大極」とは北極星を中心とする星座を意味するとされ、宇宙の中心であり、大極殿も王朝の中心権力者の宮殿にふさわしいものであるはずです。ところが飛鳥宮のエビノコ郭は飛鳥宮の南東に位置し、しかも南側ではなく、西側に門があるというとてもへんてこな宮殿なのです。しかも平面図は台形です。先行して造営された前期難波宮や大津宮は宮殿の南側に正門があり、「天子南面」の思想性に基づいているのに、飛鳥宮のこんなへんてこな宮殿が大極殿とはとても思われません。
 このように飛鳥宮やエビノコ郭が日本列島の代表王朝の宮殿としてふさわしくないことは、「一目瞭然」なのです。既に難波には大規模で見事な朝堂院を持つ前期難波宮があり、天智の時代には同様に立派に大津宮(壬申の乱で焼失)があったにもかかわらず、斉明や天武・持統らの飛鳥宮はやはり見劣りがするのです。こうした宮殿様式の比較からも、前期難波宮九州王朝副都説が有力仮説であることをご理解いただけるのではないでしょうか。


第573話 2013/07/25

いびつな宮殿、飛鳥宮

 今日は初めて福井県鯖江市に宿泊しました。鯖江駅前の案内板には「近松門左衛門の町」と表記されており、鯖江市と近松がどのような関係にあるのか興味を持ちました。京都に帰ったら調べてみようと思います。
 長時間の移動を伴う出張の際には、本を一冊かばんに入れておくのですが、今回の出張のお供は吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・ 渤海』(吉川弘文館、2011年)です。古代都城の変遷や、中国の影響などわかりやすく解説された好著でした。もちろん著者は近畿天皇家一元史観に立って いますので、日本の都城として太宰府などは触れられていませんし、前期難波宮ももちろん孝徳天皇の難波長柄豊碕宮として取り扱われています。そうした「学問的限界」はありますが、参考にはなります。皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書を読んで改めて感じたテーマがあります。同書89頁に掲載されている飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3−B期)の平面図にそれは示されています。数年前に既に 古田史学の会関西例会でも発表したのですが、天武天皇や持統天皇の宮殿と見なされている飛鳥浄御原宮を平面図で見ると、その形が長方形や正方形ではなく、 いびつな台形なのです。
 天武天皇よりも以前に、大規模で見事な左右対称の朝堂や内裏を持つ前期難波宮や大津宮が造営されているのに、その後の飛鳥浄御原宮は平面形がいびつな台形で、建造物の配置も左右対称ではありません。もしこれらの宮殿が同一王朝のものとしたら、この「落差」をどのように説明できるのでしょうか。
 この宮殿の様式の落差は、同一王朝内のものではなく、前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの仮説と整合することがご理解いただけるものと思います。 また、わたしは九州王朝の「近江遷都(白鳳元年)」という仮説も発表していますが、この仮説とも整合する考古学的事実なのです。
 このように前期難波宮九州王朝副都説は文献的史料根拠だけではなく、考古学的事実という根拠も持っているのです。