第560話 2013/05/22

太平洋を渡った縄文式土器
       
       
         
            

 今朝は新幹線で名古屋に向かっています。研究開発職から営業職(マーケティング)に異動になって七年になりますが、この
間、新幹線に乗ったのは恐らく千回近くになると思います。当時とは車窓の風景も変わりましたが、琵琶湖畔の三上山や伊吹山は往年のままの偉容を見せてくれ
ています。

            

 さて、縄文式土器が世界最古の土器であり、人類最初の工業品であることを、わたしは古田先生から教えていただきました。
今から、三十年近く前のことです。そして、その縄文式土器が太平洋を渡り、南米のペルーやエクアドルから出土していることも古田先生から教えていただきま
した。縄文式土器が南米から出土することに最初に気づかれたのはエクアドルのエストラーダ氏と米・スミソニアン博物館の考古学者エヴァンス夫妻でした。ち
なみに、わたしはエヴァンス夫人のベティー・J・メガーズ博士と東京でお会いしたことがあります。
 それは平成七年十一月、東京の全日空ホテルで開催されたメガーズ博士来日記念討論会「縄文ミーティング」の席でした。その記録は『海の古代史』(原書
房、1996年)に収録されていますので、是非、ご覧ください。メガーズ博士や古田先生を始め各専門分野のそうそうたるメンバーが「縄文式土器の南米伝
播」をテーマに英語や日本語で討論が行われました。そのミーティングにわたしも記録・録画係として同席を許されたのです。もちろんそれは、わたしに貴重な
経験をさせてあげようという古田先生のお心遣いでした。感謝に堪えません。
 今でもそのときのエピソードとして鮮明に覚えていることが、いくつかあります。議論はメガーズ博士が英語で、その他の日本人参加者は日本語で話し、通訳
がそれぞれ訳するという形式で進められました。ところが、議論が白熱してくると日本人参加者も通訳を待たずに英語で話し出されたのです。この討論の内容は
日本語で出版される予定でしたので、さすがに関係者(東京古田会の藤沢会長だったと記憶しています)が「日本語で話してください」と止めに入ることになり
ました。
 さらに、この時の通訳を担当されたのは若い女性の方でしたが、驚くほど優秀な通訳でした。考古学・古代史学・医学などの専門用語が縦横無尽に飛び交う会
話でしたが、通訳の際に確認された専門用語はただ一つでした。「ポイントは鏃(やじり)と訳してよろしいですね」という確認でした。その確認は当たっていて、複数ある「ポイント」の語義を会話の文脈から「鏃」と判断され、念のために確認されたのでした。本当に見事な通訳でした。
 わたしにはメガーズ博士の英語は難しくてほとんど理解できませんでしたが、たびたび「マイグレーション」という用語が聞き取れましたので、「伝播による移動」のことをマイグレーションと言われているように思われました。わたしの専門分野である染色化学では、マイグレーションは「移染」あるいは「均染化」
の意味で使用されており、耳慣れた英語でしたので、分野によっていろいろな使い方がある単語だなと、勉強になりました。
 古田先生は縄文式土器が太平洋を渡ったというテーマを、倭人伝の「船行一年」を中南米への倭人の航海とする読解を支持する考古学的事実として注目され、
エヴァンス夫妻との学問的交流を始められました。縄文式土器の南米への太平洋を渡っての伝播という事実は、日本の古代史学界・考古学界でもっと取り上げら
れるべきと思います。


第559話 2013/05/19

難波収さんの訃報

 「洛中洛外日記」第129話「難波収さんとの一夕」などでご紹介しました、オランダ・ユトレヒト市在住の会員、難波収さんが5月8日に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りします。
 難波さんはユトレヒト天文台に勤務されていた天文学者で、古くからの古田先生や古田史学の支持者でした。とても残念でなりません。ご遺族から送られてき
た訃報を転載させていただき、本ホームページ掲載されています難波さんの論稿を紹介します。故人を忍んでご一読いただければと思います。

            

(ご遺族からの訃報)

            

 「いやいや、まだいろいろ書きたいことがあるんだ。
                 読みたい本もまだたくさんあるしねぇ・・・」

            

 いつもそう言っていた父・祖父でしたが、
               母国への旅を無事に終えた直後、
               別れを言う間もなく宇宙に旅立っていきました。
               さようなら、お父さん、おじいちゃん

            

  理学博士 難波 収 儀
                    妻・故 富美代

            

1926年5月3日岡山にて誕生
              2013年5月8日オランダ、ユトレヒトにて死去

(難波さんの論稿)
難波収「人間、古田武彦さんとの出会い」
難波収「オランダの支石墓『ヒューネベット』」
難波収「一士官候補生の戦後の体験」


第558話 2013/05/19

古代ギリシアの「従軍慰安婦」

 昨日の関西例会で、わたしは古代ギリシアの「従軍慰安婦」というテーマでクセノポン著『アナバシス』にギリシア人傭兵部隊に娼婦が多数従軍していたという記事があることを紹介しました。
 ソクラテスの弟子であるクセノポンが著した「上り」という意味の『アナバシス』は、紀元前401年にペルシアの敵中に取り残されたギリシア人傭兵1万数 千人の6000キロに及ぶ脱出の記録です。クセノポンの見事な采配によりギリシア人傭兵は故国に帰還できたのですが、その記録中に娼婦のことが記されてい ます。アルメニア山中の渡河作戦の途中に次の記事が突然現れます。

 「占者たちが河(神)に生贄を供えていると、敵は矢を射かけ、石を投じてきたが、まだこちらには届かなかった。生贄が吉 兆を示すと、全軍の将士が戦いの歌を高らかに唱して鬨の声をあげ、それに合わせて女たちもみな叫んだ−−隊中には多数の娼婦がいたのである。」岩波文庫 『アナバシス』(169頁)

 この娼婦たちはギリシア本国から連れてきたのか、遠征の途中に「合流」したのかは不明ですが、将士の勝ち鬨に唱和して叫んでいることから、前者ではないかと推定しています。
 昨今、物議を醸している橋下大阪市長による「慰安婦」発言もあったことから、いわゆる「従軍慰安婦」が紀元前400年頃の記録に現れている例として紹介 しました。この問題は他国への侵略軍・駐留軍が避けがたく持つ「性犯罪」「性問題」が人類史的にも根が深い問題であり、ある意味では橋下市長の発言を契機 に、より深く考える時ではないかと思います。「建前」だけの議論や、単なるバッシングでは沖縄の米兵による性犯罪をはじめ、世界各地の侵略軍・駐留軍により恐らくは引き起こされているであろう各種の問題を解決できないことは明白です。歴史学や思想史学が机上の学問に終わらないためにも、真剣に考えるべきテーマではないでしょうか。
 5月例会の発表は次の通りでした。なお、6月例会は「古田史学の会」会員総会・記念講演会などのため中止となりました。

 

〔5月度関西例会の内容〕
1). シキの考察−−西村説への尾鰭(大阪市・西井健一郎)
2). 古代に忌み名(諱)の習俗はあったのか(八尾市・服部静尚)
3). 歩と尺の話(八尾市・服部静尚)
4). 古田史学会インターネットホームページ運営報告(東大阪市・横田幸男)
5). 古代ギリシアの「従軍慰安婦」(京都市・古賀達也)
6). 和気(京都市・岡下秀男)
7). 「室見川の銘板」の解釈について(川西市・正木裕)
8). 「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の距離について(川西市・正木裕)
8). 味経宮のこと(八尾市・服部静尚)
9). 史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・会誌16集編集遅れ・新東方史学会寄付金会計報告の件・行基について・その他 


第557話 2013/05/14

日本最古の国宝「縄文のビーナス」
       
       
         
            

 今日は東北新幹線やまびこ59号に乗って、福島に向かっています。東北新幹線に乗るのは、今年になってからは初めてです。座席に備えてある雑誌「トラン
ヴェール」5月号に縄文式土器が特集されていました。「~新潟・長野で知る、見る、感じる~ 感性に響く! 縄文の旅」というテーマですが、何ページにも
わたりカラーで掲載されている縄文式土器は圧巻です。「ご自由にお持ち帰りください」と表紙にありましたので、ありがたくいただきました。
 特集の冒頭には新潟県出土の有名な火焔土器が飾られており、その造形美に圧倒されます。次いで、長野県茅野市出土の大型土偶「縄文のビーナス」が載せら
れています。説明によるとこの土偶は「日本最古の国宝」とのことで、約5000年前に作られたそうです。茅野市の尖石縄文考古館に展示されており、わたし
も30年ほど昔に同館を訪問し、見た記憶があります。おなかにはへその緒が表現されており、縄文時代が女性中心の社会だったことが想像されます。
 長野県の八ヶ岳山麓に縄文文化が栄えた背景には、当地から出土する黒耀石が上げられますが、その国内有数の産地として有名な和田峠の近くにある星糞峠
(ほしくそとうげ)には縄文時代の黒耀石の鉱山跡があるそうです。この星糞(ほしくそ)とは当地の方言で、黒耀石のことだそうです。佐賀県吉野ヶ里遺跡に
も黒耀石の破片が散らばっていましたが、佐賀県では黒耀石のことを「からすんまくら」と呼ばれています。キラキラとひかる黒耀石を「星糞」と呼んだ信州の
人々の表現力に、縄文式土器の造形美に相通ずるものを感じました。
 もうすぐ福島駅に到着です。福島で仕事をした後は山形市に行きます。それではまた。


第556話 2013/05/08

6月16日(日)、会員総会・講演会を開催します

 来る6月16日(日)に古田史学の会・会員総会を開催します。会員の皆様のご参加をお願いします。当日、総会に先立って午後1時より記念講演会を開催します。こちらには一般の方もご参加できます。
 今回の記念講演会は竹村さんと正木さんに講演していただくことになりました。テーマは次の通りです。

            

○竹村順弘さん 古田武彦著作集で綴る史蹟百選・九州編
○正木 裕さん 周王朝から邪馬壱国、そして現代へ・・倭人伝の官職名と青銅器・・

            

 竹村さんからは、現在、古田史学の会で編集中の「古田武彦著作集で綴る史蹟百選・九州編」(仮称)の概要について報告されます。古田史学関連遺跡の紹介を読みながら、古田史学について学べるという、優れものです。同書はミネルヴァ書房から刊行されます。
 正木さんからは、倭人伝の官職名が中国周代の青銅器に由来するという驚きの新発見について報告されます。倭人伝研究の新段階ともいうべきテーマですのでご期待ください。
 会場は古田先生の著作が多数集蔵されている、大阪府立大学難波キャンパスI-siteナンバです。是非ご参加ください。


第555話 2013/05/05

筑後川の一線
 今日は特別な「子供の日」です。長嶋監督と松井選手の国民栄誉賞表彰式をテレビで見ています。わたしは巨人ファンではありませんが(西鉄時代からのライオンズファンです)、長嶋さんと松井さんの受賞を心よりお祝い申しあげたいと思います。
            

 九州王朝史研究において、その歴史を概観するうえで古田先生の重要な論文があります。「『筑後川の一線』を論ず」(『東
アジアの古代文化』61号、1989)です。古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文で
す。
             
 その要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれ
の時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の
勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
               この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」
いう仮説を提起しました。そして、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』
を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方
向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇し
くも、まさに相対応しているようである。」とされています。

            

 毎年、五月五日には拙宅の前を上御霊神社の子供御輿が通ります。少子化の時代、元気な子供たちのお祭りを見ると、心が和みます。


第554話 2013/05/02

「五十戸」から「里」へ(3)

 『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたの が、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。 この問題に関連した論稿が阿部周一さん(古田史学の会々員・札幌市)より発表されています。 『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』113号。2012年12月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前 に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』国伝の 次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。

「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」

 おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を 表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸(さと)」が683年頃に「里(さと)」へと表記が変更された ことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡 などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。


第553話 2013/05/01

「五十戸」から「里」へ(2)

 「評」の下部単位である「さと」が五十戸毎に編成され、その漢字表記が「五十戸」とされたのがいつ頃かは、木簡からは残念ながら判明していません。「五十戸」から「里」表記に変更されたのが683年頃であるのは、次の干支木簡から推測されています。

 「辛巳年鴨評加毛五十戸」(飛鳥石神遺跡出土)
               「癸未年十一月 三野大野評阿漏里」(藤原宮下層運河出土)

 辛巳年は681年で、癸未年は683年です。「三野大野評」とあるのは「三野国大野評」のことで、「国」が省略された様式とされています。木簡の「五十戸」表記は683年以降も続いていますが、「里」表記木簡は今のところこの癸未年(683)が最も早く、おおよそこの頃か ら「里」表記が始まったと見てもよいようです。この「五十戸」から「里」への変更命令や変更記事は、九州王朝の行政単位の「評」と同様に『日本書紀』には 記されていません。
 今のところ「五十戸」表記の始まりを推定できるような木簡は出土していませんが、一元史観の学界内では、評制の成立時期と同じ頃ではないかとする説もあるようです。この説の論文を未見ですので、引き続き調査検討したいと思いますが、わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目して います。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないよ うですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652 年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(つづく)


第552話 2013/04/28

「五十戸」から「里」へ

 今日は全聾の作曲家、佐村河内守(さむらこうち・まもる)作曲の交響曲第1番(HIROSHIMA)を聴きながら洛中洛外日記を書いています。重苦しい旋律とその先に見える「希望」が表現された名曲で、最近ではテレビでも取り上げられ有名になりました。

 さて、郡評論争に決着をつけたのが藤原宮跡から出土した干支木簡でしたが、同様に「評」の下部単位である「さと」表記についても出土木簡により、その変遷が明らかになりつつあります。
 古代地名の表記方法は時代とともに変化していますが、七世紀後半は「○○国△△評××五十戸」と表記されることが木簡により判明しています。その後、 683年頃から「○○国△△評××里」への変更が見られることから、「五十戸」は「里」に相当し、「さと」と訓まれていたことがわかります。
 『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「五十戸を里とす」とありますから、「里」の成立はそれまでの自然発生的な集落(『日本書紀』では「村」 「邑」の表記例が見えます)を、国家により「五十戸」単位に編成されたことによります。五十戸単位で徴兵などの役務を決めたのでしょうが、恐らくそれは戸 籍の作成と平行して行われたのではないでしょうか。その「さと」が当初は「五十戸」と漢字表記されていたことが、木簡により明らかになっているのです。
 このように『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「里」の表記が見えますが、出土木簡からは683年頃に「里」が現れ、それまでは「五十戸」表記で すから、この大化二年改新詔はやはり九州年号の大化二年(696)に出されたものが50年ずらして盗用されたものと推察されます。それではこの行政単位名 「五十戸」の成立と、さらには「里」へと変更したのは九州王朝でしょうか。そしてそれはいつ頃のことでしょうか。(つづく)


第551話 2013/04/25

難波朝廷の「立礼」

 洛中洛外日記「白雉改元の宮殿」の連載では、九州王朝の副都前期難波宮での「賀正礼」が、701年以後の大和朝廷に取り入れられたことを述べました。このように近畿天皇家は難波での九州王朝の諸制度を参考にしたと考えられるのですが、その痕跡が『日本書紀』天武11年九月条にも残されていました。

「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」

 天武天皇の詔勅として、従来の「跪礼・匍匐礼」に代えて「難波朝廷」の「立礼」の採用を命じた記事です。倭国・九州王朝 が難波に副都を建設したおかげで、近畿天皇家は九州王朝の宮廷儀礼を間近に観ることができたのです。このことを示すかのように、孝徳紀白雉元年条 (650)には次のような記事が見えます。

「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。」

 このように孝徳は「賀正礼を受ける」のではなく、「賀正礼を観る」と記されています。近畿天皇家にとって、九州王朝は良きお手本たったのです。おそらくは近畿天皇家の初めての律令である「大宝律令」も「九州王朝律令」をお手本として制定された条文が少なくないのではないでしょうか。こうした視点からも、「律令」研究は九州王朝史復元研究にとって重要なテーマといえます。


第550話 2013/04/21

天王寺にあった「聖徳太子」の往復書簡

 昨日の関西例会は大阪西区民センターで行いました。会場予約抽選の競争倍率が年々高くなり、会場予約担当者のご苦労がしのばれます。

 4月例会の発表テーマは次の通りでした。中でも岡下さんの発表は、「聖徳太子」実は「カミトウの利(利歌彌多弗利)」と善光寺如来の往復書簡が法隆寺ではなく天王寺(四天王寺)に保存されていたというもので、「利」は難波の地で没したのではないかという大変興味深いものでした。

 よくよく考えてみれば、法隆寺は火災で全焼しており、和銅年間頃に再建(移築)されるまで、この往復書簡は別の寺院などにあったと考えざるを得ないのですが、それが天王寺だったというのは、なるほどと思いました。岡下さんには会報への投稿を要請しました。

 

〔4月度関西例会の内容〕
1). 山田宗睦仮説(日本書紀の仁徳~武烈紀は全文作為)の検証:仁徳~安康紀編(八尾市・服部静尚)
2). 「消息往来」の伝承(その2)(京都市・岡下秀男)
3). 史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)
4). 難波朝廷の賀正礼と立礼(京都市・古賀達也)
5). 天皇家と「師木津日子」の系譜(高松市・西村秀己)
6). 「I-siteなんば」に収蔵された古田先生の著作(概要・2013年4月現在)(川西市・正木裕)
7). 博多湾岸「邪馬壱国」と怡土平野なる「奴国」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況「研究自伝」執筆中・古田先生テレビ出演・会務報告・大和田始『風土記解体』を読む・「乙巳の変」の中臣鎌足は藤原不比等(水野説)・その他


第549話 2013/04/11

白雉改元の宮殿(9)             

 『養老律令』の「儀制令」には「賀正礼」について次のような条文があります。
 「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率いて、庁に向かいて朝拝せよ。訖(おわ)りなば長官は賀を受けよ。」
 都から遠く離れた国司たちに、元日は都の大極殿(庁)に向かって拝礼し、その後に部下からの「賀」を受けよ、という規定です。おそらくは九州王朝律令も同様の規定があったと想像できますが、この規定を孝徳や天武に当てはめると、九州王朝の副都前期難波宮のご近所(難波長柄豊碕宮)に住んでいた孝徳は、元日に前期難波宮で行われる「賀正礼」に出席していたでしょうから、『日本書紀』孝徳紀には元日の「賀正礼」記事が記されることとなります。
 たとえば、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
 ここでは「賀正礼を受ける」のではなく、味経宮に行き「賀正礼を観る」とあります。すなわち、味経宮(前期難波宮か)で孝徳は「賀正礼」を受ける立場ではなく、「賀正礼」に参加して、それを「観る」立場だったのです。孝徳紀のこの記事は、孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していたのです。 ちなみに孝徳紀の他の「賀正礼」記事も、「賀正礼を受ける」という表現はなく、「賀正す」というような、何かよくわからない表現です。これも、「賀正礼を受ける」のは九州王朝の天子だったからにほかなりません。
 天武紀になると、前期難波宮から離れた飛鳥に天武らは住んでおり、九州王朝の宮殿(前期難波宮または太宰府)での天子への「賀正礼」は欠席し、飛鳥から 九州王朝の宮殿に向かって拝礼していたことでしょう。そして、天武紀では「賀正礼」は翌二日の行事となる例が多くなっていることから、元日は九州王朝の都へ向かって拝礼し、翌日の二日に自らの部下からの「賀正礼」を受けていたと推察されます。おそらくは九州王朝律令にそのような規定があったのではないでしょうか。
 そして、701年以降の『続日本紀』の時代になって、文字通り誰はばかることなく元日に「賀正礼」を受ける身分(列島内ナンバーワン)になったのです。
 以上、「白雉改元の宮殿」の考察と「賀正礼」の史料批判により、七世紀末王朝交代期の復元が少しですができたように思われるのです。(完)

2014.2.23 「職員令」は「儀制令」の間違いでした。訂正済み