第548話 2013/04/07

『古田史学会報』115号の紹介

 『古田史学会報』115号が発行されました。今回も好論満載です。古田先生からも中嶋嶺雄さんのご逝去にあたり、追悼文をいただはました。
 西村さんからは「隼人」は北部九州の勢力であったとする新説が発表されました。今後の「隼人」研究における基本論文の一つとなるでしょう。正木さんから は大宰府観世音寺の「碾磑」が観世音寺建立時にベンガラの湿式粉砕に用いられたとする研究を詳述されました。わたしは七世紀の須恵器編年に関する知見から、前期難波宮天武期造営説が成立し得ないことを報告しました。札幌市の阿部周一さんも快調に論稿を発表されています。掲載稿は次の通りです。

〔『古田史学会報』115号の内容〕
○追悼 中嶋嶺雄君に捧ぐ  古田武彦
○隼人原郷  高松市 西村秀己
○七世紀の須恵器編年 -前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁-  京都市 古賀達也
○観世音寺の「碾磑」について 川西市 正木裕
○『三角縁神獣鏡辞典』  京都市 岡下英男
○「元興寺」と「法隆寺」(1)「維摩経疏」残巻と「元興寺」の関係  札幌市 阿部周一
○割付担当の穴埋めヨタ話? 「自天祖降跡以逮」とは  高松市 西村秀己
○2013年度 会費納入のお願い
○会報原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記


第547話 2013/04/03

新益京(あらましのみやこ)の意味

 今朝は名古屋市に来ています。名古屋駅前の桜通りを歩いたのですが、「桜通り」の名称ほどには桜の木は多くありません。それでも交差点の角々にある満開の桜は、おりからの強風で花びらを散らし、文字通りの桜吹雪の状態です。
 今日の午前中は名古屋で、午後からは三重県四日市市で、夜は愛知県一宮市で仕事です。世間ではアベノミクスとやらで気分だけは「好景気」のようですが、 物価上昇が先行し、国民所得は二~三年後にしか上がらないでしょうから、その間、シュリンクした国内マーケットは厳しさを増すようにも思われます。          

 さて、藤原京と呼ばれている大和朝廷の都ですが、『日本書紀』持統紀には「新益京(あらましのみやこ)」と記されており、「藤原京」という名称はありません。他方、宮殿は「藤原宮」と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡や土器が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年・六八二)」「癸未年(天武十二・六八三)」「甲申年(天武十三年・六八四)」から、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。この藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたこと から、藤原京造営時にはここ(大宮土壇)に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的出土事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデア(思いつき)に至りました。この「思いつき」を「仮説」とするためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする「思いつき」が正しければ、「藤原京」のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる「新益京」とした理由もわかりそうです。それは、長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、 その拡張された新たな全京域を意味する「新益京(あらましのみやこ)」という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、「藤原京」がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。ただし、このアイデアは先の「思いつき」を前提とした「思いつき」ですので、これから慎重に調査検討していきたいと思います。


第546話 2013/03/31

藤原宮へドライブ
       
       
         
            

 昨日は飛鳥までドライブしました。午前中は万葉文化館を見学し、館内の食堂で昼食をとりました。その後、橿原考古学研究
所附属博物館に行き、長谷田土壇の発掘調査報告書の有無について問い合わせましたが、あいにく学芸員の方が不在でしたので、後日連絡していただくことにな
りました。
               そのとき、長谷田土壇がある醍醐集落から礎石が発見されていることを教えていただきました。礎石は道路沿いの小川の淵に露出しており、見ることができるとのことなので、早速醍醐集落に向かいました。
             
 醍醐集落は藤原宮跡の北側にあり、その内裏部分に位置する醍醐池は桜の名所で、花見客で賑わっていました。醍醐池の北側にある醍醐集落まで行き、小川沿
いの礎石を見つけることができました。コンクリートの護岸壁に埋め込まれた状態の大きな礎石二つが露出していました。そこにあった説明板によると、この礎
石は藤原宮を囲む大垣の十二門の内の北西に位置する「海犬養門」の礎石とのことでした。したがって、位置的にも長谷田土壇とは異なっていました。藤原宮の
礎石は全て平城宮造営のために移動転用されたと思っていたのですが、大垣の門の礎石が残っていたことに驚きました。
             
 こうして今回のドライブでは長谷田土壇を見つけることはできませんでしたが、周囲の土地勘が少しはできて有意義でした。ただ、昨日は黄砂の飛散が多く
て、車に黄砂がびっしりと付着するほどでした。また同地を調査旅行したいと思います。それにしても、こんな狭隘な地域の王者が日本列島の代表者(大和朝
廷)となったことが何とも不思議です。古代において、それを可能とした何が起きたのでしょうか。


第545話 2013/03/29

藤原宮「長谷田土壇」説
       
       
         
            

 今日は八重洲のブリヂストン美術館内のお店で昼食をとっています。フラスコ画が展示してあり、おちついた雰囲気のお店なのでとても気に入っています。午後、もう一仕事してから京都に帰ります。

            

 藤原宮跡が発掘された大宮土壇ですが、古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。真淵のこの説は弟子の本居宣長や孫弟子の上田秋成に受け継がれ、明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。
             
 こうした流れの中にあって、大正時代に入ると喜田貞吉による、藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。喜田貞吉は、法隆寺再建・非再建論争で著名な学者で
すが、『日本書紀』の記述(法隆寺全焼)を根拠に再建説を主張し、後に若草伽藍の発掘により、その正しさが証明されたことは研究史上有名です。
             
 藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかる
という点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いび
つな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれい
な長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
            
 こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられ
た大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では
条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。(つづく)


第544話 2013/03/28

二つの藤原宮
       
       
         
            

 昨晩から東京に来ています。京都御所の桜はようやく開花し始めましたが、東京の桜はもう散り始めており、日本列島内の花
模様の違いを楽しんでいます。今、赤坂のカフェで昼食を兼ねた遅い朝食をとりながら、洛中洛外日記を執筆中ですが、このところ前期難波宮や賀正礼について
の連載が続いていますので、今回は前期難波宮からちょっと離れて、藤原宮と藤原京について書くことにします。
             
 三月の関西例会でも発表したのですが、藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層か
ら、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造
られているのです。
             
 この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を
決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮は
そうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建さ
れていたのではないかという可能性です。
               実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。(つづく)

            

 さて、次の仕事(化成品工業協会の会合)までちょっと時間がありますので、これから赤坂サカスと日枝神社でプチ花見をしてきます。


第543話 2013/03/26

白雉改元の宮殿(8)

 『日本書紀』に記された「賀正礼」記事に九州王朝の「賀正礼」の痕跡が残されていたのですが、『続日本紀』になるとその様相は一変します。
 たとえば『続日本紀』でも、年によって「賀正礼」記事が記されていたり無かったりはするのですが、基本的に「賀正礼」記事は正月朔(一日)に現れます。 もちろん、持統天皇崩御により取りやめられたり、雨天などにより順延(二日や三日に開催)されるケースなども散見されますが、その場合でも「元日」に行わ なかったことが記され、次いで二日や三日に執り行った記事が記されるのです。この点、唐突に二日に行った記事が出現する『日本書紀』のありようとは異なっ ています。
 更に『日本書紀』孝徳紀と異なる点として、「賀正礼」が行われる場所が「大極殿」「大安殿」などと明記され、その日の内に天皇が「別の宮殿に帰る」などという記事はありません。
 このように、『日本書紀』と『続日本紀』に見える「賀正礼」には明らかな違いがあるのです。これもONライン(701)を境とした、九州王朝から大和朝廷への王朝交代の痕跡と考えざるを得ません。(つづく) 


第542話 2013/03/24

白雉改元の宮殿(7)

 『日本書紀』孝徳紀に初めて現れ頻出する「賀正礼」ですが、その舞台が九州王朝の副都前期難波宮であり、同じ難波に邸宅 (難波長柄豊碕宮)を持つ孝徳は正月朔(ついたち)の「賀正礼」に参列し、その日の内に自らの邸宅に帰還していたことを第541話で指摘しました。この 「賀正礼」ですが、孝徳紀の次の斉明紀になると記載がありません。次いで、天智紀・天武紀・持統紀に次の「賀正礼」記事が見えます。

  ○天智十年(671)「十年の春正月の己亥の朔庚子(二日)に、大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣と、殿の前に進みて、賀正事奏(もう)す。」
  ○天武四年(675)「(正月)丁未(二日)に、皇子より以下、百寮の諸人、拝朝す。」
  ○天武五年(676)「五年の春正月の庚子の朔に、群臣百寮拝朝す。」
  ○天武十年(681)「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」
  ○天武十二年(683)「十二年の春正月の己丑の朔庚寅(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
   ○天武十四年(685)「十四年の春正月の丁未の朔戊申(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
  ○天武朱鳥元年(686)「朱鳥元年の春正月の壬寅の朔癸卯に、大極殿に御して、宴(とよあかり)を諸王卿に賜う。」
  ○持統三年(689)「三年の春正月の甲寅の朔に、天皇、万国を前殿に朝(まうこ)しむ。」
  ○持統四年(690)「四年の春正月の戊寅の朔に、(略)皇后、即天皇位す。(略)己卯(二日)に、公卿百寮、拝朝すること、元会儀の如し。

 以上のような「賀正礼」記事が見えるのですが、孝徳紀のように元日に行われた「賀正礼」は天武五年、朱鳥元年、持統三年 だけで、他は正月の二日か三日に行われています。しかも、朱鳥元年は「拝朝」「拝朝廷」という表記がなく、本当に「賀正礼」記事としてよいのか疑義も残り ます。それでは二日や三日に「賀正礼」を行った年の元日は何をしていたのでしょうか。
 この疑問を推測する上で参考になるのが、天武十年(681)の記事で、「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸 酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」とあるように、三日の「賀正礼」の前日、二日に神祇に幣帛を奉納していることです。すなわち、より権威が大きいも のに対しての「礼」を自らへの「賀正礼」よりも優先させているのです。
 それでは近畿天皇家が自らへの「賀正礼」よりも優先すべき行事とは何でしょうか。九州王朝説に立てば、当然のこととして九州王朝への「賀正礼」しかあり ません。孝徳が九州王朝の副都前期難波宮へ「賀正礼」に赴いたように、その後の近畿天皇家も九州王朝への「賀正礼」を元日に行ったと考えられるのです。で すから、『日本書紀』では元日に行われていた九州王朝への「賀正礼」記事をカット、あるいは、自らへの「賀正礼」であるかのような編集を行ったのです。そ してその痕跡が正月二日や三日の「賀正礼」記事だったのです。(つづく)


第541話 2013/03/21

白雉改元の宮殿(6)

 「白雉改元の宮殿」の執筆を続けるにあたり、『日本書紀』孝徳紀などを繰り返し読んでいますが、次々と発見が続いています。その一つに「賀正礼」があります。『日本書紀』における「賀正礼」の初出は孝徳紀大化二年条(646)で、その様子が次のように記されています。

  「二年の春正月の甲子の朔(ついたち)に、賀正礼おわりて、即ち改新之詔を宣ひて曰く、~」

 この後に著名な改新詔が続くのですが、わたしの研究ではこの「大化二年改新詔」は九州年号の大化二年(696)年のことですから、ここでの「賀正礼」は『日本書紀』では「初出」ですが、実際の「初出」とは言い難いと思われます。
 その次に見える「賀正礼」記事は同じく孝徳紀大化四年(648)です。

  「四年の春正月の壬午の朔に、賀正す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸す。」

 「賀正礼」を行った宮殿は不明ですが、その終了後に孝徳は難波碕宮に行ったとありますから、この「賀正礼」は孝徳の宮殿以外の場所で行ったことがうかがえます。
 同じく孝徳紀大化五年(649)には、

  「五年の春正月の丙午の朔に、賀正す。」

とだけあり、場所は不明です。

 次いで、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。

  「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」

 恐らくは九州年号の白雉元年(652)に味経宮で行われた賀正礼に孝徳は参加し、その日の内に宮に還ったとありますから、ここでも「賀正礼」は孝徳の宮殿とは別の味経宮で行われたことになります。
 その次の「賀正礼」は孝徳紀白雉三年(652)に見える次の記事です。

「三年の春正月の己未の朔に、元日礼おわりて、車駕、大郡宮に幸す。」

ここでも孝徳は「賀正礼」が終わって大郡宮へ行ったとあります。

 このように、『日本書紀』は孝徳紀になって突然に「賀正礼」記事が出現し、孝徳紀に頻出します。そして、その後の斉明紀には「賀正礼」記事がまた見えな くなるのです。これは不思議な現象ですが、さらに問題なのが「賀正礼」終了後に、その日の内に孝徳は別の宮殿に帰るという行動です。普通、正月の挨拶は臣下が主人の宮殿に参上し、その「賀正礼」を主人が受けるというものでしょう。そして終了後に還るのは臣下の方ではないでしょうか。ところが、孝徳紀に見える「賀正礼」はそうではないケースが普通なのです。
 この不思議な現象を合理的に説明できる仮説があります。孝徳は九州王朝の天子の宮殿に参上し、「賀正礼」に参列した後、その日の内に帰れるほど近くに自らの邸宅を有していた。この仮説です。 これこそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と整合する仮説であり、傍証ともなる『日本書紀』の史料事実なのです。
 したがって、孝徳が「賀正礼」に参上した宮殿は、難波宮あるいは味経宮と呼ばれていた前期難波宮(上町台地法円坂)であり、その日の内に帰宅できた孝徳の邸宅は難波長柄豊碕宮(北区豊崎)等と思われます。(つづく)


第540話 2013/03/16

讃岐地方に濃密分布する「地神」神社

 本日の関西例会では、高松市に転居された西村さんから早速現地の神社の調査報告がなされました。讃岐地方に濃密分布する 「地神」という珍しい神様についてで、祭神は天照大神や埴安姫、倉稲魂が多いとのこと。逆に讃岐には稲荷神社がほとんど無いそうです。神社の分布にも地方 差があり面白い報告でした。
 竹村さんからは前回に引き続き、東テイ国をテーマとした仮説(東テイ人=縄文人)が発表されました。
 服部さんからも前回に引き続いて古代尺についての研究が報告され、太宰府・前期難波宮・藤原京の条坊が北朝の大尺(29.6cm)に基づくことが示されました。九州王朝と中国北朝との関係について示唆的な研究でした。
 わたしは藤原宮が二つあった可能性について報告しました(大宮土壇と長谷田土壇)。喜田貞吉さんの説を考古学的に発展させた作業仮説ですが、その当否を確かめるためにも現地調査(長谷田土壇)を行う予定です。
 正木さんからは倭人伝に記された「戸数」「家数」と人口との関連についての新説(戸=人口)を発表されました。
 3月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕

1). 讃岐の地神(高松市・西村秀己)
2). 東テイ(魚是)人と弥生人の音韻(木津川市・竹村順弘)
3). 東テイ(魚是)人と串間の玉璧(木津川市・竹村順弘)
4). 古代基準尺についての考察(八尾市・服部静尚)
5). 二つの藤原宮(京都市・古賀達也)
6). 宇佐の神託(高松市・西村秀己)
7). 「碾磑」補足説明(川西市・正木裕)
8). 大阪府立大学なんばキャンパス「I-siteなんば」古田史学コーナーについて(川西市・正木裕)
9). 『魏志倭人伝』邪馬壱国等の人口についての問題提起(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・「乙巳の変」は九州年号大化元年(695)・倭人伝の訓みの疑問・その他


第539話 2013/03/15

白雉改元の宮殿(5)

 九州王朝の副都前期難波宮が、当時なんと呼ばれていたのかという研究テーマがありますが、わたしは第163話で「難波宮」と呼ばれていたとする仮説を発表しました。その根拠は、『続日本紀』では同じ場所に造営された聖武天皇の後期難波宮のことを一貫して「難波宮」と記していることでした。
 通説では前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とされています。前期難波宮は上町台地上の法円坂にあり、「難波」ではありますが、「長柄」や「豊碕」は もっと北方の淀川沿い(大阪市北区豊崎)に位置しており、前期難波宮を「長柄豊碕」と呼ぶには相当無理があるのです。従って、孝徳の難波長柄豊碕宮と九州 王朝の前期難波宮は別物であり、前期難波宮は『続日本紀』にあるとおり「難波宮」と呼ぶべきなのです。
 他方、正木裕さんからは前期難波宮は「味経宮(あじふのみや)」と呼ばれていたのではないかとする説が発表されています。その根拠は『日本書紀』孝徳紀白雉二年(651)十二月条の次の記事です。

  「味経宮に二千百余の僧尼を請(ま)せて、一切経を読ましむ。是の夕に、二千七百余の燈を朝庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の経を読ましむ。」

 二千七百余人の僧尼が一堂に集まって読経できるような遺構やスペースは上町台地には前期難波宮しかないというのが、正木さんの主張です。説得力のあるご指摘なので、わたしも前期難波宮「味経宮」説に一定の賛意を持っています。わたしは「味経宮」説の証拠の一つとして、孝徳期白雉元年(650)正月条に見える次の記事にも注目しています。

  「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸(いでま)して、賀正礼を観(みそなは)す。」

 孝徳期白雉元年は650年なので、まだ前期難波宮は完成していません。ところがその直後の二月条の白雉改元記事が九州年号の白雉元年(652)二月条か らの「切り貼り」であったことが判明していますので、この白雉元年正月条も九州年号の白雉元年(652)正月条からの「切り貼り」の疑いがあるのです。
もしそうであれば、賀正礼を行うような宮殿ですから、この味経宮は前期難波宮のことと考えられるのです。ちなみに、二月条の白雉改元の儀式記事にも「元会の儀の如し」と記されていますから、賀正礼も改元儀式も同じ宮殿で行ったと思われ、賀正礼は味経宮で行ったと記されていますから、改元儀式も味経宮で行われたという理屈が成り立つのです。有力仮説として、引き続き検討したいと思います。(つづく)


第538話 2013/03/14

白雉改元の宮殿(4)

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、ことあるたびに寄せられているご批判があります。「前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都だ」というご批判です。
 天子がいて、白雉改元の儀式を行っているのだから、そこは副都ではなく首都とみなすべき、というのがその主な理由です。正木裕さんも別の理由から首都説に近い立場(ある期間の難波遷都説)をとっておられます。これらのご批判に対して、そうかもしれないが『旧唐書』など中国史書に倭国が遷都したという記事や痕跡が無いので、首都と断定するには躊躇を覚えるとわたしは反論してきたのですが、首都説も有力な仮説であると考えています。
 第536話などで紹介しましたように、白雉改元の儀式に左右の大臣や百官か参加しているのですから、九州王朝倭国の首都機能や行政組織が一同に会してい るとも見なせます。もしそうであれば、白雉改元の儀式のためだけではなく、首都機能そのものが太宰府から移動してきたこととなり、これを遷都と呼んでも間違いではないようにも思います。そして、難波宮・難波京に天子や百官がその後も常駐したのであれば、そこは文字通り首都になるわけです。もちろん、『日本書紀』の記述内容がどの程度信用できるかは記事ごとの個別の検証が必要ですので、これからも慎重に検討を続けたいと思います。(つづく)


第537話 2013/03/13

白雉改元の宮殿(3)

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年二月条(650)に見える白雉改元の儀式には奇妙な点があることが、かなり以前から古田学派内で指摘されてきました。わたしの記憶では中村幸雄さん(故人)が20年以上前に口頭発表されていたように思います。それは白雉を乗せた輿をとる人の数が変化することです。
   孝徳紀によれば、輿をとる人々が合計3グループあり、最初の2回は四名(前二人、後ろ二人)ですが、天皇の前まで運ぶ時は五名に増えています。しかも、 前が二人(左右の大臣)で後ろが三人(伊勢王ほか)です。普通、輿の棒は前後に二本ずつ出ており、四名でちょうどぴったりの人数になるのですが、最後だけは輿の後ろに三名がいるのです。その三名のうちの一人、伊勢王ですが、「王」の称号を持ちながら出自が不明な謎の人物です。そこで、この伊勢王こそ白雉を献上された主人公で九州王朝の天子ではなかったかという指摘がなされてきたのでした。近年では正木裕さんがこの立場をとっておられます。わたしも魅力的で 有力な仮説だと思っています。
 この仮説が正しければ、近畿天皇家は『日本書紀』編纂にあたり、九州王朝と近畿天皇家の大義名分(主人公)を逆転(取り替えて)させて、白雉改元の儀式を盗用したと考えられるのです。(つづく)