第526話 2013/02/13

大宰府政庁出土の須恵器杯B

 小森俊寛さんが前期難波宮を天武期の造営とされた考古学的理由は、その整地層からわずかに出土した須恵器杯Bの存在でした。小森さんは須恵器杯Bの存続期間(寿命)を20~30年とされ、藤原宮(700年頃)から多数出土する須恵器杯Bの発生時期を引き算で 670~680年とされ、したがって須恵器杯Bを含む前期難波宮整地層は660年より古くはならないと主張されたのです。
   この一見もっともなように見える小森さんの主張ですが、わたしには全く理解不能な「方法」でした。そもそも須恵器杯Bの継続期間(寿命)が20~30年 とする根拠が小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には明示されていませんし、証明もありません。あるいは、前期難波宮が天武期造営であるこ とを指し示すクロスチェックを経た考古学的史料も示されていません。更に、前期難波宮造営を7世紀中頃と決定づけた水利施設出土木枠の年輪年代測定にも全 く触れられていません。自説に不利な考古学的事実を無視されたのでしょうか。こうした点からも、わたしには小森説が仮説として成立しているとは全く見えな いのです。
   しかし、わたしはこの須恵器杯Bを別の視点から注目しています。それは大宰府政庁1期と2期の遺構から須恵器杯Bと見られる土器が主流須恵器杯として出 土しているからです。もちろん、大宰府政庁調査報告書などを見ての判断であり、出土土器を実見したわけではありませんので、引き続き調査を行いますが、少なくとも報告書には須恵器杯Bと同様式と見られる須恵器が掲載されています。この事実は重大です。
    小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』は「京(みやこ)から出土する土器」とありますが、ここでいう「京(みやこ)」とは近畿天皇家の 「都」だけであり、近畿天皇家一元史観の限界ともいうべき著作なのです。ですから九州王朝の都、太宰府などの出土土器は比較考察の対象にさえなっていませ ん。したがって、古田学派・多元史観の研究者は、こうした一元史観論者の著作や仮説に「無批判に依拠」することは学問的に危険であること、言うまでもありません。
    須恵器杯Bが多数出土している大宰府政庁1期と2期遺構ですが、一元史観の通説でも1期の時期を天智の時代とされています。すなわち660年代としてい るのです。ところが小森説に従えば、この大宰府政庁1期も天武期以後となってしまいます。小森説では1個でも須恵器杯Bが出土したら、その遺構は680年 以後と見なされるのですから。古田学派の論者であれば、大宰府政庁1期を天武期以後とする人はいないでしょう。すなわち、前期難波宮を天武期とする小森説の支持者は、須恵器杯Bの編年を巡って、これまでの古田史学の学問的成果と決定的に矛盾することになるのです。(つづく)


第525話 2013/02/12

前期難波宮と藤原宮の整地層須恵器

 前期難波宮造営を天武期とする説の史料根拠は『日本書紀』天武12年条 (683)に見える「副都詔」とよばれる記事です。都や宮殿は2~3ヶ所造れ、まずは難波に造れ、という詔勅記事なのですが、このとき既に難波には孝徳紀 に造営記事が見える前期難波宮がありますから、この副都詔は問題視され、前期難波宮の「改築」を命じた記事ではないかなどの「解釈」が試みられてきました。

 他方、小森俊寛さんらからは天武紀の副都詔の方が正しいとし、出土須恵器の独自編年を提起され、前期難波宮を天武期の造営とされたのです。こうして『日 本書紀』の二つの難波宮造営記事(天武紀の副都詔は「造営命令」記事)のどちらが史実であるかの論争が文献史学と考古学の両分野の研究者により永く続けら れてきました。

  この論争に「決着」をつけたのが、前期難波宮遺構から出土した「戊申年(648)木簡」と水利施設出土木枠の年輪年代測定値(634)でした。須恵器の 相対編年をどれだけ精密に行っても絶対年代(暦年)を確定できないことは自明の理ですが、暦年とリンクできる干支木簡と伐採年年輪年代測定値により、前期 難波宮整地層出土土器をクロスチェックするという学問的手続きを経て、前期難波宮とされる『日本書紀』孝徳紀の造営記事の確かさが検証され、現在の定説と なったのです。

 したがって、この定説よりも小森説が正しいとしたい場合は、そう主張する側に干支木簡や年輪年代測定値以上の具体的な科学的根拠を提示する学問的義務があるのですが、わたしの見るところ、この提示ができた論者は一人もいません。

 さて、問題点をより明確にするために、もし天武紀の副都詔(前期難波宮天武期造営説)が仮に正しかったとしましょう。その場合、次の考古学的現象が見られるはずです。すなわち、前期難波宮造営は683年以降となり、その整地層からは680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。同様に680年代頃か ら造営されたことが出土干支木簡から判明している藤原宮整地層からも680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。すなわち、両宮殿は同時期に造営開始されたこととなるのですから、その整地層出土土器様式は似たような「様相」を見せるはずです。ところが、実際の出土須恵器を報告書などから見てみます と、前期難波宮整地層の主要須恵器は須恵器杯HとGで、藤原宮整地層出土須恵器はより新しい須恵器杯Bで、両者の出土土器様相は明らかに異なるのです。

    藤原宮造営は出土干支木簡から680年代には開始されており、須恵器編年と矛盾せず、干支木簡によるクロスチェックも経ており、これを疑えません。した がって、藤原宮整地層と出土土器様式や様相が異なっている前期難波宮整地層は「時期が異なる」と見なさざるを得ないのです。ですから、既に繰り返し指摘し ましたように、その土器様式編年と共に「戊申年木簡」や年輪年代測定値により、7世紀中頃とクロスチェックを経ている前期難波宮は藤原宮よりも「古い」と いうことは明白なのです。

   この前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式・様相の不一致という考古学的事実は、前期難波宮天武期造営説を否定する決定的証拠の一つなのです。(つづく)


第524話 2013/02/10

七世紀の須恵器編年

 前期難波宮九州王朝副都説に対しての御批判があり、その根拠として提示されたのが前期難波宮の創建を天武期とする小森俊寛さんの説でした。小森さんの説の根幹は七世紀の須恵器の独自編年に基づくもので、前期難波宮整地層からわずかに出土する須恵器杯Bの土器編年を七世紀後半の天武期とされたことです。
 そこでわたしは七世紀の須恵器編年の勉強を続けてきたのですが、その結果やはり小森説は成立しないという結論に至りましたので、何回かに分けてそのことを説明したいと思います。
 七世紀の編年に用いられる代表的須恵器として、須恵器杯H、G、Bがあります。この中で最も古い須恵器杯Hは古墳時代から続く様式とされ、囲碁の碁石の 容器を平たくした形をしています。須恵器杯Gは須恵器杯Hの次に現れる様式で、須恵器杯Hの蓋に「つまみ」がついたものです。その次に現れる須恵器杯B は、須恵器杯Gの碗の底に「脚」がついた様式です。このようにH・G・Bと様式が発展するのですが、それらは遺跡から併存して出土するのが通常です。従っ て、どの様式が最も大量に出土するかで、遺跡の先後関係が判断されます。
 たとえば前期難波宮整地層ではHとGが主流で、若干のBが出土します。藤原宮整地層からは須恵器杯Bが主流ですから、前期難波宮整地層との比較では、1様式から2様式ほど前期難波宮が藤原宮よりも早いというふうに判定されるのです。
 この判定から、仮に小森説に従って須恵器1様式の継続期間を約25年と仮定した場合、前期難波宮創建は藤原宮創建よりも25~50年先行するということ になります。その結果、藤原宮の整地層年代を680年頃とすると、前期難波宮整地層は630~655年頃となり、ほぼ定説通りとなります。前期難波宮完成 は『日本書紀』によると652年ですから、土器編年と矛盾しないのです。
 更に整地層と同じ須恵器杯H・Gと併存して難波宮北西の水利施設から出土した木枠の伐採年が年輪年代測定で634年であることから、須恵器編年が年輪年 代測定によるクロスチェックにより、その編年の正しさが証明され、暦年との関係が証明された「定点」史料となっています。
 こうした須恵器様式編年と年輪年代のクロスチェックにより、前期難波宮造営は七世紀中頃とする説が有力根拠を持った定説となったのです。この点、小森説はクロスチェックを伴った「定点」史料を明示できないため、ほとんどの考古学者の支持を得られていません。もちろん学問は多数決ではありませんが、小森説はクロスチェックを経た「定点」史料を明示できていない未証明の作業仮説であり、有力な「定点」根拠を有する定説編年により否定されたと言わざるを得ない のです。(つづく)


第523話 2013/02/09

『古田史学会報』114号の紹介

 『古田史学会報』114号が発行されましたのでご紹介します。久しぶりに古田先生から原稿をいただきました。『続日本紀』宣命中の本居宣長による原文改訂を批判されたもので、新たな問題提起です。今後の展開が楽しみです。
 札幌市の阿部周一さんの論稿「吉野と曳之弩」では、吉野が『日本書紀』に「曳之弩」(えしの・えしぬ)とする表記があることに注目され、軍事拠点として
の「吉野」論を展開されました。亡くなったわたしの父も「斉明天皇陵」がある朝倉の「恵蘇(えそ)」を「よそ」と発音していたことを思い出しました。
「え」と「よ」の音韻変化の一例だったのかもしれません。
 掲載稿は次の通りで、いずれも読みごたえのある論文です。

〔『古田史学会報』114号の内容〕
○「高天原」の史料批判  古田武彦
○続・前期難波宮の学習  京都市 古賀達也
○吉野と曳之弩  札幌市 阿部周一
○『正法輪蔵』の中の九州年号  京都市 岡下英男
○碾磑と水碓 史料の取り扱いと方法論  豊中市 大下隆司
○会報原稿募集
○新年のご挨拶  代表 水野孝夫
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記


第522話 2013/02/08

『養老律令』の「隼人司」

 『養老律令』には「隼人司」という不思議な職掌が記されています。岩波の日本思想大系本の頭注では、次のように説明されています。

 「隼人:朝廷への服属が遅れて異種族視されていた南九州の住民。ここでは朝廷に勤務する隼人」

 すなわち、南九州の薩摩や大隅は、大和朝廷への服属が遅れたため、都に定住させた「隼人」を「隼人司」が監督したと説明
されているのです。一見もっともな説明に見えますが、実は大変矛盾した「理屈」です。というのも、『続日本紀』文武4年6月条によれば、薩摩地方の評督や
助督といった人物のことが記されており(衣評督衣君県、助督弖自美。衣評は鹿児島県揖宿郡頴娃町)、遅くとも7世紀末には薩摩地方は評制下に組み入れられ
ていたことは明らかなのです。従って、「朝廷への服属が遅れ」たというのは史料事実から見れば不正確な表現なのです。
 結論からいえば、九州王朝の評制に組み入れられていた薩摩・大隅地方の隼人が、701年の大和朝廷への権力交代時において、九州王朝の評督・助督の身分で大和朝廷の支配に抵抗したというのが歴史の真相です。
 ここまでは古田学派の方々にはご了解いただけることと思いますが、問題はこのあとです。『養老律令』の「隼人司」という職掌は大和朝廷になって初めて置かれたものなのか、九州王朝律令に既に存在していた職掌なのかという問題です。
 まだよくわかりませんが、何か特別な事情があって、九州王朝でも「隼人司」が置かれていたという可能性も検討する必要を感じています。南九州には、ある
時代において九州王朝倭国とは別の「国家」が存在していたのではないかというテーマにかかわる検討課題なのです。


第521話 2013/02/03

大宰府の「主神」

 『養老律令』には大宰府の官僚組織として、その冒頭に「主神」という職掌があり、「掌らむこと、諸の祭祀の事」と記されています。この「主神」という職掌は他の諸国には見られず、大宰府独特のものです。他方、大和朝廷には同様の職掌として「神祇官」が「職員令」の冒頭に記されています。
 こうした『養老律令』の史料事実から、九州王朝も大和朝廷も律令制組織の冒頭に神事や祭祀を司る職掌を位置づけていたことがわかります。もちろん、九州王朝の「主神」の制度を大和朝廷が模倣したと考えられるのですが、九州王朝を滅ぼした後も大宰府にこの「主神」制度を温存したことは興味深いことです。
 おそらく、九州王朝大宰府の権威が「主神」が祭る神々(天神か)に基づいていたことによるのではないでしょうか。大和朝廷も九州島9国を大宰府による間接統治する上で、「主神」の職掌が必要だったと考えられます。第二次世界大戦後の日本に、マッカーサーが天皇制を残したことと似ているかもしれません。
 同様に、大和朝廷も自らが祭祀する神々により、その権威が保証されていたのでしょう。こうした王朝の権威の縁源をそれぞれの「祖神」とするのは、古代世界ではある意味において当然のことと思われます。したがって、『養老律令』の大宰府に「主神」があることは、九州大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡ともいうべき史料事実なのです。
 大宰府の「主神」を司った人物や、祭った神々が明らかとなれば、九州王朝史研究も更に進展するでしょう。今後の大切な研究テーマです。


第520話 2013/02/02

「蔵司」「老司」「門司」

 第518話で、大宰府政庁の西側にある蔵司遺跡は九州王朝律令にあった職掌(役所)の「蔵司(くらのつかさ)」に縁源するのではないかと述べましたが、この他にも同類の地名が福岡県にはあります。観世音寺や大宰府政庁II期の創建瓦「老司式瓦」の窯跡が出土した「老司」(福岡市南区)と、「門司」(北九州市門司区)です。
 大和朝廷の『養老律令』には「蔵司」「関司」は見えますが、「老司」や「門司」といった職掌(役所)はありません。「門司」はその名称や場所から、関門海峡を管理する役所と思われますが、「老司」とは何のことか想像がつきません。「糧司」のことで、食料を管理する職掌ではないかとする説もあるようですが、その根拠や理由がわかりませんので、魅力的な仮説ですが今のところ当否を判断できません。
 「老司」が古代まで遡る地名かどうかは検証が必要ですが、他の地域にない地名ですので、やはり九州王朝との関係が高いように思われます。「門司」は古代木簡にも記載例(「豊前門司」など)があり、関門海峡を挟んで九州側にあることから、やはり九州王朝太宰府を基点とした役所と考えられます。これと同様の例が大分県の「佐賀関」です。九州と四国の間にある「関」地名ですが、ここも九州側にあることから、太宰府を基点として設けられた「関」と考えられます。
 九州の地名を九州王朝や九州王朝律令の視点から検討してみると、いろいろと面白いことが見えてきそうです。


第519話 2013/01/30

『養老律令』の中の大宰府

 大和朝廷は自らの最初の律令として「大宝律令」を公布しましたが、残念ながら現在は伝わっていません。その後『養老律令』を制定し、その内容から「大宝律令」の復元研究が試みられてきました。その『養老律令』の中には九州王朝の痕跡が残されているのですが、その最たるものは「大宰府」です。
 『養老律令』には中央官庁の組織とともに地方官組織についても規定されているのですが、九州の9国(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩)だけは大宰府を介して支配しており、他の諸国とは異なる扱いとなっています。すなわち、大和朝廷は九州王朝の旧直轄支配領域(九州島)だけは、九州 王朝の「中央組織」であった大宰府による間接支配を行ったのです。
 こうした九州島諸国の特異な支配形態こそ、九州王朝が存在した痕跡(証拠)であり、大和朝廷一元史観では説明困難な『養老律令』の史料事実なのです。なお、現存地名は「太宰府」ですが、『養老律令』などでは「大宰府」の字が使用されています。


第518話 2013/01/29

「律令」の中の九州王朝

 今年に入って、『養老律令』の研究を進めています。2月24日の東京講演(多元的古代研究会主催)での発表の準備も兼ねていますが、『養老律令』を精査することにより、九州王朝の痕跡を探し、九州王朝史復元が進められると考えたからです。
 701年に九州王朝に代わって列島の代表王朝となったばかりの大和朝廷の姿を研究することにより、その直前の7世紀の九州王朝の実体が見えてくると思う
のですが、その理由として大和朝廷は九州王朝の制度を利用し、王朝交代直後の諸制度は九州王朝の影響を色濃く受けていると考えられるからです。
 たとえば、701年以後の行政単位である「郡」の名称や規模が九州王朝の「評」とほぼ同じということや、『日本書紀』に九州王朝史書の盗用が行われてい
ることから、大和朝廷は九州王朝の「実績」「権威」を受け継ごうとしたことが判明しており、これらのことから大和朝廷は九州王朝に自らの姿を似せて体制作
りを試みたと考えられるのです。
 たとえば、『養老律令』には「蔵司(くらのつかさ)」という職掌(役所)がありますが、九州王朝の都である大宰府政庁の西側に「蔵司」という地名があり
大規模倉庫遺跡が出土していることから、「蔵司」という職掌はもともと九州王朝に存在していたと考えられ、九州王朝律令にも「蔵司」の項目があったと推定
されるのです。
 このように大和朝廷の「律令」を研究することにより、九州王朝の復元研究も可能となるのです。来る東京講演ではこうした視点から「王朝交代の古代史 –7世紀の九州王朝」について発表します。ご期待ください。


第517話 2013/01/21

「ガリ」地名の広がり

 先週、雪の中を北陸三県へ出張しました。そのおり偶然、石川県白山市に根上(ねあがり)という地名があることを知りました。この「ねあがり」という地名は吉野ヶ里などと同類の「ガリ」地名ではないかと感じました。
 弥生時代の環濠集落として有名な吉野ヶ里遺跡のように地名接尾語「ガリ」を持つ地名は佐賀平野に多くみられるのですが、筑後川を挟んで東側の筑後平野に
は、わたしの記憶では無かったように思います。このように「ガリ」地名は非常に偏った分布を示します。
 一方、大阪府と奈良県の境にある暗峠の「クラガリ」や、信州尖石遺跡の「トガリ」も同様に「ガリ」地名ではないかと推測しています。さらに東日本大震災
で被災した大曲(おおまがり)も「ガリ」地名のように思えます。もしかすると北海道の石狩平野のイシカリや山口県光市のヒカリもそうかもしれません。
 このように見てみると、「ガリ」地名は日本列島内の広範囲に分布している可能性があります。この「ガリ」の意味はよくわかりません。地名接尾語「が
(賀)」に「り(里)」がついたのかもしれませんが、今のところ不明とせざるを得ません。これら地名成立がいつの時代まで遡るのかも今後の課題です。どな
たか調査研究してみませんか。


第516話 2013/01/19

倭人伝の官名と青銅器

 本日の関西例会は新年最初にふさわしく、優れた研究発表が続きました。中でも正木さんの発表は驚きのあまり参加者が拍手を忘れるというほど優れたものでした。詳細は「古田史学会報」で発表予定ですが、倭人伝に記された伊都国や奴国の官職名が古代中国の祭祀に用いられた青銅器に由来するというものです。
 服部さんは初めての例会発表でしたが、これもまた優れたもので、「古田史学会報」への寄稿を要請しました。「法隆寺の物差しは中国南朝尺の材」とされた川端俊一郎説への批判ですが、わたしも疑問に感じていた点を鋭く指摘されました。
 竹村さんの発表は、日本列島や沖縄の縄文人と東てい(魚是)国との関係に言及したもので、今後の展開が期待されます。
 わたしからは、新潟県「城の山古墳」から出土した盤龍鏡は九州王朝からのものとする考察を発表し、大和朝廷一元史観による新聞発表を批判しました。また、七世紀の須恵器編年についての報告では、前期難波宮創建を天武朝とする小森俊寛説が成立しないことと、大宰府政庁の須恵器編年と近畿の須恵器編年との矛盾について論じました。
 1月例会の報告テーマは次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 「法隆寺の物差しは中国南朝尺の材」は成り立つか(八尾市・服部静尚)
2). てい(魚是)海(木津川市・竹村順弘)
3). アンチョビとキュウリエソ(木津川市・竹村順弘)
4). 古田武彦著作で綴る史蹟百選・九州篇その2(木津川市・竹村順弘)
5). 新潟県「城の山古墳」出土盤龍鏡の考察(京都市・古賀達也)
6). 7世紀の須恵器編年 — 小森俊寛説が成立しない理由(京都市・古賀達也)
7). 「魏志倭人伝」伊都国・奴国の官名 — 仁平さんとともに(川西市・正木裕)
8). 北河堀町所在遺跡発掘調査現地説明会資料の解説(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・賀詞交歓会の報告・中村通敏氏「大津透説批判CD」・谷川清隆氏「日本書紀成立に関する一試案」・その他


第515話 2013/01/18

新潟県「城の山古墳」出土の盤龍鏡

 先日、四国出張の際に高松市で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人・会報編集担当・会計担当)と夕食をご一緒しました。西村さんは古田先生のご近所(向日市)から高松市に転居されたので、同地でお会いすることとなりました。研究情報の交換や、「古田史学の会」の運営などについて意見交換を行い、楽しい一夕となりました。
 その翌朝、ホテルで読んだ読売新聞(2013/01/16)に「新潟の古墳に中国製銅鏡」という記事がありました。あいもかわらず大和朝廷一元史観により解説された内容で、「大和政権からもたらされた可能性が高い」とか「日本書紀の記述より300年も前に、大和政権の影響がこの地に及んでいた」などの記事が並んでいました。
 同紙によれば、胎内市の「城の山」古墳(四世紀前半)から昨年出土した銅鏡が、後漢(1世紀後半~2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られた中国製の盤龍鏡(直径約10cm)だったとのことです。この記事が正しければ、九州王朝説の立場から次のような推察が可能です。
 まず、この古墳の主は、魏晋朝と交流があり大量の中国鏡を授与された邪馬壱国・九州王朝の影響下にあったと考えられます。
 次に、この古墳の主(一族)は、後漢・魏晋代の鏡を九州王朝から下賜され(その時期は不明)、それを4世紀まで持ち続け、墓に埋納したのですから、少なくとも古墳時代には九州王朝を盟主として仰いでいたはずです。
 その4世紀前半という古墳の編年からすれば、関東よりも新潟の方がより早く九州王朝の影響下に入った可能性が考えられます。関東が九州王朝の支配下に入ったのは、常陸国風土記に見える「倭武天皇」伝承から判断して、5世紀頃と思われます。
 出土した銅鏡が、近畿を中心に分布する三角縁神獣鏡ではなく、盤龍鏡であることも留意すべき点でしょう。
 おおよそ以上のように新聞記事から推察しましたが、最終判断は実物や他の出土品等を見た上で行うべきこと、言うまでもありません。新聞紙面などで「大和朝廷の影響」というような記事があれば、「九州王朝の影響」と読み変えれば、より多元的古代の真実に近づけるのではないでしょうか。