第267話 2010/06/07

厳島神は「旅の神」

 『平家物語』(巻第二、善光寺炎上)に九州年号の金光が見えることを報告したことがありますが(「『平家物語』の九州年号」『古田史学会報』58号)、最近、『平家物語』の異本(長門本)に九州年号の端政があることを知りました。次のような件です。

  『平家物語』長門本(国書刊行会蔵本)
 平家物語巻第五 厳島次第事
 「(前略)厳島大明神と申は、旅の神にまします、仏法興行のあるじ慈悲第一の明神なり、婆竭羅龍王の娘八歳の童女には妹、神宮皇后にも妹、淀姫には姉な り、百王を守護し、密教を渡さん謀に皇城をちかくとおぼして、九州より寄給へり、その年記は推古天皇の御宇端政五年癸丑九月十三日、(後略)」

 端政五年(593)に厳島へ大明神が九州より来たという内容ですが、端政五年は九州王朝の天子、多利思北孤の時代です。多利思北孤が深く仏教に帰依した 天子であったことは『隋書』にも記されている通りで、「仏法興行のあるじ慈悲第一の明神」と呼ばれるに相応しい人物です。また、全国を66国に分国し、九 州島も9国に分国した天子であり、「全国統治・行脚の痕跡が九州年号などにより残されている可能性が濃厚」と第267話「東北の九州年号」で指摘した通 り、「旅の神」という表現もぴったりです。なお、厳島神社の祭神は宗形三女神とされているようですが、端政五年のことであれば、やはり多利思北孤と考える べきでしょう。
 『厳島縁起』や『伊豫三嶋縁起』、あるいは伊予国温湯碑にも記されているように、多利思北孤の瀬戸内巡幸については、「多利思北孤の瀬戸内巡幸ーー『豫章記』の史料批判」(『古田史学会報』32号)でも既に述べてきました。そして多利思北孤の瀬戸内巡幸の最終目的地は「難波天王寺」ではないかと想像していますが、今後の楽しみな研究テーマです。


第266話 2010/06/06

東北の九州年号

 このところ東北出張が続き、新潟・福島・山形に足を運びました。中でも、山形市で見た冠雪した月山の美しい姿は印象的でした。月山は湯殿山・羽黒山ととも
に出羽三山と称されていますが、この地域は羽黒山修験道の聖地でもあります。わたしも以前から注目していたのですが、修験道関係史料には九州年号が少なか
らず見られ、修験道と九州王朝との関係が気にかかっていました。
 羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子)が開基したと伝わっていますが、同じく福島県信夫山の羽黒神社は「崇峻天皇三年端政」と九州年号の端政が縁起に
記されていることが報告されています(「九州年号目録」『市民の古代』11集所収、新泉社刊)。このように羽黒修験道と九州年号・九州王朝の関係がうかが
われるのですが、これら東北地方の九州年号史料は東北と九州王朝の関係という視点からの検討が必要と思われます。
 特に端政年間(589〜593)は多利思北孤の時代であり、日本を66国に分国し、また九州島を9国に分国して文字通り「九州」とした時代でもあります
から、多利思北孤による全国統治・行脚の痕跡が九州年号などにより残されている可能性が濃厚です(『九州王朝の論理』明石書店刊を参照下さい)。
 もっとも、九州年号が記された年代記を参考にして、後世になって寺社縁起などの九州年号による年次編集が行われたケースもありますので、史料性格の分析や史料批判が必要であることは、言うまでもありません。


第265話 2010/06/05

『古田史学会報』98号の紹介

 『古田史学会報』98号ができあがりました。今号では今井久さんから、越智国(愛媛県西条市)に紫宸殿という字地名があることが報告されました。福岡八幡
神社の「白雉二年」奉納面といい、今回の紫宸殿地名といい、越智国がただならぬ地であったこと明かとなってきたようです。来る7月3日はわたしも当地を訪
問し、講演を行います(古田史学の会・四国主催)。テーマはもちろん古代越智国と九州王朝との関係、そして難波との関係です。皆さんのご参加をお待ちして
います。

 『古田史学会報』98号の内容
○禅譲・放伐   豊中市 木村賢司
○九州王朝の難波天王寺  京都市 古賀達也
○越智国に紫宸(震)殿が存在した! 西条市 今井 久
○「天の原」はあった —古歌謡に見る九州王朝—  東京都世田谷区 西脇幸雄
○「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残映  京都市 古賀達也
○能楽に残された九州王朝の舞楽  川西市 正木 裕
○割付担当の穴埋めヨタ話3  一寸法師とヤマト朝廷
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内


第264話 2010/05/16

「四天王寺」瓦と「天王寺」瓦

 昨日の関西例会で、わたしは谷川清隆氏らの論文「七世紀:日本天文学のはじまり」(『科学』vol.79 No.7)と「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』第11巻3・4号、2008年10月)を紹介し、『日本書紀』に記されている天文現象記事についても多元史観によらなければ正確な理解はできないことを説明しました。
 また、現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説を裏づける四天王寺出土瓦について報告しました。それは四天王寺から「四天王寺」と「天王寺」の銘文がある瓦が出土しているというものです。この考古学的事実は四天王寺が、ある時代に天王寺と呼ばれていた物的証拠と言えます。詳細は今後調査の上発表したいと考えています。
 5月の関西例会での発表は次の通りでした。竹村さんからは、古代山城などをテーマとした四つの発表がありました。配られた資料も研究に役立つものでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 屋島城をちょこっと見た・他(豊中市・木村賢司)

2). 西暦年の干支算出表(交野市・不二井伸平)

3). 古田史学の未来とインターネット(東大阪市・横田幸男)

4). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

5). 「古代天文学」の近景(京都市・古賀達也)

6). 『二中歴』教到年号の「舞遊始」(川西市・正木裕)
 『二中歴』九州年号「教到」(531〜535)細注「舞遊始」は、九州王朝が同時期、新羅討伐戦に備え全国に屯倉を設置し、これを記念し「楽を作し」た事を記すもの。
  (論拠)『日本書紀』安閑2年(535)に「駿河国稚贄屯倉」始め13国27箇所の屯倉設置記事、安閑元年に「楽を作して、治の定まることを顕す」との記事がある。
 また、本居宣長『玉勝間』に「教到六年(536)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し」これが「東遊」の起源と記す。(本会の冨川ケイ子氏・古賀達也氏指摘)。稚贄屯倉と宇戸ノ濱(宇東)は共に静岡県吉原地区にあり、これらの記事は時期も一致し、「教到」は九州年号であるから、九州王朝は稚贄屯倉設置を記念し現地で筑紫の舞楽を奏し、これが「東遊」の起源となったと考えられる。また、謡曲「羽衣」からも「東遊」が駿河外(筑紫)から持ち込まれたとすると論じた。
(「本居宣長『玉勝間』の九州年号 ーー『年代歴』細注の比較史料」古賀達也 古田史学会報64号より)

7). 前期難波宮と高安城(木津川市・竹村順弘)
8). 紀行感想文「久米評官衙を訪ねてみて(木津川市・竹村順弘)
9). 「鬼ノ城」村上論文に関して(木津川市・竹村順弘)
10).蛇足・讃岐と播磨の古代山城(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・伊勢島風土記逸文・他(奈良市・水野孝夫)
○関西例会会計報告(豊中市・大下隆司)


第263話 2010/05/09

「古代天文学」の近景

 今日は岡崎にある京都府立図書館に行って来ました。東山の新緑が間近にせまり、朱色の平安神宮とのコントラストが一番美しい季節です。今回の目的は岩波書店から出されている雑誌『科学』vol.79 No.7(2009.7)の閲覧とコピーでした。一年近く前の発行ですが、そこに掲載されている谷川清隆氏・相馬充氏(国立天文台)の論文「七世紀:日本天文学のはじまり」を再確認しておきたかったのです。
 以前、同論文の原稿を紹介され読んでいたのですが、恥ずかしながらその時は同論文の持つ重要性をわたしは理解できていませんでした。今回、読み直してみて、同論文の持つ真の意味と、著者の意味深長なメッセージにやっと気づいたのです。
 谷川氏らの主張は、現代天文学の成果により、古代の天文現象の再確認精度が向上し、『日本書紀』見える日食・月食・彗星などの天文現象記事が実際の観測
に基づいたものかどうか再検証が可能となったが、その結果、次のことが明確になったとされています。
 1). 『日本書紀』によれば天文観測が実際に開始されたのは推古紀の途中(620年)記事からであり、日本の天文観測はこの頃に開始されたと認められる。
 2). 森博達氏の研究により『日本書紀』は正統漢文で記されたα群と倭習漢文で記されたβ群、それとどちらかわからない持統紀に分けられるが、α群には観測記事がなく、β群の記録は観測に基づいている。
 このような指摘を行い、谷川氏らは次のように締めくくられます。
 『隋書』に見える倭国の天子、多利思北孤の記事から、この時、倭国は中国の冊封体制から独立し、その代わり自前の暦を作る必要から(中国から暦を貰えなくなるため)、天文官を置き、天体観測を開始したのではないか。
 α群に天文観測記録がないのはなぜか。α群に属する皇極・孝徳・斉明・天智の時代30年間は観測しなかったのか。天文官はその間何をしていたのか。
 α群β群はもともと言語学的分類だったが、天文観測の有無がこの分類に合致した。この現象は著述者の違い(中国人か日本人か)にだけに押し込めておくには問題が大きすぎる。
 持統天皇になると日食観測をしなくなる。なぜか。
 日本の律令制度は701年の大宝律令に始まると習ったが、620年に始まる天文観測と律令制度との関係はどうか。
 このように谷川氏らは『日本書紀』の天文観測記事から導かれた諸疑問を列挙され、「謎はふかまった?」と同論文を終えられるのです。
 もう、おわかりでしょう。『日本書紀』の天文観測記事は大和朝廷一元史観では謎だらけであると、暗に指摘されているのです。もはや、私には疑うことがで
きません。谷川氏らは古田史学九州王朝説をご存じであることを。そして、多元史観・九州王朝説でしかこの謎は解けませんよと、読者に意味深長なメッセージ
を送られているのではないでしょうか。
 古田史学支持者に自然科学系の人が多いことは著名です。天文学の分野でも、オランダのユトレヒト天文台に勤務されていた難波収さんもそのお一人です。自
然科学(天文学)の人間が文献史学との接点ともいえる「古代天文学」に於いて、新たなメッセージを発信し始める。そのような時代となったのです。なお、わ
たしは門外漢のため天文学界のことは存じませんが、谷川氏は高名な天文学者とのことです


第262話 2010/05/08

大野城築城の時期

 第260話などで紹介しました赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、さすがに現地の専門家らしく、参考にすべき知見が数多く含まれた示唆的な論文でした。
 たとえば、大野城の築城時期についても、出土した「孚石部」刻銘木柱が年輪年代測定から最外層が648年であり、伐採年もその付近と考えられ、従って大 野城築城時期も『日本書紀』記事の664年(天智4年)よりも溯ることを考慮すべきとされています。
 なかなか鋭い指摘と思われました。もっとも、わたしは大野城の築城開始時期はもっと早いと考えていますが、「孚石部」刻銘木柱の年輪年代測定結果を知りませんでしたので、赤司氏の指摘も参考にすべきと思いました。
 なお、「孚石部」刻銘は「孚石都」である可能性が高いと思うのですが、この「孚石都」の字義については、故飯田満麿さんの優れた考察があります。「大野城太宰府口出土木材に就いて」(『古田史学会報』75号2006年8月)という論文です。当ホームページにも掲載されていますので、この機会にご一読いただければ幸いです。
 このテーマ以外にも赤司論文には、大宰府政庁1期下層の整地層に6世紀後半〜末頃の土器が多く含まれていたことも紹介されています。赤司氏はその時代の 古墳群や丘陵が切り崩され、整地層に混入したためとされていますが、単純に考えれば、6世紀後半〜末頃の土器を多く含んだ整地層の上に大宰府政庁1期が立 てられたのなら、その建てた時期は7世紀初頭と考えるべきではないかと思います。太宰府条坊都市=倭京の建都を九州年号の倭京元年(618年)とする、あ るいは九州年号の定居(611−617)年間に整地したと考えれば、わたしの説にピッタリですが、いかがでしょうか。


第261話 2010/05/08

「禅譲・放伐」シンポジウム

 来る6月20日(日)に大阪で古田史学の会定期会員総会を開催します。総会に先だって、「禅譲・放伐」シンポジウムを開催します。これは、九州王朝から大和朝廷への権力交代が禅譲だったのか放伐だったのかという切り口で討論し、王朝交代の真相に迫ろうという取り組みです。
 ですから、ここで禅譲か放伐かの決着をつけるというよりも、パネラーや参加者をも含めた質疑応答で、歴史の真実を明らかにすることと、古田史学の学問の方法を 再確認することが重要なテーマともいえます。  このような多元史観による日本古代史のシンポジウムは他ではほとんど見ることのできない、ある意味で画期的なシンポジウムになる予感がしていますし、そうなるように是非とも成功させたいと願っています。
 パネラーは、『日本書紀』34年溯り論で近年論文を立て続けに発表されている正木裕さん(本会会員)、骨太な論証と携帯電話検索を得意とする西村秀己さん(本会全国世話人・会計)、淡海八代海説の水野孝夫さん(古田史学の会代表)、そしてわたしの四人です。
 ちなみに、西村さんは「頑固(ハード)」な禅譲説、正木さんはソフトな「どちらかと言えば」禅譲説、水野さんは九州王朝から大和朝廷へとそのまま横滑りした「王朝継続」説、わたしは「さんざん迷った挙げ句」の放伐説です。
 四者四様の個性派論客によるシンポジウムですが、どうなることやら。このやっかいなパネラーを指揮する司会は不二井伸平さん(本会全 国世話人)です。 広辞苑によると、禅譲は「中国で帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること。」「天子が皇位を譲ること。」とあり、放伐は「徳を失った君主を討伐して放 逐することをいう、中国人の易姓革命観。」とされています。恐らくは、この定義の確認からシンポジウムは開始されるものと予想しています。参加者との質疑 応答の時間もありますので、是非ご参加下さい。

「禅譲・放伐」シンポジウム済み

期日 010年 6月20日(日) 午後1時(開場)〜午後4時15分、のち総会
場所 大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第二ビル5階第1研修室 (JR大阪駅中央出口南五分) JR北新地駅すぐ (TEL06-6345-5000 場所の問い合わせのみにして下さい。
演題 「禅譲・放伐」シンポジウム 司会:不二井伸平 パネラー:古賀達也、西村秀己、正木裕、水野孝夫
参加費 無料

第260話 2010/05/05

一元史観からの太宰府「王都」説

 わたしが注目した『古代文化』2010年3月VOL.61に掲載された赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、良く読むと最終的に主張したい結論が明確には記されていません。しかし、「朝倉橘廣庭宮の記憶」というサブタイトルに示されているように、従来通説では天智の頃とされていた大宰府政庁1期の遺跡(正確には1−1期)を斉明天皇の頃へと時代を引き上げようとされているのです。その論拠の一つとして井上信正説を「大変魅力的な説」として紹介されたのです。
 しかも、赤司氏の狙いはそれだけには留まっていません。大宰府政庁1−1期を斉明天皇の朝倉橘廣庭宮に関係するものと位置付け、従来朝倉市とされてきた朝倉橘廣庭宮の比定地に対して、大宰府を朝倉橘廣庭宮とする説や史料の存在にも触れ、あたかも大宰府が朝倉橘廣庭宮であるとしたいような筆致が見られます。恐らくは続稿ではそこまで進まれるのではないかと、わたしは予想しています。
 そのことは次の文からもうかがえます。斉明天皇の筑紫行きに対して「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。政庁1−1期の建物は、この遷都と何らかの関係があったとみられる。」とされ、更には「その軍事的な中心であった大野城の南麓に大宰府の官衙が威容をなす景観の出現を想像すると、その磁場の中心が筑紫大宰と解することにいささかの躊躇を覚える。」と、水城や山城に防衛された城塞都市太宰府を一地方長官の筑紫大宰の役所とすることに「躊躇」を示されています。そして、「7世紀末に筑紫大宰が、現在地で確立されたことは認められるが、溯って当初のマスタープランの端緒では核心的存在に相応しい権力の発現がなされたのではないだろうか。」とまで述べられているのです。
 「核心的存在に相応しい権力の発現」とはすごい表現だとは思いませんか。大和朝廷一元史観にとっての「核心的存在に相応しい権力」とは大和朝廷の天皇のこと以外にあり得ません。その「発現」が城塞都市太宰府だと言われているのです。すなわち、太宰府建設の基本計画は大和朝廷の天皇のための「王都」建設だと言っているのと同じなのです。ですから、先に紹介した「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。」などという表現が用いられているのも理由があったのです。
 わたしには赤司氏や太宰府当地の研究者が、こうした見解、太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至らざるを得ない理由はよくわかります。列島内に類例を見ない巨大防衛施設の水城、そして太宰府を取りまくように配置されている山城群(大野城・基肄城・阿志岐山城)を日夜目にしている現地の研究者であれば、その地が抜きん出たただならぬ地であることは一目瞭然だからです。
 たとえば、九州歴史学の重鎮、田村圓澄氏も率直に次のような疑問を呈されていました。
 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁1期の頃:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。
 太宰府現地の研究者が太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至ろうとしていることは学問的にも歴史的にも画期的な動きです。何故なら、太宰府「大和朝廷の王都」説は九州王朝説とほとんど紙一重の距離にまで近づいているからです。太宰府が大和の天皇のための都か、現地九州の天子のための都かという、その一線を越えられるか否かの位置にある仮説なのです。
 天動説から地動説へ移り変わった時代と同じように、大和朝廷一元史観から九州王朝・多元史観への一線を、勇気ある研究者が自らの良心に従い飛び越えようとする歴史的瞬間を間近にした時代をわたしたちは生きているのです。


第259話 2010/05/04

井上信正説の運命

 先日、京都府立総合資料館に行ったとき、目にとまった本がありました。『古代文化』2010年3月VOL.61です。同誌には「日本古代山城の調査成果と研究展望(上)」が特集されており、神籠石などを含む古代山城の最新研究動向(ただし大和朝廷一元史観)を概観する上で参考になります。また、近年発見された二つの神籠石(阿志岐城跡・唐原山城跡)の解説も掲載されており史料価値が高く、古田学派・多元史観の皆さんにもご購読をすすめます(定価2500円・税込み)。わたしも四条通のジュンク堂まで行って購入しました。

 同誌の中で最も注目した論稿が赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」でした。赤司氏は論文の中で、大宰府政庁2期や観世音寺よりも条坊が先行するとした井上信正説を紹介され、「大変魅力的な説」と賞讃されています。わたしも井上説は大変魅力的と考えていますが、井上説を論理的に突き詰めると藤原京よりも太宰府条坊が先だって成立したことになり、通説(大和朝廷一元史観)にとって致命的な「毒」を井上説は含んでおり、一元史観の学界においてどのように遇されるのか興味津々と「心配」を表明したことがありました(第219話 観世音寺創建瓦「老司1式」の論理)。そうした意味では、井上説が無視されることなく、福岡県内の研究者ではありますが赤司氏に評価されていることに安堵しました。

 しかし、問題はここからです。井上説を評価する赤司氏は、条坊都市太宰府が藤原京よりも先行して成立したとはされていないのです。両都市の先後関係を直接的には断定されておられませんが、「王都(藤原宮:古賀注)の整備と併行して、大宰府の造営もなされた」という文面からして、太宰府条坊と藤原京は同時期の成立と赤司氏は考えられておられるようです。
 これまでわたしが度々指摘してきましたように、観世音寺創建瓦の老司1式は藤原宮の瓦に先行するというのが、従来の考古学土器編年だったのですから、太宰府条坊成立が観世音寺よりも早いとする井上説を認めるのなら、太宰府条坊は藤原京よりも成立が早く、日本最初の条坊都市としなければならないはずです。 土器の相対編年を得意とする日本考古学界が、大和朝廷一元史観に不都合なこの土器編年の問題から目をそらし、井上説の都合の良い部分だけを「利用」するの学問的態度とは言い難いのではないでしょうか。もっとも、それでも赤司氏は太宰府条坊と藤原京が同時期成立とされているようなので、従来の学界の態度よりも半歩前進と評価すべきなのでしょう。(つづく)


第258話 2010/05/04

多利思北孤の学問僧たち

『日本書紀』推古31年(623)条の新羅と任那からの仏像一具・金塔・舎利貢献記事が九州王朝への記事となると、その後に記された新羅使節と一緒に唐より帰庫した学問僧たちも九州王朝が派遣した人物ということになります。
 そこには恵齊・恵光・恵日・福因等の名前が記されていますが、彼らこそが『隋書』イ妥国伝に記された、大業3年(607)に多利思北孤が隋に送った「沙門数十人」の一員だったのではないでしょうか。少なくとも時期的にはピッタリです。彼らは中国で仏法を16年ほど学んだことになりますが、その間、中国で
は隋が滅び、唐王朝が成立します。また、倭国では多利思北孤が没します。
 このような東アジアの激動の時代に彼らは異国の地で仏法を学んだのでした。恐らくは、帰国を果たせなかった沙門たちもいたことでしょう。この後、倭国は唐や新羅との関係悪化が進み、運命の白村江戦へと激動の時代に向かっていきます。


第257話 2010/05/03

盗まれた弔問記事

 九州王朝の難波天王寺が、後に近畿天皇家により聖徳太子が建立した四天王寺のことにされたとする仮説を発表してきましたが、この仮説は更に『日本書紀』 に記された四天王寺関連記事中にもまた、九州王朝の難波天王寺の記事を盗用したものがあるのではないかという新たな史料批判の可能性をうかがわせてくれま す。
 こうした視点で『日本書紀』を精査したところ、推古31年(623)条に新羅と任那からの使者が来朝し、仏像一具と金塔・舎利などを貢献してきたので、仏像を葛野の秦寺に置き、その他の金塔・舎利などを四天王寺に納めたという記事があることに注目しました。この四天王寺は九州王朝の難波天王寺のことではないかと考えたのです。
 難波天王寺は九州年号の倭京2年(619)に完成していますから、その4年後に新羅と任那は九州王朝に仏像や舎利を贈り、難波天王寺に金塔・舎利を納めたものと思われます。何故なら推古31年(623)は九州年号の仁王元年にあたり、その前年に日出ずる処の天子である多利思北孤が没しているからです。隣国の天子が亡くなった翌年に仏像や舎利を贈るという、この使節の目的は弔問以外に考えられません。しかも多利思北孤は篤く仏教を崇敬した菩薩天子なのですから、それに相応しい贈り物ではないでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にも、新羅や百済がイ妥国が大国で珍しい物が多く、これを敬迎したと記されています。また、常に通使が往来するとも記されており、関係が緊密であったことがうかがえます。こうした関係から考えても、多利思北孤が亡くなった翌年に遣使が来るとすれば、弔問と考える他ありません。まかり間違っても、九州王朝を素通りして近畿の推古に贈り物をすることなど、九州王朝説に立つ限り考えられないのです。
 従って、弔問使節が持参した仏像や舎利などが納められた寺院は九州王朝の寺院であり、推古31年条に見える四天王寺は九州王朝の難波天王寺と考えざるを得ません。この時の奉納品が四天王寺に存在していたことは、「太子伝古今目録抄所引大同縁起延暦二十二年四天王寺資財帳逸文」にも記されていますから、まちがいなく現四天王寺=九州王朝難波天王寺に納められたのです。
 このように、現四天王寺を九州王朝の難波天王寺と考えると、『日本書紀』に盗用された九州王朝の事績を洗い出すことが可能となるケースがあります。『日本書紀』以外の四天王寺関連史料も同様の視点で史料批判することにより、九州王朝史の復原が進むのではないかと期待されるのです。


第256話 2010/05/02

正倉院の中の「評」史料

 今日は久しぶりに京都府立総合資料館に行って来ました。自転車で鴨川沿の道を走りましたが、比叡山や如意ヶ嶽(大文字山)の新緑が青空に映えて、とても快適でした。資料館では都合三時間ほど図書を閲覧したのですが、最近の論稿なども含め、収穫が大でした。
 特に今回の目的の一つは、東野治之氏の『日本古代木簡の研究』(昭和58年)の閲覧でした。というのも、正倉院に「評」史料が存在するという論文を以前同書で読んだ記憶があったので、その論文を再確認したかったからです。
 ご存じのように大和朝廷は『日本書紀』や『万葉集』などで、700年以前の「評」を「郡」に書き換えており、故意に評制史料の隠滅をはかったと考えられてきました。しかし、膨大な評制史料である庚午年籍に関しては近畿天皇家は長期にわたり保存・書写を命じており、評制史料の取扱いは一様ではなかったのでは ないかと、わたしは考えてきました。古田先生からは正倉院文書に評制史料がないという指摘も受けていたのですが、東野氏により、正倉院内にも「評」史料が存在することが報告されていたので、同論文に深い関心を持っていたのです。
 その論文は「正倉院武器中の下野国箭刻銘についてーー評制下における貢進物の一史料」というもので、正倉院に蔵されている50本の箭(矢)に「下毛野那須 郷※二」※(仝のエが干)という刻銘があり、従来、「那須郷」と判読紹介されていたのは誤りで、正しくは「奈須評」であることを字形や他の根拠から論証され、この50本の箭は評制の時代のものであるとされたのです。
 確かに、「下毛野」という国名の次にいきなり「那須郷」とあるのは不審です。やはり国名の次には「郡」か「評」であるのが通例です。字形に至ってはとても 「郷」と読めたものではなく、他の木簡の字形と比較しても「評」と読むべきものでしたから、東野氏の指摘には説得力があります。
 東野氏はこの箭以外にも正倉院に「評」史料があることを紹介されています。それは『書陵部紀要』29号(1978年)に報告されている「黄施*幡残片」の墨書で、「阿久奈弥評君女子為父母作幡」と「評」銘記されています。この幡はその様式や評制の時代という点から見て。法隆寺系の混入品と見られています。 このように正倉院には「評」史料が現存しており、やはり大和朝廷での「評」史料の取扱は一様ではなかったと考えざるを得ないのです。
  施*は、方偏の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41