第233話 2009/10/31

南朝の「黄葉」と北朝の「紅葉」

 わたしは京都の化学会社に勤めているのですが、社員教育の一環として月に一度、京都大学教授の内田賢徳(うちだまさのり)先生による日本語や万葉集のセミナーを受講しています。その10月のセミナーで内田先生から興味深い史料事実を教えていただきました。
 それは、8世紀に成立した万葉集では、「もみじ」の表記に「黄葉」が使用されているが、9世紀の漢詩集などでは「紅葉」が使用されており、これは中国南朝(六朝時代、4〜6世紀)に使用されていた「黄葉」と、7世紀の唐で使用されていた「紅葉」の影響を、それぞれが受けたという史料事実です。すなわち、 万葉集は南朝の影響を色濃く受け、9世紀以降は北朝の影響を日本文学は受けているのだそうです。
 この史料事実は九州王朝説により、万葉集は九州王朝時代に成立した和歌を数多く含み、九州王朝が長く中国南朝に臣従し、その文化的影響を受けていた痕跡と考えると、うまく説明できそうです。対して、8世紀以後の大和朝廷の時代になると遣唐使により北朝の影響を受けだしたものと思われます。
 中国南朝が滅亡した後も、九州王朝(倭国)文学は南朝の影響と伝統を継承したのでしょう。このように、文学史の視点からも九州王朝説は有力であり、より深い理解へと導きうる仮説と言わざるを得ません。


第232話 2009/10/26

太宰府の蔵司(くらのつかさ)

  第229話「太宰府の内裏」で紹介しました『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著に記されている、大宰府の蔵司(くらのつかさ)の北側にある「内裏」地名について御教示を乞うたと ころ、早速、福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から当地の字地名を記した地図がファックスで届きました。こうした素早い対応は本当に有り難い限りですし、全国組織の強みでもあります。その地図によれば、大宰府政庁跡の字地名は「大裏」とされ、問題の蔵司の北側は、残念ながら字地名が記されていませんでした。
 上城さんからは更に福岡県教委と九州歴史資料館による蔵司調査のニュース記事(2009/10/22)も送られてきましたので、インターネットで関連記事を検索したところ、蔵司の建物跡が奈良時代平安時代において九州最大規模の建物であり、奈良の正倉院よりも大きいという内容でした。いずれの記事もこのことを「特筆大書」していたのですが、正直に申して「なんで今頃大騒ぎするのだろう」とわたしは思いました。
 既に鏡山猛氏が『大宰府都城の研究』において、正倉院よりも古く大規模な建築物が存在していたとする調査結果を発表されており、古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社刊、昭和54年)で、そのことを紹介され、大和朝廷の正倉院よりも古く大規模な倉庫群が太宰府にあったことは九州王朝存在の証拠であるとされていたからです。
 いずれにしても、蔵司遺跡が注目され発掘調査されることは大歓迎です。ここでも九州王朝の痕跡が一段と明かとなることでしょう。わたしも蔵司には引き続き注目していきたいと思います。


第231話 2009/10/25

九州年号改元の史料批判と仮説

 10月17日の関西例会では、正木さんより九州年号改元の理由として、天子崩御の他、遷都・遷宮・天変地異(地震)等を『日本書紀』などから推測され、九州王朝史復原案の提起をされました。論証として成立しているものや作業仮説段階のものなど、様々なケースが報告されましたが、貴重な研究内容と方法でした。会報への投稿を要請しましたので、お楽しみに。
 岡下さんは例会発表2回目でしたが、七支刀銘文の読みについて、古田説の他、代表的な説を列挙され、中でも岡田英弘氏の説(倭王旨の旨を指の略字として、 「指示」などの「指」の意味とする)が妥当とされました。もちろんこの発表に対しては厳しい批判・反論が寄せられましたが、わたしとしては七支刀銘文に関する様々な説を知ることができ、たいへん勉強になった発表でした。
 例会発表で批判反論が出されるということは、研究者として認められた「証拠」でもあります。厳しい批判や意見が出されるのは関西例会の伝統です。批判反論にめげず、例会常連発表者が増えることを期待しています。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「大湖望」雑論会・記(豊中市・木村賢司)
2). 彦島史観と神代七代神「常立神」(大阪市・西井健一郎)
3). 九州王朝の東北進出(木津川市・竹村順弘)
4). 七支刀銘文の読み方(京都市・岡下英男)
5). 古代の鉄は「西高東低」(豊中市・大下隆司)
6). 九州王朝の遷都と九州王朝の改元について(川西市・正木裕)
7). 航空写真(昭和23年米軍撮影)に見る「狂心の渠」(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・吉野井光山五臺寺の白鳳年号・他(奈良市・水野孝夫)


第230話 2009/10/11

『古田史学会報』94号の紹介

 『古田史学会報』94号が発行されました。今回より会報の編集割付作業を西村秀己さん(古田史学の会全国世話人)に担当していただけることになり、大変助かっています。本当に有り難いことです。なお、投稿は引き続き古賀までお願いします。
 最近、長文の投稿が続いていますので、ページ数の関係で後回しになるケースが出ています。基本的にはよほどの問題(事実誤認・品位に問題がある場合・同
様の先行説がある場合・他)がなければ、会員からの投稿は掲載する方針ですので、掲載が遅れることについてはご了解下さい。逆にいえば、空いたページを埋
められる短文原稿は早く採用される可能性が大きいことになりますし、編集部としても短い原稿は、割付作業上から大歓迎です。
 94号でも、正木さんは「『日本書紀』の34年遡上」という視点で新説を快調なペースで発表されています。松山の合田さんは伊予の伝承・史料に基づいて新たな発見を展開されています。独自の視点や方法論を持っている論客の強みが発揮されているようです。

  『古田史学会報』94号の内容
○韓国・扶余出土木簡の衝撃
  —やはり『書紀』は三四年遡上していた— 川西市 正木 裕
○観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦 生駒市 伊東義彰
○「娜大津の長津宮考」 
  —斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった— 松山市 合田洋一
○防人について 千歳市 今井俊圀
○天武九年の「病したまふ天皇」
  —善光寺文書の『命長の君』の正体— 川西市 正木 裕
参考 「君が代」の「君」は誰か」−倭国王子「利歌弥多弗利」考 古賀達也(古田史学会報 1999年10月11日 No.34)へ

○淡路島考(その2)
  —国生み神話の「淡路洲」は九州にあった— 姫路市 野田利郎
○弔辞 力石 巌さんの御逝去を悼む  古田史学の会 古賀達也
○割付担当の穴埋めヨタ話(1) 平仮名と片仮名 西村


第229話 2009/10/10

太宰府の内裏

 先日、木村賢司さん(古田史学の会会員)の釣り小屋「大湖望」に行ってきました。古田史学の会林間雑論会などが開催されている、関西の会員の間では有名な所です。大湖望からは琵琶湖を一望でき、木村さんご自慢の別荘です。
  その日は、木村さんに預かってもらっていた丸山晋司さんからいただいた書籍を受け取りに行ったのですが、その書籍の中に『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著(昭和46年、青雲書房刊)の一冊があり、そこに次のような興味深い記述がありました。

 「蔵司の丘陵の北、大宰府庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」同書33頁

 この記述通りとすれば、大宰府政庁跡の北西で、蔵司(くらのつかさ)の北側に内裏とよばれる地があったとのことですが、従来は大宰府政庁の北部に字地名 「大裏」があり、ここが九州王朝の天子の居住地「内裏」だと想定していたのです。しかし、そことは別の場所にも「内裏」地名があるということに、わたしにはピンとくるものがありました。
 というのも、大宰府政庁第2期遺構を7世紀段階における九州王朝の天子の宮殿とするわたしの説に対して、伊東義彰さん(古田史学の会会計監査)より、天子の居住区としての内裏にしては狭すぎるという鋭い反論が、関西例会で出されていたからです。確かに、前期難波宮や藤原宮などと比較しても、大宰府政庁跡は規模が小さく、政治の場所と居住区の両方が併存していたとするには、伊東さんの指摘通り、ちょっと苦しいかなという思いがあったのでした。
 そうしたこともあって、政治の場所は大宰府政庁跡で、居住区は通古賀(とおのこが)地区ではなかったかなどとも考えていたのですが、そのようなときに 『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』の記述を読んだのです。現段階では一つのアイデアに過ぎませんが、この蔵司丘陵の北部に位置する「内裏」地名こそが、九州王朝天子の「内裏」がそこにあった痕跡ではないでしょうか。考古学調査報告や現在でも同地が「内裏」と呼ばれているのかを調べなければと考えています。ご当地の方の御教示を賜れば幸いです。


第228話 2009/09/26

ウィキペディアの限界と可能性

 読者の皆さんはよくご存じのことと思いますが、インターネット上の読者参加で編集される「辞書」ウィキペディア(Wikipedia)は、わたしもちょっとした調査などに利用しています。ところが最近、インターネットの普及に伴い、古田史学の会会員の方が論文執筆においてこのウィキペディアを論証根拠の出典資料として利用掲載されるケースが出てきています。
 検索や調査ツールとしてウィキペディアを利用されるのはいいのですが、学術論文などに引用出典として使用されるのは、いかがなものかと思います。少なくとも、わたしの友人がそのような使用を論文でされている場合は、止めるように忠告しています。それは次のような理由からです。

1.執筆者(編集責任者)が不明。
2.書き換えが可能で、後日再確認が困難なケースが想定される。
3.文献史学で重視される1次史料ではなく、2次3次史料に相当する。
4.記載内容の学問的レベルが判断できない。

 などです。特に1〜3は「引用文献」としては致命的欠陥で、論証の根拠としては使用されないほうが賢明です。面倒でも原典(1次史料)に研究者自らがあたるべきです。しかし、そうした限界を知った上で節度を持って上手に利用できれば、大変便利なツールであることには違いありません。更に、大勢の「執筆者」により編集されることは、個人では調査しきれない資料が紹介されているケースもあり、長所も備えています。インターネットの時代ですから、上手に用心深く利用されることをお奨めします。そして、やはり自ら史料にあたるという文献史学の基本的研究姿勢を大切にしていただきたいものです。


第227話 2009/09/23

九州王朝の建都遷都と改元

 前期難波宮九州王朝副都説の発見は、様々な問題の発展を促しました。たとえば、前期難波宮建都に伴い、九州年号が白雉に改元(652年)され、焼失により朱鳥改元(686年)された事実に気づいたことにより、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元するという認識が得られたのです。

 このテーマについて、過日、正木裕さん(古田史学の会会員)と拙宅近くの喫茶店で検討を進めました。大宰府建都(おそらく遷都も)が倭京元年(618 年)の可能性が強く、前期難波宮建都により白雉改元、近江遷都は白鳳元年(661年、『海東諸国紀』による)、そして藤原宮遷都の694年12月の翌年が大化元年と、建都遷都と九州年号の改元が偶然とは考えにくいほど「一致」していることについて、正木さんの見解をうかがったところ、それ以外の遷宮時も九州年号が改元されている可能性を指摘されました(たとえば常色元年、647年)。九州王朝の天子が即位時に遷宮し、同時に改元したというもので、この正木さんの指摘は大変興味深いものでした。
 大和朝廷の天皇も多くは即位時に「遷宮」しており、この風習は九州王朝に倣ったものではないかという問題にも発展しそうです。詳しくは正木さんが論文発表を予定されていますので、そちらをご参照いただきたいのですが、九州王朝史復原作業において、九州年号のより深い研究が重要です。正木さんとの「共同研究」はこれからも進めたいと思っています。


第226話 2009/09/22

難波宮の仮説と考古学

 前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生は九州の土器など考古学的痕跡の必要性を指摘されたのですが、この「仮説と考古学の一致」の問題は大変重要な指摘です。特に、『日本書紀』孝徳紀に記された「なにわの宮」の所在地に関する仮説にとって、それが仮説として成立する上で、次の諸点の提示は絶対条件です。

 1.七世紀中頃の大規模な宮殿遺構という考古学的事実が存在すること。
 2.その規模は、『日本書紀』に記されたような白雉改元儀式が可能な規模であること。
 3.評制を施行した「難波朝廷」に相応しい大規模な官衙跡(官僚機構)が存在すること。

 などです。これらの存在、すなわち考古学的出土事物の提示が仮説成立の絶対必要条件なのです。いわゆる孝徳紀の「なにわの宮」の所在地を筑前や筑後、あるいは豊前とする仮説を提起したいのであれば、この提示が必要不可欠なのです。
 ところが、これら諸条件を満足している仮説は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説だけです。しかも、「なにわ」という地名も現存しています。第225話で触れた前期難波宮東方官衙の大規模遺跡の発見も、前期難波宮九州王朝副都説をますます確かなものにしたと言えるのではないでしょうか。


第224話 2009/09/12

「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」

 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。

 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたと する。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないで しょうか。」と好意的に記されていました。
 この佐藤稿を読んで、わたしが小躍りして喜んだことはご理解いただけると思います。そしてすぐに、京都の資料館や図書館に『九州考古学』第83号があるかどうか調べたのですが、残念ながらありませんでした。そこで、知人にメールで調査協力を要請したところ、正木裕さん(古田史学の会会員)が同論文を入手され、送っていただきました。有り難いことです。
   同論文を一読再読三読したわたしは、この論文が大変優れた研究報告であることを理解しました。大和朝廷一元史観に立ってはいるものの、考古学者らしい実証的な調査と自ら確認した情報に基づいて論述されていたからです。(つづく)


第223話 2009/08/16

「白雉二年」奉納面は尉(じょう)面

 8月15日の関西例会では、西条市の福岡八幡神社蔵「白雉二年」奉納面の研究が大下さんより発表され、同奉納面が「翁」の面ではなく、「重荷尉 (おもにじょう)」か「石王尉」の面の可能性が高いことが判明しました。九州王朝を淵源とする能楽の可能性も指摘されるなど、今後の発展と会報での発表が期待されます。

 また、8月8日に御逝去された力石巌さん(古田史学の会・九州の代表)へ参加者全員で黙祷を捧げました。名古屋の林さん、奈良の飯田さんと、この数年相次ぐ同志の訃報に悲しみが絶えません。残された私たちがしっかりと古田史学を継承し、学問的成果をあげていくことが鬼籍に入られた同志への何よりの供養と思います。
 
  〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1).戦前ハイキング・京の山鉾巡行、大阪の文楽・他(豊中市・木村賢司)
  2).彦島史観でみた万葉56歌人「春日蔵首老」(大阪市・西井健一郎)
  3).中国正史と邪馬壹国の人口(木津川市・竹村順弘)
  4).「白雉二年銘奉納面」について(豊中市・大下隆司)
  5).34年遡上の二人(横浜市・長谷信之)
  6).持統七年(693)十月「始講仁王経」の考察─『日本書紀』の「始」の字義について─(京都市・古賀達也)
  7).淡路洲と「島戸」─万葉集304「遠の朝廷」の作歌場所の探究─(姫路市・野田利郎)
  ○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「漢委奴国王」金印の調査・他(奈良市・水野孝夫)


第222話 2009/08/13

蘇我氏の出身地

 『古田史学会報』の編集を西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)に手伝っていただくことになり、編集ソフトの操作方法などの説明を本日行いました。終了後、最近の古田先生の新説やお互いの研究動向について長時間飲みながら談論しました。

   そのおり、わたしが蘇我氏の出身地が九州であることの史料根拠として、推古紀十九年条にある推古天皇の次の歌を紹介しました。
  「真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の馬 太刀ならば 呉の真刀 うべしかも 蘇我の子らを 大君の つかはすらしき」
   推古天皇自らが、蘇我氏を大君がつかはすらしきと述べているのですから、この大君は推古天皇ではなく、九州王朝の天子と見なさざるを得ず、そうすると蘇我氏は元九州王朝の人物と考えられると指摘しました。
   西村さんも、蘇我氏九州出身説に賛成され、更に九州の豊国(大分県)の出身であるとされたのです。その根拠をたずねると、西村さんいわく。
   「『日本霊異記』(上巻第五話)の記事に蘇我馬子が祀っていた仏像を豊国に捨てろとあり、崇仏派の蘇我氏は豊国出身と思われる。」というものでした。
 そこでわたしは、それなら全国の「蘇我」さんの分布を調べるといいですねというと、西村さんはケータイに入力している電話帳データベースを検索されたの です。ちなみに、西村さんのケータイには古事記、日本書紀、倭人伝、和名抄、延喜式神名帳などが登録されており、検索機能付きという優れ物です。
   さて、その検索結果は、なんと最も「蘇我」さんが多い県は大分県だったのでした。同時に、有名な古代氏族である「蘇我」さんが件数としてはかなり少ないことにも驚きましたが、この西村説との一致は偶然とは思えないものを感じさせます。
 この他、話が弾んで「物部」さんの分布についても検索しました。こちらも驚愕の結果がでましたが、別の機会にご紹介したいと思います。


第221話 2009/08/11

条坊と宮域

 古代日本における王都や王宮は、それぞれ目的や設計思想に基づいて造られていますが、中でも代表的な様式として、『周礼』考工記に基づく正方形の条坊都市 の中央に王宮があるタイプと、「天子は南面する」という思想に基づく条坊都市中央北部に王宮があるタイプが著名です。なお、後者を古田先生は「北朝様式」 とされています。

 今回、井上氏の研究成果に基づいて提案した九州王朝の宮殿の変遷をこの様式から見ますと、初期太宰府の「王城」宮は『周礼』様式、前期難波宮は「天子南面」様式、そして太宰府政庁(2期)は「天子南面」様式となり、九州王朝は前期難波宮から「天子南面」様式という設計思想を採用したことになります(ただし、前期難波宮は条坊が無かったようです)。すなわち、九州王朝は七世紀中頃から「天子南面」思想を、その副都に採用したことになるのです。その事情についてはこれからの研究課題ですが、重要で興味深いテーマです。
 九州王朝に対して、大和朝廷の王都を見ますと、大和朝廷にとって最初の条坊都市である藤原京(新益京)は『周礼』様式で、平城京からは「天子南面」様式となります。これも九州王朝との関係で考察する必要がありそうですが、特に藤原京完成時はまだ九州王朝が健在なので、太宰府政庁(2期)や前期難波宮と同 じ「天子南面」様式の採用を憚ったのではないでしょうか。
 実は藤原京の宮域については、一旦造った条坊と側溝を埋め立てて宮域にしたということが発掘調査でわかっており、初めから条坊と同時に宮域ができたのではないのです。これは、もしかすると藤原宮の建築にあたって、条坊区画のどの部分を宮域にするのか、九州王朝に遠慮してなかなか決められなかった痕跡かもしれませんね。(つづく)