第3031話 2023/06/04

律令制都城論と藤原京の成立(1)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟にて(注①)、「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」という演題で発表予定でしたが(注②)、セミナー実行委員会の橘高修さん(東京古田会・副会長)より演題と発表要旨を変えて欲しいとの要請がありました。そこで、Skypeで2時間ほど面談し、その事情などをお聞かせ頂いたところ、同じセッションで発表される新庄宗昭さんの藤原京成立論に対応した内容とし、パネルディスカッションにて論議を深めて欲しいとのことでした。たしかに発表者が自説を述べ合うだけではなく、共通の論点で論議するという趣旨には大賛成で、今までのセミナーにはない面白い企画と思い、了承しました。
そこで、演題と要旨を次のように修正し、発表内容も企画意図にあわせることを約束しました。

《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 橘高さんの要請に応えるべく、新庄さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注③)。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3030話 2023/06/03

九州年号「大化」「大長」の原型論 (10)

 九州王朝の記憶が失われた後代において、各史料編纂者が考えた末に、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の大宝元年に接続した各種年号立てが発生したとする作業仮説の検証過程を本シリーズで解説しました。その検証の結果、大長は701年以後に実在した九州年号であり、本来の姿は「朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)」になるとしました。これであれば、『二中歴』の年号立て「朱鳥(686~694年)→大化(695~700年)→大宝元年(701年)」を維持しながら、大長(704~712年)の存在と整合することから、基本的に論証は完成したと考えました。
一旦こうした仮説が成立すると、それまで誤記誤伝として斥けられてきた次の九州年号記事の存在がむしろ実証的根拠となり、自説は九州年号研究での有力説とされるに至りました。

○「大長四年丁未(七〇七)」『運歩色葉集』「柿本人丸」
○「大長九年壬子(七一二)」『伊予三島縁起』

 この他にも愛媛県松山市の久米窪田Ⅱ遺跡から出土した「大長」木簡も実見調査しましたが、こちらは「大長」を年号と確認するまでには至りませんでした(注①)。
そして九州年号「大長(704~712年)」実在説は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代研究に貢献することになります。直近では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による研究があり(注②)、注目されます。(おわり)

(注)
①古賀達也「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②正木裕「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐譚』」『古田史学会報』176号に掲載予定。


第3029話 2023/06/02

上岡龍太郎さんの思い出

 本日、上岡龍太郎さんの訃報に接しました。心より哀悼の意を捧げます。上岡さんは京都市ご出身のタレントで、トーク番組やバラエティーでのお笑いの芸は天才と評されていました。人気も実力も絶頂期の58歳で突然のように芸能界を引退され、以来、テレビやラジオ番組に出られることはなかったと聞いています。また、読書家でその博覧強記ぶりはよく知られていました。
そんな上岡さんに初めてお会いしたのは、信州諏訪湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月五日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画し、講演者として来場された上岡さんらと打ち合わせする任務についていました。上岡さんの印象はテレビで見るよりもスマートで端正なお顔立ちでした。また、言葉も態度も丁寧で、芸能人としての〝上岡龍太郎〟の印象とは全く異なっていました。
予定では上岡さんの持ち時間は1時間で、その後が皇學館大学の田中卓先生(1923~2018年)でした。確認のため、そのスケジュールを説明すると、上岡さんは「わたしは30分で結構です。その分、専門家の皆さんの発表時間に使って下さい。」とのこと。そして、その言葉通り、軽妙なトークで会場を盛り上げると、ぴったり30分で話を終えられたのです。しかも、時計も見ずにです。さすがはプロフェッショナル、見事な話芸を見せて頂き、感激したことを今でもはっきりと覚えています。その内容は『「邪馬台国」徹底論争』第3巻(新泉社、1993年)に収録されています。
その後も、上岡さんとは古田先生の講演会々場でときおりお会いしました。わたしが受付をやっていると、突然ふらっと現れて「カミオカです」と小声で挨拶されるのですが、どちらのカミオカさんだろうかと見るとあの上岡龍太郎さんでした。いつも物静かな感じで〝芸能人オーラ〟は全く見せない方でした。電話での会話は別にして、最後にお会いしたのは、平成十四年(2002)二月二一日、嵐山の料亭だったと記憶しています。そのときの写真を見てみますと、机を挟んで古田先生と熱心に対話されており、本に掲載するための対談風景のようですが、残念ながらその内容を思い出せません。なお、このときとは別に、『新・古代学』第1集(新泉社、1995年)に両者の対談録「上岡龍太郎が見た古代史」が掲載されています。
上岡さんは道義に篤い方でしたし、古田先生のことを敬愛しておられ、「古田先生には学恩ではなく芸恩を感じている」と仰っていました。きっと今頃は冥界で先生と対話を楽しまれていることでしょう。心よりご冥福をお祈りします。


第3028話 2023/06/01

『東京古田会ニュース』No.210の紹介

 『東京古田会ニュース』210号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の考古学」を掲載していただきました。拙稿は福島城跡(旧・市浦村)の創建年次などについて論じたものです。東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城(旧・市浦村)は東京大学による調査(注①)により、14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました(注②)。ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。この事実は東日流外三郡誌偽作説を否定するものとなりました。
当号には注目すべき論稿がありました。橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)による「古代史エッセー73 マクロ的に見た史観の推移」です。【皇国史観】【津田史学の登場】【皇国史観に対する津田の立場】【古田武彦の津田史学批判】【津田説から古田説へ】という小見出しからもわかるように、戦前から戦後、そして現在に至る日本古代史学の思潮を概説した好論です。特に津田史学の解説は興味深く拝読しました。
津田史学の特筆すべき業績に、皇国史観による『日本書紀』の解釈を否定したことがあります。戦前戦中は非難の対象となった津田史学でしたが、戦後は一転して評価されます。しかし、神話などを学問(史料批判)の対象から除外するという、行き過ぎた古代史学や戦後教育を生み出す一因にもなりました。こうした津田史学の影響を学問的に乗り越えたのが古田史学であり、フィロロギー(注④)という学問でした。
古田史学の歴史的意義を論じた橘高稿を読み、古田先生亡き後、改めて先生の学問やその方法、歴史的位置づけを確認することが、今日の古田学派にとって重要ではないかと考えさせられました。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古田武彦「アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。初出は『古代に真実を求めて』第二集、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」1370話(2017/04/15)〝フィロロギーと古田史学〟
茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古代に真実を求めて』22集、2019年。初出は『古田史学会報』147号、2018年。


第3027話 2023/05/30

「富岡鉄斎文書」三編の調査(2)

 ―ブログ「北山愚公」の長楽寺石盤銘―

 「京や」のご主人から依頼された富岡鉄斎(注①)の文書三編(注②)の内、「長楽寺関連文書」(大正八年四月)について次のように解読しました。訓み下し文については、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)と西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)のご助言をいただきました。わたしは古文や漢文に弱いので、助かりました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盥且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盥の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識す

 他の二編が難読難解のため、富岡鉄斎の筆跡などを調査していたところ、北山愚公さんのブログ(注③)に「長楽寺の手洗い石盤について」という記事があり、その銘文が次のように紹介されていました。転載します。

 「(前略)山門をくぐると、庫裏がある。そこで受付を済ませ、階段を上がると、すぐ左手は小さな庭。その中に、中をくりぬいた半球形の手洗石盤がある。直径1メートルほどであろうか。水は、張られず、打ち捨てられたかのようにあり、顧みる人もいない。
石盤の側面を取り巻いて、次のような漢文が二字ずつ(一部、一字)刻まれている。

長楽 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長楽 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美敬 造 鐡齋 百錬 記

(長楽寺の後ろの山上に賴氏及び名家の墳塋あり。行人の之を拜せんと欲する者、毎に水の以て盥漱すべきなきを憂う。乃ち寺僧と相謀り、敬いて石盤を造り、幷びに竹筧を設け、菊溪の清水を導引し、常に盤中に盈たしめ、以てその用に備う。大正八年四月、長楽寺寿山代・円山左阿弥辻道仙 妻寿美敬いて造る。鉄斎百錬記す。)」
《転載終わり》

 北山愚公さんによれば、銘文は石盤の側面に彫られており、わたしが調べている文書とは趣旨は概ね同じですが、異なる用字や文章が散見されます。例えば次のようです。

〔文書〕     〔石盤銘〕
長楽寺山頭    長楽寺後山上
名家塋域     名家墳塋
距此僅不過數十歩 (なし)
有人欲洗手吊之者 行人欲拜之者
此地乏水     毎憂無水
余與寺主     乃與寺僧
相謀寄附水盥   相謀敬造石盤
且以筧引菊渓水  幷設竹筧導引菊溪清水
溜備其便云    常盈盤中以備其用
寺主 壽山代   長楽寺 壽山代
丸山       圓山
(なし)      敬造
鉄斎□史識    鐡齋百錬記

 以上のような差異があることから、文書は鉄斎による原案だったのではないでしょうか。そして最終案が石盤に彫られた銘文と思われます。そうであれば、銘文校正の経緯がうかがえる貴重な文書となります。わたしには、文書の方が簡潔な雅文に見えますが、いかがでしょうか。長楽寺石盤の銘文を実見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②便宜上、次のように仮称した。
(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)
③「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3026話 2023/05/29

「富岡鉄斎文書」三編の調査(1)

懇意にしているご近所の古美術・骨董のお店「京や」のご主人から、最近入手した古文書三編の調査依頼がありました。見たところ大正時代の文書のようなので、わたしにも読めるかもしれないと思い、勉強も兼ねて引き受けることにしました。
いずれも同一筆跡で、明治・大正に活躍した高名な文人画家、富岡鉄斎(注①)の自筆文書のようでした。鉄斎は京都御所の西側に居を構えていたとのことなので、近隣の旧家から入手されたものと思われます。三編の文書を便宜的に次のように名付けました。

(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)

最も字が読みやすかった(史料A)「長楽寺関連文書」について、次のように解読できました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盤且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盤の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附は丸山左阿彌辻道仙(注②)
妻 寿美
鉄斎□史識す

円山公園にある料亭、左阿彌の主人夫妻から長楽寺に寄贈された水盤の由来について、鉄斎が記したものであることがわかります。同水盤は円山公園奥の長楽寺(注③)に今もあるようですので、拝見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②丸山左阿彌は円山公園にある料亭「左阿彌」のこと。辻道仙は同料亭の主人。
③長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられている時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。


第3024話 2023/05/26

多元的「天皇」併存の傍証「野間天皇神」

 七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)の他に越智氏(袁智天皇)も採用したのではないかと考えています(注①)。その称号が由来となって、当地(今治市・西条市)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。この度、当地にこの「天皇」を称していた神社があり、古代(9世紀)に遡る史料根拠を有していることを知りました(注②)。それは今治市の野間神社(注③)です。
史料上の初見は『続日本紀』天平神護二年(766)四月甲辰条で、「伊豫国…野間郡野間神…授従五位下。神戸各二煙」とあります。そして、『三代実録』貞観八年(865)閏三月七日壬子条に「伊豫国従四位上…野間天皇神…授正四位下」、同元慶五年(881)十二月廿八日壬寅条には「授伊豫国正四位上野間天皇神従三位」と「天皇神」の表記が見えます。『国分寺勧請神名帳』にも「正一位 濃満天皇神」の記事が見えるとのことです(注④)。
このように9世紀に「野間天皇」を神として祀る神社の位階記事が正史に記載されていることは重要です。野間神の名前が『続日本紀』に見えていることからも、この「天皇」号は九州王朝の時代に淵源を持つと考えるべきでしょう。自ら「天皇」を称していた王朝交代後に大和朝廷が伊予国の神社やその祭神に「天皇」号を許すとは考えられないからです。従って、恐らくは九州王朝の時代に配下としての「天皇」号を許された当地の有力者(越智氏か)があり、9世紀時点でも正史に掲載されるほどの影響力を有していたものと思われます。ちなみに、野間神社はこの「天皇」の名称を江戸時代まで続けており、明治になって「野間神社」に変更したようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②白石恭子氏(古田史学の会・会員、今治市)のご教示による。
③『ウィキペディア(Wikipedia)』に次の解説がある。
「野間神社」
所在地 愛媛県今治市神宮甲699
主祭神 飽速玉命 若弥尾命 須佐之男命 野間姫命
社格等 式内社(名神大)・県社
創建 不詳
例祭 5月3日
野間神社(のまじんじゃ)は、愛媛県今治市神宮(かんのみや)に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。飽速玉命は速谷神社の祭神で、阿岐国造の祖。若弥尾命はその三世の孫で、怒麻国造の祖。野間姫命は若弥尾命の妻とされる。
④上記③による。


第3023話 2023/05/25

九州年号「大化」「大長」の原型論 (8)

 大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が下記のような思い思いの位置に大長を移動させたと考えました。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル。大長九年まで続く。
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ。大長六年まで続く。
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ。大長三年まで続く。

 これら3タイプの大長は元年の位置は異なりますが、いずれも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いており、大長の直前の九州年号は大化という共通点があります。これらの史料情況から、大長の本来型は次のようなものと推論できます。

(1) 九州年号の最末は、大化→大長と続いている。大化と大長の間に他の九州年号を持つ史料は見えない。
(2) 大長は9年間続いたと考えられる。これよりも長い大長の史料は見えない。
(3) 同様に大化も最長9年間続く史料(注①)が見え、九州年号の末期は大化九年→大長九年であったと考えられる。
(4) 上記の推論結果を『二中歴』の朱鳥(686~694年)・大化(695~700年)を起点として復元すると、朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)となり、それぞれ9年間続いている(注②)。

 論証の結果、以上の復元案に至りました。こうして大長は701年の王朝交代後に実在した〝最後の九州年号〟とする仮説が成立したのです。なお、686年丙戌を大化元年とする丸山モデルですが、実は寺社縁起などの実用例として、686年丙戌を大化元年とするものは見つかっていません。そして、実際に使用された痕跡がなかったことを丸山氏自身も自説の弱点として認めていたのです(注③)。(つづく)

(注)
①『箕面寺秘密縁起』(『修験道史料集Ⅱ』)に「持統天皇御宇大化九秊乙未二月十日」とある。『峯相記』には「大化八年」の記事が見えるとのこと(『市民の古代』第11集所収〝「九州年号」目録〟による)。
②最末期の三つの九州年号がいずれも9年間続いていることについて、偶然のことか、意図的な改元なのか、未だ結論を持っていない。
③丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。同書84頁に次のように述べている。
「寺社縁起などでの丙戌大化の実用例は遺憾ながら見つけ出せていない。このことは丙戌大化原型説の弱点である。」


第3022話 2023/05/21

『九州王朝の興亡』出版

   記念講演会のご案内

1,若林邦彦(同志社大学歴史資料館・教授)の
「大阪平野の初期農耕集落 ―国家形成期遺跡群の動態」のYouTube動画はございません。

2,正木裕@万葉歌に見る九州王朝の興亡~倭国(九州王朝)絶頂期の万葉歌
https://youtu.be/XJFlbXeW1xA
https://youtu.be/1YC4xSdznwI
https://youtu.be/RV7J_Q9wAUs

6月17日(土)に『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26号、明石書店)出版記念講演会をエルおおさか(大阪府立労働センター)で開催します。今年は同志社大学の若林教授(考古学)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演を行います。非会員の方も参加できます(参加費無料)。時間・演題などは下記の通りです。

□日時 6月17日(土) 13時15分~16時15分
□会場 エルおおさか(大阪府立労働センター) 5階研修室第2
交通アクセスはここから
※京阪天満橋駅より西300m。
□講師/演題
若林邦彦さん(同志社大学歴史資料館・教授)
「大阪平野の初期農耕集落 ―国家形成期遺跡群の動態」
正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)
「万葉歌に見る九州王朝の興亡」
□主催 古田史学の会・他
□参加費 無料

◎講演会終了後(16時20分~16時50分)に「古田史学の会」会員総会を行います。会員の皆様のご出席をお願い申し上げます。
◎午前中(10時~12時)は「古田史学の会」関西例会を開催します。

 


第3021話 2023/05/20

旧王朝が新王朝に取って代わられる時

本日、都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月はエルおおさかで、午後は「古田史学の会」記念講演会と会員総会を開催します。会員の皆さんのご出席をお願いいたします。

本日の関西例会で、わたしは「東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査―」を発表しました。北東北地方最大の城館遺跡である福島城の築造年代を14~15世紀とする従来説よりも、発掘調査の結果、東日流外三郡誌に記された承保元年(1074年)が正しかったことなどを紹介し、これは真作説を支持する考古学的事実であるとしました。また、今回実施した弘前市での和田家文書調査の報告も行いました。

今回の例会では優れた発表が続き、なかでも正木さんの「消された和銅五年の九州王朝討伐譚」は、王朝交代前後の九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)の激しいせめぎ合いを復元したもので、『日本書紀』『続日本紀』『万葉集』を史料根拠に、王朝交代後に〝「禅譲」の約を破り「放伐」に及んだ大和朝廷〟という論証はとても印象的でした。おそらく、旧王朝が新王朝に取って代わられる時とはこのようなものであったかと、目に浮かぶような説明が続きました。論文発表が待たれます。

この他にも大原さんの「男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ」や日野さんの「日本書紀の史料批判方法」は示唆に富んだ発表でした。

次回6月は午後から会員総会記念講演会があるため、例会は午前中だけとなります。そのため二名しか発表できないとのことなので、わたしは「テレビ東京 土曜スペシャル〝みちのく黄金伝承の謎を求めて〟の上映」を急いで申し込むことにしました。同番組は昭和61年頃に放送されたもので、藤本光幸さんや和田喜八郎さんも出演され、「東日流外三郡誌」明治写本などが映っており、今では貴重なものです。なお、同番組のビデオは竹田元春さん(弘前市)よりいただいたもので、おそらく関西では初めて見る人が多いのではないでしょうか。

5月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①渡来人に関する基礎的考察 (茨木市・満田正賢)
②天之石屋戸と大蛇退治に登場する神々 (大阪市・西井健一郎)
③遺跡巡りハイキング(5月)の報告 (豊中市・中本賢治)
④ハイキング・マニュアルの解説・6月の案内 (上田 武・正木 裕)
⑤〝古田武彦〟著作権利用に関する覚書(案)の説明 (古田史学の会・代表 古賀達也)
⑥東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査― (京都市・古賀達也)
⑦男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ (大山崎町・大原重雄)
⑧日本書紀の史料批判方法 (たつの市・日野智貴)
⑨消された和銅五年の九州王朝討伐譚 (川西市・正木 裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
6/17(土) 会場:エルおおさか(大阪府立労働センター) ※京阪天満橋駅より西300m。午後は「古田史学の会」記念講演会・会員総会。

__________________________________

古田史学の会 都島区民センター2023.05.20

5月度関西例会発表一覧(ファイル・参照動画)

YouTube公開動画は①④⑤です。
「6,」の古賀氏の正式な動画は、ファイルから視聴できます。

1,渡来人に関する基礎的考察 (茨木市・満田正賢)

https://youtu.be/Fkf6eX0V8jQ https://youtu.be/RvseEIlZZV8

2,天之石屋戸と大蛇退治に登場する神々 (大阪市・西井健一郎)

https://youtu.be/zL9a0HN6xwIhttps://youtu.be/E8GFr4Q1pWk

3,遺跡巡りハイキング(5月)の報告 (豊中市・中本賢治)

https://youtu.be/FpyOlhOT0j8

4,5,はなし

6,東日流外三郡誌の考古学 「和田家文書」令和の再調査―
  (京都市・古賀達也)
https://www.youtube.com/watch?v=EtuDJ2WGQyI
(正規版)

https://youtu.be/1RCFty1_zBY ②https://youtu.be/EkTIdnZVLV0

7,男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ
(大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/fxftMIQx3d8https://youtu.be/i6GzR-Lw9x4

8,日本書紀の史料批判方法 (たつの市・日野智貴)

https://youtu.be/zT58RwfO_tUhttps://youtu.be/Zd8UyWmnyEg

9,消された和銅五年の九州王朝討伐譚 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/OqOClFljGrU

https://youtu.be/2gSPFCsgv2shttps://youtu.be/DBcmoWHqpjc


第3020話 2023/05/19

九州年号「大化」「大長」の原型論 (7)

 『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長ですが、それら大長を持つ史料には、692年を大長元年とする丸山モデルとは異なるタイプがあることにも注目していました。丸山晋司さんが採集された資料(注)によれば次の通りです。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル
『興福寺年代記』(中の一説)1615年成立。他
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ
『王代年代記』1448年成立。他
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ
『海東諸国記』1471年成立。『続和漢名数』「日本偽年号」貝原益軒著、1695年成立。他

 元年の位置は異なりますが、いずれのタイプも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いているという共通点があります。この史料情況から、大長を後代偽作とするには位置や年数に統一性がなく、最後の九州年号とするために偽作したとする理解は困難と思いました。ある人物により大長が偽作され、どこかにはめ込まれたのであれば、このようにバラバラな史料情況にはならないはずです。

 そこで、大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、最後の九州年号の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が思い思いの位置に移動させたために発生した現象ではないかと考えたのです。(つづく)

(注)丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。


第3019話 2023/05/18

九州年号「大化」「大長」の原型論 (6)

 二つの同時代九州年号金石文、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑と「大化五子年(700年)」土器により丸山モデルは成立し難く(注)、『二中歴』年代歴の九州年号が最も原型に近いという結論に至りました。ところがこの過程で大きな疑問が生じました。それは、『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長とは何なのか。大長を後代の造作(偽造)とするのであれば、その動機は何なのか。どのような必要性があって大長を造作したのかという疑問です。そして、この疑問に悩みながら『二中歴』原型説を受け入れたのですが、大長問題を解決しなければ九州年号研究は発展しないと、わたしは考え続けました。

 というのも、『二中歴』が九州年号の原型として先にあり、後に大長が〝偽造〟挿入されて丸山モデル型が発生したとするのであれば、それには次のような過程を経なければならないからです。

《『二中歴』型から丸山モデル型への変更過程》
(1) 大長の9年間を700年以前に割り込ませるために、朱鳥の9年間(686~694)を削除する。
(2) 削除した朱鳥年間に大化の6年間(695~700)を遡らせ、元年を丙戌とする位置(686~691)に貼り付ける。
(3) 上記の操作の結果できた大宝元年(701)までの隙間に、〝偽造〟した大長の9年間(692~700)を貼り付ける。

 上記の操作と〝大長の偽造〟の結果、『二中歴』と丸山モデルという二種類の年号立てが、後世の九州年号史料中に併存したと考えなければなりません。しかし、そうまでして大長を〝偽造〟し、大宝の直前に入れる必要性が不明なのです。なぜなら、『二中歴』年代歴には大化六年(700)の次に大宝元年(701)が続いており、年号史料として矛盾も支障もないからです。(つづく)

【二中歴】⇒【丸山モデル】
西暦 干支 年号    年号
686 丙戌 朱鳥    大化
692 壬辰       大長
695 乙未 大化
700 庚子 同六年   同九年
701 辛丑 (大宝)   (大宝)

(注)古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。