第2763話 2022/06/15

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (1)

 『古田史学会報』への投稿原稿査読で、仮説の新規性確認のため、古田先生の著作や「古田史学の会」や友好団体の会報・会誌などを読み直すことがあります。そのたびに、当時は深く理解できなかったテーマや論証方法の重要性に気づくことが少なくありません。今回もそうでした。
 仏典に見える「変成男子(へんじょうなんし)」思想に関する先行研究を調べていたときのことです。古田先生が研究されていたナグ・ハマディ文書(注①)の一つ、「トマスによる福音書」(注②)にこの「変成男子」思想があり、これが『法華経』などの大乗仏典に伝播したとする説を古田先生が発表されました(注③)。それに対して、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)との応答が『古田史学会報』紙上でありました。次の三編です。タイトルと結論部分を抜粋します。

○今井俊圀「古田史学の会・創立十周年記念講演会に参加して」『古田史学会報』63号 2004年8月。
【結論部分の抜粋】鳩摩羅什(344~409年)が漢訳した旧訳の「法華経」にはこの「提婆達多品」はなく、唐代の玄奘三蔵(602~669年)の訳した新訳にはあるとされています。そうすると、この説話は、五世紀から七世紀の間に成立したと考えられます。
 ところで、トマスは五七年に南インドへ来て、七二年にマドラスで殉教したとされています。そうすると、五世紀の鳩摩羅什の時代にはこの説話は伝わっていたはずで、それが七世紀まで伝わらなかったとするのは少し変だと思います。二~三世紀頃北インドで成立したとされる「大無量寿経」への伝播なら話がわかるのですが。やはり、「法華経」の説話は「トマス福音書」とは無関係だと思います。

○古田武彦「『批判のルール』 飯田・今井氏に答える」『古田史学会報』64号 2004年10月。
【結論部分の抜粋】第一、両者とも「女は男に化身して、そのあと救済(神の国・浄土へ行く)される」という。「救済の論理構造」が同一である。(三段型)
 第二、『トマスによる福音書』の“出生地”のユダヤも、法華経の“出生地”の北インド(ガンダーラ等)も同じくアレキサンダー大王の征服による「同一、一大政治・文化圏」の一端である。従って両者の「救済の論理構造」の一致は、「偶然の一致」とは考えられない。「同一思想の伝播と交流」の結果である。
 第三、『トマスによる福音書』のトマス(ディディモ・ユダ・トマス)はユダヤのイエスのもとに居て、のち北インドへ移り、さらに南インドへ移り、そこで没した(『使徒ユダ・トマスの行伝』)。現在もインドの南端部、西側のケララ州・マルバール地方に「シリアン・クリスチャン」と呼ばれるトマス系のキリスト教会(マル・トマ教会)があり、かなりの信者数の分布をもつという(荒井献氏)。
 第四、法華経の提婆達多品に、八歳の竜女の説話がある。彼女はみずからの「女身」を「男」に変え(「変成男子」)、のちに「南方の浄土」へ行く、と言う。
 「南方の浄土」問題は、法華経研究上では難問(丸山孝雄『法華教学研究序説』平楽寺書店刊、等。丸山君は松本深志高時代の教え子。法華経の専門学者。この第一章第二節は「法華経の漢訳」を扱う。)
 第五、右の両書の比較からは「『トマスによる福音書』→法華経」の“伝播”を考えれば、理解できる(古田)。
 第六、提婆達多品は法華経中、「後代の成立」というのが(学問上)通説。(信仰の立場は、別。)
 第七、この点、旧訳(竺法護〈二八六〉と鳩摩羅什〈四〇六〉)と新訳(闍那崛多共達摩笈多〈六〇一〉と玄奘三蔵による)の時期問題がある。ただしこの問題は「下限」を示すのみ。「上限」は確認できぬ。(この問題、別述)
 第八、同じく仏教においても(女人の変成男子成仏)思想は、原始仏教に見られる。たとえば釈迦の前生譚で「前世は女人」とするもの七例(南伝仏教)。ただし「漢訳」の時期はおそく、果して「釈迦直後」にさかのぼれるか、不明。その上、先述の「変成男子」思想とはニュアンスがちがう。
 第九、その上、例の法華経の「南の浄土へ行く」問題は解決不能。
 第十、現在の法華経(提婆達多品を含む)は、やはり『トマスによる福音書』の“影響”という視点から「理解」するのが妥当(古田)。

○今井俊圀「『トマスによる福音書』と『大乗仏典」古田先生の批判に答えて」『古田史学会報』74号 2006年6月。
【結論部分の抜粋】私は「大乗仏典」からの「ナグ・ハマデイ文書」への影響を考えていましたが、「トマスによる福音書」の「原本」への直接の影響の可能性も出てきました。つまり、インドへ渡ったトマスがその地で既に成立していた「変成男子説」に出会い影響を受けた可能性もあるということです。
 そうすると、「変成男子説」は、「般若経」→「大阿弥陀経」等の他の大乗仏典→「正法華経」→「妙法蓮華経」→「添品法華経」という流れで伝わっていったことになり、「般若経」がBC一世紀に、トマスの来印よりも前に成立していたという前提に立てば、「法華経」の「提婆達多品」に説かれた「八歳の竜女の即身成仏」説話は「トマスによる福音書」とは無関係ということになります。

 以上のような応答がなされ、古田先生は再反論を行うと仰っておられましたが、ご多忙のためか実現されないままとなりました。当時のわたしには、両者の論点について充分な理解ができていませんでした。思想史上の論点の深さや、学問の方法論における実証と論証の絡み合いなど、今読むと学ぶべき重要な論点が両者の論文にあることがわかりました。(つづく)

(注)
①1945年にエジプトのナグ・ハマディ村の近くで見つかった初期キリスト教文書。
②イエスの弟子、ディディモ・ユダ・トマスによる福音書とされ、発見されたナグ・ハマディ文書に含まれていた114の文からなるイエスの語録集。本文中にトマスによって書き記されたとあるので、この名がある。新約聖書中の四福音書よりも原初的とする見解があり、古田先生はこの立場。
③古田武彦「[講演記録]原初的宗教の資料批判 ―トマス福音書と大乗仏教―」(「古田史学の会」創立十周年記念講演会、2004年6月6日 大阪市中央公会堂)『古代に真実を求めて』8集、2005年。


第2762話 2022/06/14

『古田史学会報』170号の紹介

 『古田史学会報』170号が発行されました。一面には拙稿〝『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識〟を掲載していただきました。同稿は周代の二倍年暦の復原方法の考察と『史記』にみえる二倍年暦(二倍年齢)の精査による周代の暦法について調査したものです。一年以上前に脱稿していたのですが、字数が多いため『古田史学会報』への投稿をためらっていまた。しかし、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)や山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)との共同研究の報告書という側面もあり、全面的にリライトして字数を削減し、掲載に至りました。この分野の研究が古田学派内で少ないこともありますので、拙稿へのご批判と新たな研究者の登場を期待しています。

 もう一つの拙稿〝百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―〟も半年ほど前に投稿したもので、順番待ちのため、ようやく今号での掲載となりました。本稿は、百済祢軍墓誌に記された「日夲」の「夲(とう)」は「本」とは別字であり、「日夲」を国名の「日本」とはできないとする批判に対する反論です。七~八世紀当時の日中両国における使用例を挙げて、「夲」の字は「本」の異体字として通用していたことを実証的に証明しました。

 当号で異彩を放った論稿として、美濃晋平さんの「熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、古代までさかのぼれるか」があります。美濃さんの初投稿ですが、熊本県と長野県に二大濃密分布圏(集積地)を持つ遺伝性疾患「家族性アミロイドニューロパチー」は、ある時代に両地域間で人の交流があったことを示すものであり、その時期が六世紀まで遡る可能性について論じたものです。筆者は創薬研究で日本を代表するケミストの一人で、いわば専門知識を活かしての論稿です。難病に苦しんでいる患者やご家族のことを思うと胸が痛みます。医学や薬学の発展により解決できる日が一日も早く来ることを望みます。また、歴史学や諸分野の研究が防疫や医療に貢献できることを願っています。

 古代における九州と信州の濃密な交流は様々な分野で発見されており、興味が尽きない研究テーマです。

 170号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』170号の内容】
○『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識 京都市 古賀達也
○会員総会と記念講演会のお知らせ(6月19日、アネックスパル法円坂にて)
○熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、古代までさかのぼれるか 東京都練馬区 美濃晋平
○高松塚古墳壁画に描かれた胡床に関して 京都府大山崎町 大原重雄
○百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十六
もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集


第2761話 2022/06/13

坪井清足氏の「鬼ノ城」六世紀築城説

 鬼ノ城や麓の五世紀の城塞跡を発見した高橋護氏は、鬼ノ城を七世紀後半の築城とし、『日本書紀』天武紀に見える吉備の大宰の山城とされました。他方、『鬼城山』(注①)に収録されている坪井清足氏(注②)の「鬼ノ城神籠石との出会い」では六世紀築城説が述べられています。鬼ノ城の築城は七世紀後半頃が穏当と、わたしは判断していますが、坪井氏の説明にも一理あると感じました。七世紀後半築城説に対して、坪井さんは次のような疑問を投げかけています。

 「ところがどうしても納得がいかないことがある。というのは底に矩形の列石を百陳べその上を版築で築きあげる城壁構築法は韓半島の三国時代に百済にしか例がなく、高句麗、新羅にはなく、後者には城壁は石垣作りしかみられないことで、百済でも7世紀の扶余の扶蘇山城などではこの方法は用いられておらず、百済滅亡後亡命した百済人に指導されて作ったと記録され大野城以下天智築城のいずれの城壁もこの方法で築いていないこと。さらに九州では神籠石の城門は精査されていないが鬼ノ城の四門と天智築城の城門の構造の作りが異なっていることがあげられる。
 (中略)いずれにせよ韓半島で百済でしか見られない城壁構築法、しかも百済でも最後の都扶余ではその方法をやめてしまい、したがって百済からの亡命者の指導で作られた天智築城のいずれにも使用されていない城壁構築法が、天智朝に継続する天武朝の吉備の大宰の築城につかわれ、さらに岡山市東端の大廻小廻り、対岸の坂出市城山に見られ、吉備の大宰時代よりほんの三十年前に築城された屋島城には用いられていなかったのは納得ゆかない理由である。」179~180頁

 坪井さんが根拠とした、百済の六世紀以前の築城技術については今のところ当否を判断できませんが、その技術が天智期築城とされる大野城や屋島城などには見られず、岡山県の鬼ノ城・大廻小廻と坂出市の城山にのみ見られるとすれば、その理由は多元史観・九州王朝説でなければ解明できないように思います。古田学派による本格的な鬼ノ城研究が待たれます。(おわり)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②坪井清足(つぼい きよたり、1921年~2016年)は日本の考古学者。元奈良国立文化財研究所所長、元元興寺文化財研究所所長。勲三等旭日中綬章、文化功労者。大阪府出身。(ウィキペディアによる)


第2760話 2022/06/12

鬼ノ城山麓の先行(五世紀)土塁

 鬼ノ城の造営年代について、わたしは七世紀後半頃が穏当と判断していますが、城内の礎石跡や西門の造営尺が七世紀中頃以前のものと見ることもでき、悩ましいところです。それらとは別に、鬼ノ城の調査報告書(注①)には、鬼ノ城に先行する五世紀初頭の「城塞跡」が鬼城山々麓から発見されたことが報告されています。
 高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」(注②)に土塁発見の経緯が次のように紹介されています。

 「鬼ノ城を発見した当初、累線を追って何日も山頂を巡っていた。浸食の進行や、灌木の繁茂で明確に確認できない累線を追及していたのである。そんなある日、麓に目をやると不思議な光景が認められた。街道も通っていないのに、街村のように直線に谷を横断した家並みが見られたのである。不思議に思って現地を訪れてみると、周囲よりも一段高い土地が直線に伸びており、この土地を敷地として建てられた家並みであった。盛土は殆ど失われて整地されているが、東端では新池北側の丘陵の端に向かって斜面を這い上がっているのが観察された。
 その状況から基肄城の山麓などに存在している小水城と呼ばれている防塁に相当するものではないかと考えていたのである」『鬼城山』181頁。

 この土塁跡は「池ノ下散布地」と称され、鬼城山の東南1.8kmの山麓にあり、血吸川によって形成された谷部が総社平野に向かって大きく開放する位置に当たっています(総社市西阿蘇)。岡山県による発掘調査(2000年2~3月)の結果、古代の防塁であることが確認され、土塁の北にある山上からは掘立柱建物跡も発見されました。発掘調査結果は「付章 池ノ下散布地の試掘結果」(注③)に詳述されています。そして土塁基底部に敷かれた粗朶の葉の炭素年代測定値が五世紀初頭(AD410年)を示しました(注④)。
 この測定結果を受けて、高橋氏は次のように自説を表明されました。

 「5世紀の初め頃、吉備で起こった大きな出来事は、造山古墳群の築造であるが、それと並んでこの奥坂の土塁の築造があったのである。(中略)土塁から正面に見える山上に位置していることからみて、土塁と一体の遺跡である可能性を考えて良いのではないだろうか。
 年代からみても、好太王軍と戦った倭の王は、この時代では最大の大王陵を築いた造山古墳の被葬者であったと考えられる。高句麗軍と戦った経験や、半島諸国の戦いの実績から城塞の重要性を知って、谷の入り口に土塁を築く高句麗型の城塞を造ったものであろう。(中略)
 この城塞の築造が、後に足守宮の伝説を生む原因の一つになったものと考えられるが、土塁の前面に御門という字が遺されていることから、吉備太宰府や惣領所も奥坂に置かれていた可能性が考えられる。」同、185頁

 この高橋氏の見解は「倭の五王」吉備説とでも言うべきものです。この結論には賛成できませんが、吉備の大宰や鬼ノ城の先行城塞などについて、九州王朝説・多元史観による検討が必要であることを改めて認識させられました。ちなみに、高橋氏は鬼ノ城を発見した考古学者です(注⑤)。(つづく)

(注)
①管見では鬼ノ城山史跡に関する次の報告書がある。
(1)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書203 国指定史跡鬼城山』岡山県教育委員会、2006年。
(2)『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
(3)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」、①(2)所収。
③亀山行雄「付章 池ノ下散布地の試掘調査」、①(1)所収。
④「付載2 鬼城山における放射性炭素年代測定」、①(3)所収。
⑤河本清「岡山県内の史跡整備事業における鬼城山(鬼ノ城)整備の位置づけ」(①(2)所収)には、鬼ノ城発見の経緯を次のように紹介している。
 「鬼ノ城跡の発見は1970(昭和45)年であった。その発端は、発見者高橋護氏が以前から『日本書紀』に記載されている「吉備の大宰」の居場所探し、つまり吉備の大宰府の場所探しに興味を示したことによる。その探りの視点はユニークであった。九州の大宰府の後背地には大野城跡があるので、この関係を重要視して吉備中枢において古代の山城さがしを始めたことによるものであった。そして以前から起きていた鬼城山の山火事跡地を踏査して、今の西門跡の東先で神籠石系の列石を発見したことによる。」189頁。


第2759話 2022/06/11

鬼ノ城西門と北魏永寧寺九重塔の造営尺

 鬼ノ城西門の造営尺27.3cm(正確には27.333cm)に極めて近い尺として、北魏洛陽の永寧寺(えいねいじ、516年創建。注①)九重塔造営尺があるとの指摘が『鬼城山』(注②)にありましたので、調べてみました。
 奈良国立文化財研究所の調査報告書(注③)によれば、永寧寺九重塔は東西101.2m、南北97.8mの堀込地業(ほりこみじぎょう)上に一辺38.2m、高さ2.2mの基壇とあります。基壇の二つの数値(38.2mと2.2m)で完数に近くなる尺は約27.3~27.4cmで、それぞれ約140尺と約8尺になります。正確に両者を完数とできる尺はありませんので、複数の尺が併用されたのかもしれません。
 古代中国の尺に27.3cmのような尺は見当たりませんので(注④)、鬼ノ城西門の造営尺が北魏永寧寺九重塔造営尺に関係するとしても、その造営時期が六世紀まで遡るとするのは無理があるように思います。たとえば、鬼ノ城第0水門流路下流から出土した木製品(方形材、加工材)の炭素年代測定により、「伐採年代をAD680年より新しい年代とは考えにくいとし、西門の築造を680年以前と推測している。」とあります(注⑤)。これは出土土器編年とも整合し、鬼ノ城築城年代を七世紀後半頃とする説を支持しています。
 なお、永寧寺は菩提達摩が訪れた寺としても有名で、そのことが『洛陽伽藍記』(注⑥)に次のように記されています。

 「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

 なお、菩提達摩の年齢を「一百五十歳」とありますが、二倍年齢としても75歳ですから、当時のペルシアから中国まで来訪できる年齢とは考えにくく、信頼しにくい年齢記事です。

(注)
①北魏の孝明帝熙平元年(516年)に霊太后胡氏(宣武帝の妃)が、当時の都の洛陽城内に建立した寺。高さ「千尺」の九重塔があったと『洛陽伽藍記』にある。永寧寺の伽藍配置は日本の四天王寺の祖形とされる。
②『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
③『北魏洛陽永寧寺 中国社会科学院考古研究所発掘報告』奈良国立文化財研究所、1998年。
④山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に掲載された「古代尺の分類図」には27.3cm尺に近い尺は見えない。山田氏に鬼ノ城西門造営尺についての調査協力を要請した。
⑤『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。177頁。
⑥『洛陽伽藍記』全五巻。六世紀、東魏の楊衒之の撰。


第2758話 2022/06/10

鬼ノ城の造営年代と造営尺の謎

 鬼ノ城のビジターセンターで購入した報告書『鬼城山』(注①)を何度も読んでいるのですが、従来の認識ではうまく説明できないことがいくつもありました。その一つが、鬼ノ城の造営年代と造営尺です。わたしはいわゆる神籠石山城の造営年代を多くは七世紀後半と考えてきました。その根拠を「洛中洛外日記」(注②)で次のように説明しました。一部転載します。

【以下、転載】
 古代山城研究に於いて、わたしが最も注目しているのが向井一雄さんの諸研究です。向井さんの著書『よみがえる古代山城』(注③)から関連部分を下記に要約紹介します。

(1) 1990年代に入ると史跡整備のために各地の古代山城で継続的な調査が開始され、新しい遺跡・遺構の発見も相次いだ(注④)。
(2) 鬼ノ城(岡山県総社市)の発掘調査がすすみ、築城年代や城内での活動の様子が明らかになった。土器など500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のもので、大野城などの築城記事より明らかに新しい年代を示している。鬼ノ城からは宝珠つまみを持った「杯G」は出土するが、古墳時代的な古い器形である「杯H」がこれまで出土したことはない。
(3) その後の調査によって、鬼ノ城以外の文献に記録のない山城からも7世紀後半~8世紀初め頃の土器が出土している。
(4) 最近の調査で、鬼ノ城以外の山城からも年代を示す資料が増加してきている。御所ヶ谷城―7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城―8世紀初めの須恵器水瓶、永納山城―8世紀前半の畿内系土師器と7世紀末~8世紀初頭の須恵器杯蓋などが出土している。
(5) 2010年、永納山城では三年がかりの城内遺構探索の結果、城の東南隅の比較的広い緩やかな谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器などが出土している。
【転載終わり】

 以上の見解は今でも変わっていませんが、鬼ノ城については七世紀前半以前まで遡る可能性も考える必要がありそうです。確かに鬼ノ城から出土した土器は七世紀の第4四半期頃の須恵器杯Bが多く、その期間に鬼ノ城が機能していたことがわかります。
 他方、城内の倉庫跡の柱間距離から、その造営尺が前期難波宮(652年創建)と同じ29.2cm尺が採用されていることから、倉庫群の造営が七世紀中頃まで遡る可能性がありました。更に倉庫群よりも先に造営されたと考えられる外郭(城壁・城門など)の造営尺は更に短い27.3cmの可能性が指摘されており、時代と共に長くなるという尺の一般的変遷を重視するのであれば、外郭の造営は七世紀前半以前まで遡ると考えることもできます。
 この27.3cm尺は鬼ノ城西門の次の柱間距離から導き出されたものです。
 「(西門の)柱間寸法は桁行・梁間とも4.1mが基準とみられ、前面(外側)の中柱二本のみ両端柱筋より0.55m後退している(棟通り柱筋との寸法3.55m)。」『鬼城山』211頁
 この4.1mと3.55mに完数となる一尺の長さを計算すると、27.3cmが得られ、それぞれ15尺と13尺となります。その他の尺では両寸法に完数が得られません。この短い27.3cm尺について『鬼城山』では、北魏の永寧寺九重塔(516年)の使用尺に極めて近いとしています。今のところ、27.3cm尺がいつの時代のものか判断できませんが、鬼ノ城外郭の造営は七世紀前半か場合によっては六世紀まで遡るのかもしれません。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
③向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
④播磨城山城(1987年)、屋島城南嶺石塁(1998年)、阿志岐山城(1999年)、唐原山城(1999年)など。


第2757話 2022/06/09

「古田史学の会・入会案内」の作成について

 残念ながら、コロナ禍や会員の高齢化、そして古田史学の新規読者獲得が困難な状況(書店や読書人口の減少)もあって、「古田史学の会」の会員数の減少が続いています。関西各地での講演会活動、ホームページでのYouTube配信など様々な事業を進めていますが、新たに「古田史学の会・入会案内」を作成することにしました。
 同「入会案内」にはゆうちょ銀行の払込用紙も掲載し、それを切り離して、入会申し込みを兼ねて会費入金ができるようにします。既に久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部、京都市)にレイアウトを作成していただき、会計担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に印刷経費見積を取っていただきました。最終的にはゆうちょ銀行の認証を経て、「古田史学の会」役員会で決裁する運びです。
 会員の皆様には会員拡大にご協力いただきますよう、お願い申し上げます。「古田史学の会」の創立目的である「古田史学を世に広め、後世に伝える」ため、これからもわたしたちは鋭意努力してまいります。


第2756話 2022/06/08

鬼ノ城の列石と積石遺構

 今回の鬼ノ城訪問と『鬼城山』(注①)の読書により、わたしの認識は大きく改まりました。そのことについて紹介します。
 古代山城には朝鮮式山城と神籠石山城とに分けられることが多く、『日本書紀』などに記されているものを朝鮮式山城、文献に見えない山城を神籠石山城とする区別が一般的になりました。また、その特徴から、一段列石が山を取り囲むタイプを神籠石山城、積石で囲むタイプを朝鮮式山城とする場合もありました。近年ではより学術的な呼称として、『日本書紀』天智紀に見える山城を「天智期の古代山城」とする表記も目立ってきました。また、「○○神籠石」をやめて、「○○山城」というように、「山名・地名」+「城」という表記にすべきとする意見も出されています。例えば「阿志岐城」(筑紫野市)のように、旧称の「宮地岳古代山城」に替えて、「地名」+「城」に変更した例もあります(注②)。
 文献に見えない場合は、この表記方法(「山名・地名」+「城」)がよいように思いますが、「鬼ノ城」(きのじょう)のような著名な通称もありますので、とりあえず「鬼ノ城」という表記をわたしは使用しています。他方、行政的な山名は「鬼城山」(きのじょうざん)とされており、遺跡名は「史跡鬼城山」と表記されています。
 これまで、鬼ノ城は一段列石(神籠石タイプ)と積石(朝鮮式山城)の両者が混在したタイプとわたしは認識していたのですが、今回の訪問により、それほど単純なものではないことを知りました。鬼ノ城は一段列石であれ、積石であれ、その上部に版築土塁が築かれています。これらの防塁・防壁(高さ5~6m)により、鬼ノ城は強力な防御施設になっているのです。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②『阿志岐城跡 阿志岐城跡確認調査報告書(旧称 宮地岳古代山城跡) 筑紫野市文化財調査報告書第92集』筑紫野市教育委員会、2008年。


第2755話 2022/06/07

鬼ノ城を初訪問

 先月、四国ドライブの帰途に、念願だった鬼ノ城(岡山県総社市)を初訪問しました。期待に違わず、九州の大野城や基肄城に並ぶ見事な巨大山城でした。山頂にある鬼ノ城遺跡近くまで道路が舗装されており、クルマで行けたのは有難いことでした。道幅が狭く、対向車があれば離合が難しい所が何カ所もありましたが、幸いにも、すれ違ったのは一台だけで、なんとか無事に往復できました。トヨタのハイブリッドカー、アクア(1500cc)をレンタルしたのですが、車種的にはこのくらいのサイズまでがよいと思います。
 鬼城山上には駐車場と鬼城山ビジターセンターがあり、その展示室は必見です。ガイドブックや報告書も販売されており、中でも『鬼城山』(注①)は研究者には特にお勧めです。拙稿「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」(注②)などで紹介した『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』(注③)はweb上で閲覧できますので、こちらと併せて読むことにより、鬼ノ城への理解が深まります。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。
 同「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 同「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
③『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。


第2754話 2022/06/04

倭京・難波京・藤原京の研究動向

 「多元の会」でのリモート発表について、同会の和田事務局長から「倭京」に関するテーマを要請されています。すでに同テーマの論稿を執筆済みですので、それを『多元』に発表してからリモートで解説できればと思います。また、同稿は九州王朝説の立場からのものなので、それとは別に通説(一元史観)の研究動向についても紹介したいと考えています。
 近年の「古田史学の会」関西例会論客の主たる関心は、前期難波宮から藤原京へ移っていると感じていますが、通説でも藤原京をテーマとした示唆に富んだ論文が発表されています。いずれも一元史観に基づくものですが、王朝交替の舞台でもある藤原京の時代ですから、問題意識や仮説の方向性が近づいています。古田学派の研究者にも一読をお勧めします。

○寺崎保広・小澤毅「内裏地区の調査―第100次」『奈良国立文化財研究所年報』2000年-Ⅱ、2000年。
○林部 均「藤原京の条坊施工年代再論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第160集、2010年。
○重見 泰「新城の造営計画と藤原京の造営」『奈良県立橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第40冊、2017年。


第2753話 2022/06/03

「多元の会」リモート発表会を終えて

 今朝は「多元の会」でリモート発表させていただきました。テーマは〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟で、主に前期難波宮九州王朝複都説に至った理由と、九州王朝(倭国)が採用した倭京と難波京の両京制において、太宰府(倭京)が権威の都であることを中心に解説しました。
 ご質問やご批判もいただけ、新たな問題点の発見や認識を深めることができました。いただいた質問に対しては次のように回答しましたので、一部を紹介します。

《質問》前期難波宮を九州王朝の都とするのであれば、七世紀頃の支配範囲はどのようなものか。
《回答》九州王朝が前期難波宮で評制支配を行った範囲は、出土した「評」木簡の範囲により判断できる。

《質問》七世紀に九州王朝が存在した史料根拠は『旧唐書』以外に何があるのか。
《回答》六世紀から七世紀にかけて九州年号がある。年号は代表王朝の天子のみが発布できるものである。

《質問》天武十二年条の複都詔を34年前とするのではなく、『日本書紀』にあるように天武によるものとすべきではないか。
《回答》わたしもそのように考えてきたが、複都詔は34年前の649年に九州王朝が出した前期難波宮造営の詔勅とすれば、九州年号の白雉元年(652年)に完成した前期難波宮に時期的に整合する。従って正木説(34年遡り説)が有力と考えている。
 ※この点については「洛中洛外日記」1986話(2019/09/10)〝天武紀「複都詔」の考古学〟や『多元』160号(2020年)の拙稿「天武紀『複都詔』の考古学的批判」で詳述しているので参照されたい。


第2752話 2022/06/01

『東京古田会ニュース』No.204の紹介

 一昨日、『東京古田会ニュース』204号が届きました。拙稿「『歎異抄』と『古事記』の悪人」を掲載していただきました。拙稿では河田光夫さんの『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)に記された、親鸞の時代に「悪人」と呼ばれていたのは被差別民とする説を紹介しました。あわせて、『古事記』に見える「悪人」は、蝦夷や大和朝廷の敵対勢力であることも説明しました。「洛中洛外日記」でも紹介したところです(注①)。
 同号には注目すべき記事が掲載されていました。それは同会々長の田中巌さんの「会長独言」と泉英毅さん(渋谷区)の「メディアの見識」です。奈良新聞に大きく掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演記事「『邪馬壹国九州説』有力」(注②)を両氏は高く評価されています。同記事掲載の背景には、講師の正木さんをはじめ古代大和史研究会(原幸子代表)や竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)のご尽力があります。同時に、奈良県民が持つ歴史に対する深い知識や興味も反映していると思います。ちなみに、わたしが「市民の古代研究会」事務局長のときに都道府県別の会員数比率を調査したところ、奈良県が最も高い数値を示していました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2584話(2021/09/30)〝親鸞『歎異抄』の「悪人」とは何か〟
 同「洛中洛外日記」2585話(2021/10/01)〝『親鸞と被差別民衆』の人間模様 ―河田光夫氏と古田先生、藤田友治さん―〟
 同「洛中洛外日記」2586話(2021/10/02)〝『古事記』の中の「悪人」〟
②同「洛中洛外日記」2651話(2021/12/29)〝奈良新聞に「邪馬壹国九州説」有力の記事〟