第2864話 2022/10/27

没年干支が改刻された百済武寧王墓誌

 九州年号史料以外にも、干支が一年ずれた痕跡を持つ著名な同時代金石文があります。百済武寧王墓誌に見える武寧王の没年干支です。

 寧東大将軍百済斯
 麻王年六十二歳癸
 卯年五月丙戌朔七
 日壬辰崩到乙巳年八月
 癸酉朔十二日甲申安暦
 登冠大墓立志如左

 1998年9月、古田先生は韓国の武寧王陵碑を見学され(注①)、その碑面の字を調査しました。そして、武寧王没年干支「癸卯」(523年)の部分が改刻されており、原刻はその翌年に当たる「甲辰」であったことが確認できたのです(注②)。
 武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』(1145年成立)には「癸卯」とされていますが、墓誌にはその翌年にあたる「甲辰」とあったのです。国王の墓誌という史料性格から、誤刻を訂正した痕跡とは考えにくいため、古田先生は、干支が一年引き上がった暦が当時の百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされました。そして、その改刻時期は同陵に合葬された王妃の埋葬時(529年己酉。王妃没年は526年丙午)の可能性が高いと指摘しました。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行干支暦に変更されたと考えられるのです。
 このように、六世紀の九州年号の時代、百済の王権内で干支が一年ずれた暦(ずれの方向も『万葉集』左注の朱鳥と同じ)を採用していたことは興味深いことです。

 「武寧王」新旧暦対応表
西暦 干支  記事・出典
501  辛巳 武寧王即位・『三国史記』
502  壬午 武寧王即位・『日本書紀』
521  辛丑 武寧王朝貢・『三国史記』武寧王二十一年条
522  壬寅 武寧王朝貢・『冊府元亀』普通三年条
523  癸卯 武寧王没・墓誌改刻、『日本書紀』『三国史記』
524  甲辰 武寧王没・墓誌原刻、『梁書』普通五年条
525  乙巳 武寧王埋葬・墓誌

(注)
①古田武彦「虹の光輪」『多元』28号、1998年。
②古賀達也「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」『古田史学会報』31号、1999年。
 同「洛中洛外日記」845話(2015/01/01)〝百済武寧王陵墓碑が出展〟


第2863話 2022/10/26

干支が一年ずれた九州年号史料

 「洛中洛外日記」2862話(2022/10/22)〝『日本霊異記』に「朱鳥日本紀(記)」の痕跡〟で紹介した干支が一年ずれた九州年号史料ですが、『万葉集』左注の「朱鳥」も茨城県岩井市出土(冨山家蔵)「大化五子年」(699年)土器(注①)も、ずれている方向が同じで、いずれも当該年号の翌年の干支になっています。具体的には次の通りです。

〔『万葉集』左注の「朱鳥」年号〕(注②)
○歌番号34
 日本紀曰、朱鳥四年(689)庚寅(690)秋九月、天皇幸紀伊国也。

○歌番号195
 右、或本曰、葬河島皇子越智野之時、献泊瀬部天皇皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年(690)辛卯(691)秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川島薨。

○歌番号44
 右、日本紀曰、朱鳥六年(691)壬辰(692)春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠掲上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未、天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。

○歌番号50
 右、日本紀曰、朱鳥七年(692)癸巳(693)秋八月、幸藤原宮地。八年(693)甲午(694)春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。

 686年 朱鳥元年 丙戌 (天武15年)
 687年 朱鳥二年 丁亥 (持統1年)
 688年 朱鳥三年 戊子 (持統2年)
 689年 朱鳥四年 己丑 (持統3年)
 690年 朱鳥五年 庚寅 (持統4年)
 691年 朱鳥六年 辛卯 (持統5年)
 692年 朱鳥七年 壬辰 (持統6年)
 693年 朱鳥八年 癸巳 (持統7年)
 694年 朱鳥九年 甲午 (持統8年)

〔「大化五子年」(699年)土器〕
 699年 大化五年 己亥 (文武3年)
 700年 大化六年 庚子 (文武4年)

 これまでわたしは『万葉集』左注に見える「朱鳥」の干支が一年遅れていることについて、同編者が『日本書紀』天武末年(686年)に見える朱鳥改元を持統天皇の元年へとイデオロギーに基づいて操作したのではないかと考えてきました。すなわち、天武崩御後の持統元年(687年)を「朱鳥」改元年とすることにより、持統天皇の年号にふさわしい位置に九州年号「朱鳥」を移動させたと理解してきました。
 他方、「大化五子年」(699年)土器の場合は、当地(関東)では干支が一年ずれた暦法が採用されていたためとしてきました(注③)。しかし、両者のずれの方向が一致していることを重視すれば、『万葉集』左注の「朱鳥」も、干支が一年ずれた暦法で編纂された「朱鳥日本紀」が存在しており、それに依っていたとする可能性も考慮しなければならないのではないかと考えるようになりました。

(注)
①茨城県岩井市出土(冨山家蔵)。
②『万葉集 一』日本古典文学大系、岩波書店。
③古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。


第2862話 2022/10/22

『日本霊異記』に「朱鳥日本紀(記)」の痕跡

 古代日本(倭国・日本国)が仏教を受容するとき、王家や個々人がどのような動機や目的により仏教を信仰したのだろうかと考えています。これは服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の論稿「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」(注①)に触発されたことによります。特に女性たちの動機は何だろうかと考えるようになり、『今昔物語集』や『日本霊異記』を読み直しています。今回は『日本霊異記』に九州年号の朱鳥が記されていることを紹介します。
 『日本霊異記』は八世紀末から九世紀初頭頃に撰述された仏教説話集ですが、その上巻の「忠臣、欲小(すく)なく、足るを知りて諸天に感ぜられ、報を得て、奇事を示す緣 第二十五」に次の記事が見えます。

〝故(もと)の中納言従三位大神高市萬侶の卿は、大后の天皇(持統)の時の忠臣なり。記有りて曰はく、「朱鳥七年壬辰の二月、諸司に詔して、三月三(日)に當りて伊勢に行幸(いでま)さ將(む)とす、此の意を知りて設備(まう)く宜(べ)し」とのたまふ。時に中納言、農務を妨げむことを恐り、上表して諫を立つ。(後略)〟(注②)

 ここに見える「朱鳥七年壬辰の二月、諸司に詔して、三月三(日)に當りて伊勢に行幸(いでま)さ將(む)とす、此の意を知りて設備(まう)く宜(べ)し」の記事は『日本書紀』持統六年条(692年)に見え、「記有りて曰はく」の「記」について、日本古典文学大系本の頭注には次の解説があります。

〝「記」は、書紀編纂に使用された一本か。前段(行幸を諫止する話)は、書紀所収。〟

 『日本書紀』には朱鳥は元年(686年)の天武の末年の一年で終わっており、「朱鳥七年壬辰」という年号は使用されていません。従って、ここに見える「記」は『日本書紀』編纂に使用された一史料と見なされているわけです。この解説に基づけば、『日本書紀』編纂時に参照された史料に、九州年号の朱鳥で年次が記された持統天皇の記録、いわば「朱鳥日本紀(記)」があったことになります。そしてそれは『日本霊異記』編纂時に遺っていたことになり、さらには近畿天皇家がみずからの天皇の事績を九州年号を用いて記していたということにもなるのです。この理解が正しければ、王朝交代直前の近畿天皇家の実態研究にも影響を与えそうです。
 このような「朱鳥」年号入りの記事が「雷山千如寺縁起」にも見え、古田先生はその元史料を「朱鳥日本紀」とネーミングされました。『万葉集』左注にも「朱鳥」年号が散見されるのですが、それらは持統元年(687年)を朱鳥元年とする年次表記であり、本来の九州年号「朱鳥」とは干支が一年ずれています(注③)。その点、今回紹介した『日本霊異記』の「朱鳥七年壬辰」は九州年号「朱鳥」と干支が一致しており、「朱鳥日本紀」のネーミングにふさわしいものです。

(注)
①服部静尚「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」『古田史学会報』172号、2022年10月。
②『日本霊異記』日本古典文学大系、岩波書店。129頁。
③干支が一年ずれている九州年号には、『万葉集』左注の「朱鳥」の他に、茨城県岩井市出土(冨山家蔵)「大化五子年」(699年)土器がある。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。


第2861話 2022/10/20

15年ぶりの斑鳩の里(法隆寺)

 昨日は15年ぶりに斑鳩の里(法隆寺)を訪れました。「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催の講演会「徹底討論 真実の聖徳太子 in 法隆寺」にコーディネーターとして参加するためです。JR法隆寺駅から会場の法隆寺i-センターまで12kmほど歩いたのですが、15年前に比べると足腰が弱っているようで、この距離が長く感じられました。
 講師と演題は、服部静尚さん「聖徳太子と仏教」と正木裕さん「聖徳太子は実在した」で、ご当地と関係が深い聖徳太子がテーマということもあり、会場はほぼ満席でした。奈良県民の歴史への関心の高さがうかがわれました(注①)。服部さんは『古田史学会報』172号に発表されたテーマで(注②)、女性差別の思想を持つ仏教を〝女帝〟の推古の時代のヤマト王権が受容したとは考えられず、九州王朝の多利思北孤が受容したとする説を中心に講演されました。正木さんからは、いわゆる聖徳太子とは九州王朝の天子、阿毎多利思北孤であるとする古田説の解説を中心に、九州王朝説や九州年号、『隋書』俀国伝や『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された倭国(九州王朝)の歴史と概要をわかりやすく解説されました。
 会場からは、初めて九州王朝説を聞いた方から「よくわかった、正しいと思う」との賛意が寄せられたり、「教科書に載るように頑張ってほしい」と応援する声もあり、盛況でした。「古田史学の会」の使命の大きさを改めて認識しました。講師のお二人を始め、主催者と参加された皆様に御礼申し上げます。

(注)
①30年ほど前、「市民の古代研究会」の会員数が700名を超えたとき、都道府県別の会員数と会員人口比率を調べたことがあった。会員数は大阪府や東京都など大都市が多く、県民数に占める会員の比率は奈良県が全国トップであった。
②服部静尚「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」『古田史学会報』172号、2022年10月。


第2860話 2022/10/16

銅鐸圏への侵入ルートは鳴門海峡

 昨日はドーンセンター(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会はエル大阪(大阪市中央区)で開催します(参加費1,000円)。コロナ騒動もやや落ち着いてきたためか、減少していた例会参加者数も徐々に戻りつつあるようです。
 今回の例会では正木さんの研究が注目されました。『日本書紀』神功紀の近江での忍熊王との戦闘譚を九州王朝の銅鐸圏への侵攻とする仮説を正木さんは発表されていましたが(注)、このときの神功皇后・武内宿禰らの九州から近江へ向かうルートが明石海峡ではなく、鳴門海峡であることを今回は指摘されました。これは神武東征ルートと同じであり、明石海峡が銅鐸圏の防衛拠点であることを神功紀の記事により明らかにされ、同時に銅鐸の出土数がこの記事と対応しているとされました。正木さんによれば、兵庫県の銅鐸出土数(68個)は全国一であり、その内の26個が淡路島からの出土とのこと。このように考古学的出土事実も正木説に対応しており、強い説得力を感じました。
 昼食休憩後、全国の会員へのサービスとして、関西例会のリモート参加制度を発足させたいとの提案をわたしから行い、実施のメリットや予想される問題点、運用ルール、参加登録手数料などについての試案を説明させていただきました。例会参加者からは賛否両論が出ましたので、それらのご意見を踏まえて検討を継続することにしました。
 10月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

(注)正木裕「神功紀(記)の『麛坂王・忍熊王の謀反』」古田史学の会・関西例会、2020年1月。
正木裕「神功紀(記)の「麛坂王(かごさかおう)・忍熊王(おしくまおう)の謀反」とは何か」『古田史学会報』156号、2020年。

〔10月度関西例会の内容〕
①縄文語で解く記紀の神々・七 ―伊邪那美神の生んだ国々(大阪市・西井健一郎)
②装飾古墳に見られる顎鬚の集団(大山崎町・大原重雄)
③『旧唐書』の倭国・日本国(姫路市・野田利郎)
④九州年号の証明 ―白鳳は白雉の美称にあらず(八尾市・服部静尚)
⑤群書類従に収録された各種縁起、系図の中にある九州年号の出典に関する考察(茨木市・満田正賢)
⑥「渦の道」の発見により達成できた銅矛勢力の銅鐸勢力駆逐(川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 11/19(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)
12/17(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)


第2859話 2022/10/15

信州上田に濃密分布する「番匠」地名

 昨日、「多元の会」主宰「古代史の会」にリモート参加させていただきました。吉村八洲男さん(上田市)により、上田市に遺る神科(かみしな)条里の成立が七世紀前半に遡り、九州王朝の進出と関係するのではないかとの研究が発表されました(注①)。吉村さんは、当地の古代製鉄の痕跡などを発見した研究者です。「古田史学の会」の会員でもあり、古代における九州と信州の密接な関係についての研究(注②)を進めるうえで、当地の歴史について何かと教えていただいています。
 今回の吉村さんの発表では、驚くべき史料事実が報告されました。江戸期の地名史料によれば、上田市に「番匠」やそれに類する地名が濃密分布(一村に一個所ほど)しているとのこと。他地域にはそのような地名分布は見えないようで、この「番匠」地名が古代に淵源するのであれば、九州王朝による信濃遷都計画に伴って派遣された「番匠」の痕跡ではないかとされました。
 九州王朝による前期難波宮(難波京)造営のために番匠の派遣が開始されたとする『伊予三島縁起』の記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申(九州年号、648年)、日本国御巡歴給」が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)により発見されていることもあり(注③)、九州王朝との関係が予想される興味深い「番匠」地名分布ではないでしょうか。吉村さんの研究の進展が期待されます。

(注)
①吉村八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会、2022年10月14日。
②古賀達也「多元的『信州』研究の新展開」『多元』136号、2016年。
 同「古代の九州と信州の接点」『東京古田会ニュース』190号、2020年。
 次の「洛中洛外日記」でも、九州と信州の関連について論じた。
 422話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
 483話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
 484話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
1065話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
1240話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
1248話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
1720話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布
2050話(2019/12/04) 古代の九州と信州の諸接点
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第2858話 2022/10/14

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(2)

 『隋書』俀国伝に記された、百済から俀国の都へ向かう裴世清の行程記事について、古田先生は主線行路「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と、傍線行路「又十余国を経て海岸に達す」に分けられたのですが、その理解を支えた根幹の論証がありました。それは、「又東して秦王国に至る」の直後にある「その人、華夏と同じ。以て夷洲と爲すも、疑ひて明らかにする能(あた)はざるなり」の記事に関するものです。この記事を古田先生は次のように理解されました(注①)。

〝この俀国の人々は、中国の人々とそっくりだ(よく似ている)。だから、〝ここは東夷の洲(しま)だ〟といわれても、中国人とはっきり区別できないほど、よく似ている。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、259~260頁

 古田先生は「その人」の「その」が、直前の「秦王国」ではなく、「俀国」を指すことを『隋書』夷蛮伝の用例を根拠として論証され、主線行路は「秦王国」で終了し、その後の記事は俀国の風俗(その人、華夏と同じ)や地勢(十余国を経て海岸に達す)に関する情報であるとされました。この「その人」の「その」が俀国を指すという論証が、行路を主線と傍線に分けて理解するという古田説成立の根幹となっているのです。
 なお、主線行路について、古田先生は次のように推定されています。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向〈四分法〉指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)。
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。(中略)首都圏「竹斯国」に一番近く、その東燐に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟同、275~276頁

 この裴世清が向かった行路については、古田学派内でも諸説が発表され、古田先生亡き後も活発な議論が続いています。これこそ、〝師の説にな、なづみそ〟の精神ではないでしょうか。ちなみに、古田説と同じく筑後川流域(筑後)から阿蘇山へと進む説は、わたしや谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)が発表しています(注②)。いずれ、真摯な論争の末に最有力説へと収斂するものと信じています。学問研究とはそのようなものですから。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
「『肥後の翁』と多利思北孤 ―筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解―」『古田史学会報』136号、2016年。
 谷本茂「『隋書』俀国伝の「俀の都(邪靡堆)」の位置について」『古田史学会報』158号、2020年。
 俀国の都を「肥」(肥前・肥後・筑後を含む広域)とする説が阿部周一氏(古田史学の会・会員、札幌市)から出されている。
 阿部周一「『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 ―行程記事から見える事―」『古田史学会報』148号、2018年。


第2857話 2022/10/13

『古田史学会報』172号の紹介

 『古田史学会報』172号が発行されました。一面に掲載された「『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について」は中国古典に博識な谷本さんならではの論稿です。『漢書』に付された三種類の注記(如淳・臣瓚・顔師古)について論じた西嶋定生氏の説を紹介し、そこでの古田説批判が的を射て居らず、「古田氏の見解を無視し、その内容に言及しないのは不可解」としたものです。『後漢書』の臣瓚注について、わたしは勉強したことがなく、西嶋氏の古田説批判も知りませんでした。古田先生とのお付き合いが永い谷本さんの論稿に、冥界の先生も目を細めておられることでしょう。

 拙稿〝官僚たちの王朝交代 ―律令制官人登用の母体―〟と〝「二倍年歴」研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―〟を掲載していただきました。前者は、七世紀末の藤原宮で執務した大勢の律令制官僚は前期難波宮の官僚が登用されたとする佐藤隆さん(大阪市教育委員会)の説を紹介し、その前期難波宮官僚群の母体となったのは七世紀前半の九州王朝の太宰府官僚群とするものです。
後者は、二十年ほど前に『論語』は二倍年暦で書かれているとする説を発表したとき、わたしに託された古田先生の遺訓(悉皆調査)と遺命(書籍発行)の経緯を紹介したものです。古田史学を生み出した古田先生の人となりを、わたしや関係者の記憶が確かな内に書きとどめていく必要を感じており、機会があればこれからも紹介したいと思います。

 172号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』172号の内容】
○『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について 神戸市 谷本 茂
○室見川銘板はやはり清朝の文鎮 京都府大山崎町 大原重雄
○官僚たちの王朝交代 ―律令制官人登用の母体― 京都市 古賀達也
○倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか 八尾市 服部静尚
○乙巳の変は九州王朝による蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった 茨木市 満田正賢
○「二倍年歴」研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十八
九州万葉歌巡り 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内


第2856話 2022/10/08

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(1)

 『三国志』倭人伝に見える邪馬壹国への行程記事について、古田先生は名著『「邪馬台国」はなかった』(注①)で、倭人伝原文の一字一句も改訂することなく見事に博多湾岸へと至る解読を明示されました。たとえば短里説(1里約76m)、韓国内陸行説、対海国(対馬)・一大国(壱岐)半周読法、部分里程の和は総里程(万二千余里)説などです。
 倭人伝の里程記事ほどではありませんが、『隋書』俀国伝にも百済から都への行程記事(注②)があり、古田学派内でも諸説が発表されています。古田先生は俀国の都をヤマトとする通説を次のように批判しています(注③)。

〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
 しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
 ①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
 ②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
 ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。

 この古田先生の批判は強烈です。隋使が向かった相手国(俀国)の都への途中地名(固有名詞)が記されていないことになる、「又十余国を経て海岸に達す」を主線行路と見なす理解はあまりに恣意的です。国使であれば、何をおいても相手国の首都への行路地名(固有名詞)を一つ一つ確認し、本国に報告しなければならないはずです。従って、「十余国」もの個別国名やそれらを経て達した海岸名が全く記されていないのですから、この記事を地形上の補足説明(傍線行路)と見なす古田先生の理解は妥当です。そして、この理解を確証づけた根幹の論証があります。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②次の行程記事が見える。
 「度百濟行至竹島南望*タン羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。」 ※「*タン」は偏が「身」、旁が「冉」の字。
③古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2855話 2022/10/07

邪馬臺国と邪馬壹国〝裴松之の証言〟

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注①)を読んで古田史学のファンになった人は少なくないと思います。かく言う、わたしもその一人です。『三国志』原文に邪馬臺(台)国という国名はなく、邪馬壹国であることに一驚し、「壹」は「臺」の誤りとしてきた通説への反証として、『三国志』中の全ての「壹」と「臺」の字を抜き出し、両者が誤って使用されていないことを実証する悉皆調査という学問の方法に二驚するという経験を読者は共通して抱かれたはずです。このとき、わたしは古代史研究において、いかに「学問の方法」が大切かということを始めて認識し、「学問の方法」というものを強く意識しながら、今日まで古代史研究を進めてきました。
 そこで、今回紹介するのは、「邪馬台国」論争における〝裴松之(はいしょうし)の証言〟という古田先生の論証方法です。この論証は古田ファンでもご存じない方が少なくないようですので、その背景も含めて論じたいと思います。
 古田先生の「邪馬壹国」説に対して、通説側からよく出される反論に、〝五世紀に成立した『後漢書』には「邪馬臺国」とあり、『三国志』版本のみに見える「邪馬壹国」は〝天下の孤称〟であり、『三国志』原本には「邪馬臺国」とあった〟とするものがありました(注②)。これに対する反証として提起された論証の一つが〝裴松之の証言〟です(注③)。
 『三国志』は三世紀に成立した同時代史料ですが、現存版本には五世紀の南朝劉宋の官僚、裴松之(372~451年)による大量の注が付されています。ちなみに『後漢書』は同じく南朝劉宋の范曄(はんよう、398~445年)により編纂されたものです。この裴松之の注について、古田先生は次のように解説されています。

〝朝命を受けて『三国志』に対する校異を行った裴松之が『三国志』と同時代の史書・資料二七二種を対比して、二〇二〇回にわたって、異同を精細に検証していながら、問題の「邪馬壹国」については何等の校異も注記していない事実。この史料事実に刮目すべきだ。裴松之は冒頭の「上三国志注表」に次のように書いている。
 「其れ、寿(『三国志』の著者、陳寿)の載せざる所、事の宜しく録を存すべき者は、則ち採取して以て其の闕(けつ)を捕はざるは罔(な)し」「或は事の本意を出し、疑いて判ずる能(あた)はざれば、並びに皆、内に抄す」「事の当否、寿の小失に及ばば、頗る愚意を以て論弁する所有り」〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、194頁。

 『後漢書』が編纂された南朝劉宋において、その官僚裴松之が『三国志』を校異したことは重要で、次のように古田先生は指摘されました。

〝つまり“『三国志』本文に問題があれば、のがさず批判を加え、異本があれば正文・異文ともに収録する”といっているのだ。しかも、これは南朝劉宋の朝廷の勅命によって行った仕事だ。当時現存の『三国志』諸本は、当然裴松之の視野内にあったはずである。しかるに、裴松之は「邪馬臺国」という異本のあったことを一切記していない。(中略)
 このような史料事実を直視する限り、従来「邪馬台国=大和」説を唱道してこられた直木孝次郎氏が「公平にみて古田説に歩(ぶ)のあることは認めなければなるまい」(「邪馬台国の習俗と宗儀」、『伝統と現代』第二十六号〈邪馬台国〉特集号)と言われるに至ったのは、不可避の成り行きである。
 後代著作をもってする「多数決の論理」で代置するのではなく、「壹」を非とし、「臺」を是とする、具体的な実証だけが必要だ。それなしにこの史料事実を恣意的に“書き変える”ことは許されない。〟同194~195頁

 この五世紀における〝裴松之の証言〟は、同一王朝内で成立した『後漢書』の「邪馬臺国」表記を根拠に「邪馬壹国」説を批判することが、学問の論理上成立しないことを明らかにしたのです。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971年)。ミネルヴァ書房より復刻。
②藪田嘉一郎「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」『歴史と人物』1975年9月。
③古田武彦「九州王朝の史料批判 ―藪田嘉一郎氏に答える―」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。初出は『歴史と人物』1975年12月。


第2854話 2022/10/06

俾弥呼と倭王武を繋いだ『南斉書』

 令和二年(2020年)八月に定年退職してから二年間、わたしは三つの課題に取り組んできました。一つは、より多くの考古学論文・発掘調査報告書を正確に読むこと。二つは、古田先生の初期の著作群をもう一度丁寧に読むこと。三つは、友好団体の例会・勉強会にリモート参加して〝異見〟を聞くことです。これらの課題はこれからも続けますが、視力と集中力が低下していますので、古田史学入門当初のようなスピード感は望むべくもありません。しかし、若い頃よりも深く考えることができるようになった気がします。
 その復習を兼ねて、初期の著作で展開された古田史学の重要な論証やテーマを「洛中洛外日記」に書き留め、皆さんに紹介したいと思います。古くからの古田ファンにはご存じのことばかりと思いますが、少々お付き合いください。
 最初に紹介するのは〝『南斉書』の証言〟と名付けられた九州王朝の継続性に関する重要な論証です。1975年に発表されたもので(注①)、『邪馬一国の証明』に収録されています(注②)。『南斉書』は南朝斉の史書で、梁の時代に成立しています。著者は蕭子顕(~537年、梁。注③)で、南斉の中枢官僚「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)です。『南斉書』には短文ですが倭伝があり、その歴史が簡潔に記されています。

○倭国。(A)帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ。(B)建元元年、進めて新たに使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ(「慕韓」は脱落。(A)(B)は古田)。

 前半部(A)は『三国志』倭人伝からの引用、後半部(B)は『宋書』からの引用です。この『南斉書』倭伝に表された倭国とは〝倭の五王の王朝は、三世紀俾弥呼の王朝の直接の後裔であり、その間において、とりたてて言うべき大きな地理的変化、つまり「東遷」などはなく、ほぼ同一領域に都をおいていた〟として、古田先生は次のように指摘されています。

 「これは次のことを意味する。〝三世紀の卑弥呼の王朝が筑紫(博多湾岸)に都していたことが決定的となったならば(古田『邪馬壹国の論理』所収の「邪馬台国論争は終わった」参照)、そのときはすなわち、倭の五王もまた筑紫の王者だ、と必ず見なさねばならぬ〟と。」『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、257~258頁。

 ここで重要なことは、〝『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物〟ということであり、『南斉書』倭伝の後半部(B)の倭王武の使者の記事は、著者が〝直接、南斉の天子のかたわらにあって、じかに目にし、直接耳にした事実と考えられ、史料としての信憑性は極度に高い〟ということです。その著者が、〝この倭王武の王朝は、『三国志』に書いてある俾弥呼や壹與の王朝の後裔だ〟と前半部(A)にはっきりと明述しているのです。
 この論理性を古田先生は〝『南斉書』の証言〟と名付け、いわゆる邪馬台国東遷説を否定するとされました。邪馬台国大和説が当地の考古学者から明確に否定されるようになった今日(注④)、一元史観を維持するため次にクローズアップされるのが、邪馬台国東遷説であることは容易に想像できます。そして、古田先生はそのような時代の到来を予見していたかの如く、〝『南斉書』の証言〟の論証を1975年時点で発表されていたのです。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『野性時代』1975年。
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。本書収録の「『謎の四世紀』の史料批判」、「古代史の虚像」、「古代船は九州王朝をめざす」に〝『南斉書』の証言〟に関する解説がみえる。
③『邪馬一国の証明』に次の紹介がある。
 「著者、蕭子顕(~五三七年、梁)もまた、南斉の中枢官僚(給事中)だった。彼は、斉の予章、文献王、嶷の子であり、「聡慧」だったため、父の文献王にことに愛せられたという。そして「王子の例」として、「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)に任命された〈『梁書』、二十九〉。(より重要なことは、『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物だ、ということである。後記。)。」(ミネルヴァ書房版、257頁)
 予章文献王蕭嶷は南斉第二代武帝の次男、従って蕭子顕は武帝の孫に当たる。
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。関川氏は元橿原考古学研究所員。


第2853話 2022/10/05

宮名を以て天皇号を称した王権(4)

 古田先生は、船王後墓誌に見える乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇とする通説を批判されました(注①)。次の通りです。

〝(一)敏達天皇は、日本書紀によれば、「百済大井宮」にあった。のち(四年)幸玉宮に遷った。それが譯語田(おさだ)の地とされる(古事記では「他田宮」)。
 (二)推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田(おはりだ)宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。
 (三)舒明天皇は「岡本宮」(飛鳥岡の傍)が火災に遭い、田中宮(橿原市田中町)へ移り、のちに(十二年)「厩坂(うまやさか)宮」(橿原市大棘町の地域か)、さらに「百済宮」に徒(うつ)った、とされる。
 (四)したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。(後略)〟

 この古田先生の指摘への反証を拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」(注②)で行いましたが、今回、推古天皇の宮についての古田先生の指摘が適切ではないことに気づきました。
 〝推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田(おはりだ)宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。〟とされ、〝したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。〟と批判し、これら三天皇は近畿天皇家ではないとする根拠の一つにされたわけです。ところが、この三つの地名「乎裟陁(おさだ)」「等由羅(とゆら)」「阿須迦(あすか)」の所在地について、湊哲夫さんの『飛鳥の古代史』(注③)によれば、阿須迦(飛鳥)は明日香村内の飛鳥川流域の小地域、等由羅(豊浦)は明治二十二年に飛鳥と合併して飛鳥村になっていることから阿須迦(飛鳥)の近隣(すなわち「飛鳥」内ではない)、乎裟陁(訳田)は桜井市戒重付近とされています。
 従って、現在の行政地名「奈良県高市郡明日香村豊浦」に基づき、豊浦宮を飛鳥内と理解し、推古天皇を差し置いて舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶはずがないとした古田先生の批判は根拠を失うのです。古代地名としての飛鳥と豊浦が近隣の別の場所であれば、むしろ船王後墓誌の三天皇を敏達・推古・舒明とする通説の方が適切な理解となります。
 なお、アスカを筑前から筑後にかけての広域地名とする正木裕さんの研究(注④)があります。わたしの見るところ、仮説として成立しており、『日本書紀』や金石文・木簡に見える「飛鳥」との関係をどのように解釈するのかが注目されます。

(注)
①古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
③湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
④正木裕「『筑紫なる飛鳥宮』を探る」『古田史学会報』103号、2011年。