第3391話 2024/12/11

「明石書店出版図書目録2025」が届く

 本日、明石書店から「明石書店出版図書目録2025」が届きました。同誌は明石書店から出版された書籍の目録で、毎年送っていただいています。同書店からは「古田史学の会」が編集している会員論集『古代に真実を求めて』を発行していただいており、今回の目録にも『古代に真実を求めて』第1集~27集が3頁にわたって掲載されています。

 自画自賛になりますが、『古代に真実を求めて』は同社刊行物の古代史分野を代表する書籍の地位を占めているように思います。文科省の外郭団体である国立情報学研究所(CiNii・サイニー)の登録認定書籍(注)に同書が指定されていることも、その現れではないでしょうか。なぜなら、国立情報学研究所が運営している「CiNii Research」に学術誌として認定登録されていることは、同書が学術研究誌として日本国家の認定を受けていることを意味し、それはなかなか得がたい待遇です。研究者や学生が自らの研究分野の関連研究や先行論文を検索する際、CiNiiを利用するのは、そのような国立情報学研究所のお墨付きを得ている書籍・論文であるからでもあります。

 『古代に真実を求めて』の掲載論文はCiNiiの登録認定を維持するために、それにふさわしい学問研究水準を維持し続けなければならず、もし認定取り消しとなったら、古田学派にとって大きな損失であり、社会科学系出版社としての評価を得ている明石書店にも迷惑(ブランド毀損)をかけることになります。

 なお、来春発行の『古代に真実を求めて』28集「列島の古代と風土記」は明石書店で初校ゲラを作成中です。年内にはゲラができあがり、掲載論文執筆者と編集部のゲラ校正担当者(西村さん、谷本さん、古賀)に届く予定です。その次の29集特集テーマは「藤原京と古代都城」で、投稿締切は2025年9月末です。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3104話(2023/09/04)〝『古代に真実を求めて』CiNii認定の重み〟


第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

 〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3389話 2024/12/09

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (1)

 「洛中洛外日記」〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 〟(注①)で、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれる可能性について論じました。そこでの結論は、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていることから(津軽海峡の存在を知っている)、このことを重視すれば、倭国に「附屬」する「五十餘国」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいとしました。すなわち、「東西五月行」の領域には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が含まれるとする理解です。

 これは七世紀後半に蝦夷国が倭国(九州王朝)に服属していたか否かというテーマでもあります。わたしの考察によれば、七世紀後半頃の蝦夷国は倭国の影響下にあり、その状況を「附屬」と『旧唐書』編者は表したとするに至りました。このことを示唆する『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の記事があります(注③)。

「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 唐の天子の質問に対して、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると、倭国の使者は答えています。遠くの都加留とは津軽地方(現・青森県)のことと思われ、その地の蝦夷が津軽海峡の存在を知らないはずがありません。従って、倭国伝には倭国の位置を「在新羅東南大海中」の島国と記されたわけです。また、熟蝦夷が毎歳「本國之朝」に入貢しているという記述も、倭国に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれているとする、わたしの見解を支持しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3385話(2024/12/03)〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 (1)〟
②『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『日本書紀』斉明五年(659)七月条に次の蝦夷関連記事がある。
秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。
伊吉連博德書曰「(前略)天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歳入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。(後略)」
難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」


第3388話 2024/12/08

『東京古田会ニュース』219号の紹介

 『東京古田会ニュース』219号が届きました。拙稿「『幻想の津軽中山古墳群』の証言」を掲載していただきました。同稿で紹介した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』(昭和51年刊)は、三十年前の和田家文書調査時に青森で入手したもので、同書には、津軽地方の石塔山横穴古墳(役小角墳墓)の解説中に、和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。次の記述です。

 「発見者(昭和26年6月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。」70頁

 昭和26年に、山中で炭焼きをしていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した遺物について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏(25歳)よりも父親の元市氏の発言が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説と、当時の状況を知る人の証言とは食い違うことを示しており、奈利田氏の証言は貴重です。

 同号で最も注目したのが國枝浩さん(世田谷区)の「本居宣長の中国との外交史論」でした。本居宣長『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』に見える日中国交史における宣長の思想性を論じたもの。古代史学界の一元史観批判にも通じる鋭い指摘であり、刮目しました。

 なお、國枝稿では『続日本紀』和銅二年条の蝦夷討伐記事を根拠に、『日本書紀』斉明四年条に見える蝦夷征討記事を史実とは認められないとしますが、『続日本紀』に記された大和朝廷と蝦夷国との交戦記事と、斉明紀に記された九州王朝によると思われる蝦夷支配記事を同列には扱えません。これは重要なテーマですので、改めて私見を述べたいと思います。


第3387話 2024/12/06

『旧唐書』倭国伝の

   「東西五月行、南北三月行」 (3)

今回は『旧唐書』倭国伝冒頭に見える、「東西五月行、南北三月行」の「南北三月行」について検討します。
「東西五月行」の検証と同様の視点により、倭国(九州王朝)の南北の距離(月数表記)を得るために、古代官道(駅路)と海道の対馬・壹岐から薩摩国・南島諸国までの駅数(『延喜式』「兵部省」による、注①)を合計するのですが、『延喜式』や『養老律令』には海路についての規定が見えず、種子島・屋久島・奄美大島などの南島諸国の行程日数の判断が今のところ困難です。そこでとりあえず、南北行路(九州縦断西陸路)にあり、薩摩国の古代からの港、坊津までの駅数を仮定し合計すると、概ね次のようになります。

❶肥前国(登望~大村 5駅)→筑前国内大宰府経由(佐尉~把伎 10駅) 計15駅
❷筑後国内(国府~狩道) 4駅
❸肥後国内 15駅
❹薩摩国内(市来~櫟野 6駅)→坊津(南さつま市)まで(仮に3駅と仮定) 計9駅

Ⅰ ❶❷❸❹の合計43駅
43駅÷29.5日≒1.5ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅱ これに壱岐島の2駅を加えると45駅。更に九州島との海峡渡海に1日を加える。
(45駅+1日)÷29.5日≒1.6ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅲ 更に対馬島内を4駅と仮定し、壹岐島への渡海1日を加える。
(49駅+2日)÷29.5日≒1.7ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅳ 更に南島諸国の面積・人口比較などに基づき(注②)、種子島3駅・屋久島2駅・奄美大島3駅・徳之島2駅(計10駅)と仮定し、それぞれの渡海1日(計4日)を加える。
(59駅+6日)÷29.5日≒2.2ヶ月 概数表記 「南北二月行」

以上の試算によれば、「南北二月行」との概数が得られました。『旧唐書』の「南北三月行」には足りませんが、南島諸国の範囲・駅数や、海路の行程日数などが全て仮定の値を使用しており、不正確なものとせざるを得ません。しかしながら大きくは外れていませんし、慎重を期して沖縄(琉球国)を南島諸国に入れていませんので、沖縄を加えれば「南北三月行」という表現は妥当となりそうです。結論として、『旧唐書』や『隋書』に見える倭国の領域表記「東西五月行、南北三月行」は、当時の倭国側の実測値に基づく妥当な認識のように思われます。(おわり)

(注)
①『延喜式』兵部省の「諸國駅傳馬」に記載された駅数よる。
②各島の面積と人口(2020年 総務省)。駅数は次のようにする。
壹岐島  135km2 25,000人 2駅『延喜式』による。
対馬島 696km2 28,374人 (4駅) 仮定。
種子島 444km2 27,690人 (3駅) 仮定。
屋久島 504km2 11,765人 (2駅) 仮定。
奄美大島 712km2 57,511人 (3駅) 仮定。
徳之島  248km2 21,803人 (2駅) 仮定。


第3386話 2024/12/04

『旧唐書』倭国伝の

    「東西五月行、南北三月行」 (2)

 本テーマで、わたしは古代官道(駅路)の行程日数を一日一駅として月数(概数)を計算しました。例えば、「東海道五十三次」であれば、終着点の京への一日を加えて、五十四日の旅程とし、それを陰暦の一月の平均値29.5日で割り(54÷29.5≒1.8ヶ月)、概算月数表記は「二月行」になると考えたわけです。これに対して、東海道は徒歩でも12~13日で行けるので(注①)、「一日一駅」は適切ではないとする反論が出ることを当然ながら予想できました。しかしその上で、『旧唐書』倭国伝の記事「東西五月行、南北三月行」は「一日一駅」によるものと判断しました。その理由はフィロロギーの方法と文献史学によるエビデンスと研究結果にありました。今回はこの二点について説明します。

 まず、フィロロギーの〝古代人がどのように考え、認識していたのかを、現代のわたしたちが正確に再認識する〟という視点で、次のように考察しました。

(1) 『旧唐書』倭国伝の記事「東西五月行、南北三月行」は前代の史書『隋書』俀国伝の「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海」を採用したものと考えられる。
(2) 俀国伝には、その記事の直前に「夷人は里數を知らず。但(ただ)、計るに日を以(もっ)てす」とあり、夷人(倭人)は里数(里という単位)を知らないので、距離を行程日数(月数)で計っていると『隋書』の編者は認識している。
(3) しかし、隋の時代(七世紀初頭)に至っても倭国が里単位を知らなかったなどとは考えられない。距離や長さの単位を国家が認定し、採用していなかったのであれば、法隆寺のような建築物や太宰府条坊都市などを設計・造営できないからだ。
(4) 従って、隋や唐が採用した長里(注②)と古くからの短里(一里約76m)を採用していた倭国の里単位とでは、同じ距離の測定値が大きく異なることになるため、隋の使者は〝倭人は里単位を知らない〟と判断したものと思われる。そのため、倭国の距離を倭人からの月数表記情報に基づき、隋使は「其國境、東西五月行、南北三月行」と本国に報告し、『隋書』編者はそれを採用した。
(5) この理解に立てば、倭人は自国の領域を「東西五月行、南北三月行」と認識していたことになる。従って、この月数は実際の行程日数に基づいたものと考えざるを得ない。倭人がウソをついたとするのであれば、そう主張する側が根拠を示し、論証しなければならない。
(6) 逆に、この「東西五月行、南北三月行」という認識が正しければ、そのことを証明できるエビデンスがあるはずだ。

 以上の考察により、わたしは『延喜式』「諸國駅傳馬」に記された駅路と駅数をエビデンスとして採用し、「一日一駅」で試算したところ、『隋書』や『旧唐書』の「東西五月行」という表現とピッタリ対応することに気づいたのです。
次に、文献史学によるエビデンス調査と研究を行いました。その調査は主に「一日一駅」の根拠に集中しました。そして『養老律令』(注③)に次の条項があることを確認しました。

(7) 凡そ諸道に駅置くべくは、卅里毎に一駅を置け。(後略)〔厩牧令「須置駅条」〕
(8) 凡そ行程、馬は日七十里、歩(かち)五十里、車卅里。〔公式令「行程条」〕

 厩牧令「須置駅条」によれば、駅路には三十里(約16km)毎に駅を置くことが定められています。ただし、地勢や水源などの条件によってはその距離の増減も同条後文で認められています。そして公式令「行程条」には、一日の行程距離が規定されており、荷物を運ぶ「車」は三十里とあり、これは駅間の距離と同じです。従って、食料や水などの必需品の「車」での運搬が必要な遠路の行程では、「一日一駅」が令条文により定められた行程であることがわかります。ちなみに、この「車」による行路であることを示す「車路(くるまじ)」「クルマジ」という地名が古代官道跡に遺存していることも知られています(注④)。

 以上のように、「一日一駅」として行程日数を求めたことは適切な判断でした。(つづく)

(注)
①武部健一『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』中公新書、2015年。同書120頁に「江戸時代の東海道の旅は、一般に一二~一三日を要した」とある。
②古賀達也「唐代里単位の考察 ―「小里」と「大里」の混在―」『古田史学会報』175号、2023年。『旧唐書』地理志によれば、唐では「小里」(約430m)と「大里」(約540m)が混在することを論じた。
③『律令』日本思想大系、岩波書店、1990年版。
④木本雅康「西海道の古代官道」『海路』海鳥社、2015年。同稿12頁に「白村江の敗北による対外危機に備えて造られたと推測される古代山城を結ぶように、「車路」と呼ばれる直線路がはりめぐらされている」とある。


第3385話 2024/12/03

『旧唐書』倭国伝の

   「東西五月行、南北三月行」 (1)

 「洛中洛外日記」3380話〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟(注①)において、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」を、律令制による六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国あるいは出羽国も除いた国の数(五十六国、五十五国)ではないかとしました。もし蝦夷国が「附屬」の国に含まれていれば五十七国となります。

 この仮説が妥当であれば、倭国伝に記された倭国の地勢や領域を表現した「東西五月行、南北三月行」について説明できることに気づきました(注③)。たとえば「東海道五十三次」のように、江戸から京までの宿場ごとに一泊すれば、東海道の距離を次のように月数表記できます。

 東海道53+京1=54日
54÷29.5日(陰暦の一ヶ月)≒1.8ヶ月
概数表記 「東西二月行」

 これと同様の視点により、倭国(九州王朝)の東西の領域を律令制諸国の肥前国から陸奥国(蝦夷国)までの古代官道(駅路)の駅数を『延喜式』(注④)の「諸國駅傳馬」記事から求めると、その合計は次のようになります。

❶肥前国(15駅)→大宰府(1)→豊前国北端(2駅) 計18駅
❷山陽道(56駅) 計56駅
❸畿内(摂津国3駅・河内国3駅・山城国1駅・京1駅) 計8駅
❹東山道(常陸国まで) 計51駅
❺東山道(陸奥国内24駅を含む) 計75駅

◎常陸国まで ❶❷❸❹133駅÷29.5日≒4.5ヶ月 概数表記 「東西五月行」
◎陸奥国内を含む ❶❷❸❺157駅÷29.5日≒5.3ヶ月 概数表記 「東西五月行」

 このように、倭国(九州王朝)に陸奥国(蝦夷国)が「附屬」していても、していなくても、月数表記の概数は「東西五月行」となり、『旧唐書』倭国伝の東西領域距離「東西五月行」と一致します。結論として、古田先生が提起された「東西五月行」領域と似た認識に至りました。また、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていますから(津軽海峡の存在を認識している)、このことを重視すれば「東西五月行」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいように思われます。これは七世紀後半の蝦夷国が倭国に「附屬」していたか否かというテーマでもあり、速断しない方が良いかも知れません。

 なお、本稿の論証が成立するためには、『延喜式』成立時(927年)と唐代の倭国(七世紀後半頃)における駅路と駅数がほぼ同じであることを前提としますが、「東西五月行」という±10%の幅を持つ概数表記であるため、エビデンスや方法論に大過ないと思われます。続いて「南北三月行」も同じ視点で検証します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3380話(2024/11/20)〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟
②『旧唐書』倭国伝の冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『隋書』俀国伝にも俀国の領域を「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海」とする記事がある。
④『延喜式』兵部省の「諸國駅傳馬」に記載された駅数よる。


第3384話 2024/11/28

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (3)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を「太寶元年」木簡と「大宝二年籍」西海道戸籍に基づいて考察しましたが、今回は筑紫大宰府が大和朝廷の支配下に置かれたことを端的に示す「和銅」ヘラ書き須恵器甕片を紹介します。
『延喜式』「主計寮上」によれば、筑前国の「調」(注①)として「大甕九口」「小甕百九十五口」が記されています。そのことを示すヘラ書き甕片が牛頸(うしくび)須恵器窯跡群や大宰府条坊跡から出土しています。それには次の文字がヘラ書きされています。

❶「*甕和銅八年」
❷「仲郡手」
❸「筑紫前国奈珂郡
手東里大神マ得身

幷三人
調大*甕一隻和銅六年」
❹「年調大*甕一」
❺「大神君百江
大神部麻呂
内椋人万呂
幷三人奉
*甕一隻和銅六年」
※*甕は瓦偏に長。

❶は大宰府条坊跡の羅城門近くから出土。❷~❺は牛頸須恵器窯跡群出土。

 これらの銘文から、和銅六年(713)頃には筑前国が日本国(大和朝廷)の収税の対象に入っていたことがわかります。しかし、それ以前の年号(大寶・慶雲)が記された甕片などが見えないことから、大宝元年(701)に日本国(大和朝廷)の影響下(大宝律令に基づく統治領域)に入った筑前国は和銅年間(708~715)に至り、本格的な収税の対象国に組み込まれたと考えることができそうです。

 この点、注目されるのが『続日本紀』養老二年(719)四月条の「道君首名(みちのきみおびとな)卒伝」です。「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、首名が筑後国の国司に就任(肥後国兼任)した次の記事が見えます。

「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 和銅年間の末年は和銅八年(715年)ですから、先の大宰府条坊跡から出土した「和銅八年」ヘラ書き甕片との一致は偶然ではなく、大宝元年から和銅八年にかけて、筑前国を完全に自らの律令体制に組み込んだ大和朝廷が、次に筑後国(肥後国兼任)にも国司を派遣したという王朝交代直後の歴史経緯の痕跡ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①租庸調の一つで、都へ上納した地域の産物(布・糸・絹・特産物など)が「調」と呼ばれている。
②古賀達也「洛中洛外日記」3350~3362話(2024/09/23~10/05)〝『続日本紀』道君首名卒伝の「和銅末」の考察 (1)~(7)〟


第3383話 2024/11/26

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (2)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を考える上で、「太寶元年」木簡以上に優れた同時代エビデンスがあります。それは大宝二年籍と呼ばれる702年に造籍された西海道戸籍です。奈良の正倉院などに保存されていたもので、筑前国嶋郡川部里をはじめ豊前国上三毛郡塔里戸籍・仲津郡丁里戸籍などの断簡が現存しています。

 同戸籍には「大寶二年」と記されており、八世紀初頭の同時代史料であることを疑えません。造籍作業は恐らくは前年から開始されたものと思われ、そうであれば大宝元年には少なくとも筑前国や豊前国など北部九州諸国は王朝交代直後から大和朝廷の命令により造籍を開始したことになります。このことは、造籍に携わる各地の「郡」の役人は九州王朝の「評」制時代からの役人と考えざるを得ないことから、王朝交代は筑紫に於いて整然と官僚組織の秩序を維持してなされたことを意味します。

 ちなみに、太宰府市国分松本遺跡からは七世紀第4四半期頃の戸籍木簡が出土しており(注①)、九州の役人たちは造籍作業に手慣れていたものと思われます。それは次の二つの木簡です。

【木簡番号】0
【本文】・/嶋評/○/「嶋□□〔戸ヵ〕」/○/「□□□」∥○/§戸主建部身麻呂戸又附去建□〔部ヵ〕→/政丁次得□□〔万呂ヵ〕兵士次伊支麻呂政丁次→/占部恵〈〉川部里占部赤足戸有□□→/小子之母占部真□〔廣ヵ〕女老女之子得→/穴凡部加奈代戸有附□□□□□□〔建部万呂戸ヵ〕占部→/□□∥・并十一人同里人進大貮建部成戸有○§戸主□〔建ヵ〕→\同里人建部咋戸有戸主妹夜乎女同戸□〔有ヵ〕□→\麻呂損戸○又依去同部得麻女丁女同里□〔人ヵ〕□→\白髪部伊止布損戸○二戸別本戸主建部小麻呂□→
【文字説明】表面、二列目三行目「戸有□」の「□」は「金偏」の文字。
【遺跡名】国分松本遺跡
【所在地】福岡県太宰府市国分三丁目
【遺構番号】SX001上層
【国郡郷里】文書
【国郡郷里】筑前国志麻郡〈嶋評〉・筑前国志麻郡川辺郷〈川部里〉
【人名】建部身麻呂・得(万呂)・伊支麻呂・占部恵・占部赤足・占部真(廣)女・得→・穴凡部加奈代・(建部万呂)・建部成・建部咋・夜乎女・得麻女・丁女・白髪部伊止布・建部小麻呂

【木簡番号】0
【本文】竺志前国嶋評/私□板十六枚目録板三枚父母/方板五枚并廿四枚∥
【形状】帳簿木簡をまとめて管理する際にインデックス的な機能を持つ付札として使用されたとみられる。
【遺跡名】国分松本遺跡
【所在地】福岡県太宰府市国分三丁目
【遺構番号】SX001上層
【国郡郷里】付札
【国郡郷里】筑前国志麻郡〈竺志前国嶋評〉

「嶋評」「竺志前国嶋評」「進大貮」などの記述から、七世紀末頃の木簡と見られています(注②)。(つづく)

(注)
①2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の嶋評戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域である当地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせる。正倉院文書の大宝二年「筑前国川辺里戸籍断簡」などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなった。
②古賀達也「太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―」『古田史学会報』112号、2012年。


第3382話 2024/11/25

王朝交代直後(八世紀第1四半期)

           の筑紫 (1)

 「洛中洛外日記」3380話(2024/11/20)〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟などで、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の倭国(九州王朝)と近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)の実勢力範囲(統治領域)を飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国名を根拠に論じました。今回は王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を確かなエビデンスに基づき、考察を試みたいと思います。

 最初のエビデンスは「大宝」年号木簡です。福岡市西区の元岡・桑原遺跡から次の「太寶元年」木簡が出土しています。奈良文化財研究所の「木簡庫」より、要約転載します。ここで留意していただきたいのが、通常は「大寶」とされていますが、出土木簡のほとんどは「太寶」と、「太」の字が採用されています。その理由は知りませんが、興味深いことです。「太宰府」と「大宰府」のように、現存地名などは太宰府ですが、『日本書紀』などでは大宰府と記されており、「太」と「大」には何か歴史的背景がありそうです。

【木簡番号】8
【本文】・太寶元年辛丑十二月廿二日\白□□□〔米二石ヵ〕〈〉鮑廿四連代税\○官川内□〔歳ヵ〕六黒毛馬胸白・○「六人部川内」
【出典】木研33-162頁-(5)(『元岡・桑原遺跡群14』-8・木簡黎明-(165)・木研23-158頁-(5))
【文字説明】裏面「部(マ)」は「ア」の字形。
【遺跡名】元岡・桑原遺跡群
【所在地】福岡県福岡市西区大字桑原字戸山
【遺構番号】SX002
【内容分類】荷札・文書?
【人名】六人部川内
【和暦】(辛丑年)大宝1年12月22日
【西暦】701年12月22日

 この木簡が指し示すように、王朝交代したその年(701年)の暮れには、九州王朝(倭国)の中枢領域で大和朝廷(日本国)最初の年号「太寶」が使用されていることは注目されます。この事実は、少なくとも筑前国ではスムーズに権力移行がなされたことを示唆します(注①)。

 なお、服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」(注②)によれば、次のように読まれています。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

 □は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されています。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3381話 2024/11/23

大阪考古学の惨状を憂う

 大阪では、難波の宮跡を筆頭に重要な考古学調査が戦後すぐから行われてきました。中でも山根徳太郎氏の難波宮発見の偉業は著名で、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注)。わたしたち「古田史学の会」は、大阪の代表的な考古学者をお招きして講演していただいてきました。そのお一人に、高橋工氏がいます。氏が所属する大阪市文化財協会は大阪府と大阪市の二重行政解消の方針により解散することが決まっています。当然、その事業や技術、学問上の資産は大阪府・大阪市に引き継がれるものと思っていたのですが、そうではないことを報道で知りました。

 産経新聞WEB版(2024.11.22)によれば、市文協が持つ独自の遺物の保存技術の継承先もなく、十数万冊に及ぶ蔵書は国内に引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっているとのこと。この報道に接し、わたしは愕然としました。なぜ大阪の政治家や行政は日本の伝統文化や技術、学問を守ろうしないのかと。こうした大阪考古学の惨状を、冥界の山根徳太郎氏は憂いておられるのではないでしょうか。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3302~3307話(2024/06/12~22)〝難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)~(5)〟

【産経新聞 WEB版】2024.11.22 から転載

どうなる大阪の遺跡発掘・保存
二重行政解消で解散の市文化財協会、黒字経営でも容赦なし

 大都市である大阪の地中には、いまだ解明されず謎に包まれた遺跡が数多く眠っている。7~8世紀に都が置かれ、「日本」という国号や元号の使用が始まったとされる国指定史跡「難波宮跡」など、歴史的に重要な遺跡も多い。これらの遺跡を発掘・調査してきた大阪市の外郭団体「市文化財協会(市文協)」が今年度末で解散する。地域政党「大阪維新の会」が進めてきた大阪府市の二重行政の解消による余波だ。市文協が得意とする遺物の保存処理技術も継承されなくなる恐れがあり、今後の文化財保護行政の課題になりそうだ。

 市文協は大阪市内の文化財の調査研究と保存、文化・教育の向上発展を目的に昭和54年に設立され、大坂城跡や難波宮跡など各遺跡の発掘や発掘成果の普及啓発業務を担ってきた。

 市文協の解散は平成25年、当時の橋下徹市長らが進めた二重行政の解消を目的とする府市統合本部会議で方針が決まった。市文協と、府内の文化財の調査や研究を担う府文化財センター(府センター)が「類似・重複している行政サービス」とされたためだ。事業整理に時間を要したが、今年6月に正式に解散が決定した。

 来年度以降は、調査期間が1週間未満の案件は市教委が、それ以外は府センターが発掘調査を担う。これまでの発掘資料や遺物などは市教委が引き継ぎ、市民向けの展示会や情報発信、現地説明会などについても市教委が判断する。

再開発でまだ見ぬ遺跡発見も

 市文協を管轄する市経済戦略局は解散理由について「外郭団体の整理の一環」と説明するが、市文協の担当者は「府市で重複している事業はなかった」と反論している。市文協によると、これまで府内の発掘調査や研究、遺物の展示などは、大阪市とその他の自治体ですみ分けられていたという。

 また、全国的には都市開発が落ち着き、遺跡の発掘調査は昭和~平成に比べると減少傾向にあるが、大阪市内では大規模な再開発や地中を深く掘り返すような建設が数多く進行、計画されており、歴史的価値を帯びた、まだ見ぬ遺跡が発見される可能性が高いという。

 市文協の担当者は「大坂城周辺や難波宮周辺、上町台地など、縄文から中世にかけての日本の歴史をたどる上で重要な遺物がたくさんあることが推測される」と話す。

エルミタージュから視察

 一方、市文協は独自の遺物の保存技術も有する。トレハロース(糖質)を使用した木造遺物の保存処理技術を開発。木製品を保存するためにトレハロースを染み込ませて固める手法は、温度やトレハロースの濃度など細かな管理が求められる高度な技術という。ロシアのエルミタージュ美術館をはじめとする海外の研究機関から視察に訪れるほどだ。市文協は他の自治体から遺物の保存処理を受託しており、年間2千万~3千万円の収入を得ていた。

 「基本的には黒字経営。市文協は市税を投入して運営しているわけでもなかったのに、なぜ解散を迫られたのかわからない」と担当者は憤る。

 この保存技術は「利益を生むため行政にはそぐわない」などとして、市教委には継承されないという。府センターも保存処理事業は実施しておらず、移管の予定はない。

十数万の蔵書を韓国に譲渡

 さらに市文協の十数万冊に及ぶ蔵書は国内での引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっている。担当者は「貴重な資料。本来であれば国内に残しておくべきものだった」と肩を落とした。

 市文協の評議員で大阪公立大文学研究科の岸本直文教授(考古学)は「質の高い研究で市の文化財保護を長年にわたって支えてきた。解散の理由が不明だ」と指摘。その上で「埋蔵文化財は文化財全体の中で大きな柱の一つ。研究体制が弱体化しないよう、行政が責任を持たなければならない」と述べた。

 市教委の担当者は「発掘調査についてはすでに市と府センターに移管され、滞りなく事業が進んでいる。課題や問題は今のところない」としている。(石橋明日佳)