第3299話 2024/06/09

金光上人関連の和田家文書 (2)

 和田家文書には金光上人(注①)に関する史料群があり、遅くともその一部は昭和24年には五所川原市飯詰の和田家の近くにある大泉寺の住職、開米智鎧氏にわたっています(注②)。それは「東日流外三郡誌」(昭和50年『市浦村史資料編』として刊行開始)よりも早い時期に世に出た和田家文書で、昭和22年夏に和田家天井裏に吊るしていた木箱が落下し、その中に入っていた古文書に金光上人史料が入っていたようです。当初は、山中の洞窟から発見された「役小角史料」が『飯詰村史』(注③)に掲載されていますが、その後、和田家文書中に金光上人史料が発見され、開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)が調査研究されています。

 開米智鎧『金光上人』(昭和39年刊)には、当時の経緯が次のように紹介されています。

 「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。

 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。

 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。

 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」

 『金光上人』に先だって、佐藤堅瑞氏が『金光上人の研究』(昭和35年、注④)を発刊されています。佐藤氏はわたしからの質問に答えて次のように当時を回顧しています。『古田史学会報』7号(1995年)より、以下に抜粋して転載します。

 「金光上人史料」発見のいきさつ
平成七年(一九九五)五月五日、わたしは青森県柏村の淨円寺を訪れた。和田家文書が公開された昭和二十年代のことを知る人は今では殆どいなくなったが、開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(インタビュー時、八十才)に当時のことを証言していただくためだ。

 佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進め、昭和三五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊された。また、青森県仏教会々長の要職も兼ねておられた。

 「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。

〔古賀〕和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。
〔佐藤〕昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
〔古賀〕和田家文書にある「末法念仏独明抄」には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。
〔佐藤〕そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた「末法念仏独明抄」なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。
〔古賀〕内容も素晴らしいですからね。
〔佐藤〕素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。
〔古賀〕御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。
〔佐藤〕そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角(えんのおづぬ)の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや「末法念仏独明抄」のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。
〔古賀〕思想的にも素晴らしい内容ですものね。
〔佐藤〕こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。
〔古賀〕最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。
〔佐藤〕そうそう。
〔古賀〕親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。
〔佐藤〕はい。あの方が一番早いんです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。
〔佐藤〕そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。
〔古賀〕佐藤さんも洞窟を見られたのですか。
〔佐藤〕そばまでは行きましたが、見ていません。
〔古賀〕開米さんは洞窟に入られたようですね。
〔佐藤〕そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。
〔古賀〕佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。
〔佐藤〕淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。
〔古賀〕量はどのくらいあったのでしょうか。
〔佐藤〕あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。
〔佐藤〕そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。
〔古賀〕当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。(つづく)

(注)
①金光(1154~1217年)は浄土宗の僧侶。九州石垣(福岡県久留米市田主丸町)の出身。土地の訴訟で鎌倉へ来た際に法然の弟子安楽と出会い、やがて法然に帰依して東北地方に念仏信仰を広めた。詳しい伝歴は不明。
②開米智鎧編『金光上人』昭和39年・1964年による。
③福士貞蔵編『飯詰村史』飯詰村役場、昭和26年。編者「自序」には「昭和24年霜月」とあり、編集は昭和24年に終了していたようである。霜月は陰暦の11月。昭和22年夏に天井から落下した和田家文書の一つ「飯詰町諸翁聞取帳」は、その翌日に福士氏にもたらされている(和田喜八郎氏談)。
④佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』昭和35年。


第3298話 2024/06/08

金光上人関連の和田家文書 (1)

 『東日流外三郡誌』を中心とする和田家文書の研究のため、史料性格別に次のように分類し、それに応じた史料批判が必要と発表してきました(注①)。

【和田家文書群の分類】
(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行した機械梳き和紙が主流(注②)。
(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。明治・大正期に使用された大福帳の裏紙再利用が多い。
(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、薄墨などで古色処理が施されたものや故意に破ったものがある。和田喜八郎氏によれば、コーヒー等で着色を試みたとのこと。展示会用として外部に流出したものによく見られる。真新しい和紙に書かれたものが若干ある。

 これらのなかで、書写年代が比較的古いこともあって、史料批判が容易なα群に属する「東日流外三郡誌」はもっとも信頼性が高い史料と判断していますが、残念ながら明治写本約二百冊が行方不明となっているため、筆跡調査ができずに研究が滞っています。

 他方、「東日流外三郡誌」よりも早い時期(昭和24年以降。注③)に世に出た和田家文書で、αβγでは分類できない重要な史料群がありました。金光上人関連資料です。(つづく)

(注)
①「「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査―」『東京古田会ニュース』213号、2023年。
②永田富智氏(『北海道史』編纂委員)の鑑定による。
「永田富智氏へのインタビュー 昭和四六年『外三郡誌』二百冊を見た ―戦後偽作説を否定する新証言―」『古田史学会報』16号、1996年。「古田史学の会」のHP「新・古代学の扉」に収録。
③開米智鎧編『金光上人』(昭和39年・1964年)の「序説」による。


第3297話 2024/06/04

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

      再読 (3)

奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』で紹介された石塔山横穴古墳(役小角墳墓)ですが、その位置と洞窟内外の様子が記されています。

「そして飯詰の村人が言う洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米(羨門のことで造営時は一米半もあったか)巾一米半位と高さも一米半位の羨道が約一二米ほど続いてあって、そこに巾三米くらいで高さ二米位、奥行一〇米近い玄室が前室と後室に分けられてあったものと思われますが、さらに羨道の前面にかなり広い墓前域があったものと想定されます。なぜかく推定出来るかと申しますと、墓前域には高さ約一米半の五重塔が在ったこと、刻文摩滅破損の石塔が二基在ること、さらに経筒を内蔵させてあった小五重塔が二基も存在したこと、為念、経筒は高さ七寸、口径三寸で筒上に三寸の不動明王を安じて筒面に「役小角歴跡、修験宗大法、不開可」と書いてあり、経筒の中味は樹種不明の木皮漆書が所蔵されてあった。さらに左方塔の下に石造経筥(年代の極め手か)が埋蔵されてあって厚さ一寸の蓋石の中に銅銘板があった由。(後略)」75~76頁

ここに記された「洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米」という表現が、テレビ東京で放送された〝三身洞〟の様子に似ていることに注目しました(注)。偽作キャンペーンでは、和田家が発見した遺物を偽造品とか古物商から買ったものと批判してきましたが、これら偽作キャンペーンが虚偽であることが、奈利田浮城氏の〝証言〟やテレビ番組の報道内容から、また一段と明らかになりました。同時に、秘宝の在処を書いた「東日流外三郡誌」の真作性の証明にもなったようです。(つづく)

(注)「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。昭和61年頃の放送。


第3296話 2024/06/03

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

            再読 (2)

 奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』には、津軽地方の次の「古墳」が紹介されています。

味噌ヶ盛古墳・糠塚盛古墳・飯塚山古墳・石塔山横穴古墳(役小角墳墓)・姥森古墳(女酋長の縦穴墓)・大滝の沢古墳・六本松古墳。

 わたしが注目したのが、石塔山横穴古墳(役小角墳墓)です。その解説中に和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。それは次の記事です。

 「筆者も残念ながら附近まで足を運んで未だ現場を確認しておらない。従って、発見者(昭和二十六年六月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。(中略)
昭和二十六年頃か、発掘当時は異常な反響を巻き起し、中央地方を不問、数多くの学者専門家の諸先生方いろいろと調査研究なされての諸見解を発表されて百家争鳴の感がありましたが、現在はほとんど忘れられたものか、五所川原でさいも極く一部の人々以外は話題にものぼらぬのは残念なことです。」70~71頁

 昭和26年に、山中で炭焼きを生業としていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した〝三身洞〟から出土した遺物(注)について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏よりも父親の元市氏の存在が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説が、当時の状況を知る人の証言とは食い違っていることを示しています。その意味でも、『幻想の津軽中山古墳群』に記された奈利田氏の〝証言〟は貴重です。(つづく)

(注)当出土遺物の一部(舎利壺など)が福士貞蔵編著『飯詰村誌』(昭和二六年・1951年)に掲載されている。


第3295話 2024/06/01

奈利田浮城

 『幻想の津軽中山古墳群』再読 (1)

書棚を整理して、不要な蔵書を古書店に売却しています。そのおり、恐らく30年前の和田家文書調査時に入手した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』のコピーが出て来ました。青森県のどこかの図書館でコピーしたものと思いますが、入手時の記憶がありません。あちこちに傍線を引いているので、それなりに読み込んではいるようですが、再読したところ、当時は気づかなかった重要な記事が散見されましたので、紹介します。

同書は津軽地方に古墳があったとする仮説に基づいて、五所川原市周辺の墳丘形状の遺構を紹介したものです。発行は昭和51年(1976年)とわたしが付記していますので、当時の様子がうかがえる貴重な〝証言〟にもなっています。出版社名が不明でしたのでwebで調べましたが、著者名・出版年次(昭和51年1月)は確認できますが、どうしても出版社名がわかりません。そこで、同書を所蔵していた弘前大学図書館に電話でたずねたところ、同館の所蔵本にも出版社名は記されていないとのことで、「私家版」のようです。著者名の奈利田浮城はペンネームと思われ、本名は成田不二雄さんかもしれません(注①)。 CiNii(注②)によれば、奈利田浮城氏による次の著書がありました。

『小説御所河原起源史』奈利田浮城著 成田不二雄 1974.1
『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』奈利田浮城著 成田不二雄 1976.1
『古代津軽の酋長豪族 奇伝異説』奈利田浮城著 高楯城史跡保護会 1978.11
『津軽蝦夷乃王国始末顕』奈利田浮城著 北奥文化研究会 1981.10
『あおもり古代史69の謎』奈利田浮城著 西北刊行会 1988.2

なお、私家版とは言え、「五所川原市長 佐々木栄造」による序文があり、「題字 青森県知事 竹内俊吉」とされており、著者の交友範囲がうかがえ、興味深く思います。(つづく)

(注)
①国立国会図書館サーチによれば、同書著者の欄に奈利田浮城、出版者に成田不二雄とある。
②CiNii(サイニィ、NII学術情報ナビゲータ、Citation Information by NII)は、国立情報学研究所(NII、National Institute of Informatics)が運営するデータベース群。ちなみに、「古田史学の会」が編集発行する『古代に真実を求めて』(明石書店)はCiNii認定図書である。


第3294話 2024/05/31

「古田史学の会」メール配信事業

          のお知らせ

「古田史学の会」の会員の皆さん、なかでもお会いする機会が少ない遠方の会員さんとの交流の場を作れないものかと考えてきました。そこで、インターネットのメール機能を利用して、「古田史学の会」や古田史学に関する情報発信と広報事業を新たに立ち上げます。幸いにも会費送金時の振込用紙にメルアドを書いていただいている会員さんが少なからずおられますので、エリアを限定してメール広報事業立ち上げの案内をテスト配信させていただきました。徐々に配信エリアを拡大します。
今回、関東エリアと九州エリアの会員と会友の皆さんにテスト配信したところ、好意的なご返信が届いています。他方、アドレスが間違っているためか、配信不可のメッセージが帰ってくるケースもあります。そこで、「洛中洛外日記」や『古田史学会報』で同事業をご案内することにしました。メール配信を希望される会員の方は、古賀か本会インターネット事務局まで、メールにてご一報いただきますようお願いいたします。
メール機能を使って、双方向の情報交換も進めたいと願っています。連日、各地からメールが届いていますので、返信が遅れたり、内容によっては回答できないことがあるかもしれません。その場合は、ご容赦ください。「古田史学の会」のメール配信事業にご理解とご協力をお願い申し上げます。


第3293話 2024/05/29

『東京古田会ニュース』216号の紹介

『東京古田会ニュース』216号が届きました。拙稿「古代都市成立の指標 ―都城論争の収斂を求めて―」を掲載していただきました。同稿では、昨年11月の八王子セミナーで発表した律令制都城の〝絶対条件〟として次の5点を示し、少なくともこれら全てを満たす七世紀の都城は難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけと結論づけました(注①)。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

さらに「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の十基準〟(注②)などを紹介しました。そして、日本古代史が空理空論でなければ、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と、誰もが知りうる「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るべきと主張しました。
『東京古田会ニュース』216号掲載記事で注目したのが、つぎの遺跡巡り旅行記でした。

○大宮姫伝承を訪ねて 東久留米市 村田智加子
○和田家文書をみちづれに「和田家文書と国東半島」の旅行に参加して 白井市 讃井優子

当地の状況が目に浮かぶような旅行記です。なかでも村田さんが紹介された鹿児島県の大宮姫伝承の報告は懐かしく拝読しました。わたしは学生時代に指宿市や枕崎市を旅行した経験もあり、初めて書いた長文の論文が「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(注③)だったこともあり、とても印象深い旅行記でした。
会員の皆さんからの『古田史学会報』への遺跡巡り報告の投稿をお待ちしています。

(注)
①同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通り。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
②Vere Gordon Childe (1950),The Urban Revolution. The Town Planning Review 21.
③古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3292話 2024/05/27

二つの「白雉元年」と難波宮 (4)

  ―九州王朝の「白雉元年二月条」―

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事は、九州王朝により九州年号の白雉元年(652年)二月に行われた改元の行事を記した九州王朝系史書からの転載(盗用)と思われます。同記事の内容もそのことを示しています。それは次の二点です。

(1) 改元記事には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見える。
〝甲申(15日)、朝庭の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び「百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝」・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を殿前に進ましむ。〟

(2) 応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されているが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝系史書にあった記事と思われる。
〝詔して曰く「聖王、世に出(い)でて天下を治める時、天則(すなわち)ち應えて其の祥瑞を示す。曩者(むかし)、西土の君、周の成王の世と漢の明帝の時に白雉爰(ここ)に見ゆ。我が日本國、譽田天皇の世に白烏宮に樔(すく)ふ。大鷦鷯帝の時に龍馬西に見ゆ。(後略)」〟

 このように難波に九州王朝が都(太宰府倭京と難波京の複都制)を造り、諸行事を執り行ったことにより、それら九州王朝の事績が『日本書紀』孝徳紀に詳しく取り込まれたと思われ、同時に孝徳自身が賀正礼や改元の儀に臣下の一人として出席していたと考えざるを得ません。

 二つの「白雉元年」という史料事実は、こうした歴史の真実に迫る上で重要なエビデンスであり、視点であることをご理解いただけるものと思います。なお、このエビデンスと視点は、二つの「大化年号」研究でも重要であり、このことは古田先生や、近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)をはじめ少なからぬ古田学派研究者が「大化改新詔」研究として発表されてきたところです。(おわり)


第3291話 2024/05/26

二つの「白雉元年」と難波宮 (3)
―切り取られた白雉三年二月条―

 『日本書紀』の不自然な白雉改元記事は、九州年号「白雉」と一緒に二年ずらして『日本書紀』に転用された痕跡と考えざるを得ないと前話で述べましたが、その明瞭な痕跡が白雉三年(652年)正月条に遺されています。次の不思議な記事がそれです。

〝三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。〟『日本書紀』白雉三年(652年)正月条

 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のずれがあるとすれば、九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(652年)条になければなりません。その孝徳紀白雉三年正月条には「正月より是の月に至るまでに」と意味不明の記事があるのです。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわかりません。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記しています。

 この点、わたしは次のように考えます。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に二月条があったのではないでしょうか。ところが、その二月条はカットされています。おそらく、カットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事だったのです。すなわち、孝徳紀白雉三年(652年)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り貼り」の痕跡だったのです(注)。『日本書紀』の白雉改元記事は九州王朝系史書からの、二年ずらしての転用(盗用)であり、このことが原因となって、二種類の白雉年号が発生したわけです。(つづく)

(注)古賀達也「白雉改元の史料批判 ―盗用された改元記事―」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第3290話 2024/05/25

二つの「白雉元年」と難波宮 (2)
―「白雉改元」のエビデンス―

 九州年号「白雉」には次の二種類があります。『日本書紀』型、元年は650年庚戌で五年間続く(650~654年)。『二中歴』型、元年は652年壬子で九年間続く(652~660年)。『二中歴』は鎌倉時代初頭に編纂された辞典で、歴代の年号を列記した「年代歴」冒頭に「継体」から「大化」まで31の九州年号(517~700年)が記されています(注①)。50年に及ぶ九州年号研究の結果、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用(盗用)であるとされました。その痕跡が他ならぬ『日本書紀』にあることを『古田史学会報』などで発表してきたところです(注②)。
『日本書紀』は孝徳天皇六年(650年)を白雉元年として、同年二月条には、白雉改元に関わる白雉献上の儀式が大きな宮殿で大々的に執り行われた様子が記されています。その部分を要約し紹介します。

〝二月庚午朔戊寅(9日)、穴戸國司草壁連醜經(しこぶ)、白雉を獻じて曰く、(中略)
甲申(15日)、「朝庭」の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を「殿」前に進ましむ。

時に、左右大臣就きて輿の前頭を執(か)きて、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執きて、御座の前に置く。天皇、卽ち皇太子を召して共に執(と)りて觀る。皇太子、退いて再び拜す。(中略)
又詔して曰く、四方の諸國郡等、天の委ね付(さづ)くるに由りての故に、朕總(ふさ)ね臨(のぞ)みて御寓(あめのしたしら)す。今我が親神祖の知らす所、穴戸國の中に此の嘉瑞有り。所以(このゆえ)に、天下に大赦す。改元して白雉とす。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)二月条

 穴戸國(長門国、山口県の西半分)の国司が白雉を天皇に献上し、それを吉兆として年号を白雉に改元したという記事で、「朝廷」「紫門」「中庭」「殿」(紫宸殿か)がある大規模な宮殿で儀式を執り行った様子が記されています。
大阪の上町台地の七世紀中葉の地層からは、前期難波宮しかこの規模の宮殿は出土していません。『日本書紀』には、このような大規模な宮殿の創建記事が、二年後の白雉三年九月条に記されています(注③)。ですから、『日本書紀』の白雉年号は九州年号の白雉を二年ずらして転用したものとすれば、白雉三年(652年)の大規模な宮殿創建は、九州年号の白雉元年に当たりますから、先の白雉献上記事や白雉改元記事も白雉年号とともに、『日本書紀』編者により652年から650年へ二年ずらされたと考えられます。すなわち、九州年号の白雉元年(652年)であれば、完成間近の前期難波宮で白雉改元儀式を執り行うことが可能なのです。

 ちなみに、「朝庭の隊仗、元會儀の如し」と二月条の記事にありますから、この白雉改元の儀式は正月の元會儀と同じ宮殿で行われたのではないでしょうか。白雉元年正月条冒頭には次の記事が見えます。

〝白雉元年春正月辛丑朔(1日)に、車駕、味經宮に幸(ゆ)きて、賀正禮を觀る。味經、これを阿膩賦(あじふ)と云う。この日に、車駕、宮に還る。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)正月条

 ここでは賀正礼(元會儀の一つ)が行われた宮殿を味經宮としていますから、元會儀や白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は味經宮と呼ばれていたことになります。なお、この記事によれば、孝徳は賀正礼を観に行ったとあり、賀正礼を受けたとはされていません。その日のうちに別の宮に還ったともありますから、味經宮は孝徳の宮殿ではなかったと考えられます(注④)。この史料事実は、前期難波宮を九州王朝の王宮(複都の一つ)とするわたしの説の傍証となるものです。

 こうした『日本書紀』の不自然な白雉改元記事は、九州年号「白雉」と一緒に二年ずらして『日本書紀』に転用されたものと考えざるを得ません。この点、更に詳述します。(つづく)

(注)
①九州年号リスト ※701年以降の大化と大長は古賀説による。
継体 517~521年(5年間)
善記 522~525年(4年間)
正和 526~530年(5年間)
教到 531~535年(5年間)
僧聴 536~540年(5年間)
明要 541~551年(11年間)
貴楽 552~553年(2年間)
法清 554~557年(4年間)
兄弟 558年    (1年間)
蔵和 559~563年(5年間)
師安 564年    (1年間)
和僧 565~569年(5年間)
金光 570~575年(6年間)
賢接 576~580年(5年間)
鏡当 581~584年(4年間)
勝照 585~588年(4年間)
端政 589~593年(5年間)
告貴 594~600年(7年間)
願転 601~604年(4年間)
光元 605~610年(6年間)
定居 611~617年(7年間)
倭京 618~622年(5年間)
仁王 623~634年(12年間)
僧要 635~639年(5年間)
命長 640~646年(7年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳 661~683年(23年間)
朱雀 684~685年(2年間)
朱鳥 686~694年(9年間)
大化 695~703年(9年間) ※『二中歴』は大化六年(700年)まで。
大長 704~712年(9年間)
②古賀達也「白雉改元の史料批判 ―盗用された改元記事―」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③「秋九月に、宮造ること已(すで)におわりぬ。其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年(652年)九月条。
④古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第3289話 2024/05/23

二つの「白雉元年」と難波宮 (1)

 ―「白雉」年号のエビデンス―

 九州年号「白雉」には『日本書紀』型と『二中歴』型の二種類があります。

◎『日本書紀』型は元年を650年庚戌として、五年間続く。
◎『二中歴』型は元年を652年壬子として、九年間続く。

 後代史料には、この二種類の白雉年号の存在に困惑したためか、次のような表記さえ出現します。

 「白雉元年[庚戌]歳次壬子」『箕面寺秘密緑起』(注①)

 []内の庚戌は小字による縦書き二行ですので、元来は「白雉元年歳次壬子」(652年)とあった記事に、『日本書紀』の「白雉元年」の干支「庚戌」(650年)を小文字で書き加えたものと思われます。というのも、元々「白雉元年[庚戌]」とあったのであれば、「歳次壬子」を付記する必要は全くありませんし、意味不明の年次表記にする必要もありません。しかし、「白雉元年歳次壬子」とあったのであれば、『日本書紀』の白雉元年干支と異なっているため、「庚戌」を付記したと動機を説明できます。

 50年に及ぶ九州年号研究により、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用であると理解されてきました。その後、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡の再調査(2006年)により、『二中歴』型が正しかったことが決定づけられました。

 しかしながら、『木簡研究』19号(注②)には「三壬子年」と判読していましたので、兵庫県教育委員会の許可を得て、2006年4月21日に古田先生らと同木簡を二時間にわたり実見調査しました。そして次の所見を得ました。

【「元壬子年」木簡観察の所見】
1.第三画の右端が極端に上に跳ねている。木目に沿った墨の滲みかとも思われたが、そうではなく明確に上に跳ねていた。下には滲みがない。これが「元」である最大の根拠である。
2.第三画の中央付近が切れている。赤外線写真も撮影して確認したが、肉眼同様やはり切れていた。従って、「三」よりも「元」に近い。
3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっている。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずだが、実際は逆で、右側の方が濃くなっている。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡である。
4.木目により表面に凹凸があるが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていた。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当する。
5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められた。これは「元」の第四画の初め部分である。

 以上のように、「三」ではなく「元」であることは明白ですし、肉眼でも「元」に見えました。元年を壬子の年とする年号は九州年号の「白雉」であり(注③)、やはり『二中歴』型が正しかったわけです。『木簡研究』の報告は『日本書紀』の二年ずれた白雉年号の影響を受けたようです。(つづく)

(注)
①「箕面寺秘密緑起」は五来重編『修験道資料集Ⅱ』(名著出版、1984年)による。同書解題には、「箕面寺秘密緑起」を江戸期成立と見なしている。
②『木簡研究』19号、木簡学会、1997年。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf
③『木簡研究』19号には、高瀬氏一嘉氏による次の説明がなされている。
「裏面は年号と考えられ、年号で三のつく壬子は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3288話 2024/05/20

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (4)

 前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である。この見解の根拠となる、前期難波宮孝徳朝説に反対する考古学者であっても「孝徳朝説は定説」とする、泉武さんと伊藤純さんの見解を紹介しました。同様の見解は考古学者にとどまらず、文献史学の著名な研究者からも述べられていることを本シリーズの最後に紹介します。直木孝次郎さん(1919~2019)と市大樹さんのお二人です(他にも大勢いますが)。

 直木さんは次のように主張され、前期難波宮こそ孝徳朝の首都にふさわしいとされました。

 〝周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八堂に減省したのであろう。(中略)

 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。

 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。

 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)

〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があることが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕)という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。〟(注②)

 次に木簡研究で著名な市大樹さん(大阪大学大学院教授)は次のように述べています。

 〝一九五四年から続く発掘調査によって、大阪市の上町台地法円坂の一帯から二時期にわたる宮殿遺構が検出され、上層を後期難波宮、下層を前期難波宮と呼んでいる。後期難波宮が聖武朝(七二四~四九)に再興された難波宮であることは異論を聞かない。これに対して前期難波宮は、ほぼ全面に火災痕跡があることから、『日本書紀』朱鳥元年(六八六)正月乙卯条に「酉時、難波大蔵省失火、宮室悉焼」と記される難波宮に相当すると見てよいが、造営時期を孝徳朝(六四五~五四)・天武朝(六七二~八六)いずれとみるのかで長い議論があった。しかし、一九九九年に北西部にある谷から「戊申年」(大化四年、六四八)と書かれた木簡が出土したことや、造成整地土から七世紀中葉の土器が多く出土したことなどもあり、現在では孝徳朝の難波長柄豊碕宮とみるのがほぼ通説となっている。〟(注③)

 このように「戊申年」木簡等を根拠として、前期難波宮を七世紀半ばの造営とすることが「ほぼ通説」であるとされ、市さんも通説に賛成しています。2017年9月、大阪歴博での講演会でも市さんはそのように述べていました。
学問は多数決ではありませんから、少数意見という理由でその仮説を否定するのは学問的ではありません。何よりも、わたしの説も定説「孝徳朝説」とは異なる超少数意見です。すなわち、前期難波宮を九州王朝による七世紀中葉(652年)創建とする説だからです。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」668話(2014/02/28)〝直木孝次郎さんの「前期難波宮」首都説〟
②直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』吉川弘文館、1994年。
③市大樹「難波長柄豊碕宮の造営過程」『交錯する知』武田佐知子編、思文閣出版、2014年。