第2353話 2021/01/17

古田武彦先生の遺訓(27)

―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー

 『史記』冒頭の「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は「歳三百六十六日」と紹介しています。『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。

 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。
 このアイデアを共同研究者の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に伝え、二人で検討協議を続けました。その結果、こうした司馬遷の認識に至る経過を次のように推定しました。

(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕
(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。
(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕
(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。
(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく)

(注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2352話 2021/01/17

倭人伝〝道行き読法〟の「至」と「到」

 昨日の令和三年新春古代史講演会では次の三つの講演がありました。いずれも、「古田史学の会」の研究者による最先端研究の報告でした。

①古賀達也  古代戸籍に見える二倍年暦の痕跡
②谷本 茂さん 「邪馬台国」位置論と〝道行き読法〟の今日的意義
③正木 裕さん 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国説」

 今回の講演会では、古田先生が提唱された『三国志』倭人伝における〝道行き読法〟の素晴らしさを、谷本さんの発表により改めて認識させられました。なかでも、「至」と「到」の字義の違いに着目された解説は見事なもので、驚きました。
 倭人伝の行程記事には「いたる」という動詞に「至」と「到」が使用されていますが、谷本さんの説明によれば、直線的に目的地へいたる場合は「至」が使用され、曲線的にまわっていたる場合には「到」が使用されているとのことでした。倭人伝には次の二例で「到」が使われており、それらは〝道行き読法〟や曲線コースを示すケースであり、直線的に目的地へいたる「至」の場合とは区別して使用されています。

○歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
○東南陸行五百里、到伊都國

 古田説では、狗邪韓國へは韓国内を南へ東へとジグザクに陸行するとされ、直接コースではありません。伊都国へも末盧国から一旦は東南方向へ道沿いに始発するという曲線コースです。その古田説に対応するかのようにこの2ケースのみに「到」が使われているわけです。
 この「至」と「到」の使い分けという説は谷本さんが発見されたのですかと、講演後にお聞きしたところ、漢字辞典にそのような字義の説明があるとのことでした。そこで『新漢和辞典』(大修館)を確認したところ、次の説明がありました。

 「到 (中略)
 〔解字〕形声。至(いたる)が意符。刀(トウ)が音符で、また、ぐるりとまわる意を表す。ぐるりとまわって、いたり着く意。」

 この字義に気づかれた谷本さんに脱帽するとともに、古田説がいかに優れたものであるかを改めて認識しました。冥界の先生もこの講演を喜んでいただいていると思います。
 最後に、緊急事態宣言下にもかかわらずご来場いただいた皆様に心より御礼申し上げます。「古田史学の会」としましては、会場使用が可能であれば、コロナ感染予防対策をとりながら、これからも講演会や例会活動を続ける所存です。会員の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。


第2351話 2021/01/16

仏法僧の受戒・得度制度の多元史観

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばサテライト 2F)にて「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回はドーンセンターで開催します。今回の例会でも、Zoomシステムによるハイブリッド型(会場参加+リモート参加)例会のテストを実施しました。リモート配信システムが完成しつつありますので、関西例会リモート参加費・同規定(参加資格)などの運用面と必要経費負担(イニシャルコスト・ランニングコスト)について検討・調整を進めています。

 今回の三つの研究報告はいずれも新たな分野・視点を含むもので、優れた発表でした。その中でも日野さんによる、古代日本における仏教政策や仏教教団の実態に迫り、九州王朝の仏教政策(戒壇)の調査分析する試みは先駆的でした。他方、大和朝廷の僧侶の授戒・得度政策に矛盾(私度僧はいやだが、鑑真和上渡来以前は「自誓受戒」が行われていた)があることを指摘され、それが九州王朝仏教政策を否定するための〝苦肉の策〟とする仮説は示唆的でした。この分野の研究は古田学派としては初めてではないでしょうか。研究の進展と論文発表が待たれます。

 午後からは令和三年新春古代史講演会があるため、発表は午前中だけとなりました。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①九州王朝の戒壇と僧伽(サンガ)(たつの市・日野智貴)
②縄文一万年のマラソンランナーの実相(大山崎町・大原重雄)
③野中寺彌勒菩薩像銘と女帝(八尾市・服部静尚)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
02/20(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
03/20(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《関西各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
2月講演〔中止〕

◆「古代大和史研究会」特別講演会(原 幸子代表) 参加費500円
02/03(水) 13:00~17:00 会場:松慶山 浄照寺(近鉄田原本町駅東口から徒歩2分)
《第一部》「能楽の中の古代史」(1)
謡曲「羽衣」に秘められた古代史 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
《第二部》聖徳太子と金光明経 講師:服部静尚さん(『盗まれた「聖徳太子」伝承』『倭国古伝』編集長)

02/23(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞本社西館3階
「多利思北孤の時代」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール 参加費500円
03/13(土) 14:00~16:30 「天皇と三種の神器」「王朝交代」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
2月講演〔中止〕

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
02/02(火) 18:30~20:00 「聖徳太子の実像 ―1400回忌を迎えて」 講師:正木 裕さん


第2350話 2021/01/15

古田武彦先生の遺訓(26)

平凡社『史記』の原文にない記事「三年に一回」

 「洛中洛外日記」2344話(2021/01/09)〝古田武彦先生の遺訓(22)―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―〟において、司馬遷の暦法認識が一倍年暦であり、『史記』も基本的にはその認識で編纂されているとしました。その根拠として、『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)が定めたとする暦について、次のように記されてることを紹介しました。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注①)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかるのですが、なぜ一年を三百六十六日としたのかが謎のままでした。「洛中洛外日記」2344話では司馬遷の暦法認識についての考察がテーマでしたので、この疑問については深入りしませんでした。
 そうしたモヤモヤした気持ちを抱いていたところ、周代暦年復原の共同研究者の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がご自身のブログ〝sanmaoの暦歴徒然草〟「帝堯の〝三分暦〟―昔の人だって理性はあった―」(2021/01/13)において、「洛中洛外日記」2344話を紹介され、わたしが引用した平凡社版の『史記』に原文にはない記事「三年に一回」があると指摘されました。わたしも気になっていたのですが、『史記』の原文には「三年に一回」という文はありません。これは平凡社版『史記』の編者の判断により書き加えられた「解説」であり、原文の直訳ではなかったのです。明治書院版の『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注②)。

 当該文について、同書には次の解説があります。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」同、41頁。

 この解説によれば、太陰暦では三年に一度の閏月を置かなければならないということであり、そのため、原文にない「三年に一度」という解説を平凡社版『史記』では釈文中に入れてしまったということのようです。太陰暦の閏月の説明としては一応の理解はできますが、司馬遷が「歳三百六十五日」ではなく、「歳三百六十六日」とした理由はやはりわかりません。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2349話 2021/01/14

斉明紀の「宮」と「難波朝」記事の不思議

 昨年末から『史記』を始め、中国古典を集中的に読んできたのですが、今日は久しぶりに『日本書紀』を読みました。その為か、とても新鮮な感覚で新たな発見が続きました。とりわけ、斉明紀に今まで気づかなかった面白い記事が見つかりましたので、その概要だけをいくつか紹介します。その一つは、斉明元年(655)十月条の次の記事です。

 「小墾田(おはりだ)に、宮闕(おほみや)を造り起(た)てて、瓦覆(かはらぶき)に擬將(せむ)とす。又、深山廣谷にして、宮殿に造らむと擬(す)る材、朽ち爛(ただ)れたる者多し。遂に止めて作らず。」『日本書紀』斉明元年十月条

 小墾田に宮殿を作ろうとしたが材木が朽ちていて遂に造れなかったという、どうということのない記事ですが、よく考えると通説では説明しにくい記事ではないでしょうか。というのも、この三年前の652年には巨大な前期難波宮がそれこそ大量の木材を使って造営されており、約四十年後の694年には更に巨大な瓦葺きの藤原宮を造営し、持統がそこに遷都しています。ですから、なぜか655年には材木がなかったので小墾田に宮を造れなかったなどということは、一元史観の通説や従来の古田説では説明できないのです。
 この記事を合理的に説明できる仮説は、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説だけではないでしょうか。九州王朝が前期難波宮とその関連施設造営用に各地から材木などの大量の資材を調達したため、斉明は自らの宮をすぐには新築できなかったのではないでしょうか。
 このように斉明紀の中の些細な記事ですが、よくよく考えると前期難波宮九州王朝説を指し示すものだったことに、今回、気づくことができました。
 ちなみに、この記事と同年の七月条にも前期難波宮九州王朝複都説を指示する次の記事が見えます。

 「難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。」『日本書紀』斉明元年七月条 ※〈〉内は細注。

 難波朝とありますから、前期難波宮で各地の蝦夷と百済からの使者を饗応したという記事です。この記事も九州王朝説に立つのであれば、九州王朝が前期難波宮で蝦夷国と百済国の使者をもてなしたと考える他ありません。従って、前期難波宮は九州王朝の宮殿と解さざるを得ないのです。
 久しぶりに『日本書紀』を読んだのですが、全集中して取り組んだ中国古典の猛勉強の成果が、思わぬところに発揮できたと、新年そうそうから喜んでいます。


第2348話 2021/01/13

二倍年齢研究の実証と論証(6)

『延喜二年阿波国戸籍』の二倍年齢による偽籍説

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在と若年層の少なさという史料事実を「偽籍」という仮説により説明(論証)できることを平田耿二『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)により知ったわけですが、同戸籍を精査すると「偽籍」説だけでは完全に説明することができないことがわかりました。それは次のような「戸」があるからです。

【延喜二年『阿波国戸籍』、粟凡直成宗の戸】
戸主 粟凡直成宗 五七歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 九八歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 百七歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 五四歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 三六歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 三一歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 二九歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 二〇歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 三四歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 三四歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 二九歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 二九歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 十四歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 十一歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 六八歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 五〇歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 五〇歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 四七歳
(後略)

 この戸主の粟凡直成宗(57歳)の両親(父98歳、母107歳)の年齢と、その子供たちの年齢(47~68歳)が離れすぎており、もしこれが事実なら、母親はかなりの高齢出産(出産年齢39~60歳)を続けたことになります。このような高齢出産は考えにくいため、この戸主の両親の年齢は、没後に年齢加算し続けたためとする単純な偽籍では、一世代間の大きな年齢差の発生を説明できないのです。
 しかし、両親以外の家族の年齢は一倍年暦による年齢構成(一世代間の常識的な年齢差)ですから、何らかの年齢操作が両親を中心に行われたように思われます。そこで、両親が成人する頃までは二倍年齢で年齢計算がなされ、その後は一倍年暦により造籍時に年齢加算登録されたというケースを推定してみました。たとえば、戸主の姉(宗刀自賣。長女か)の年齢が68歳なので、母の出産年齢は107-68=39歳ですが、これが二倍年齢表記であれば出産年令は半分の19.5歳であり、初産年齢(長女を出産)として問題ありません。
 超高齢者について、少年期の二倍年齢計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば、戸主の両親のみの超長寿の説明が可能です。もしそうであれば、両親が若年の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする二倍年齢という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれません。実はそのことを示唆する史料があります。(つづく)


第2347話 2021/01/12

古田武彦先生の遺訓(25)

―周代主要諸侯の暦法推定―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは、〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦年代の他に〝周代の主要諸侯が採用していた暦法〟についても意見交換を続けています。周代における主要諸侯国には、初代武王の同母弟の周公旦を開祖とする魯をはじめ、次の諸侯が知られています。ウィキペディアより転載します。

【主要諸侯】
 『史記』「三代世表」には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。

○魯 姫姓侯爵 開祖:周公旦(武王の同母弟)
 現在の山東省南部を領す。都城は曲阜(現在の山東省済寧市曲阜市)。
○斉 姜姓呂氏侯爵 開祖:呂尚
 現在の山東省北部を領す。都城は営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)。
○晋 姫姓侯爵 開祖:唐叔虞(成王の同母弟)
 現在の山西省一帯、黄土高原東部の汾水河谷周辺を領す。都城は唐(後に「晋」に改称、現在の山西省太原市晋源区)。
○秦 嬴姓趙氏伯爵 西周代では大夫・東周にいたり侯爵 開祖:非子
 現在の甘粛省西部、東に周の根拠地である陝西省の渭水盆地を望む高地を領す。周王室の東遷に伴い政治権力の空白となった渭水盆地に勢力を伸ばし、やがてこの盆地の政治的中枢部である関中に重心を移す。当初の都城は秦邑(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県)。
○楚 羋姓熊氏子爵 開祖:熊繹
 現在の河南省西部から湖北省・湖南省一帯、概ね漢江以南の長江中流域を領す。都城は丹陽(現在の河南省南陽市淅川県)。
○宋 子姓公爵 開祖:微子啓(殷の帝辛(紂王)の異母兄)
 現在の河南省東部一帯を領す。都城は商邱(現在の河南省商丘市睢陽区)。
○衛 姫姓伯爵(後に侯爵、さらに公爵へと陞爵) 開祖:康叔(武王の同母弟)
 現在の河南省北部黄河北岸部を領す。都城は朝歌(現在の河南省鶴壁市淇県)。
○陳 嬀姓侯爵 開祖:胡公(五帝の一人である舜の末裔と伝えられる)
 現在の河南省中部一帯を領す。都城は宛丘(現在の河南省周口市淮陽区)。
○蔡 姫姓侯爵 開祖:蔡叔度(武王の同母弟)
 現在の河南省南部を領す、都城は当初上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)、新蔡(現在の駐馬店市新蔡県)に遷都後、下蔡(現在の安徽省淮南市鳳台県)に遷る。
○曹 姫姓伯爵 開祖:曹叔振鐸(武王の同母弟)
 現在の山東省西部を領す、都城は陶丘(現在の山東省菏沢市定陶区)。
○燕 姞姓伯爵 開祖:召公奭(周王朝姫氏の同族)
 現在の河北省北部を領す、都城は薊(現在の北京市房山区)。

 これら諸侯は西周時代は周と同じ二倍年暦を採用していたと推定していますが、西周末あるいは東周に至り、周が一倍年暦に改暦すると、それに従ってほぼ同時期に一倍年暦を採用した諸侯と、二倍年暦を継続使用した諸侯があったと、現時点では考えています。
 西村さんとの検討の結果、孔子の出身地の魯は春秋期には二倍年暦(二倍年齢)を継続したとする理解で合意できました。その根拠は、孔子や弟子の曾参が『論語』『曾子』で二倍年齢を採用していたことが明らかなことによります(注①)。他方、秦は周に従って一倍年暦を採用し、その経緯から始皇帝が中国を統一したとき、暦法は自ら採用していた一倍年暦で統一したと思われます。この点も、西村さんと合意できたところです。
 この他、魏王墓(戦国期)から出土した『竹書紀年』が一倍年暦によることから、それが出土時のままであれば戦国期の魏は一倍年暦と理解することが可能です。同じく、戦国期の楚の竹簡と見られている精華簡『繋年』(注②)も一倍年暦表記ですから、楚も戦国期には一倍年暦を採用していたと思われます。
 以上のように考えていますが、関連諸史料との整合性調査が必要ですから、現時点では作業仮説的推論にとどめたいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」、『新・古代学』7集(2004年、新泉社)。
 古賀達也「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」、『新・古代学』8集(2005年、新泉社)。
②「洛中洛外日記」2308話(2020/12/03)「古田武彦先生の遺訓(18) ―周代史料の史料批判(優劣)について〈後篇〉―」で紹介した。

 


第2346話 2021/01/11

古田武彦先生の遺訓(24)

―周王朝の一倍年暦への変更時期―

 『史記』の採用暦については山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ上(注)で精力的に仮説を展開し、検討を続けています。古代暦法や暦日計算に疎いわたしは、山田さんの研究の行方を見守っている段階です。
 他方、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦の年代について、文献史学の分野から意見交換と論議を続けています。まだ見解の一致を見ていませんが、現時点での両者の考え(作業仮説)を紹介したいと思います。
 わたしは次の史料状況から判断して、西周は二倍年暦を採用しており、東周のどこかで一倍年暦に変更したと考えています。

①西周建国前後の周王四代にわたって約百歳の寿命であり、このことから西周は二倍年暦を採用していると考えざるを得ない。
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
②五代穆王は50歳で即位、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。
③九代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例がある。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ない。
④十代厲(れい)王も在位年数が二倍になる例がある。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。『竹書紀年』では26年とする。
⑤十一代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から〝長寿命〟と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせる。(『竹書紀年』)

 西村さんの見解は、『史記』に付されている黄帝から周の共和までの年表「三代世表」を根拠に、西周末期の共和までが二倍年暦で、その後に一倍年暦に改暦されたというものです。すなわち、司馬遷が『史記』編纂にあたり参照した史料を整理した結果が「三代世表」であり、それ以降の年表とは性格が異なっていることから、二倍年暦から一倍年暦という改暦による激変がこの間にあったと考えると、年表の大きな変化を説明できるというものです。
 この西村見解(作業仮説)も魅力的ですので、自説にこだわることなく、検討を続けています。(つづく)

(注)〝sanmaoの暦歴徒然草〟


第2345話 2021/01/10

古田武彦先生の遺訓(23)

―没年齢記事が少ない「周本紀」以前―

 『史記』(注①)を読んでいて気づいたのですが、「周本紀」以前の登場人物の没年齢記事が少ないのです。史書ですから、基本的には中心王朝の「王年」(各王の即位何年)で『史記』は編年されています。ですから、登場人物の年齢や没年齢の記載が必ずしも必要ではありません。そのような史料性格にあって、例外的に没年齢が推定できる次の年齢記事が見えます。

○堯(百十八歳)「堯は即位して七十年たって舜をみいだして挙用し、それから二十年たって年老いて引退し、舜に天子の政を摂行させて、これを天に推薦した。つまり、事実上、舜に位をゆずって二十八年たつて崩じた。」五帝本紀、『中国古典文学大系 史記』上巻、12頁。
○舜(百歳)「舜は、二十歳にして孝行できこえ、三十歳にして堯に挙用され、五十歳にして天子の政を摂行した。五十八歳にして堯が崩じ、六十一歳にして堯に代わって帝位についた。帝位について三十九年、南方に巡幸中、蒼梧の野(湖南省)で崩じて、江南の九疑山(江西省)に葬られた。」五帝本紀、同、16頁。
○穆王(百五歳)「穆王は即位したとき、すでに五十歳であった。」「穆王は立ってから五十五年で崩じた。」周本紀、同、42、44頁。

 次いで「秦本紀」になると、先に紹介した百里傒の記事を含めて次の例があります。

○寧公(二十二歳)「寧公は生まれて十歳で立ち、立って十二年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○出子(十一歳)「出子は生まれて五歳で立ち、立って六年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○徳公(三十五歳)「徳公は生まれて三十三歳で立ち、立って二年で死んだ。」秦本紀、同、58頁。
○百里傒(百余歳)「〔繆公五年〕楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」秦本紀、同、58頁。
○孝公(四十五歳)「二十四年に、献公が死んで、その子の孝公が立った。ときに、孝公はすでに二十一歳であった。(中略)二十四年に、晋(魏)と岸門(河南省)で戦い、その将、魏錯をとりこにした。孝公が死んで、その子の恵文君が立った。」秦本紀、同、66~67頁。
○恵文君(王)(四十六歳)「三年に、恵文君が二十歳に達したので冠礼の式をおこなった。(中略)十四年に、あらためて元年とした(前年から王を称した故)。十四年に、楚を伐って召陵(河南省)を取った。(中略)恵文王が死んで、その子の武王が立った。」秦本紀、同、67~68頁。
○昭襄王(七十三歳)「三年に、昭襄王が二十歳に達したので冠礼をおこなった。(中略)五十六年に昭襄王が死んで、その子の孝文王が立った。」秦本紀、同、68~70頁。

 以上の史料状況から、歴代秦公(王)の没年齢は一倍年暦と考えて問題なく、二倍年暦では没年齢が若くなりすぎて不自然です。司馬遷の時代(前漢代)は既に一倍年暦であり、「秦本紀」の秦公(王)の年齢も一倍年齢と司馬遷は理解していたはずですから、百里傒の百余歳については超高齢の珍しい例として『史記』に特記したのではないでしょうか。
 他方、「周本紀」以前の百歳以上の事例(堯、舜、穆王)は二倍年齢と考えざるを得ないのですが、司馬遷にはその認識がありませんから、恐らく上古の聖人は超長生きと理解していたのではないでしょうか。これは司馬遷に限らず、『史記』と同じく前漢代に成立した『黄帝内経素問』にも次のように記されていることから、当時の知識人の共通した認識だったようです。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と誤解し、「今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」とあります。この記事からも前漢代での人の一般的寿命は五十歳と認識されていたことがうかがえます。なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』芸文志に見えます(注②)。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②漢代における年齢認識について、古賀達也『二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―』(『東京古田会ニュース』195号、2010年10月)で詳述した。


第2344話 2021/01/09

古田武彦先生の遺訓(22)

―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―

 一倍年暦で編纂されているはずの『史記』の「秦本紀」に見える百里傒の年齢記事(七十余歳)が二倍年齢であることを説明しました。それでは司馬遷は周代における二倍年暦(二倍年齢)の存在を知っていたのでしょうか。結論から言えば、司馬遷は二倍年暦という概念を知らなかったと思われます。今回はその説明をします。
 『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)の業績の一つに一年の長さと閏月を決めたことが記されています。次の通りです。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時(注①)を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかります。従って、二倍年暦の存在を認識していなかったと思われます。この他にも、『史記』「暦書」には次の記事が見えます。

 「大昔は暦の正月は春の始にしていた。(中略)一切のものは、ここにはじまり、一年の間に完備し、東からはじまり四季の順にめぐって、冬に終わるのである。そうして冬が終わるとまた鶏が三度鳴いて新しい年が明け、十二ヶ月がめぐって、十二支の丑にあたる十二月で終わる。(後略)」同、239頁。

 そして「暦書」の末尾に、一年を三百六十五日と四分の一とする「四分暦」に相当する歴表「暦日甲子篇」が記されています。これらの記述から、司馬遷は中国での暦法は上古より一貫して一倍年歴と認識していたと思われます。(つづく)

(注)
①ここでの「四時」は、四季を意味する。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。


第2343話 2021/01/08

古田武彦先生の遺訓(21)

―『史記』秦本紀、百里傒の二倍年齢―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の見解のように、東周時代(春秋・戦国期)は有力諸侯がそれぞれ別個の暦法を採用していたのであれば、その痕跡があるのではないかと思い、司馬遷の『史記』(注①)を読み始めました。その結果、「秦本紀」に一倍年暦と二倍年暦(二倍年齢)混在の痕跡を発見しましたので紹介します。
 『史記』の「秦本紀」に百里傒(注②)という人物が登場します。秦の繆(ぼく)公に請われて大夫となって国政をあずかり、秦の勢力拡大に貢献した人物です。後に始皇帝が中国を統一できたのも百里傒の功績に依るところが大きかったと考えられています。その百里傒について次のような年齢記事があります。

 「〔繆公五年〕百里傒は秦から亡(に)げて宛(河南省)に走ったが、楚の里人にとらえられた。繆公は百里傒が賢人であると聞いて、重財を投じてもこれを贖(あがな)いたいと思った。(中略)
 楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」『中国古典文学大系 史記』上巻、58頁

 こうして百里傒は繆公五年に大夫として仕え、活躍します。そして百里傒が最後に登場するのが、晋討伐に百里傒の子の孟明視が将軍として出陣する場面で、次のように記されています。

 「〔繆公三十二年〕出陣の日、百里傒と蹇叔(けんしゅく)の二人は、出陣する軍にむかって泣いた。」『中国古典文学大系 史記』上巻、61頁

 蹇叔は百里傒の親友で、百里傒の推挙により秦の上大夫に迎えられた賢人です。両大夫の息子たちが将軍として出陣することになり、もう会うことはできないだろうと老人二人が泣いたという場面です。
 これを最後に、「秦本紀」には繆公の発言中に百里傒の名前は挙がるものの、百里傒自身の言行記事としては現れなくなります。ですから、繆公五年のときに百里傒が七十余歳であれば、繆公三十二年には約百歳になっています。しかも息子の孟明視は将軍として活躍できる年齢ですから、もし一倍年齢で百里傒が三十歳のときの子供であれば孟明視は約七十歳ということになり、いくらなんでも将軍として戦場で指揮を執るのは無理ではないでしょうか。二十歳のときの子供であれば、それこそ約八十歳であり、将軍として出陣するのは非常識です。これが二倍年齢であれば、百里傒が繆公に仕えたのは三十代後半となり、本人も息子もリーズナブルな年齢となります。
 このようなことから、百里傒の年齢記事(七十余歳)は二倍年齢表記と考えざるを得ないのです。他方、「秦本紀」全体としては一倍年暦で書かれていることから、二つの暦法が混在していると、わたしは判断しました。
 百里傒が活躍した繆公の時代は、一倍年暦による従来説では紀元前七世紀頃(春秋時代)とされています。また、百里傒は楚の出身とされていますので、『史記』の記事に基づけば、この時代の楚は二倍年暦、秦は一倍年暦を採用していたと考えることができます。もちろん、『史記』の年齢記事・諸侯の在位年数が司馬遷により一倍年暦に改訂されたものであれば、あるいは司馬遷が参考にした元史料が既に一倍年暦に改訂されていた場合には、こうした単純な判断はできません。それでは司馬遷は二倍年暦という暦法や二倍年齢という概念の存在を知っていたのでしょうか。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②『孟子』「萬章章句上」には百里奚とある。

 


第2342話 2021/01/07

古田武彦先生の遺訓(20)

―東周時代(春秋・戦国期)の暦法混在―

 『論語』が二倍年暦により成立していることを調べるために、いくつかのアプローチ(注①)を試みていますが、その一つに周代の暦法調査があります。これまで報告してきたように、前半の西周時代は歴代周王の年齢や在位年数により二倍年暦(二倍年齢)が採用されていたと考えていますが、後半の東周時代(春秋・戦国期)については判断が困難でした。そこで、わたしはこの研究を進めるにあたり、共同研究者として古代暦法に詳しい山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)や西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に協力していただくことにしました。山田さんの研究成果はご自身のブログ〝sanmaoの暦歴徒然草〟で発表されていますので、ご覧下さい。
 中国古典に詳しい西村さんからは、東周時代は周王朝の権威や支配が衰え、有力諸侯がそれぞれ別個の暦法を採用していた可能性があり、その結果、秦の始皇帝は中国統一当時バラバラだった度量衡や暦法を統一したのではないかとのご意見をいただきました。
 このことについて、わたしにも思い当たる節がありました。たとえば、西晋時代(三世紀)に魏王(戦国期)墓から出土した『竹書紀年』はその後散佚し、現在伝世しているものには一倍年暦が採用されているように見えることから、出土時か散佚後の収集段階で一倍年暦に改訂されたか、あるいは元々から一倍年暦で編纂されていた可能性もあると考えていました。後者であれば、『竹書紀年』成立時の魏国(戦国期)では一倍年暦が採用されていたことになり、東周時代の暦年復原作業が複雑になります。
 このようなケースも想定していたので、西村さんからの指摘を受けて、東周時代の暦年研究が〝複雑系〟での困難な分析作業になるのは避けられないと覚悟しました。そこで、東周時代の有力諸国別に伝世史料の精査が必要となるため、それに先だって前漢代成立の『史記』の全巻読破を始めることにしました。しかし、いきなり原文(漢文)を読むのは難しすぎて時間も能力も足りませんので、比較的優れた現代語訳の『中国古典文学大系 史記』全三巻(注②)を購入し、読み始めました。その結果、「秦本紀」に一倍年暦と二倍年暦混在の痕跡らしきものを発見しました。(つづく)

(注)
①周代に関する伝世史料や竹簡・金文などの出土史料を対象とした文献史学からのアプローチ、古代暦法からのアプローチ、古天文学からのアプローチを進めている。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。