第2273話 2020/10/25

古代ギリシア哲学者の超・長寿列伝

 プラトン著『国家』にみえる教育制度と教育年齢が二倍年齢と理解せざるを得ないことなどを紹介し、ソクラテスやプラトンら古代ギリシアの哲学者たちは二倍年暦(二倍年齢)の世界に生きていたとしました。このことを裏付ける記録が残っていますので紹介します。
 ソクラテス(70歳没)やプラトン(80歳没)に代表される古代ギリシア哲学者の死亡年齢が高齢であることは著名です。たとえば、 紀元前三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』によれば、下記〔表〕の通りであり、現代日本の哲学者よりも高齢ではないでしょうか(注①)。これら哲学者はいずれも紀元前4~5世紀頃の人物であり、日本で言えば縄文晩期に相当し、常識では考えにくい高齢者群です。
 フランスの歴史学者ジョルジュ・ミノワ(Georges Minois)は「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした」(注②)とこの現象を説明していますが、はたしてそうでしょうか。やはり、この現象は古代ギリシアでも二倍年暦により年齢計算されていたと考えるべきです。そうすれば、当時の人間の寿命としてリーズナブルな死亡年齢となるからです。中国だけではなく、ヨーロッパの学者にも二倍年暦(二倍年齢)という概念がないため、「ほとんどが長生きをした」という、かなり無理な解釈に奔るしかなかったと思われます。
 その証拠に、古代ギリシアでの長寿は哲学者だけとは限らず、クセノファネス(注③)(紀元前5~6世紀の詩人、92歳没)や、古代ギリシアの三大悲劇作家のエウリピデス(74歳没)、ソポクレス(八九歳没)、アイスキュロス(注④)(69歳没)もそうです。このように、古代ギリシアの著名人には長寿が多いのですが、こうした現象は二倍年齢という仮説を導入しない限り理解困難です。

〔表〕『ギリシア哲学者列伝』のギリシア哲学者死亡年齢
名前       推定死亡年齢 ディオゲネス・ラエルティオスの注と引用
アナクサゴラス  72歳
アナクシマンドロス 66歳
テュアナのアポロニオス 80歳
アルケシラス   75歳 ある宴会で飲み過ぎて死亡。
アリストッポス  79歳
アリストン    「老齢」
アリストテレス  63歳 ディオゲネスはアリストテレスの死亡年齢を70歳としたエウメロスを批判しており、それが正しい。
アテノドロス   82歳
ビアス      「たいへんな老齢」 裁判の弁論中に死亡。
カルネアデス   85歳
キロン      「非常に高齢」 「彼の体力と年齢には耐えきれないほどの過剰な喜びのため死亡」と言われている。オリュンピア競技の拳闘で勝利した息子を讃えていたときのこと。
リュシッポス   73歳 飲み過ぎて死亡。
クレアンテス   80歳 B・E・リチャードソンによれば九九歳。
クレオブウロス  70歳
クラントル    「老齢」
クラテス     「老齢」 自分のことをこう歌っている。「おまえは地獄に向かっている、老いで腰がまがって」。
デモクリトス   100か109歳
ディオニュシオス 80歳
ディオゲネス   90歳 自分で呼吸をとめて自殺したとも、コレラで死んだとも言われている。
エンペドクレス  60か77歳 祝宴に向かう途中馬車から落ち、それがもとで死亡。
エピカルモス   90歳
エピクロス    72歳
エウドクソス   53歳
ゴルギアス    100、105もしくは109歳
ヘラクレイトス  60歳
イソクラテス   98歳
ラキュデス    「老齢」 飲み過ぎで死亡。
リュコン     74歳
メネデモス    74歳
メトロクレス   「非常に高齢」 自殺。
ミュソン     97歳
ペリアンドロス  80歳
ピッタコス    70歳
プラトン     81歳
ポレモン     「老齢」
プロタゴラス   70歳
ピューロン    90歳
ピュタゴラス   80か90歳
ソクラテス    60歳
ソロン      80歳
スペウシップス  「高齢」
スティルポン   「きわめて高齢」老いて病身、「早く死ぬためにワインを一気に飲みほした」。
テレス      78か90歳 「裸体競技を観戦中、過度の暑さと渇きから疲労し、高齢もあって死亡」。
テオフプラストス 85か100歳以上 「老衰で」死亡。
ティモン     90歳
クセノクラテス  82歳
クセノポン    「高齢」
ゼノン      98歳 転んで窒息死。
(つづく)

(注)
①ジョルジュ・ミノワ『老いの歴史 古代からルネッサンスまで』(筑摩書房、一九九六年。大野朗子・菅原恵美子訳)
②同①、72頁。
③ルチャーノ・デ・クレシェンツォ『物語ギリシャ哲学史 ソクラテス以前の哲学者たち』(而立書房、一九八六年刊。谷口勇訳)
④)同①、66頁。


第2272話 2020/10/25

プラトン『国家』の学齢

プラトンが著したソクラテス対話篇『国家』第七巻に(注①)、国家の教育制度と教育年齢についてソクラテスが語っている部分があります。その要旨は次の通りです。

十八歳~二十歳  体育訓練
二十歳~三十歳  諸科学の総観
三十歳~三十五歳 問答法初歩
三十五歳~五十歳 実務
五十歳~    〈善〉の認識に対する問答法

 これらの修学年齢も一倍年齢とすれば遅すぎます。国家の治者を教育するプログラムとしても、三五歳まで教育した後、ようやく実務に就くようでは教育期間としては長すぎますし、体育訓練が十八~二十歳というのも人間の成長を考えた場合、これではやはり遅過ぎます。ところが、これらを二倍年齢と理解すれば、一倍年齢換算で次のような就学年齢となり、リーズナブルな教育プログラムとなります。

九歳~十歳      体育訓練
十歳~十五歳     諸科学の総観
十五歳~十七・五歳  問答法初歩
十七・五歳~二十五歳 実務
二十五歳~     〈善〉の認識に対する問答法

 これまで紹介した『礼記』や『論語』の年齢記述と比較しても矛盾の無い内容です。更に『国家』第十巻には人間の一生を百年と見なしている記述があり、これも二倍年齢表記と考えざるを得ません。

「それぞれの者は、かつて誰かにどれほどの不正をはたらいたか、どれだけの数の人たちに悪事をおこなったかに応じて、それらすべての罪業のために順次罰を受けたのであるが、その刑罰の執行は、それぞれの罪について一〇度くりかえしておこなわれる。すなわち、人間の一生を一〇〇年と見なしたうえで、その一〇〇年間にわたる罰の執行を一〇度くりかえすわけであるが、これは、各人がその犯した罪の一〇倍分の償いをするためである。」プラトン『国家』第十巻(注②)

 この百年という人間の一生も『礼記』などに記された二倍年齢表記の百歳という高齢寿命とよく対応しており、この時代、洋の東西を問わず、人間の最高寿命が百歳程度(一倍年齢の五十歳)と認識されていたことがわかります。すなわち、ソクラテスやプラトンら古代ギリシアの哲学者たちは二倍年暦(二倍年齢)の世界に生きていたのです。(つづく)

(注)
①田中美知太郎編『プラトン』(中央公論社、一九七八年刊)の解説による。
②同①。


第2271話 2020/10/24

『論語』と『礼記』の学齢

 『論語』爲政篇の孔子の年齢記事と同類のものが『礼記』曲礼上篇に見えます。

 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す(元服)。三十を壮といい、室有り(妻帯する)。四十を強といい、仕う。五十を艾(かい)といい、官政に服す(重職に就く)。六十を耆(き)といい、指使す(さしずして人にやらせる)。七十を老といい、伝う(子に地位を譲る)。八十・九十を耄(もう)という。七年なるを悼(とう)といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期(ご)といい、頤(やしな)わる。」『礼記』曲礼上篇。(『四書五経』平凡社東洋文庫、竹内照夫著)

 おそらくは貴族や官吏の人生の、十年ごとの名称と解説がなされたものですが、百歳まであることから、二倍年齢であることがわかります。『礼記』は漢代に成立していますが(注)、前代の周、あるいはそれ以前の遺制(二倍年齢、短里)が、その中に散見されるのは当然でしょう。
 この『礼記』の記事と『論語』の孔子の生涯を比較すると、まず目に付くのが「学」の年齢差です。『礼記』では十歳(一倍年暦では五歳)ですが、『論語』では十五歳(一倍年暦では七~八歳)です。ということは、孔子は家が貧しくて学問を始める年齢が遅かったのではないでしょうか。とすれば、この爲政篇の一節は、孔子の自慢話ではなく苦労話かもしれません。(つづく)

(注)『周礼』のみは周代の成立。

「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」『論語』爲政第二


第2270話 2020/10/24

『論語』と『風姿花伝』の学齢(2)

 能楽・謡曲に堪能な正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の影響を受けて、『歌論集 能楽論集』(日本古典文学大系・岩波書店)を購入し、世阿弥の『風姿華傳』を数年ぶりに読みました。そこには能役者としての年齢毎の稽古のあり方が示されており、『論語』にある孔子の人生論と比較しながら拝読しました。
 世阿弥は「風姿華傳第一 年来稽古條々」(343~348頁)において、能の稽古のあり方について次のように記しています。年齢別に要点のみ抜粋します。

《七歳》
 「此藝にをひて、大方、七歳をもて、初とす。」
《十二三(歳)より》
 「此年の比(ころ)よりは、はや、ようよう、聲も調子にかかり、能も心づく比なれば、次第〃〃に、物數を教ふべし。」
《十七八より》
 「この比(ころ)は、又、あまりの大事にて、稽古多からず。先(まづ)聲變りぬれば、第一の花、失(う)せたり。」
《二十四五》
 「この比、一期(ご)の藝能の、定まる始めなり。さる程に、稽古の堺なり。」
《三十四五》
 「此比の能、盛りの極めなり。ここにて、この條々に極め悟りて、堪能になれば、定めて、天下に許され、名望を得べし。(中略)もし極めずは、四十より能は下がるべし。それ、後の證據(しょうこ)なるべし。さる程に、上るは三十四五までの比、下るは四十以来なり。返々(かえすがえす)、此比天下の許されを得ずは、能を極めたるとは思ふべからず。」
《四十四五》
 「此比よりは、能の手立、大方替るべし。(中略)それは、五十近くまで失せざらん花を持ちたる爲手(して)ならば、四十以前に、天下の名望を得つべし。」
《五十有餘》
 「この比よりは、大方、せぬならでは手立あるまじ。麒麟も老いては土(駑)馬に劣ると申す事あり。(中略)
 亡父にて候(さらふ)ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の國浅間(せんげん)の御前にて、法楽仕(つかまつ)り、その日の申楽、殊(こと)に花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。(中略)これ、眼(ま)のあたり、老骨に残りし花の證據なり。」

 能役者の世阿弥と思想家の孔子とでは人生の目標は異なりますが、その道を究めた一流の人物の人生訓には通底するものがあります。下記の『論語』爲政編と比較するといくつか興味深い一致点があります。

「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」(爲政第二)

 世阿弥は能役者としての初学年齢を「七歳」としており、これは現代の小学校入学年齢(6歳)とほぼ同じです。従って、孔子の言う「十有五にして学に志す」とは、やはり二倍年齢表記であり、一倍年齢の7.5歳とする理解が穏当です。
 また、『論語』の「五十にして天命を知る」に対応するのが、『風姿華傳』の「《二十四五》「この比、一期(ご)の藝能の、定まる始めなり」であり、「一期(ご)の藝能の、定まる始め」とあるように、〝一生の芸の成否のきまる最初〟が24~25歳であり、二倍年齢の50歳頃に相当します。すなわち24~25歳を、能役者としての「天命」が定まる年齢と、世阿弥は指摘しているのではないでしょか。
 最後に、『風姿華傳』では、世阿弥の父、観阿弥(1333~1384年)が亡くなった年齢を「五十二」歳と記しており、「老骨」とも表現しています。中国漢代と同様に「五十歳」(周代では二倍年齢の「百歳」)が人の一般的な寿命、あるいは「老後」と、世阿弥は認識していたことがわかります。同じく世阿弥の著『花鏡(かきょう)』にも、「四十」「五十」を「老後」と表現しています。

 「是(これ)、四十以来の風體(ふうてい)を習(ならふ)なるべし。五十有餘よりは、大かた、せぬをもて手立とする也。(中略)かようの色々を心得て、此風體にて一手取らんずる事をたしなむを、老後に習う風體とは申(もうす)也。」世阿弥「花鏡」『歌論集 能楽論集』(日本古典文学大系・岩波書店)435頁(つづく)

 


2022.2.3訂正済み インターネット事務局

西村氏より古賀氏へ

本日、会報編集中に古賀さんがかつて書いた洛中洛外日記に引用ミスがあることに気が付きました。
第2270話の以下の風姿花伝の引用部分

亡父にて候(さらふ)ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の國浅間(せんげん)の御前にて、法楽仕(つかまつ)り、その日の中楽、殊(こと)に花やかにて、

の、「中楽」は明らかに「申楽」つまり「猿楽」です。一年以上も前の日記ですが、横田さんに訂正して貰って下さい。

 

『世阿弥 禅竹』(岩波書店 日本思想体系)内『風姿花伝』で「申楽」と再確認。


第2269話 2020/10/23

『論語』と『風姿花伝』の学齢(1)

 先日の「古田史学の会」関西例会で〝二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―〟というテーマで、周代の二倍年暦(二倍年齢)の存在について発表しました。『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの周代史料でも、年干支や日付干支などが後代の編纂時(注①)に一倍年暦に書き換えられている可能性について論じました。その上で、周代が二倍年暦であれば、『論語』中の年齢表記も二倍年齢で理解する必要を説き(注②)、例えば次の有名な記事も二倍年齢で読むことで、よりリーズナブルな内容になると指摘しました。

「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」(爲政第二)

 わたしはこの記事の年齢、特に学齢の開始が「十有五」歳では遅すぎるので、半分の7.5歳であれば妥当と考えています。たとえば現在でも6歳で小学校に入りますし(学に志す)、一昔前は中卒(15歳)で就職(立つ)していました。このように二倍年齢で理解したほうが自らの人生を振り返っても妥当ですし、この拙論に賛同する声もよくお聞きしました。
 ところが、奈良大学で日本古代史を専攻されている日野智貴さん(古田史学の会・会員)から、関西例会で次のような鋭いご質問をいただきました。

 「周代史料が後に一倍年暦(年齢)に書き換えられたケースがあるとされるのであれば、『論語』のこの年齢表記も後代に書き換えられている可能性がある。従って、人生を年齢別に語った二倍年齢による同類の史料提示が、論証上必要ではないか。」

 さすがは大学で国史を専攻されているだけはあって、なかなか厳しい批判です。そこで、日野さんの批判にどのように答えればよいか考えてきたのですが、昨日、能楽・謡曲の勉強のために読んでいた、世阿弥の『風姿華傳』に面白い記事を見つけました。(つづく)

(注)
①『竹書紀年』の出土は3世紀だが、その後、散佚したため、清代において諸史料中に遺る佚文を編纂したものが現『竹書紀年(古本)』である。
②古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界3 孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年12月。
 古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』7集、2004年。
 古賀達也「『論語』二倍年暦説の論理」『東京古田会ニュース』179号、2018年3月。


第2268話 2020/10/22

『九州倭国通信』No.200のご紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.200が届きましたので紹介します。まずは、記念すべき200号の発刊をお祝いしたいと思います。九州王朝の故地で活動されている同会は「市民の古代研究会・九州」の流れをくんだ歴史ある会です。わたしたち「古田史学の会」とは、諸事情により疎遠となっていましたが、関係者のご尽力を賜り、2016年から友好団体として交流を再開しました。互いに切磋琢磨して学問と交流を深めたいと願っています。
 同号には拙稿「九州年号『大化』金石文の真偽論 ―『大化五子年』土器の紹介―」を掲載していただきました。前号掲載の「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」の続稿です。「大化五子年」土器は茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵しているもので、高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて
 「大化五子年
   二月十日」
の線刻文字が記されています。これは九州年号の「大化五子年」(699年)銘を持つ同時代金石文で、九州年号と九州王朝の実在を示す証拠の土器です。
 なお、九州には「大化元年」銘を持つ木製神獣が現存しています。大分県豊後大野市緒方町大化の大行事八幡社にあるもので、『太宰管内志』には次のように紹介されています。

 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」(『太宰管内志』豊後之四・大野郡)

 ちなみに、当地地名の「大化」は、この神獣に由来するのではないでしょうか。この「大化元年」銘神獣を炭素同位体年代測定法で分析すれば、七世紀末の九州年号「大化」の同時代史料であることが判明するかもしれませんので、地元の皆様への調査協力も行いました。


第2267話 2020/10/21

新・法隆寺論争 (2)

「法隆寺移築年代の考察と課題」

 若草伽藍の発掘により、法隆寺の再建・非再建論争に決着がついたことは有名です。しかし、非再建説の根拠とされた金堂や五重塔などの様式の古さという建築史上の諸問題は残されたままでした。それを解決したのが、古田史学の研究者、米田良三さんによる法隆寺移築説でした(注①)。すなわち、創建法隆寺(若草伽藍)が天智九年(670)に全焼(注②)した後、6世紀初頭に建立された別の寺院が移築されたものが現・法隆寺とする法隆寺移築説です。
 現在ではこの移築説を示唆する論者もおられるようですが、学界内では米田さんの先行研究が触れられることもなく、この状況は学問的にアンフェアではないでしょうか。わたしはこれからも米田さんの業績(プライオリティ)を訴え続けるつもりです。
 この法隆寺の移築元の寺院名や原所在地は不明ですが、移築時期については和銅年間頃とする説や持統期には再建されていたとする説があります。これまでわたしは、和銅年間での移築再建と考えてきましたが(注③)、それを否定する金石文があることに気づき、よくよく検討しなければならないと思うようになりました。その金石文とは、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」です。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
②『日本書紀』天智九年四月条に次の記事が見える。
 「夏四月の癸卯の朔壬申(.付箋文三十日)に、夜半之後に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘(あま)ること無し。」
③古賀達也「法隆寺移築考」(『古田史学会報』92号、2009年)
 古賀達也「法隆寺の菩薩天子」(『古田史学会報』97号、2010年)


第2266話 2020/10/20

古田武彦先生の遺訓(7)

貝原益軒『養生訓』と嵆康『養生論』

 今回はちょっと脇道にそれて、周代の二倍年齢の記憶が失われた後代において、「百歳」などの長寿表記がどのように認識されていたのかについて、象徴的な二例を紹介します。一つは筑前黒田藩の儒者、貝原益軒(1630年~1714年)の『養生訓』、もう一つは中国三国時代の魏の文人で竹林の七賢人の一人、嵆康(けいこう。224年~262あるいは263年)の『養生論』です。
 益軒の『養生訓』には次の記事があります。

 「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)

 この「人の身は百年を以て期となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています(注①)。江戸時代の益軒には二倍年暦(二倍年齢)の概念がありません。ですから、当時の人々の寿命について、「五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり」と述べ、「人の命なんぞ如此みじかきや」と嘆き、その理由を「皆、養生の術なければなり」と結論づけ、『養生訓』を著したわけです。
 益軒は他人に養生を説くだけではなく、自らも健康に留意した生活をおくっていたようで、当時としては長寿の85歳で没しています。ですから、一倍年齢では「中寿(80歳)」をクリアしたわけです。二倍年齢なら170歳ですから、周代の聖人らの上寿(100歳)を超えています。もし、益軒が二倍年齢を知っていたなら、このことを喜んだかもしれませんが、『養生訓』の内容は今とは大きく異なっていたことでしょう。
 次いで、嵆康の『養生論』冒頭に次の記事が見えます。

 「世或有謂神仙可以学得、不死可以力致者。或云上壽百二十、古今所同、過此以往、莫非妖妄者。此皆両失其情。試粗論之。夫神仙雖不日見、然記籍所載、前史所傳、較而論之、其有必矣。(後略)」(『養生論』)
【釈文】「世に或は謂うあり、神仙は学を以て得ベく、不死は力を以て致すべし。或いは云う、上壽百二十は古今の同じき所を以て致すべしと。これを過ぎて以往は妖妄に非るはなしと。これ皆ふたつながら其の情を失えり。…それ紳仙は目もて見ずと雖も、然れども記籍の載するところ、前史の傳うるところ、較して之を論ずれば、その有ること必せり。」(注②)

 ここには、「或いは云う」として「上壽は百二十(歳)」とあり、そのことは「記籍の載するところ、前史の傳うるところ」とありますから、漢代や周代の史料の云うところとして「上壽は百二十(歳)」という嵇康の認識が示されています。
 嵇康は神仙思想の持ち主のようですから、人は正しく養生すれば百二十歳の寿命が得られ、更には千歳・数百歳も可能と後文には記しています。しかし、残念ながら嵇康自身は四十歳で刑死しており、神仙の術を会得していなかったようです。もちろん二倍年暦(二倍年齢)の概念は『養生論』からはうかがわれません。(つづく)

(注)
①「百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
 「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(『荘子』盗跖篇)
②福永光司「嵇康と佛教 —六朝思想史と嵇康—」(『東洋史研究』20(4)1962年)による釈文。


第2265話 2020/10/18

新・法隆寺論争 (1)

古田先生と家永先生の

   『聖徳太子論争』『法隆寺論争』

 「市民の古代研究会」時代に、わたしたちは『市民の古代・別冊』として、古田先生と家永三郎さんによる論争本を二冊刊行しました。『聖徳太子論争』(1989年、新泉社)と『法隆寺論争』(1993年、新泉社)で、法隆寺の釈迦三尊像を通説通り「聖徳太子」の為のものか、九州王朝の多利思北孤の為のものかを争点とした両氏の論争が収録されています。今でも学問的価値は高く、研究者には是非読んでいただきたい基本文献です。
 法隆寺と同寺の釈迦三尊像は、古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要テーマの一つです。古田学派からも多くの研究論文・著作が出されており、古田先生の研究業績(注①)を筆頭に、学界に先駆けて法隆寺移築説を発表された米田良三さんの『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)など優れた研究がありました。わたしも若干の研究(注②)を近年発表してきましたが、定年退職したこの機会に、これまでの法隆寺研究を復習し、問題点の指摘や可能であれば新仮説の提起などを試みたいと考えています。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は沈黙せず』(駸々堂出版、1988年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年)
 古賀達也〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)~(7)〟(「洛中洛外日記」1864~1875話(2019/03/28~04/14)


第2264話 2020/10/17

7世紀末の王朝交替「禅譲」説

 本日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。わたしは今月も発表させていただきました。テーマは古代中国における二倍年暦(二倍年齢)についてです。人の寿命を百歳と表記する周代史料群と、その半分の五十歳とする漢代史料群を紹介し、その寿命表記の二倍の差は、先行した周代の二倍年暦に由来すると考えざるを得ないとしました。服部さんや日野さんから厳しい質問や批判をいただきましたので、更なる史料根拠の明示と論証力の高上に努めたいと思います。
 大原さんからは、インドネシアのクラカタウ(クラカトア)火山の噴火の年が文献(『南史』)と火山灰層研究により535年であり、その噴火により地球全体の気候変動をもたらしたこと、火山灰層層位が遺跡の編年に使用できることなどが紹介されました。535年の翌年に九州年号が「僧聴」に改元されており、気象変動による農作物の不作や疫病発生などによる改元かもしれません。以前、「古田史学の会」で記念講演していただいた中塚武先生の酸素同位体比年輪年代法によれば、534年・536年・537年に日本では大干ばつが発生しているとのことで、これもクラカタウ火山の噴火の影響と思われます。
 日野さんからは『日本書紀』に見える三人の「倭姫(媛)」(垂仁天皇の娘、継体天皇の妃、天智天皇の皇后)について、個人名というよりも何らかの「官(役)職名」ではないかとする仮説が発表されました。倭人伝にも「使大倭」という国名の「倭」を用いた役職名が見えることなどを根拠とされました。有力な仮説ではないでしょうか。
 今回の発表で、わたしがもっとも注目していたのが服部さんの「九州王朝天子よりの禅譲で文武天皇は即位した」という仮説でした。先月、わたしが発表した〝王朝統合と交替の新古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―〟の内容と対応するものでしたので、結論には大賛成ですが、はたして論証できるのだろうかと半信半疑で聞いていました。ところが、『続日本紀』文武元年(697)十二月二八日条の正月拝賀(賀正礼)禁止命令を九州王朝の天子に対する拝賀禁止とされ、その二日後の二年正月一日には文武天皇への拝賀が「大極殿」で実施されたことを根拠に、文武は天皇即位時に九州王朝から禅譲を受けていたとされました。この論証により服部説は成立しており、有力な見解と思われました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①継体・安閑・宣化期の二つの可能性について(茨木市・満田正賢)
②九州王朝天子よりの禅譲で文武天皇は即位した(八尾市・服部静尚)
③大噴火と天岩戸神話と埴輪祭祀(大山崎町・大原重雄)
④トランプ大統領の過ちと聖武天皇の過ち(川西市・正木 裕)
⑤「倭姫」という称号について(たつの市・日野智貴)
⑥消息往来―書簡の読みと所在の考察(京都市・岡下英男)
⑦二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―(京都市・古賀達也)
⑧「博徳書書内の「驛」記事について」の検証の続き(東大阪市・萩野秀公)
⑨深草の屯倉記事について(東大阪市・萩野秀公)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」の回避に大部屋使用のため)
 11/21(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史(3)」 老松~飛梅と筑紫の神松伝承~ 講師:正木 裕さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 10/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社西館3階
    「多利思北孤の時代③ 「聖徳太子」の「遣隋使」はなかった」 講師:正木 裕さん
 11/17(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館交流ホールBC室
    「多利思北孤の時代④」 講師:正木 裕さん
 12/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館交流ホールBC室
    「多利思北孤の時代⑤」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール 参加費500円
 11/03(火・祝) 14:00~16:00 ①「大化の改新」と難波京 ②条坊都市はなぜ造られたのか 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター
 11/10(火) 14:00~16:00 「なぜ蛇は神なのか」 講師:大原重雄さん
             「法隆寺薬師像は実は釈迦像だった」 講師:服部静尚さん
 12/08(火) 14:00~16:00 「未定」 講師:未定

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 12/01(火) 18:30~20:00 「周王朝から邪馬壹国へ ―『倭人伝』の官名『泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚』の謎を解く」 講師:正木 裕さん

《古田武彦記念古代史セミナー2020》(八王子セミナー)
 11/14~15 大学セミナーハウス(東京都八王子市)
 新型コロナ対策として、Zoomを使ったオンライン+現地参加の「ハイブリッド方式」での開催となりました。オンライン参加6,000円、現地参加15,000円。


第2263話 2020/10/16

古田武彦先生の遺訓(6)

周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡

 佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)を再読していますが、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のような指摘がなされています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 わたしも、中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」が「確定」できたとする周代の各王の在位年数の当否を調査するために、各史料(『竹書紀年』『史記』『東方年表』など)の在位年数をエクセルの表に並べて「夏商周断代工程」と比較検討していますが、どの史料の数字が妥当なのかまだよくわかりませんし、「夏商周断代工程」に至っては、文献史料との不一致が見られ、理解に苦しんでいます。
 他方、とても興味深い現象も発見しました。西周第九代国王の夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があるのです。たとえば、『竹書紀年』や『史記』には8年とあり、『東方年表』には16年とされています。そこで、『東方年表』は何を根拠に16年としたのかを調査したところ、ウィキペディア(中国版)に次の解説がありました。見やすいように整理修正して転載します。

【以下、転載】
https://zh.wikipedia.org/wiki/周夷王
「維基百科,自由的百科全書」
周夷王(西周第九代國王)
【在位年數】現今流傳文獻記載的周夷王在位年數有3種説法。
○在位 8年(今本『竹書紀年』)
○在位15年(『資治通鑑外紀』、『通志』同)
○在位16年(『太平御覽』卷85引『帝王世紀』、『皇極經世』、『文獻通考』、『資治通鑑前編』均同)
【転載おわり】

 このように、夷王の在位年数について3種類の史料があり、16年と記す史料として『太平御覽』引用『帝王世紀』を始め、『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』などがあるというのです。例えば『太平御覽』に引用された『帝王世紀』の当該記事は次の通りです。

〝帝王世紀曰、夷王即位、諸侯來朝、王降與抗禮、諸侯德之。三年、王有惡疾、愆于厥身。諸侯莫不并走群望、以祈王身。十六年、王崩。〟『太平御覽』皇王部十「夷王」(中國哲學書電子化計劃)

 これらの夷王在位16年説を『東方年表』(藤島達朗・野上俊静編)は採用したのではないでしょうか。この二倍の差が偶然ではないとすれば、中国の古典や史書には二倍年暦(二倍年齢)の16年で夷王の在位年数を伝承した史料があり、それらよりも成立が古いはずの『竹書紀年』は一倍年暦(一倍年齢)に書き改められていると理解せざるを得ない史料状況を示しています。そうでなければ、そもそも16年説などは発生のしようがありません。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注①)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明からも明らかなように、成立が古い『竹書紀年』ですが、出土後に散佚し、清代になって佚文を編集したものであり、原文の姿がどの程度遺されているのかは不明です。夷王在位年数に8年説と16年説があることを論理的に考えれば、周代の二倍年暦(二倍年齢)が一倍年齢に書き換えられている『竹書紀年』の在位年数や紀年については用心が必要で、無批判に採用することは危険とわたしは感じました。『竹書紀年』などの史料に遺された様々な在位年数や紀年を各研究者が自説に基づいて取捨選択した結果、周の紀年復元に諸説入り乱れる現在の状況が発生したのは無理からぬことです(注②)。(つづく)

(注)
①西晋(265~316年)。
②「維基百科,自由的百科全書」には夷王の在位年と実年代について、次の多くの異説が紹介されている。
 「近人依據文獻及出土文物銘文考定的周夷王在位年數」
○前863年-前857年,在位 7年説(章鴻釗『中國古曆析疑』)
○前893年-前879年,在位15年説(黎東方『西周青銅器銘文之年代學資料』)
○前888年-前872年,在位17年説(趙光賢『武王克商與西周諸王年代考』)
○前898年-前879年,在位20年説(馬承源『西周金文和周曆的研究』)
○前904年-前882年,在位23年説(謝元震『西周年代論』)
○前907年-前879年,在位29年説(劉啟益『西周紀年銅器與武王至厲王的在位年數』)
○前887年-前858年,在位30年説(陳夢家『西周年代考』)
○前908年-前878年,在位31年説(丁驌『西周王年與殷世新説』)
○前893年-前862年,在位32年説(葉慈『周代年表』)
○前893年-前860年,在位34年説(周法高『西周年代新考——論金文月相與西周王年』)
○前903年-前866年,在位38年説(何幼琦『西周的年代問題』)
○前917年-前879年,在位39年説(白川靜『西周斷代與年曆譜』)
○前924年-前879年,在位46年説(董作賓『西周年曆譜』)


第2262話 2020/10/15

「防人」と「防」と「防所」

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟は優れたものでした。従来、『日本書紀』に記された「防人」「防」はともに「さきもり」と訓まれ、辺境防備の兵とされてきましたが、山田稿では「防」は九州王朝(倭国)防衛のために対馬・壱岐・筑紫国防衛のために建設された防衛施設(版築土塁)であり、「防人」はその「防」に配備さたれた防備兵(戍)のこととされました。『日本書紀』の用例悉皆調査に基づいて導き出された仮説であり、その結論だけではなく、方法論にも説得力を感じました。この仮説が更に検証されることを願っています。
 山田稿を読んで、以前から気になっていたことを思い出しました。佐賀県に「防所」(ぼうじょ、ぼうぜ)という地名があり、現在でも知られているのが、吉野ヶ里遺跡の東にある三養基郡上峰町坊所です。現在は「ぼうじょ」と訓むようですが、『佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告 下巻』(佐賀県・佐賀県教育委員会編、昭和51年)に収録されている昭和26年の報告書には「ぼうぜ」と記されています。「所」を「ぜ」と訓む例は、滋賀県大津市膳所(ぜぜ)や奈良県御所(ごせ)市があり、これは古い言葉(地名接尾語)ではないでしょうか。
 同書によれば、佐賀県内三カ所に「防所」地名があったとされ、先の上峰村坊所の他に、基山の東峰に「城戸ボージョ」と呼ばれている所があり、『和名抄』高山寺本「佐嘉郡」の条に「防所郷」の名前があるとのこと(地名としては現存せず、正確な所在地は未詳)。弘仁四年八月九日の太政官符により、肥前国の軍団が三団であったことは明らかと同書869頁に紹介されており、佐賀県内三カ所の「防所」の存在(数)と一致しています。
 この「防所」は、山田説とどのように整合するのでしょうか。それとも、同書の説明にあるような律令体制下の軍団の駐屯地と考えてよいのか興味があるところです。基肄城にある「城戸ボージョ」は山田説の「防」(防衛施設)に対応すると考えて問題ありませんが、上峰村の「坊所」は当地に版築土塁の防衛施設があるのかどうかが問題となります。同地は吉野ヶ里遺跡の近隣であり、古墳や廃寺跡など古代遺跡は少なくないようですので、太宰府から吉野ヶ里を結ぶ軍事道路の守備隊がいたことは間違いないように思われます。ちなみに、偶然かもしれませんが、上峰村坊所の近くには佐賀県唯一の陸上自衛隊の基地(目達原駐屯地)があります。今も昔も軍事上の要衝の地ということなのでしょう。
 更に山田説を突き詰めれば、九州王朝の首都太宰府を防衛する山城や版築土塁付近に「防」地名が遺っていてほしいところです。今のところ、佐賀県の「坊所」地名しかわたしは知りませんので、当地の皆さんの調査協力を賜りたいと願っています。