第2269話 2020/10/23

『論語』と『風姿花伝』の学齢(1)

 先日の「古田史学の会」関西例会で〝二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―〟というテーマで、周代の二倍年暦(二倍年齢)の存在について発表しました。『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの周代史料でも、年干支や日付干支などが後代の編纂時(注①)に一倍年暦に書き換えられている可能性について論じました。その上で、周代が二倍年暦であれば、『論語』中の年齢表記も二倍年齢で理解する必要を説き(注②)、例えば次の有名な記事も二倍年齢で読むことで、よりリーズナブルな内容になると指摘しました。

「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」(爲政第二)

 わたしはこの記事の年齢、特に学齢の開始が「十有五」歳では遅すぎるので、半分の7.5歳であれば妥当と考えています。たとえば現在でも6歳で小学校に入りますし(学に志す)、一昔前は中卒(15歳)で就職(立つ)していました。このように二倍年齢で理解したほうが自らの人生を振り返っても妥当ですし、この拙論に賛同する声もよくお聞きしました。
 ところが、奈良大学で日本古代史を専攻されている日野智貴さん(古田史学の会・会員)から、関西例会で次のような鋭いご質問をいただきました。

 「周代史料が後に一倍年暦(年齢)に書き換えられたケースがあるとされるのであれば、『論語』のこの年齢表記も後代に書き換えられている可能性がある。従って、人生を年齢別に語った二倍年齢による同類の史料提示が、論証上必要ではないか。」

 さすがは大学で国史を専攻されているだけはあって、なかなか厳しい批判です。そこで、日野さんの批判にどのように答えればよいか考えてきたのですが、昨日、能楽・謡曲の勉強のために読んでいた、世阿弥の『風姿華傳』に面白い記事を見つけました。(つづく)

(注)
①『竹書紀年』の出土は3世紀だが、その後、散佚したため、清代において諸史料中に遺る佚文を編纂したものが現『竹書紀年(古本)』である。
②古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界3 孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年12月。
 古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』7集、2004年。
 古賀達也「『論語』二倍年暦説の論理」『東京古田会ニュース』179号、2018年3月。


第2268話 2020/10/22

『九州倭国通信』No.200のご紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.200が届きましたので紹介します。まずは、記念すべき200号の発刊をお祝いしたいと思います。九州王朝の故地で活動されている同会は「市民の古代研究会・九州」の流れをくんだ歴史ある会です。わたしたち「古田史学の会」とは、諸事情により疎遠となっていましたが、関係者のご尽力を賜り、2016年から友好団体として交流を再開しました。互いに切磋琢磨して学問と交流を深めたいと願っています。
 同号には拙稿「九州年号『大化』金石文の真偽論 ―『大化五子年』土器の紹介―」を掲載していただきました。前号掲載の「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」の続稿です。「大化五子年」土器は茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵しているもので、高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて
 「大化五子年
   二月十日」
の線刻文字が記されています。これは九州年号の「大化五子年」(699年)銘を持つ同時代金石文で、九州年号と九州王朝の実在を示す証拠の土器です。
 なお、九州には「大化元年」銘を持つ木製神獣が現存しています。大分県豊後大野市緒方町大化の大行事八幡社にあるもので、『太宰管内志』には次のように紹介されています。

 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」(『太宰管内志』豊後之四・大野郡)

 ちなみに、当地地名の「大化」は、この神獣に由来するのではないでしょうか。この「大化元年」銘神獣を炭素同位体年代測定法で分析すれば、七世紀末の九州年号「大化」の同時代史料であることが判明するかもしれませんので、地元の皆様への調査協力も行いました。


第2267話 2020/10/21

新・法隆寺論争 (2)

「法隆寺移築年代の考察と課題」

 若草伽藍の発掘により、法隆寺の再建・非再建論争に決着がついたことは有名です。しかし、非再建説の根拠とされた金堂や五重塔などの様式の古さという建築史上の諸問題は残されたままでした。それを解決したのが、古田史学の研究者、米田良三さんによる法隆寺移築説でした(注①)。すなわち、創建法隆寺(若草伽藍)が天智九年(670)に全焼(注②)した後、6世紀初頭に建立された別の寺院が移築されたものが現・法隆寺とする法隆寺移築説です。
 現在ではこの移築説を示唆する論者もおられるようですが、学界内では米田さんの先行研究が触れられることもなく、この状況は学問的にアンフェアではないでしょうか。わたしはこれからも米田さんの業績(プライオリティ)を訴え続けるつもりです。
 この法隆寺の移築元の寺院名や原所在地は不明ですが、移築時期については和銅年間頃とする説や持統期には再建されていたとする説があります。これまでわたしは、和銅年間での移築再建と考えてきましたが(注③)、それを否定する金石文があることに気づき、よくよく検討しなければならないと思うようになりました。その金石文とは、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」です。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
②『日本書紀』天智九年四月条に次の記事が見える。
 「夏四月の癸卯の朔壬申(.付箋文三十日)に、夜半之後に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘(あま)ること無し。」
③古賀達也「法隆寺移築考」(『古田史学会報』92号、2009年)
 古賀達也「法隆寺の菩薩天子」(『古田史学会報』97号、2010年)


第2266話 2020/10/20

古田武彦先生の遺訓(7)

貝原益軒『養生訓』と嵆康『養生論』

 今回はちょっと脇道にそれて、周代の二倍年齢の記憶が失われた後代において、「百歳」などの長寿表記がどのように認識されていたのかについて、象徴的な二例を紹介します。一つは筑前黒田藩の儒者、貝原益軒(1630年~1714年)の『養生訓』、もう一つは中国三国時代の魏の文人で竹林の七賢人の一人、嵆康(けいこう。224年~262あるいは263年)の『養生論』です。
 益軒の『養生訓』には次の記事があります。

 「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)

 この「人の身は百年を以て期となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています(注①)。江戸時代の益軒には二倍年暦(二倍年齢)の概念がありません。ですから、当時の人々の寿命について、「五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり」と述べ、「人の命なんぞ如此みじかきや」と嘆き、その理由を「皆、養生の術なければなり」と結論づけ、『養生訓』を著したわけです。
 益軒は他人に養生を説くだけではなく、自らも健康に留意した生活をおくっていたようで、当時としては長寿の85歳で没しています。ですから、一倍年齢では「中寿(80歳)」をクリアしたわけです。二倍年齢なら170歳ですから、周代の聖人らの上寿(100歳)を超えています。もし、益軒が二倍年齢を知っていたなら、このことを喜んだかもしれませんが、『養生訓』の内容は今とは大きく異なっていたことでしょう。
 次いで、嵆康の『養生論』冒頭に次の記事が見えます。

 「世或有謂神仙可以学得、不死可以力致者。或云上壽百二十、古今所同、過此以往、莫非妖妄者。此皆両失其情。試粗論之。夫神仙雖不日見、然記籍所載、前史所傳、較而論之、其有必矣。(後略)」(『養生論』)
【釈文】「世に或は謂うあり、神仙は学を以て得ベく、不死は力を以て致すべし。或いは云う、上壽百二十は古今の同じき所を以て致すべしと。これを過ぎて以往は妖妄に非るはなしと。これ皆ふたつながら其の情を失えり。…それ紳仙は目もて見ずと雖も、然れども記籍の載するところ、前史の傳うるところ、較して之を論ずれば、その有ること必せり。」(注②)

 ここには、「或いは云う」として「上壽は百二十(歳)」とあり、そのことは「記籍の載するところ、前史の傳うるところ」とありますから、漢代や周代の史料の云うところとして「上壽は百二十(歳)」という嵇康の認識が示されています。
 嵇康は神仙思想の持ち主のようですから、人は正しく養生すれば百二十歳の寿命が得られ、更には千歳・数百歳も可能と後文には記しています。しかし、残念ながら嵇康自身は四十歳で刑死しており、神仙の術を会得していなかったようです。もちろん二倍年暦(二倍年齢)の概念は『養生論』からはうかがわれません。(つづく)

(注)
①「百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
 「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(『荘子』盗跖篇)
②福永光司「嵇康と佛教 —六朝思想史と嵇康—」(『東洋史研究』20(4)1962年)による釈文。


第2265話 2020/10/18

新・法隆寺論争 (1)

古田先生と家永先生の

   『聖徳太子論争』『法隆寺論争』

 「市民の古代研究会」時代に、わたしたちは『市民の古代・別冊』として、古田先生と家永三郎さんによる論争本を二冊刊行しました。『聖徳太子論争』(1989年、新泉社)と『法隆寺論争』(1993年、新泉社)で、法隆寺の釈迦三尊像を通説通り「聖徳太子」の為のものか、九州王朝の多利思北孤の為のものかを争点とした両氏の論争が収録されています。今でも学問的価値は高く、研究者には是非読んでいただきたい基本文献です。
 法隆寺と同寺の釈迦三尊像は、古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要テーマの一つです。古田学派からも多くの研究論文・著作が出されており、古田先生の研究業績(注①)を筆頭に、学界に先駆けて法隆寺移築説を発表された米田良三さんの『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)など優れた研究がありました。わたしも若干の研究(注②)を近年発表してきましたが、定年退職したこの機会に、これまでの法隆寺研究を復習し、問題点の指摘や可能であれば新仮説の提起などを試みたいと考えています。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は沈黙せず』(駸々堂出版、1988年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年)
 古賀達也〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)~(7)〟(「洛中洛外日記」1864~1875話(2019/03/28~04/14)


第2264話 2020/10/17

7世紀末の王朝交替「禅譲」説

 本日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。わたしは今月も発表させていただきました。テーマは古代中国における二倍年暦(二倍年齢)についてです。人の寿命を百歳と表記する周代史料群と、その半分の五十歳とする漢代史料群を紹介し、その寿命表記の二倍の差は、先行した周代の二倍年暦に由来すると考えざるを得ないとしました。服部さんや日野さんから厳しい質問や批判をいただきましたので、更なる史料根拠の明示と論証力の高上に努めたいと思います。
 大原さんからは、インドネシアのクラカタウ(クラカトア)火山の噴火の年が文献(『南史』)と火山灰層研究により535年であり、その噴火により地球全体の気候変動をもたらしたこと、火山灰層層位が遺跡の編年に使用できることなどが紹介されました。535年の翌年に九州年号が「僧聴」に改元されており、気象変動による農作物の不作や疫病発生などによる改元かもしれません。以前、「古田史学の会」で記念講演していただいた中塚武先生の酸素同位体比年輪年代法によれば、534年・536年・537年に日本では大干ばつが発生しているとのことで、これもクラカタウ火山の噴火の影響と思われます。
 日野さんからは『日本書紀』に見える三人の「倭姫(媛)」(垂仁天皇の娘、継体天皇の妃、天智天皇の皇后)について、個人名というよりも何らかの「官(役)職名」ではないかとする仮説が発表されました。倭人伝にも「使大倭」という国名の「倭」を用いた役職名が見えることなどを根拠とされました。有力な仮説ではないでしょうか。
 今回の発表で、わたしがもっとも注目していたのが服部さんの「九州王朝天子よりの禅譲で文武天皇は即位した」という仮説でした。先月、わたしが発表した〝王朝統合と交替の新古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―〟の内容と対応するものでしたので、結論には大賛成ですが、はたして論証できるのだろうかと半信半疑で聞いていました。ところが、『続日本紀』文武元年(697)十二月二八日条の正月拝賀(賀正礼)禁止命令を九州王朝の天子に対する拝賀禁止とされ、その二日後の二年正月一日には文武天皇への拝賀が「大極殿」で実施されたことを根拠に、文武は天皇即位時に九州王朝から禅譲を受けていたとされました。この論証により服部説は成立しており、有力な見解と思われました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①継体・安閑・宣化期の二つの可能性について(茨木市・満田正賢)
②九州王朝天子よりの禅譲で文武天皇は即位した(八尾市・服部静尚)
③大噴火と天岩戸神話と埴輪祭祀(大山崎町・大原重雄)
④トランプ大統領の過ちと聖武天皇の過ち(川西市・正木 裕)
⑤「倭姫」という称号について(たつの市・日野智貴)
⑥消息往来―書簡の読みと所在の考察(京都市・岡下英男)
⑦二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―(京都市・古賀達也)
⑧「博徳書書内の「驛」記事について」の検証の続き(東大阪市・萩野秀公)
⑨深草の屯倉記事について(東大阪市・萩野秀公)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」の回避に大部屋使用のため)
 11/21(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史(3)」 老松~飛梅と筑紫の神松伝承~ 講師:正木 裕さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 10/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社西館3階
    「多利思北孤の時代③ 「聖徳太子」の「遣隋使」はなかった」 講師:正木 裕さん
 11/17(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館交流ホールBC室
    「多利思北孤の時代④」 講師:正木 裕さん
 12/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館交流ホールBC室
    「多利思北孤の時代⑤」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール 参加費500円
 11/03(火・祝) 14:00~16:00 ①「大化の改新」と難波京 ②条坊都市はなぜ造られたのか 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター
 11/10(火) 14:00~16:00 「なぜ蛇は神なのか」 講師:大原重雄さん
             「法隆寺薬師像は実は釈迦像だった」 講師:服部静尚さん
 12/08(火) 14:00~16:00 「未定」 講師:未定

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 12/01(火) 18:30~20:00 「周王朝から邪馬壹国へ ―『倭人伝』の官名『泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚』の謎を解く」 講師:正木 裕さん

《古田武彦記念古代史セミナー2020》(八王子セミナー)
 11/14~15 大学セミナーハウス(東京都八王子市)
 新型コロナ対策として、Zoomを使ったオンライン+現地参加の「ハイブリッド方式」での開催となりました。オンライン参加6,000円、現地参加15,000円。


第2263話 2020/10/16

古田武彦先生の遺訓(6)

周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡

 佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)を再読していますが、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のような指摘がなされています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 わたしも、中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」が「確定」できたとする周代の各王の在位年数の当否を調査するために、各史料(『竹書紀年』『史記』『東方年表』など)の在位年数をエクセルの表に並べて「夏商周断代工程」と比較検討していますが、どの史料の数字が妥当なのかまだよくわかりませんし、「夏商周断代工程」に至っては、文献史料との不一致が見られ、理解に苦しんでいます。
 他方、とても興味深い現象も発見しました。西周第九代国王の夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があるのです。たとえば、『竹書紀年』や『史記』には8年とあり、『東方年表』には16年とされています。そこで、『東方年表』は何を根拠に16年としたのかを調査したところ、ウィキペディア(中国版)に次の解説がありました。見やすいように整理修正して転載します。

【以下、転載】
https://zh.wikipedia.org/wiki/周夷王
「維基百科,自由的百科全書」
周夷王(西周第九代國王)
【在位年數】現今流傳文獻記載的周夷王在位年數有3種説法。
○在位 8年(今本『竹書紀年』)
○在位15年(『資治通鑑外紀』、『通志』同)
○在位16年(『太平御覽』卷85引『帝王世紀』、『皇極經世』、『文獻通考』、『資治通鑑前編』均同)
【転載おわり】

 このように、夷王の在位年数について3種類の史料があり、16年と記す史料として『太平御覽』引用『帝王世紀』を始め、『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』などがあるというのです。例えば『太平御覽』に引用された『帝王世紀』の当該記事は次の通りです。

〝帝王世紀曰、夷王即位、諸侯來朝、王降與抗禮、諸侯德之。三年、王有惡疾、愆于厥身。諸侯莫不并走群望、以祈王身。十六年、王崩。〟『太平御覽』皇王部十「夷王」(中國哲學書電子化計劃)

 これらの夷王在位16年説を『東方年表』(藤島達朗・野上俊静編)は採用したのではないでしょうか。この二倍の差が偶然ではないとすれば、中国の古典や史書には二倍年暦(二倍年齢)の16年で夷王の在位年数を伝承した史料があり、それらよりも成立が古いはずの『竹書紀年』は一倍年暦(一倍年齢)に書き改められていると理解せざるを得ない史料状況を示しています。そうでなければ、そもそも16年説などは発生のしようがありません。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注①)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明からも明らかなように、成立が古い『竹書紀年』ですが、出土後に散佚し、清代になって佚文を編集したものであり、原文の姿がどの程度遺されているのかは不明です。夷王在位年数に8年説と16年説があることを論理的に考えれば、周代の二倍年暦(二倍年齢)が一倍年齢に書き換えられている『竹書紀年』の在位年数や紀年については用心が必要で、無批判に採用することは危険とわたしは感じました。『竹書紀年』などの史料に遺された様々な在位年数や紀年を各研究者が自説に基づいて取捨選択した結果、周の紀年復元に諸説入り乱れる現在の状況が発生したのは無理からぬことです(注②)。(つづく)

(注)
①西晋(265~316年)。
②「維基百科,自由的百科全書」には夷王の在位年と実年代について、次の多くの異説が紹介されている。
 「近人依據文獻及出土文物銘文考定的周夷王在位年數」
○前863年-前857年,在位 7年説(章鴻釗『中國古曆析疑』)
○前893年-前879年,在位15年説(黎東方『西周青銅器銘文之年代學資料』)
○前888年-前872年,在位17年説(趙光賢『武王克商與西周諸王年代考』)
○前898年-前879年,在位20年説(馬承源『西周金文和周曆的研究』)
○前904年-前882年,在位23年説(謝元震『西周年代論』)
○前907年-前879年,在位29年説(劉啟益『西周紀年銅器與武王至厲王的在位年數』)
○前887年-前858年,在位30年説(陳夢家『西周年代考』)
○前908年-前878年,在位31年説(丁驌『西周王年與殷世新説』)
○前893年-前862年,在位32年説(葉慈『周代年表』)
○前893年-前860年,在位34年説(周法高『西周年代新考——論金文月相與西周王年』)
○前903年-前866年,在位38年説(何幼琦『西周的年代問題』)
○前917年-前879年,在位39年説(白川靜『西周斷代與年曆譜』)
○前924年-前879年,在位46年説(董作賓『西周年曆譜』)


第2262話 2020/10/15

「防人」と「防」と「防所」

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟は優れたものでした。従来、『日本書紀』に記された「防人」「防」はともに「さきもり」と訓まれ、辺境防備の兵とされてきましたが、山田稿では「防」は九州王朝(倭国)防衛のために対馬・壱岐・筑紫国防衛のために建設された防衛施設(版築土塁)であり、「防人」はその「防」に配備さたれた防備兵(戍)のこととされました。『日本書紀』の用例悉皆調査に基づいて導き出された仮説であり、その結論だけではなく、方法論にも説得力を感じました。この仮説が更に検証されることを願っています。
 山田稿を読んで、以前から気になっていたことを思い出しました。佐賀県に「防所」(ぼうじょ、ぼうぜ)という地名があり、現在でも知られているのが、吉野ヶ里遺跡の東にある三養基郡上峰町坊所です。現在は「ぼうじょ」と訓むようですが、『佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告 下巻』(佐賀県・佐賀県教育委員会編、昭和51年)に収録されている昭和26年の報告書には「ぼうぜ」と記されています。「所」を「ぜ」と訓む例は、滋賀県大津市膳所(ぜぜ)や奈良県御所(ごせ)市があり、これは古い言葉(地名接尾語)ではないでしょうか。
 同書によれば、佐賀県内三カ所に「防所」地名があったとされ、先の上峰村坊所の他に、基山の東峰に「城戸ボージョ」と呼ばれている所があり、『和名抄』高山寺本「佐嘉郡」の条に「防所郷」の名前があるとのこと(地名としては現存せず、正確な所在地は未詳)。弘仁四年八月九日の太政官符により、肥前国の軍団が三団であったことは明らかと同書869頁に紹介されており、佐賀県内三カ所の「防所」の存在(数)と一致しています。
 この「防所」は、山田説とどのように整合するのでしょうか。それとも、同書の説明にあるような律令体制下の軍団の駐屯地と考えてよいのか興味があるところです。基肄城にある「城戸ボージョ」は山田説の「防」(防衛施設)に対応すると考えて問題ありませんが、上峰村の「坊所」は当地に版築土塁の防衛施設があるのかどうかが問題となります。同地は吉野ヶ里遺跡の近隣であり、古墳や廃寺跡など古代遺跡は少なくないようですので、太宰府から吉野ヶ里を結ぶ軍事道路の守備隊がいたことは間違いないように思われます。ちなみに、偶然かもしれませんが、上峰村坊所の近くには佐賀県唯一の陸上自衛隊の基地(目達原駐屯地)があります。今も昔も軍事上の要衝の地ということなのでしょう。
 更に山田説を突き詰めれば、九州王朝の首都太宰府を防衛する山城や版築土塁付近に「防」地名が遺っていてほしいところです。今のところ、佐賀県の「坊所」地名しかわたしは知りませんので、当地の皆さんの調査協力を賜りたいと願っています。


第2261話 2020/10/14

古田武彦先生の遺訓(5)

二倍年齢の痕跡、周代の百歳と漢代の五十歳

 わたしは周代は二倍年暦(二倍年齢)で漢代は一倍年暦と考えていますが、そのように考えた理由の一つは、当時の人々の寿命についての一般的認識に二倍の差があることが諸史料に見えることです。これまで発表した資料も含めて、あらためて列記しておきます。

【周代史料の寿命認識記事】
①「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)
②「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
③「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(『荘子』盗跖篇第二十九)
④「召忽(しょうこつ)曰く『百歳の後、わが君、世を卜(さ)る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺(きゅう)を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり。いわんやわれに斉国の政を与うるをや。君命をうけて改めず、立つるところを奉じて済おとさざるは、これわが義なり』。」(『管子』大匡編)
⑤「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(『列子』「周穆王第三」第八章)
⑥「林類(りんるい)年且(まさ)に百歳ならんとす。」(『列子』「天瑞第一」第八章)
⑦「穆王幾(あ)に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮(きわ)むるも、猶(なほ)百年にして乃ち徂(ゆ)けり。世以て登假(とうか)と為す。」(『列子』「周穆王第三」第一章)
⑧「太形(行)・王屋(おうおく)の二山は、方七百里、高さ萬仞(じん)。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且(まさ)に九十ならんとす。」(『列子』「湯問第五」第二章)
⑨「人生れて日月を見ざる有り、襁褓(きょうほ)を免れざる者あり。吾既に已(すで)に行年九十なり。是れ三楽なり。」(『列子』「天瑞第一」第七章)
⑩「百年にして死し、夭せず病まず。」(『列子』「湯問第五」第五章)
⑪「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。設(も)し一有りとするも、孩抱(がいほう)より以て昏老(こんろう)に逮(およ)ぶまで、幾(ほと)んど其の半(なかば)に居る。」(『列子』「楊朱第七」第二章)
⑫「然(しか)り而(しこう)して萬物は齊(ひとし)く生じて齊しく死し、齊しく賢にして齊しく愚、齊しく貴くして齊しく賤(いや)し。十年も亦死し、百年も亦死す。仁聖も亦死し、凶愚も亦死す。」(『列子』「楊朱第七」第三章)
⑬「百年も猶(なほ)其の多きを厭(いと)ふ。況(いわ)んや久しく生くることの苦しきをや、と。」(『列子』「楊朱第七」第十章)

【漢代史料の寿命認識記事】
⑭「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』「上古天真論第一」)
⑮「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(『論衡』「命義第六」)
 ※「随」の説明として、「亦、三性有り、正有り、随有り、遭有り。正は五常の性を稟くるものなり。随は父母の性に随(したが)ふものなり、遭は悪物の象に遭得するもの故なり。」(『論衡』「命義第六」)とあり、「随命」とは「父母の性に随」った場合の寿命である。すなわち、前漢代当時の一般的な人(父母)の寿命が五十歳であることを示している(注①)。
⑯「人生は百歳に満たず、常に懐に千歳を憂う」(『楽府詩集』「西門行」)

 以上のように、人の寿命について周代史料では「百歳」、漢代史料では「五十歳」を一般的な「高齢」あるいは「限界」と見なしています。この二倍の寿命差こそ、周代に二倍年暦(二倍年齢)が採用されていたとする史料根拠です。
 特に、⑭の前漢代の医学書『素問』に見える記事「上古の人は春秋皆百歳」と「今時の人は、年半百(五十歳)」は、前漢代では二倍年齢の概念が失われており、上古(恐らく周代以前)の二倍年齢表記による「百歳」を、前漢代当時の百歳と誤認し、「時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」と疑義を呈したものです。この記事も周代の二倍年暦(二倍年齢)という仮説でなければ理解できません。
 他方、周代の『曾子』の記事①「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり」は、孔子の弟子である曾子の言葉ですから、師の孔子も二倍年齢で『論語』を語ったと考えざるを得ません。そうしたとき、彼の有名な『論語』の一節、「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩のりを踰こえず。」(『論語』「爲政第二」)の年齢も二倍年齢として理解しなければなりませんし、その方がリアルな孔子像が見えてきます(注②)。(つづく)

(注)
①古賀達也「『論衡』の二倍年齢 ―寿命百歳説と王充の寿命―」(『東京古田会ニュース』186号、2019年5月)
②詳しくは本ホームページに収録されている次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集(2004年、新泉社)
 古賀達也「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」『新・古代学』第8集(2005年、新泉社)


第2260話 2020/10/13

古田武彦先生の遺訓(4)

プロジェクト「夏商周断代工程」への批判

 2000年に発表された中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」以降の古代中国史研究についても紹介した佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)を購入して精読しています。
 同書には、岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)で紹介されたプロジェクト「夏商周断代工程」の研究成果への学界からの批判として、次の事例が紹介されています。

〝夏商周断代工程の年表では懿王の在位年数は八年であり、銘文(注①)の紀年と矛盾する。あるいは『史記』の三代世表では第八代の孝王が懿王の弟、すなわち共王の子とされているが(周本紀では孝王は共王の弟とされている)、夏商周断代工程では孝王の在位年数も六年しかなく、いずれにせよ夏商周断代工程が設定した西周の王の紀年が誤っていたことが示されてしまったのである。
 北京大学の金文研究者朱鳳瀚はその誤りを認め、年表の修正を試みた。朱鳳瀚は夏商周断代工程の専門家チームのひとりである。彼は取り敢えず懿王元年とされる前八九九年から懿王の在位年をそのまま引き延ばそうとしたが、ここでまた問題が生じた。懿王一〇年にあたる前八九〇年の正月(一月)の朔日は丙申の日であり、銘文の「甲寅」は一九日となり、一日から一〇日までという月相の初吉の範囲に合わないのである。結局「天再び鄭(てい)に旦す」(注②)を基準に定めたはずの懿王元年の年も誤りであったと認めざるを得なくなった。〟110~111頁

 こうした批判と、その批判を認めざるを得なくなったプロジェクト「夏商周断代工程」の専門家による年表修正、そして修正により新たな矛盾が発生したことを紹介し、著者の佐藤信弥さんは次のように指摘されました。

〝「夏商周断代工程は国家プロジェクトの一環として進められたのではなかったのか? それがあっさりと間違いでしたと掌(てのひら)を返してしまって問題がないのか?」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、金文に見える紀年を頼りに西周の王年を復元するという試み自体が、もともと誰がやっても無理が生じるものであり、このように新しい材料の出現にともなって修正を迫られるものなのである。(中略)
 金文の紀年による西周王年の復元は、中国だけでなく、日本も含めた外国の研究者も取り組んでいる研究課題であるが、一方でこのような観点から王年の復元自体に否定的な意見もある(実は筆者も否定的な立場をとる)。〟111~112頁

 この佐藤さんの指摘はもっともなものです。様々な解釈が可能な金文の記事に対して、自説に都合の良い解釈を当てはめ、年代を確定するという中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」の方法自体にわたしも疑念を抱いています。この周代の編年・暦法研究はそれこそ後秦代(384~417年。注③)から試みられており、未だに決着がついていません。やはり、二倍年暦という概念(仮説)を含めた年代研究が不可欠であるとわたしは感じています。(つづく)

(注)
①呉鎮烽『商周青銅器銘文曁(および)図像集成』(2012年)で初公開された「㽙簋」(いんき)の銘文冒頭にある「隹(こ)れ十年正月初吉甲寅」。
②『竹書紀年』に見える「天再び鄭に旦す」について、第七代懿王元年に「日の出の際に皆既日食が起こった」とする解釈。この解釈により、プロジェクト「夏商周断代工程」は懿王元年を前899年と「確定」した。
③新城新蔵「春秋長暦」に、後秦の姜笈が「三紀甲子元歴によりて春秋の日食を推算す」(『狩野教授還暦記念支那學論叢』京都弘文堂書房1927年。33頁)とある。


第2259話 2020/10/12

『古田史学会報』160号の紹介

 本日、『古田史学会報』160号が届きましたので紹介します。わたしは近江関連の論稿二編、「西明寺から飛鳥時代の絵画『発見』―滋賀県湖東に九州王朝の痕跡―」と「近江の九州王朝 ―湖東の『聖徳太子』伝承―」を発表しました。近年、滋賀県湖東地域からは飛鳥時代に遡る瓦の出土などが続いており、九州王朝との関係がうかがわれ、目が離せません。

 会報冒頭を飾った服部さんの「改新詔は九州王朝によって宣勅された」は関西例会で発表された研究で、7世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替に関わるものであり、注目されています。例会では賛否両論が出されており、これからの討論での丁寧な掘り下げと展開が期待されます。
山田さんは久しぶりの会報登場です。ともに「さきもり」(辺境防備の兵)と訓まれてきた「防」と「防人」の従来説の理解に対して疑問を呈され、「防」は九州王朝(倭国)の首都圏(畿内)を防衛する版築土塁などの防衛施設であり、「防人(さきもり)」はその「防」に配された防備兵のこととされました。『日本書紀』に見える「防」と「防人」の悉皆調査に基づく仮説であり、方法論にも結論にも説得力を感じました。

 谷本稿も関西例会で発表された仮説で、意表をつくものでした。従来、「不記」と考えられてきた『二中歴』「年代歴」の虫食い部分の字を「不絶」とする新説です。従来説の「不記」が妥当とするわたしの見解とは異なりますが、立論のための方法論が従来にない巧みなもので、学問的刺激を受けました。

 160号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』160号の内容】
○改新詔は九州王朝によって宣勅された 八尾市 服部静尚
○「防」無き所に「防人」無し ―「防人」は「さきもり(辺境防備の兵)にあらず」― 鴨川市 山田春廣
○ 西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」―滋賀県湖東に九州王朝の痕跡― 京都市 古賀達也
○欽明紀の真実 茨木市 満田正賢
○近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承― 京都市 古賀達也
○『二中歴』・年代歴の「不記」への新視点 神戸市 谷本 茂
○「壹」から始める古田史学・二十六
多利思北孤の時代Ⅲ ―倭国の危機と仏教を利用した統治― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○2020年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第2258話 2020/10/11

古典の中の「都鳥」(5)

 『伊勢物語』(九段)の舞台、武蔵国の「隅田川」で当地には飛来しない「都鳥」(宮こ鳥)のことが詠われることから(注①)、わたしは謡曲「隅田川」(注②)を思い出しました。それにも隅田川に「都鳥」(鴎のこと)が登場するからです。能楽(謡曲)の中に九州王朝系のものがあることは古田学派の研究者から指摘されてきました(注③)。九州王朝の都があった北部九州に飛来する渡り鳥が「都鳥」と呼ばれている事実は九州王朝説を支持するもので、その「都鳥」が詠われる謡曲「隅田川」や『伊勢物語』(九段)の説話は、本来は九州王朝の「都」から武蔵国「隅田川」へ、人買いにさらわれたわが子を探すために「物狂い」(旅芸人)となった母親が放浪したという故事に由来するのではないかとわたしは考えました。
 たとえば、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は謡曲「桜川」の淵源となる説話は北部九州で成立したとされ(注④)、謡曲「桜川」に見える地名(日向、桜の馬場、箱崎)が筑前にあることなどを根拠とされました。謡曲「隅田川」には、地名として武蔵国の「隅田川」の他に、母子の出身地「都」「北白河」、その父方の姓「吉田」が見えます。そこで、これらの地名などが都鳥が飛来する九州王朝の「都」に存在したはずと考え、博多湾岸や太宰府周辺の地名を調査しました。その結果、太宰府天満宮の西側に「白川」という地名が見つかりましたが、そこは都鳥が飛来する沿岸部ではないので、有力候補地とはできませんでした。
 もしやと思い、大分県(豊前国)の京都(みやこ)郡を調査したところ、苅田町の南部に「白川」という地名があり、隣接する行橋市北部に「吉田神社」がありました。「吉田神社」の近くには小波瀬川があり、東流し長峡川と合流、そのすぐ先が海です。この地域であれば都鳥が飛来しそうですが、「吉田神社」の由来など現地調査が必要です。
 現時点ではこれ以上の調査はできていませんが、引き続き、北部九州の地名や「都鳥」伝承の調査を続けます。(おわり)

(注)
①『伊勢物語』(九段)に「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の歌が記されている。『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見える。
②観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作。
③新庄智恵子『謡曲の中の九州王朝』新泉社、2004年。
④正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。
 謡曲「桜川」(世阿弥作)も、筑紫日向(福岡県糸島の日向)で東国の人買いに連れ去られたわが子「桜児」を、母親が「物狂い」(旅芸人)となって常陸国(茨城県桜川市)まで放浪して再会するという内容で、「隅田川」と似た筋書きです。「隅田川」では、息子は一年前に亡くなっていたという悲劇もので、この点が「桜川」とは異なります。