難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(5)
前期難波宮天武朝造営説を提唱された小森俊寬さんが著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、「難波宮址整地層出土の土器」(91頁)として掲示された須恵器坏B「35」が、その出典調査により後期難波宮整地層出土であったことを明らかにしてきました。それ以外にも「51」「52」という坏Bも掲載されており、今回はその出典調査を行いました。
その須恵器坏B「51」「52」は『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)で報告されていました。出土地は「MP-1区」と命名された「森ノ宮ランプ」の場所です。「難波宮跡」として報告された層位から出土しており、「Fig.44 難波宮整地層内出土須恵器」(94頁)にその断面図が「51」「52」として掲載されています。いずれも底部に高台を持ち、坏Bで間違いありません。この「51」「52」の出土地や出土状況について、次のように説明されています。
「今回報告する調査地区は、難波宮跡の中枢部を断続的に横断しており、その内容は多岐にわたるので、瓦塼類の出土地点建物との関係については表4に示した。瓦塼類の総量はコンテナバットに約100箱で、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・熨斗瓦・面戸瓦・塼がある。軒丸瓦は9型式47点のうち新型式が1、軒平瓦は10型式45点のうち新型式が2ある。
内裏地域の瓦塼類の出土は瓦堆積や掘立柱抜き取り穴など後期難波宮の遺構に伴っている。MP-1区出土の瓦類は、掘立柱建物SB10021の柱抜取り穴とその直上層の瓦包含層からその大半が出土しており、それらは建物SB10021に葺かれた屋瓦と考えることができる。」(81頁)
「51・52はこれらの蓋に伴う高台をもつ坏で、51は75次調査南トレンチ3区の瓦堆積出土、52は75次調査中央トレンチ11区難波宮整地層上堆積層出土である。」(93頁)
このように坏Bの「51」「52」が出土した遺構と当該層位は、瓦がコンテナバットに約100箱も出土した瓦葺きの後期難波宮の「堆積層」であることが示されています。「52」に至っては「難波宮整地層上堆積層出土」と整地層の上の堆積層からの出土と説明されています。小森さんはこれらの説明を全て見落とし、両坏Bを前期難波宮整地層からの出土と誤解され、前期難波宮天武朝造営説を唱えられていたのです。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対する批判の根拠として小森さんの天武朝造営説が利用されてきたのですが、この小森説が出土事実に対する誤解の産物(誤論)であったことがわかり、あの長期にわたったわたしへの批判や論争は何だったんだろうと残念な気持ちです。しかし、この経験により〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が正しかったことを改めて確信することができました。この批判のおかげで、わたしは七世紀の須恵器編年を本格的に勉強することができ、考古学に関する知見を深めることができました。批判していただいた方々に感謝したいと思います。
最後に、小森さんの誤解を誘発した『難波宮址の研究 第七』での「難波宮整地層出土」という表記ですが、このことについて、大阪歴博学芸員の松尾信裕さんにその事情をお聞きすることができました。およそ、次のような理由により「前期難波宮整地層」や「後期難波宮整地層」ではなく「難波宮整地層」という表記を採用されたことがわかりました。
①整地層からは様々な時代の土器が出土するために、整地層造営時の編年が出土土器からは困難なケースが多い。
②難波宮整地層の上には前期難波宮と後期難波宮が造営されており、その遺構や遺物が重層的に出土する。そのため、前・後どちらの造営時か不明な場合は、「難波宮整地層」という表現に留めるのが学問的に正確である。
③その「整地層」出土遺物の編年は個別の出土状況や共伴遺物から前期難波宮時代のものか後期難波宮時代のものかを判断しなければならない。
④今回の坏Bの出土状況や層位については、報告書に後期難波宮時代の「瓦堆積層」からのものとわかるように明確に記している。
以上のように、考古学的に正確な表記を採用されていることがわかりました。こうした学問的に厳密な配慮により報告書が書かれているにもかかわらず、小森さんは考古学者としての当然の学問的配慮を理解されないまま、天武朝造営説を提起されたと言わざるを得ません。
付言しますと、難波宮整地層上に「焼土」などが堆積していた場合は、それを『日本書紀』朱鳥元年(686)に見える前期難波宮火災の痕跡と見なすことができ、その「焼土」の下の整地層は686年以前に存在した前期難波宮整地層と判断できます。しかしながら、その整地層内からは様々な時代の土器が出土しますから、その土器を根拠に整地層造営年代の特定は困難です。
結果として前期難波宮造営年代の最大の根拠となったのは、井戸がなかった前期難波宮の水利施設が宮殿近くの谷から出土し、その水利施設造営時期の層位から大量に出土した須恵器坏Hと坏Gが根拠となって、前期難波宮造営を七世紀中頃と編年することができました。更に、その水利施設から出土した桶の木枠の年輪年代測定が634年であることや前期難波宮のゴミ捨て場の谷から出土した「戊申年(648年)」木簡、前期難波宮北側の柵跡から出土した木柱の年輪セルロース酸素同位体年代測定による最外層年輪の年代(七世紀前半)などが土器編年とのクロスチェックとなり、ほとんどの考古学者の支持を得て、前期難波宮孝徳期造営説が通説となったことは、これまでも説明してきた通りです。(つづく)