第2724話 2022/04/20

藤原宮内先行条坊の論理 (1)

 4月17日の多元的古代研究会月例会にリモート参加し、新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」を拝聴しました。新庄さんは『「邪馬台国」はなかった』初版当時からの古田ファンとのことで、謡曲のなかに遺された九州王朝について研究された故・新庄智恵子(注①)さんのご子息です。今回の発表では藤原京から発見された「先行条坊」について論じられ、同遺構が「倭京」のものであるとされました。飛鳥宮遺跡についても建築家の視点でその復原案を批判され、注目されました。
 質疑応答で、わたしは「藤原京先行条坊」という表現について質問しました。この表現からは、藤原京に新旧二つの条坊があったような印象を受けるので、その当否についてうかがいました。わたしの理解するところでは、藤原宮域内の下層から発見された条坊跡を「藤原宮内先行条坊」(藤原「京」内ではない)と表現されており(注②)、藤原宮域外の条坊と繋がっていた同規格・同時期のもので、藤原宮(大宮土壇)造営時に埋め立てられた条坊部分のことです。ですから、藤原京に先行と後行の新旧二つの条坊があったわけではありません。
 しかし、一旦造営した条坊を埋め立てて王宮を建造するのはいかにも不自然です(注③)。そこで新庄さんは藤原京には別の場所に条坊造営時の本来の王宮が存在したはずで、それを「浄御原宮」のこととされました。ただし、その位置や規模については不明とされました。すなわち、その条坊都市が『日本書紀』に見える「倭京」であり、ヤマト王権以外の権力者の都城とされたのです。
 新庄説の当否は検証の対象ですが、条坊造営時の王宮(中枢施設)があったはずという指摘は重要です。(つづく)

(注)
①新庄智恵子『謡曲のなかの九州王朝』新泉社、2004年。同書を著者よりいただいた。
②奈良文化財研究所ホームページのブログ記事〝藤原宮内先行条坊の謎〟では「藤原宮内先行条坊」「(宮内)先行条坊」と表記されている。
③藤原宮下層条坊に関連する所論を次の「洛中洛外日記」で発表した。
 古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
 同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
 同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki9/nikki9.html

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