泉論文と
前期難波宮造営時期のエビデンス
前期難波宮を天武朝による七世紀後葉の造営とする泉論文(注①)ですが、わたしは、前期難波宮と藤原宮の整地層出土主要土器が異なっており(前期難波宮は須恵器坏GとH。藤原宮は坏B)、両者を同時期(天武期・七世紀後葉)と見なすのは無理であり、明らかに前期難波宮の整地層が数十年は先行すると考えています。このことは、殆どの考古学者も認めているところです。更に言えば、前期難波宮孝徳期(七世紀中葉)造営を示す次のエビデンスが知られています(注②)。
(1) 難波宮近傍のゴミ捨て場層から「戊申年」(648年)木簡が出土し、前期難波宮整地層出土土器編年と一致したことにより、前期難波宮孝徳期造営説は最有力説となった。
(2) 水利施設出土木材の年輪年代測定により、最外層年輪を有す木材サンプルの伐採年が634年と判明した。転用の痕跡もなく、634年に伐採されたヒノキ原木が使用されたと考えられ、前期難波宮孝徳期造営説が更に強化された。
(3) 年輪セルロース酸素同位体比による年代測定によれば(注③)、難波宮から出土した柱を測定したところ、七世紀前半のものとわかった。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点(直径約31㎝、長さ約126㎝)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28㎝、長さ約60㎝)は樹種不明。最外層の年輪は612年、583年と判明した。伐採年を示す樹皮は残っていないが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられ、通説(孝徳朝による七世紀中葉造営説)に有利な根拠とされた。
以上のように、干支木簡や理化学的年代測定値のいずれもが前期難波宮の造営を七世紀中葉であることを示唆しており、七世紀後葉の天武期とするエビデンスはありません。これらは難波宮研究では有名な事実ですが、(2)(3)については、なぜか泉論文には触れられてもいません。自説に不都合なデータを無視したのであれば、それは学問的態度ではないという批判を避けられないでしょう。(つづく)
(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②この場合、孝徳期(七世紀中葉)の造営を示唆するというにとどまり、造営主体が孝徳天皇(近畿天皇家)であることを示すわけではない。
③総合地球環境学研究所・中塚武教授による測定。