『論衡』の「二倍年齢」(2)
とうてい百歳まで生きられる人はいなかったと思われる後漢時代の王充が、なぜ人の寿命を「百歳」と理解していたのでしょうか。『論衡』を精査した結果、王充は同時代の人間の寿命を根拠に実証的に「百歳」という寿命を主張したのではなく、古典などに伝えられた説話や伝承を根拠に、人間の本来の寿命(正命)を「百歳」と定義づけていたことがわかりました。それを示しているのが『論衡』の次の記事です。
「何を以て人の年は百を以て寿となすを明らかにするや。世間に有ればなり。儒者の説に曰く、太平の時、人民は※(イ同)長にして百歳左右なるは、気和の生ずる所なり、と。」(「気寿第四」『論衡』上、74頁)
※「(イ同)長」とは丈(身長)が長いの意味。(イ同)は人偏に「同」。
以下、堯の寿命が九八歳、舜は百歳、周の文王は九七歳、武王は九三歳、周公は百歳前後、周公の兄の邵公は百歳前後の例を並べ、さらには老子は二百余歳、邵公は百八十歳、殷の高宗や周の穆王は百三十・百四十歳以上とする伝承をあげています。このように、王充は後漢時代の人々の寿命ではなく、二倍年暦などで伝承された周代やそれ以前の「二倍年齢」記事などを根拠に人の本来の寿命(正命)を「百歳」と主張していたのでした。
それでは後漢時代の人の一般的寿命は何歳と王充は認識していたのでしょうか。直接的には記していませんが、そのことを推測できる記事が『論衡』にはありました。(つづく)