失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社
「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で紹介した「九州年号棟札」で、現存すると推定した(3)「勝照四年」(588年)の銘文を持つ羽黒山棟札について調査を行いました。残念ながら、既に失われているようでした。過去の九州年号史料のファイルを整理したところ、「古田史学の会・仙台」の佐々木広堂さん(注①)からのお手紙(2000年10月26日付)と調査資料が見つかり、資料には同棟札を「亡失」とされていました。恥ずかしながら、わたしはこの調査結果を失念していました。
その資料とは『棟札銘文集成 ―東北編―』(注②)で、国立歴史民俗博物館から出されています。その「羽黒三山神社 (東田川郡羽黒町大字手向)」の項に三点の棟札が紹介されており、その内の「本社慶長十一年修造棟札写 出典または調査主体『出羽三山史』」との表題を持つ棟札銘文中に「勝照四年戊申」がありました。棟札の表裏に記されていた次の文が掲載されています。
(表)
出羽大泉荘羽黒寂光寺
聖主天中天 大行事帝釈天王 時之執行寶前院宥源
迦陵頻伽聲 碑文珠師利菩薩 時之夏一寶星院尊量
(梵) 奉泰物戒師聖觀自在尊御堂修造大檀那出羽守源義光 敬白
表愍衆生者 惣行事普賢菩薩 五郎兵衛光祐
大工
羽藤次郎家久
我等今敬禮 證誠我承仕大梵天王
羽黒開山能除大師勝照四年戊申
慶長十一稔丙午迄千十九年
(裏)
頭領 八郎左衛門實重 小屋之大工 與右衛門/彌左衛門
并 次郎左衛門 日帳筆取 助五郎
惣番匠衆 最上荘内油利郡合百五十餘人而貳秊之成就也
時奉行 肝煎 甚平/七郎左衛門
氏家雅楽尉恭満
大河原十郎兵衛重安 手膓 眞田式部小輔/眞田七郎左衛門
小出三彌(出)政
〔備考〕棟札亡失。
慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札であり、九州年号「勝照四年」(588年)の同時代史料ではありませんが、「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあることから、能除という人物により照勝四年戊申に羽黒山が開山されたことを伝えています。しかも「慶長十一稔丙午迄千十九年」とあるように、勝照四年戊申が慶長十一年の千十九年前であるとしています。数え方によるのかもしれませんが、厳密には1018年前で、ほぼ九州年号の年次に一致しています。
寺社修造に関わる〝寺社建築物に付設し、後世に遺すべき公的な記録〟という棟札の史料性格を考えると、この棟札の作者は能除大師の開山伝承(注③)や九州年号「勝照四年」の実在を疑っていません。羽黒山修験道研究や、近世思想史の視点からも注目すべき「九州年号棟札」ではないでしょうか。亡失が惜しまれます。
(注)
①「古田史学の会」草創時からの会員で、全国世話人や「古田史学の会・仙台」会長を歴任された。
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③古賀達也「洛中洛外日記」266話(2010/06/06)〝東北の九州年号〟、「東北地方の九州年号(倭国年号)」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年)で次のように紹介した。
〝羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっていますが、同じく福島県信夫山の羽黒神社は「崇峻天皇三年端政」と九州年号の端政が縁起に記されていることが報告されています(「九州年号目録」『市民の古代』十一集所収、新泉社刊)。このように羽黒修験道と九州年号・九州王朝の関係がうかがわれるのですが、これら東北地方の九州年号史料は東北と九州王朝の関係という視点からの検討が必要と思われます。〟