慈眼院「定居二年」棟札の古代史
泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札冒頭に記された九州年号「定居二年(612年)」記事(注①)は、七世紀初頭における当地への新羅国太子「修明正覚王」渡来を伝えた貴重な史料です。わたしはこの記事は歴史事実を伝えているのではないかと考えています。その理由は次の通りです。
(1)七世紀前半に搬入された百済や新羅の土器が難波から多数出土しており、その量は国内最多であることが報告されている(注②)。従って、朝鮮半島と難波との交流が認められる。
(2)古代において最大規模の灌漑用溜池である狭山池(大阪狭山市)が七世紀第1四半期頃に築造されている(注③)。おそらく、前期難波宮(652年)・難波京造営による人口増加に備えて、食糧増産のために九州王朝が築造したと考えられる。この大土木工事のために朝鮮半島の技術者が当地に迎え入れられたのではあるまいか。
(3)上町台地に難波天王寺(四天王寺)が九州年号「倭京二年(619年)」に造営されたことが『二中歴』年代歴に見え、出土した創建瓦の編年と一致している。このことは七世紀前半における九州王朝の難波進出を示している。
(4)新羅国太子「修明正覚王」が来た定居二年(612年)とほぼ同時期(定居元年)に百済国の淋聖太子が周防国多々良浜(山口県防府市)に渡来した伝承が色濃く遺っている(注④)。「修明正覚王」の渡来も、この時期の倭国(九州王朝)と朝鮮半島諸国(新羅・百済)との交流の一つと位置づけることができる。
(5)『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる「新羅国人億斯富使主」は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。
(6)「大井関大明神」という神名からうかがえるように、この地に土着し、日根造となった「修明正覚王」の子孫たちは、近隣の川を水源として関を造り開墾を進めたと思われるが、この日根造らは狭山池を築造した技術集団の流れを受け継いだのではあるまいか。
以上のようにわたしは考えています。特に「定居二年」という九州年号を用いて祖先の歴史を伝承していることは、九州王朝との関係を示すものではないでしょうか。
(注)
①『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(泉佐野市史編纂委員会、1998年)などによれば次の銘文が記されている。
「泉州日根郡日根野大井関大明神
御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
吉田半左衛門尉
慶長七年壬寅十二月吉日一正」
②寺井誠「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)に次の指摘がある。
「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」
③狭山池の堤体内部から出土した木樋(コウヤマキ)の年輪年代測定(伐採年616年)により、七世紀前半の築造とされている。
④「九州年号目録」『市民の古代』11集、新泉社、1989年