蘇我氏研究の予察(1)
「洛中洛外日記」2108話(2020/03/12)「『多元』No.156のご紹介」で、『多元』No.156に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」をわたしは好論と評しました。その主たる理由は、蘇我氏と近畿天皇家の関係を論ずるにあたり、ピックアップされた『日本書紀』の蘇我氏関連記事が網羅的で、蘇我氏研究に役立つと思われたことでした。なかでも、『日本書紀』に見える蘇我氏と葛城氏とを結びつける記事や解釈に注目された点に、わたしは触発されました。そこで、九州王朝説による蘇我氏研究のアプローチ方法を示し、その予察を述べてみたいと思います。
服部稿では蘇我氏と葛城臣とを同一とする『日本書紀』の記述を疑い、次のように論じておられます。
〝推古紀三二年(六二四)の、蘇我馬子が推古天皇に葛城県の永久所有権を請う記事を、岩波書店の『日本書紀』は「皇極元年に蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を立てるとあり、馬子は葛城臣ともいったのであろう。他に伝暦に蘇我葛木臣に賜う。」と注釈して辻褄を合わそうとする。しかし、蘇我氏が葛木に因んだ姓名を使ったという記述は見られない。〟(『多元』No.156、p.7)
この服部さんの指摘は理解できますが、それではなぜ『日本書紀』には蘇我氏と「葛城」を結びつけるような記事が散見されるのかという、『日本書紀』編者の認識に迫る作業(フィロロギー)が必要です。この点についてのわたしの考え(予察)を述べることにします。(つづく)