「東西・南北」正方位遺構の年代観 (6)
前期難波宮(大阪市中央区法円坂)がある大阪上町台地北端部に、古墳時代(五世紀)の十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群なのですが、難波津からその倉庫へ物資を運ぶ通路や当地域の建物跡は正方位ではありません。
難波津の位置については、倉庫群や前期難波宮の北西~西部にあったとされており、三津寺説、高麗橋説が有力視されています(注①)。松尾信裕氏による「上町台地西裾から堺筋付近」とする見解もあります(注②)。いずれも大阪市中央区にあり、船で運んだ物資を陸揚げするのに、法円坂倉庫群・難波宮と適切な位置と距離にあります。また、「難波津」と称するからには、「難波宮」の近傍にあるのは当然のことでしょう。
近年では「難波津」高麗橋説が考古学的出土状況から最有力視されているようで(注③)、そこから法円坂倉庫群に至る通路とその地域の建物跡について次のように解説されています(注④)。
〝上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。(中略)傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。(中略)
ではなぜ北西地域に倉が多いかであるが、ここは5世紀には法円坂遺跡、7世紀後半には前期難波宮の西方官衙と、他の時期は大規模な倉庫群が置かれた場所であった。(中略)北から本町谷と大手前谷の間を通り(尾根道)、現大阪府警東の上町筋から台地中央(官衙地域)を目指せば、最短距離のルートは自ずと北西→南東となる。地形の制約からこれ以外の道は合理的でない。
北西地域の建物群は、約150年間(5世紀~6世紀中頃)、北西―南東または北北西―南南東を向いている。地形に合わせたというよりも、近くを通る道に会わせたためと考えられる。〟
難波津から中央の官衙までの最短距離の道に合わせた建物群が道と同じ方向を向いていることは理解できますが、五世紀の法円坂倉庫群が真東西方位で建造されていながら、七世紀初頭(倭京二年・619年)に創建された難波天王寺(現・四天王寺)は北方向が4度西偏していることは不審です。その後、九州年号の白雉元年(652年)に造営された前期難波宮や朱雀大路は正方位で造営されており、こうしたわずかな方位のぶれがなぜ発生したのか、今のところよくわかりません。
法円坂倉庫群も西側十棟は正方位ですが、東側六棟は2度ほど西偏しており、その造営尺は、西側で一尺23.9cm前後、東側で同じく24.4cm前後であることから、一尺が時代と共に長くなるという傾向から判断しても、より新しい東側倉庫群が西偏しています。
このように上町台地上の大型倉庫群や道路・条坊の方位の変遷は概ね「東西・南北」正方位の範囲内と言えないことはありませんが、微妙なぶれの発生理由解明は今後のテーマです。
(注)
①南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
②松尾信裕「古代難波の地形環境と難波津」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年。
③ウィキペディアの「難波津」の項には次の説明がある。
「難波津の位置
難波津が、具体的に現在の大阪市のどのあたりに位置していたのか、長い間論争が続いている。現在では、有力なものとして中央区三津寺町付近とする千田稔の説と、同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義の説がある。前者の三津寺説は、同寺にまつわる伝承や「三津寺」「堀江」などの名称に根拠を置くものであるが、今のところ、現在の心斎橋筋付近で古代の港湾遺構が発見されていないのが弱点となっている。他方、高麗橋説については考古学的な傍証の例が豊富で、近年では、上町台地北端部の西斜面から麓にかけて、古墳時代から奈良時代、さらに室町時代に至るさまざまな時代の港湾関係の遺構が集中的に見つかっていることから、上町台地北端部西麓にあたる現在の東横堀川・高麗橋周辺が、歴史上の難波津として最有力な地点ではないかと広く考えられるようになっている。」
④同①。