第2470話 2021/05/24

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11)

 ―古田説の変遷とその論理構造―

 「倭の五王」時代の倭国王都や領域についての古田説は研究の進展に伴って変化してきたことを説明してきました。そこで、本シリーズのまとめとして、古田説成立の論理構造と変遷した理由について解説します。これは学問の方法論を知る上でも重要な検証でもあります。まずは、「倭の五王」時代の倭国王都についての古田説の変遷を著書でたどります。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。なぜなら、このころ成立したと思われる『百済記』(三六七~四七六年の間、直接引用)が「貴国」(「貴倭女王」も、『百済記』の中に引用されていたと思われる晋の起居注に出現する)という表現を用いているからである。(中略)
 以上が文献上の微証から知りえたところであるけれども、「博多湾岸――基肄城――筑後」(ただし、「博多湾岸」は基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。
 その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。
 今、文献外の徴証を見よう。
 筑後の石人山古墳、人形原の古墳群、さらには筑後を中心としておびただしい壁画古墳(いわゆる「装飾古墳」)も、当然、この九州王朝との関連から、再び注目されねばならない。(中略)
 しかし、それらについては、わたしがこの本で採用した、外国史書による「文献の史料批判」という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属するであろう。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557~558頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。
 ここで問題を整理してみよう。
 『宋書』夷蛮伝の「倭国」と「倭の五王」、それは五世紀の時間帯(四二一~四七八)だ。これに対する、この朴堤上説話の「倭国」と「倭王」、これも四世紀から五世紀にかけての存在だ。(中略)
 すなわち、讃―珍―済―興―武という、倭の五王、それは「筑紫の王者」、「博多湾岸の王者」であった。――これが帰結だ。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。弥生と逆の分布だ。これはなぜか。この時期、倭国は北方の高句麗・新羅と対抗し、緊迫のさ中にあった。直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、吉野ヶ里にしめされた「墳墓を『濠』で守る」という、同一の思想だ。弥生と古墳と、両時代とも、同じき「筑後川の一線」を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは「主敵方向」のみだ。
 この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。玉垂命がおいでになったのが三一六年とか。高良山で伝えているわけです。筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 古田先生の著作を精査したところ、上記の著書で「倭の五王」の王都について論じられていました。見落としがあるかもしれませんが、古田先生の王都論・遷都論の変遷やそれを支えている論理構造が読み取れます。
 中でも最も論理的にその大枠を押さえながら、用心深く詳述されているのが初期三部作の一つ、(1)『失われた九州王朝』です。ある意味では、終生を貫く基本的な学問の方法が示されたものであり、感慨深いものがあります。特に、「筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象」という指摘は今日でも有効であり、示唆に富んでいます。この視点から、宮崎県の西都原古墳群も検証すべきでしょう。
 そして、学問の方法として、「文献史学の徴証」から「文献外の徴証」へ、すなわち「わたしがこの本で採用した、外国史書による『文献の史料批判』という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属する」という教導こそ、本シリーズでわたしが目指したものに他なりません。
 次いで(2)『古代の霧の中から』昭和六十年(1985)では、文献史学に基づき、「倭の五王」の王都を博多湾岸とされました。もっとも、同書の主要論点は「倭の五王」を大和朝廷とする通説への批判ですから、こうした結論を強調されたものと思われます。
 その点、「文献外の徴証」「他の方法による追跡の領域」に踏み込まれたのが、(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」平成元年(1989)です。考古学という学問分野の結論として、「直ちに北方より『侵入』されやすい北岸部を避け、『筑後川という、大天濠の南側』に“神聖なる墳墓の地”を『集中』させることになったのではあるまいか」として、筑後遷都を示唆されたものです。
 この後、古田先生は「倭の五王」王都を大宰府政庁(Ⅰ期)とする見解に傾かれ、わたしとの〝論争的対話〟に至ります。そして最晩年での認識を示されたのが(4)『古田武彦の古代史百問百答』平成二六年(2014)でした。それは従来の「文献史学の徴証」と「文献外の徴証」(考古学)とを折衷されたとも思われる表現「表は太宰府、実際は久留米付近」で「倭の五王」王都を示されました。
 この結論は、本シリーズでわたしが推定した〝筑後川の両岸付近〟(注)と重なるものです。本年11月に開催予定の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では「倭の五王」王都の所在がテーマの一つとされるようですので、今回、紹介した古田先生の著書・所論の成果や到達点を見据えた論議が望まれるところです。(おわり)

(注)筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡。

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