律令制都城論の絶対条件=「公理」
昨日のリモート勉強会で発表した「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」では、次の二つの方法論とそれに基づく解釈を提起しました。
〔方法1〕史料(エビデンス)がより豊富な八世紀の歴史像に基づき、七世紀の歴史像を復元する。
〔方法2〕律令制王都存立の絶対条件(公理)を抽出し、七世紀の王都候補からその条件全てを備えた遺構を王都とみなす。
特に〔方法2〕で示した律令制王都存立の絶対条件は、数学や論理学でいう公理(注①)の様なものであることを力説しました。もちろん、歴史学では人や人の行動・認識を主な研究対象とするため、厳密な意味での「公理」とは異なり、曖昧さがあります(注②)。そこで、多元史観や一元史観に関わらず、〝多くの研究者が真実であると認めた命題〟を歴史学的「公理」と見なし、それに立脚して論を立てるという方法を実行したものです。そうして律令制都城存立の五つの絶対条件を抽出し、それらを「公理」と見なしました。
【律令制王都の絶対条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。
これら五つの「公理」はそれぞれ独立していますが、同時に互いに「系」として連結されており、一つの「公理」が別の「公理」を不可欠なものとして導き出すという論理的性格を有しています。従って、どれか一つが抜けても律令制都城の存立を妨げますので、七世紀の九州王朝王都の当否の判断基準として不可欠な存立条件となります。ですから、これらの「公理」による判断は、曖昧な解釈や個人的主観による仮説成立を拒否します。そして結論として、律令制による全国統治が可能な七世紀の王都候補は、難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)であることを指し示すのです(注③)。(つづく)
(注)
①フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では「公理」を次のように説明している。
「公理(こうり)は、その他の命題を導き出すための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系(axiomatic system)という。公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。
公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない。知の体系の公理化は、いくつかの基本的でよく知られた事柄からその体系の主張が導きだせることを示すためになされることが多い。
ユークリッド原論などの古典的な数学観では、最も自明な前提を公理、それに準じて要請される前提を公準として区別していた。」
②歴史学に数学的な論理や方法論が採用困難なことについて、次の拙稿で触れた。
「洛中洛外日記」2877話(2022/11/15)〝「学説」「学派」が存在しえない領域「数学」〟
「数学の証明と歴史学の証明 ―数学者との対話―」(未発表)
③九州王朝の都である太宰府(倭京)は規模が小さく、《条件1》《条件2》を満たしているとは言いがたい。そうしたこともあり、七世紀後半の九州王朝(倭国)は倭京と難波京の両京制を採用したと考えられる。九州王朝の両京制について、次の拙稿で論じた。
古賀達也「洛中洛外日記」1862話(2019/03/19)〝「複都制」から「両京制」へ〟
同「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(一)~(十)〟
同「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」(未発表)
参考 YouTube講演
七世紀、律令制王都の絶対条件 — 律令制官僚の発生と移動 古賀達也
2023年 3月18日 古田史学の会関西例会
https://www.youtube.com/watch?v=zwDzaWhbOqo