大和の「国分寺」二説
「洛中洛外日記」1023話で、「聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺」と記したところ、早速、水野さん(古田史学の会・顧問)や小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からメールをいただきました。中でも小林さんからの次の情報は衝撃的でした。
「大和国は、橿原市八木にある国分寺がその法灯を伝えていると言うのですが?(昨年12月のハイキングで訪れた)」
というのも、九州王朝が告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)により「国府(分)寺」建立の詔を発したとしたら、当然のこととして66ヶ国の一つである大和国にも、聖武天皇による東大寺とは別に九州王朝系「国分寺」がなければならないと考えていたからです。そうした疑問を抱いていたときに、なんとタイムリーな小林さんからのメールを見て、衝撃が走ったのです。
しかも場所が奈良市ではなく橿原市というのも驚きでした。告貴元年頃であれば、近畿天皇家の宮殿(大和国府)は飛鳥にあったはずですから、その「国分寺」も飛鳥にあったのではないかと、論理的考察の結果として考えていたからです。ですから九州王朝系「大和国分寺」が橿原市の国分寺であっても、まったく不思議ではありません。すなわち、「国分寺」建立多元説は大和国にも適用されなければならないからです。
こうなると、「武蔵国分寺」とともに橿原市の「大和国分寺」の現地調査にも行かなければなりません。特に遺構や出土瓦の編年を調査する必要があります。どなたかご一緒していただけないでしょうか。(つづく)