摂津の「国分寺」二説
「洛中洛外日記」1024話では、大和に二つある「国分寺」を「国分寺」多元説で考察しましたが、同類のケースが摂津国にもあるようです。摂津には九州王朝の副都前期難波宮があることから、九州王朝副都における「国分寺」とは、どのようなものかが気になっていました。そこでインターネットなどで初歩的調査をしたところ、摂津には次の二つの「国分寺」がありました。
有力説としては、大阪市天王寺区国分町に「国分寺」があったとされています。当地からは奈良時代の古瓦が出土していることと、その地名が根拠とされているようです。しかし、国分寺の近隣にあるべき「摂津国分尼寺」(大阪市東淀川区柴島町「法華寺」が比定地)とは約9km離れており、この点に関しては不自然です。
もう一つは「長柄国分寺」とも称されている大阪市北区国分寺の「国分寺」です。寺伝では、斉明5年(659年)に道昭が孝徳天皇の長柄豊碕宮旧址に「長柄寺」を建立し、後に聖武天皇により「国分寺」に認められたとあります。ちなみに、この「長柄国分寺」は国分尼寺とは約2.5kmの距離にあり、位置的には天王寺区の「国分寺跡」より穏当です。
この摂津の二つの「国分寺」も九州王朝説による多元的「国分寺」建立に遠因すると考えてもよいかもしれません。もしそうであれば、上町台地上に「倭京2年(619年)」に「聖徳」により建立された「難波天王寺」(『二中歴』による)に、より近い位置にある天王寺区の「国分寺跡」が九州王朝系「国分寺」であり、北区の「長柄国分寺」は寺伝通り近畿天皇家の「国分寺」と考えることもできます。
この二つの「摂津国分寺」問題も両寺の考古学編年などを精査のうえ、九州王朝説に基づきその当否を判断する必要があります。(つづく)