2021年09月09日一覧

第2561話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(7)

 1992年1月から始まった「大化改新」共同研究会と並行するように、同年11月に注目すべき研究が発表されました。増田修さんの「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」(注①)という論文です。同論文が掲載された『市民の古代』14集をテキストとして、増田さんは翌1993年4月の共同研究で、九州王朝律令の推定研究について発表されました。その様子を、安藤哲朗さん(現、多元的古代研究会・会長)が次のように報告しています。

〝ついで増田氏より『市民の古代 14集』「倭国の律令」をテキストとして、「倭国の律令は古田氏の所説の如く筑紫君磐井の頃から、晋の泰始律令を継承して作られた。日本書紀の冠位十二階など隋書にある同じ十二階でも「官位」と、発音は同じでも大きく異なる。戸令・田令・公式令などは倭国の残影が感じられる。正倉院戸籍の美濃と筑前の相違は西晋と両魏の差である。大宝令以前の律令の存在があることから近江令が推定されているが、日本書紀に記述のない近江令の存在は否定されるべきである」と論じられた。〟(注②)

 この報告にあるように、増田さんの九州王朝(倭国)律令の検討範囲は広く、古田学派にとって同分野の基本論文の一つに位置づけられるものでした。わたしも「大宝二年籍」について研究(注③)してきましたので、なにかと参考にさせていただきました(注④)。なお、同論文には「大化改新詔」についての言及は見えません。(つづく)

(注)
①増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。「古田史学の会」HPに収録。
②安藤哲朗「第六回 共同研究会(93・4・16)」『市民の古代ニュース』№118、1993年6月。
③古賀達也「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」『市民の古代・九州ニュース』No.18、1991年9月。
 古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年11月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2149話(2020/05/10)〝「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2117~2198話(2020/03/22~08/08)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(1)~(22)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2199話(2020/08/08)〝田中禎昭さんの古代戸籍研究〟


第2560話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(6)

 1992年1月から東京の文京区民センターを舞台にして始まった「大化改新」共同研究会での発表で、古田先生を別にすれば、わたしが最も注目したのが大越邦生さん(1992年12月)と増田修さん(1993年4月)の研究でした。大越さんの研究は、「大化改新詔」や『大宝律令』「大宝二年籍」などを史料根拠として、多元史観により田積法や班田収授の受田額などに焦点を絞ったもので、古田先生も次のように評価されています。

 「重大な問題。研究史上の新視点。用語が不変であれば、体制の変化は判り難い。(郡・評、朝臣・条里制単位)。」(注①)

 後に大越さんは「多元的古代の土地制度」(注②)として論文発表されていますのでご参照下さい。同論文を読んで、最も考えさせられたのが、王朝交替とほぼ同時期に変化する制度と、新王朝の『大宝律令』に反していても、長期にわたり変わらずに継続する九州王朝系の制度があるということでした。前者の代表例が、行政単位名「評」から「郡」への全国一斉変更(701年)です。戦後の坂本太郎さんと井上光貞さん師弟の「郡評論争」は有名ですが、藤原宮跡などから出土した荷札木簡により、700年までは「評」、701年からは「郡」であったことが判明し、「郡評論争」は決着しました。
 この「評」から「郡」への事例のように、わたしは王朝交替により、全国一斉に強権的に制度変更がなされるものと漠然と理解していました。ところが大越論文により、『大宝律令』とは異なる田積基準(口分田)の実例が大宝二年の筑前国戸籍など西海道戸籍に遺存していることを知り、それまでの認識を改めざるをえませんでした。特に、西海道戸籍から数理計算的に検出された受田額が、筑前・豊前・豊後の国ごとに異なり、いずれも『大宝律令』田令の基準と大きくかけ離れているという学界での律令研究の成果(注③)は、王朝交替や九州王朝説でも簡単には説明できないほど複雑な現象であることに驚きました。
 大越さんは、これらの史料状況発生理由を701年の王朝交替によるものとされ、次のように論文冒頭に述べられています。

〝こうした研究が示唆するところは「改新之詔」の郡や部、京師や畿内は、七〇一年の大宝令を五十五年近く繰り上げ、年次の偽造を行っていた。つまり真の歴史の転換点は七〇一年にあったということにある。
 私は、これまでの古田氏をはじめとする研究につけ加えて、「改新之詔」第三条の田積法・田租法においても同様の結論を見い出したのでここに報告する。〟165頁

 このように『日本書紀』の「大化改新」諸詔は、『大宝律令』制定など55年後に行われた〝九州年号「大化」の改新〟であり、その画期点を701年とする古田説を是とされました。なお、氏は七世紀での面積単位「代」が、八世紀には「町」に変更されたことについても、九州王朝説と701年での王朝交替の視点で論じられています。このテーマについては別述したいと思います。(つづく)

(注)
①安藤哲朗「第六回 共同研究会(92・12・18)」『市民の古代ニュース』№114、1993年2月。
②大越邦生「多元的古代の土地制度」『古代に真実を求めて』4集、明石書店、2001年。「古田史学の会」HPに収録。
③虎尾俊哉「浄御原令に於ける班田収授法の推定」『班田収授法の研究』昭和三六年(1961)。