「 百済 」一覧

第2012話 2019/10/12

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(7)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について一通り説明可能な仮説が成立しましたので(当否は別として)、次にこの仮説と関連諸史料・諸研究などとの整合性を精査し、必要であれば修正を施し、仮説の精度を向上(ブラッシュアップ)させたいと思います。というのも、下記の九州王朝官道の位置づけについて、わたしにはいくつか気になることがありました。その一つは、「西海道」の終着国がこうやの宮(福岡県みやま市)の御神像と不一致という問題でした。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「隋」「唐」(中国の歴代王朝)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 こうやの宮の五体の御神像は、中央の比較的大きな主神(九州王朝の天子・倭王、玉垂命か)と四方の国からの使者からなるのですが、古田先生の見解によれば、七支刀を持つ人物が百済国(西)からの使者、鏡を持つ人物が近畿天皇家(東)からの使者、厚手のマントを着た人物が高句麗(北)からの使者、そして南洋の原住民のような上半身裸の人物は「南の国」からの使者とされています。
 この中で国名が明確に想定できるのが七支刀を持つ人物で、百済国からの使者です。その他の御神像は推定の域(作業仮説)を出ません。他方、七支刀といえば奈良県の石上神社に伝わる神宝(国宝)であり、その銘文により、泰和四年(369)に百済王から倭王に贈呈されたものであることがわかります。従って、「七支刀」を持つ御神像を百済の官人とされた古田先生の見解にわたしも賛成ですし、これ以外の理解は根拠がなく成立困難です。
 こうやの宮の御神像が、九州王朝の歴史を反映(伝承)したものであれば、九州王朝官道が向かう東西南北の外国は蝦夷国・百済国・流求国・粛慎国となります(東からの使者を近畿天皇家とするのは、他の使者がいずれも国外からであり、東だけが倭国内のしかも九州王朝(倭王)の臣下である近畿天皇家とするのはアンバランスです)。特に、御神像の国として明確な百済国との対応は無視できません。こうやの宮の御神像という〝史料根拠〟に従う限り、「西海道」の終着国を百済国とするのが学問の方法上穏当なのです。この場合、「西海道」のルートは、太宰府を起点として肥前(松浦半島付近)・壱岐・対馬・済州島(タンラ国)・百済国とするのが妥当ではないでしょうか。
 以上の考察結果から、九州王朝官道の位置づけとして次のケースも有力となりました。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 なお、時代によって四方の終着国が変わるという可能性はありますが、「軍管区」としての「西海道」の終着点を東アジアの〝上位国〟である唐や隋とするよりも百済国とする方が自然ではないでしょうか。(つづく)


第1537話 2017/11/11

百済禰軍墓誌の「日本」再考(1)

 久留米市の犬塚幹夫さんから百済禰軍墓誌の研究論文のコピーをたくさんいただいたのですが、ようやく時間ができましたので少しずつ読み始めました。その中には筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生の「中国出土の墓誌にみる亡命百済人について 百済禰軍と扶余太妃」もありました。
 禰軍墓誌については6年ほど前に少しだけ調べ、「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)「百済人祢軍墓誌の『日本』」などで報告しました。既に諸説が発表されており、中でも東野治之さんの「百済人祢軍墓誌の『日本』」(岩波書店『図書』2012.02)では墓誌に見える「日本」を倭国の国名ではなく朝鮮半島諸国のこととされ、この説は有力視されています。
 他方、氣賀澤保規さんは「百済人『祢軍墓誌』と“日本”と660年代の東アジア情勢」(文化継承学Ⅰ報告史料、2013年4月)で東野説を批判され、その時代に国号としての「日本」表記は成立していたと考えてよいとされました。わたしから見ると、東野説も氣賀澤保規さんの批判も大和朝廷一元史観枠内での解釈であるため、いずれも説得力に欠けるように思われました。(つづく)


第1466話 2017/07/29

「[身冉]牟羅国=済州島」説を撤回

 「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争を拝見していて、これはえらいことになったとわたしは驚愕しました。
 今から22年も前のことなのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)でわたしは「『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論」という論稿で、[身冉]牟羅国を済州島とする仮説を発表しました。今から読み直すと、明らかに論証は成立しておらず、どうやら結論も間違っていることに気づいたからです。
 そこで、7月の「古田史学の会」関西例会にて22年前に発表した自説を撤回しますと宣言しました。そうしたら野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から「えぇーっ。古賀さん撤回するの?」と声があがり、「すみません。撤回します」と謝りました。学問研究ですから、間違っていると気づいたら早く撤回するに限る、意地をはってもろくなことにはならないと思い撤回したのですが、恥を忍んで撤回の事情と理由を説明します。
 これは言い訳にすぎませんが、当時は会員も少なく今ほど『古田史学会報』に原稿が集まらず、編集を担当していたわたしは不足分の原稿を自分で書くことがありました。その際、余った余白分の字数にあわせて原稿を書く必要がありました。11号の拙稿もそうした穴埋め原稿として仕方なく急遽執筆したことを憶えています。従って、論証も説明も不十分な論稿と言わざるを得ません。こうした事情が当時はあったのです。しかし、それでも掲載に問題ないと判断したわけで、40歳のときのわたしの学問レベルを恥じるほかありません。
 次に研究論文としての論証上の問題点を説明します。対象となった『隋書』の当該部分は次の通りです。

「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里」(『隋書』百済伝)

 この記事によれば、[身冉]牟羅國を済州島とするためには少なくとも次の論証が必要です。

①国の大きさが「南北千餘里,東西數百里」とあり、短里(1里76m)表記であることの説明。
②同じく国の形の表記が縦横逆であることの説明。
③その位置が百済の南「海行三月」の所と表記されていることの説明。
④『隋書』イ妥国伝には済州島のことを「[身冉]羅国」とされ、「[身冉]牟羅國」とは異なることの説明。

 この中で、拙稿でとりあえず説明したのは①と②だけで、③と④は検討課題として先送りにして論証していませんでした。しかも、今から見ると②の論証も不適切でした。すなわち、「筑後国風土記逸文」の磐井の墓(岩戸山古墳)の縦横の距離の表記が実際の古墳とは一見逆になっている例を[身冉]牟羅國にも援用したのですが、「筑後国風土記逸文」には「南北各六十丈、東西各四十丈」とあり、『隋書』百済伝の表記にはない「各」という文字があり、南北間が六十丈ではなく南辺と北辺が各六十丈という意味です。「東西各四十丈」も東辺と西辺が各四十丈となり、岩戸山古墳の現状に対応しています。他方、『隋書』の記事には「各」の字が無く、表記通り縦長の地形を意味していると理解せざるを得ず、従って横長の済州島では一致しません。
 『隋書』イ妥国伝の済州島の表記「[身冉]羅国」との不一致についても次のように曖昧に処理して、論証していません。
 「イ妥国伝には済州島が[身冉]羅国と記されている。はたしてこの[身冉]羅国と百済伝末尾の[身冉]牟羅国が同一か別国かという問題(通説ではどらも済州島とする)も残っているが、この表記の差異についても別に論じることとする。」
 このように問題を先送りにして、しかも別に論じることなく22年も放置していました。更に論稿末尾を次のような「逃げ」の一文で締めくくっています。
 「本稿では問題提起にとどめ、いずれ論文として詳細を展開するつもりである。」
 以上のように、22年前の拙稿は論証が果たされておらず、その後も論じることなく今日に至っています。そのため、わたしは自説を撤回しました。拙稿の誤りに気づかせていただいた「メール論争」参加者の皆さんに感謝します。それにしても、「若気の至り」とはいえ、インターネット上に後々まで残るみっともない論稿で、恥ずかしい限りです。


第1464話 2017/07/27

冨川ケイ子さん「[身冉]牟羅国論争メモ」

 「洛中洛外日記」1448話で、「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争が勃発したことをお知らせしましたが、参加者による熱心な応答により学問的にとても優れた論争へと発展しています。もちろん「決着」がついたわけではありませんが、学問の方法や史料批判など重要な問題も含まれており、興味深く拝読させていただいています。
 その論争内容をまとめた「[身冉]牟羅国についての論争メモ」が冨川ケイ子さんから論争参加者に発信されましたので、転載させていただきます。その中に、わたしの説の紹介もあり、わたしが自説を撤回すると今月の「古田史学の会」関西例会で述べたのですが、そのことも紹介されています。自説撤回の理由については別に説明する予定です。
 以下、冨川さんからのメールを転載します。なお、冨川さんからは「メモ」なので文章として不完全で、これでもよければ転載してくださいとの趣旨のコメントをいただいています。この点、お含みおきください。

各位
谷本さんが参加されたのを機会に、皆様のご意見を集約してみました。下のメモは多元の会合からの帰りの電車の中でケータイで書いたものが元なので、ご意見の根拠など漏れている点が多々あってご不満もおありと思いますけれど。
メールでの議論は後から参加された方が読めないのが欠点ですね。
冨川

■史料
隋書百済伝 百済
「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多?鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云」

隋書[イ妥]国伝
「其國境東西五月行南北三月行至於海」

◆石田敬一氏の説
(東京古田会ニュースNo.161〜162)
[身冉]牟羅国=済州島
百済の南 [身冉]牟羅国は短里で済州島の大きさに合う
東西と南北は辺と辺(東西と南北は常識の反対)
九州は縱5月、横3月の大きさ

◆古田武彦氏の説
(『古代の霧の中から』p.166-167 ミネルヴァ版p.143-144)
(東京古田会ニュースNo.145〜146の講演録)
[身冉]牟羅国と[身冉]羅国は違う
隋書は短里か、東西と南北は辺と辺か、調べていうのが自分の学問
[身冉]牟羅国は百済から南に3月ならボルネオかスマトラかルソンか

◆清水淹氏の説
(多元NO.138)
石田説を支持
九州王朝の勢力は九州と山口県あたりまで
その他は間接支配
蘇我氏は九州王朝の代官
天智天皇は近畿豪族の勢力を結集して独立をはかる

◆西村秀己氏の説
百済の南3月は済州島ではない
[イ妥]国の東西5月は北米まで
[身冉]牟羅は「たんむら」ではなく「ぜんむら」と読む

◆服部静尚氏の説
(清水説批判、多元No.140に掲載)
[身冉]牟羅国にはノロ鹿が住む
沖縄のケラマ鹿は外来、鹿骨の出土はある
台湾に在来種の鹿あり

◆古賀達也氏の説
(古田史学会報No.11)
[身冉]牟羅国=済州島説は石田・清水両氏より古い
撤回したい
ボルネオだとこうやの宮の人形と関わりがあるかも

◆正木裕氏の説
根本的には3月行であれ5月行であれ九州島に収まらない
[身冉]牟羅国は済州島ではない
呉志は長里で「夷洲」は台湾(方位は南、距離は400㌔)ではなく「沖縄」等西南諸島

◆冨川ケイ子説
[身冉]牟羅国は百済より大きい可能性がある
5パーセントくらいセイロン島
20パーセントくらい台湾
75パーセント沖縄説
九州はどの方角でも1か月以内で横断できる


第1449話 2017/07/12

古田先生の[身冉]牟羅国=ボルネオ島説

 「洛中洛外日記」1448話の「『隋書』[身冉]牟羅国のメール論戦!」をわたしのfacebookで紹介したところ、読者の日野智貴さん(奈良大学生)から、古田先生は「日本の生きた歴史(12)」(『古代史の十字路』ミネルヴァ書房)において、[身冉]牟羅国をボルネオ島とする説を発表されているとのコメントをいただきました。調べてみると確かにそう記されていました。この古田新説をわたしは失念していました。
 古田先生のボルネオ島説の根拠は下記の『隋書』百済伝に見える[身冉]牟羅国への距離(月数)と面積(里程)でした。

 「其の南、海行三月、[身冉]牟羅(たんむら)国有り。南北千余里、東西数百里、土に[鹿/草]鹿(しょうろく)多し。百済に附庸す」『隋書』百済伝
 ※[身冉]と[鹿/草]は一字。

 日野さんのコメントを受けて、わたしは次のコメントをfacebookに書き込みました。

「2017.07.11
 『隋書』百済伝のタンムラ国が古田説の「ボルネオ島」だとしたら、そこは百済国の「属国」ということですから、もしかすると写真の「こうやの宮」のご神体の一人、南洋からの人物はボルネオ島からの使者かもしれませんね。
 これは想像に過ぎませんが、別のご神体が手にする「七支刀」が百済国からの贈答品ですから、南洋からの人物は百済国の属国のタンムラ国(ボルネオ島)からの使者とするアイデアもそれほど荒唐無稽とは言えないように思いますが、いかがでしょうか。」

 以上のコメントとともに「こうやの宮」の御神体の写真も掲載しました。こうしたスピード感のあるやりとりや、写真も添付できるところがfacebookの利点です。「洛中洛外日記」読者の皆様にもfacebookへのご参加をお勧めします。


第1448話 2017/07/11

『隋書』[身再]牟羅国のメール論戦!

 「古田史学の会」の役員や関係者間では事務連絡メールのやりとりの他、古代史論争や意見交換も活発に行われます。多くの方に同時に配信できますから、意見発表や質問・調査協力依頼などを行う際にはとても便利なツールです。もちろん、最終的には個々人で例会発表や論文発表という形になりますが、それに至る前準備としても効果的です。特に自らのミスや不十分さなどが事前に指摘していただけますので、ありがたいことです。
 現在の論争テーマは、どういうわけか『隋書』百済伝の[身再]牟羅国(タンムラ国)は済州島か否かが話題の中心となっています。しかも今回は「古田史学の会」メンバーだけではなく、「多元的古代研究会」の論客、清水淹さんも参画されており、意見交換に厚みを増しています。こうした研究会の枠を越えた「学術交流、論争、異なる意見の交換」は学問研究の発展にとって、とても良いことと感謝しています。
 今回のメール論戦(情報・意見交換)では、わたしは各人のやりとりを眺めていただけだったのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)で拙稿「『隋書』[身再]牟羅国についての試論」を発表していたこともあり、メール論戦の推移に関心を持つようになりました。『隋書』百済伝の[身再]牟羅国記事を済州島の短里表記とする試案をわたしは提起していたのですが、どうも形勢不利のようです。同拙稿では用心のため「一試論」「問題提起」などと「逃げ」を打ってはいたのですが、撤回した方が良さそうな模様です。
 古田先生はこの『隋書』の[身再]牟羅国については、『古代の霧の中から』(1985年、徳間書店。166頁。ミネルヴァ版143〜144頁)で、百済よりもはるか南方にある国と論じられています。今回のメール論戦では、西村秀己さんが[身再]牟羅国を台湾島ではないかとされており、古田説と近いようです。この他にも、正木裕さんから新たな発見も報告されており、しばらく目を離せそうもありません。
 ※[身再]の字はネット上では表示されませんので、このような表記としました。[身再]で一字です。


第1127話 2016/01/23

百済王亡命地が南郷村の理由

 1126話で韓国南部と宮崎県に前「三角錐」後円墳が存在していることを述べましたが、これが偶然ではなく両地域の被葬者に深い関係があるのではないかと考えています。
 宮崎県の前「三角錐」後円墳が分布する西都市の近隣に百済王伝説で有名な南郷村があります。白村江戦などで滅亡した百済王族が南郷村まで漂着逃亡したという伝承ですが、なぜ亡命地に宮崎県が選ばれた理由がわたしにはわかりませんでした。唐軍による追跡から逃れるのであれば、多くの百済亡命人が逃げた摂津難波や近江などの遠隔地こそ相応しいと思われるのですが、ところが宮崎県南郷村を百済王族が亡命地に選んだ理由が不明だったのです。
 この疑問を解く鍵が両地域(韓国南部と宮崎県)に共通して存在する前「三角錐」後円墳ではないでしょうか。すなわち、韓国南部(百済)で前「三角錐」後円墳を造営した倭国の豪族と宮崎県西都市に前「三角錐」後円墳を造営した勢力は深い関係を持っていたと考えると、亡命百済王族はその勢力の庇護のもとに南郷村に亡命したとする仮説が成立すると思われるのです。


第1126話 2016/01/22

韓国と南九州の前「三角錐」後円墳

 昨日から仕事で東京に来ています。東京駅に着いてちょっと時間があったので八重洲ブックセンターに寄り、吉村靖徳著『九州の古墳』(海鳥社。2015年12月発行)を購入しました。同書の解説は典型的な大和朝廷一元史観によっており、あまり学問的に有益ではありませんが、九州の代表的な古墳約120カ所がカラー写真で紹介されていることが気に入りました。
 その中で興味深い古墳がありました。近年、韓国で発見が続いている「前方後円」墳によく似たものがあったのです。韓国の「前方後円」墳は正確に表現すると、前方部の形状が三角錐に近く、それを「前」から見ると、前方部の形が「台形」ではなく、上部が尖った「三角形」なのです。ですから立体的には「三角錐」が後円部に繋がっているような形状をしています。いわば前「三角錐」後円墳とでも言うべき形状です。これは日本列島の前方後円墳には見られない珍しい形状ですので、韓国内で独自に発展した形状かと思っていました。ところがその韓国の前「三角錐」後円墳によく似た古墳の写真が『九州の古墳』に掲載されていたのです。
 最終的には正式な調査報告書を見てからでなければ断定はできませんが、次の三つの古墳の形状が写真では前「三角錐」後円墳に似ているように見えました。一つは宮崎県西都市の松本塚古墳で墳長104mで5世紀末から6世紀初頭の頃の前方後円墳と説明されています。
 二つ目は熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳で、墳長102mの前方後円墳で5世紀中頃の築造と説明されています。
 三つ目は写真からはやや不確かですが、宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳で、墳長94mの6世紀代の前方後円墳とされています。
 『祇園原古墳群1』(1998年、新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ています。

 ○百足塚古墳 墳長76.4m
 ○機織塚古墳 墳長49.6m
 ○新田原52号墳 墳長54.8m
 ○水神塚古墳 墳長49.4m
 ○新田原68号墳 墳長60.4m
 ○大久保塚古墳 墳長84.0m

 韓国独特の前「三角錐」後円墳に似た古墳が宮崎に多数あることは九州王朝(南九州)と古代韓国の関係を考えるうえで興味深い現象です。もちろん、九州以外にもこの前「三角錐」後円墳があるかもしれませんので、引き続き慎重に調査したいと思います。この他の前「三角錐」後円墳についてご存じの方がおられればご教示ください。


第356話 2011/12/03

南郷村神門神社の綾布墨書

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それは、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが7世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲 廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』20号「百済年号の発見」 で紹介しました)。
 また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(536年あるいは569年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。
 学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています。


第355話 2011/12/01

百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送ってい ただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなの かが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660) 官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「「日本余(口へんに焦)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして 「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年 (672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
 従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われま す。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝 廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」 という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰 のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアには いないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。