太宰府一覧

第2825話 2022/09/03

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)

 上京区のお店で、「古代歌謡に詠まれた王朝」というテーマで話しをすることになりました。そこで改めて勉強しなおしたところ、『古今和歌集』の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説があることを知りました。杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注①)によれば、次のような偽作説です。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から出ると論じたことがあります(注③)。
この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌ったみかさ山は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。杉本氏の論文も古写本の「みかさの山を」が原型であるとされており、この点では古田先生やわたしの考えと一致するのですが、「偽作説」については検討に値する視点ではないかと、今回、気づきました。(つづく)

(注)
①杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2754話 2022/06/04

倭京・難波京・藤原京の研究動向

 「多元の会」でのリモート発表について、同会の和田事務局長から「倭京」に関するテーマを要請されています。すでに同テーマの論稿を執筆済みですので、それを『多元』に発表してからリモートで解説できればと思います。また、同稿は九州王朝説の立場からのものなので、それとは別に通説(一元史観)の研究動向についても紹介したいと考えています。
 近年の「古田史学の会」関西例会論客の主たる関心は、前期難波宮から藤原京へ移っていると感じていますが、通説でも藤原京をテーマとした示唆に富んだ論文が発表されています。いずれも一元史観に基づくものですが、王朝交替の舞台でもある藤原京の時代ですから、問題意識や仮説の方向性が近づいています。古田学派の研究者にも一読をお勧めします。

○寺崎保広・小澤毅「内裏地区の調査―第100次」『奈良国立文化財研究所年報』2000年-Ⅱ、2000年。
○林部 均「藤原京の条坊施工年代再論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第160集、2010年。
○重見 泰「新城の造営計画と藤原京の造営」『奈良県立橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第40冊、2017年。


第2744話 2022/05/19

久留米大学公開講座(6月26日)のレジュメ完成

 6月26日(日)の久留米大学公開講座のレジュメがようやく完成し、本日、大学事務局に提出しました。演題は〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟です。この九州王朝(倭国)の両京制というテーマは近年ようやく到達できた仮説で、その最新研究を発表させていただきます。レジュメの冒頭と末尾を転載します。

【レジュメから一部転載】
筑紫なる倭京「太宰府」
 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―
      古賀達也(古田史学の会・代表)

1.はじめに

 九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を『旧唐書』倭国伝・日本国伝では次のように記しており、その時期が八世紀初頭(701年・大宝元年)であることが古田武彦氏の研究により判明している。

 「日本国は倭国の別種なり。(略)或いは云う、日本は舊(もと)小国、倭国の地を併す。」
 「長安三年(703年)、その大臣、(粟田)朝臣真人が来りて方物を貢ず。」『旧唐書』日本国伝

 倭国は建国(天孫降臨)以来、北部九州(筑紫)を拠点として、五世紀(倭の五王時代)には関東までその領域を拡大したが、その都は一貫して筑紫(筑前・筑後)に置かれたと考えられてきた。七世紀前半には日本列島初の条坊都市(太宰府=倭京)を造営し、その地を都とした。そして、七世紀中頃には律令制による全国統治を開始し、新たな行政単位「評制」を施行したことが出土木簡や古代文献から判明している。
 評制による全国統治は、列島の中心部にあり、交運の要衝でもある難波京(前期難波宮)で始まったとされているが、そうであれば難波京は評制を採用した九州王朝の都ということになる。他方、前期難波宮を孝徳天皇の宮殿とする従来説(大和朝廷一元史観)においても、前期難波宮の規模と様式は近畿天皇家の王宮の発展史から逸脱したものとされ、創建年代は天武期ではないかと疑問視する論者もあった。

2.倭京(太宰府)と難波京(前期難波宮)
 〔略〕

3.権威の都(倭京)と権力の都(難波京)
 〔略〕

4.『万葉集』『養老律令』に見える両京制の痕跡

 九州王朝の両京制の痕跡は、大和朝廷への王朝交代後も、万葉歌に筑紫大宰府が「遠の朝廷」と歌われたり、『養老律令』に大和朝廷の神祇官に相当する「大宰の主神」という、他に見えない官職として遺されている。こうした史料状況は九州王朝の両京制という概念により説明可能である。今回の講演ではこうした両京制の痕跡について詳述し、九州王朝の都としての太宰府と難波京の姿をクローズアップする。


第2735話 2022/05/02

九州王朝の権威と権力の機能分担

昨日、京都市で開催された『古代史の争点』出版記念講演会(主催:市民古代史の会・京都、注①)は過去最多の参加者で盛況でした。持ち込んだ同書も完売することができました。初参加の方も多く、古田説や九州王朝説をどこまで詳しく説明するべきなのか少々判断に迷いましたが、概ねご理解いただけたようでした。
参加者に中世社会史を研究されているSさんがおられ、懇親会にも参加され夜遅くまで学問対話をさせていただきました。Sさんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代にあたり、それを為さしめた権威があったはずで、それはどちら側のどのようなものだったのか、なぜ九州王朝に代わって大和の天皇家が新王朝になれたのかという、本質的で鋭い質問が寄せられました。そうした対話の中で、わたしは九州王朝の両京制の思想的背景になった権威(太宰府・倭京)と権力(前期難波宮・難波京)の機能分担について説明していて、あることに気づきました。この機能分担には九州王朝内に歴史的先例があったのではないかということです。
それは『隋書』俀国伝に記された俀国の兄弟統治ともいうべき次の珍しいシステムです。

「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝

古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘されていました(注②)。更にそれに先立って、『三国志』倭人伝に記された邪馬壹国の女王卑弥呼と男弟による姉弟統治、隅田八幡人物画像鏡銘文に見える大王と男弟王の兄弟統治の事例も指摘されました。この兄弟(姉弟)統治の政治体制こそ、権威と権力の都を分けるという七世紀中頃に採用した両京制の思想的淵源だったのではないでしょうか。
昨夜、ようやくこのことに気づくことができました。初めてお会いしたSさんとの夜遅くまでの学問対話の成果です。Sさんと講演会を主催された久冨直子さんら市民古代史の会・京都の皆さんに感謝いたします。

(注)
①『古代史の争点』出版記念講演会。主宰:市民古代史の会・京都、会場:プラザ京都(JR京都駅の北側)。講師・演題:古賀達也「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」「海を渡った万葉歌人 ―柿本人麻呂系図の紹介―」、正木裕「大化改新の真実」。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2728話 2022/04/24

天武紀の「倭京」考 (1)

 四月の多元的古代研究会月例会での新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」をリモートで聴講し、考古学的テーマ以外に『日本書紀』の読解についても刺激を受けました。なかでも新庄さんが着目された天武紀の「倭京」記事は古田史学でも重要なワードであり、古田先生も注目されていました。まず、古田学派にとって『日本書紀』に見える「倭京」にどのような学問的意味や仮説が提示されているのかを簡単に説明します。

(1) 九州年号に「倭京」(618~622年)があり、『日本書紀』編纂者はその存在を知ったうえで使用しているはずと考え、『日本書紀』の「倭京」を理解することが求められる。

(2) 倭の京(みやこ)の意味を持つ「倭京」の年号は、新都「倭京」への遷都、あるいは新都造営を記念しての年号と理解せざるを得ない。その時代は多利思北孤の治世であり、その新都は太宰府条坊都市のことと考えられる。すなわち、九州王朝(倭国)の都の名称が「倭京」であることを『日本書紀』編者は知ったうえで、「倭京」を使用したと考えざるを得ない。

(3) 王朝交代前の列島の代表王朝(九州王朝)の国名が「倭」であることも、『日本書紀』編者は当然知っている。そのうえで『日本書紀』中に「倭」を大和国(奈良県)の意味で使用している。

(4) 七世紀末頃に大和国が「倭国」と呼ばれていた痕跡が藤原宮出土の「倭国所布評」木簡(注①)により判明しており、九州王朝の国名「倭」が大和という地域地名に使用されている史実を前提に『日本書紀』は編纂されている。

(5) 天武紀に見える「倭京」は九州王朝(倭国)の都を意味する用語であることから、その時点の都である難波京(前期難波宮)が「倭京」であると解釈すべきとの指摘が西村秀己氏よりなされており、そのことを拙稿(注②)で紹介している。

 わたしたち古田学派の論者が『日本書紀』の「倭京」を論じる際、こうした史料事実や先行研究を意識した考察を避けられないと思います。(つづく)

(注)
①藤原宮跡北辺地区遺跡から「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡が出土している。「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のこととされる。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
 同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
 同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1283話(2016/10/06)〝「倭京」の多元的考察〟
 同「洛中洛外日記」1343話(2017/02/28)〝続・「倭京」の多元的考察〟
 同「『倭京』の多元的考察」『古田史学会報』138号、2017年。

 


第2723話 2022/04/19

高良山中にもあった九州王朝の戒壇

 「洛中洛外日記」2706話(2022/03/24)〝下野薬師寺と観世音寺の創建年〟において、『東大寺要録』(巻第六「末寺章第九」)に「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」とあることから、九州年号の白鳳十年(670)に下野薬師寺が創建されており、太宰府の観世音寺創建と同年(注①)であることを紹介しました。そして、両寺院が東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされていることを考えると、両寺院は九州王朝(倭国)時代の戒壇寺院だったのではないかとしました。
 このことを古田史学リモート勉強会(注②)で発表したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、大善寺(久留米市)に戒壇があったことが『高良記』(注③)に見えるとご教示いただきました。そこで同史料が収録された『高良玉垂宮神秘書同紙背』(注④)を精査したところ、次の記事がありました。

「一、大善寺ハ、長久元年ニ、タテラレタルナリ
 一、大菩薩御法身ノ時ノ カイ チョウ エノミツノハコヲ、ソノホカ 仏タウクヲ、ヘツシユニ ヲサメラレタルナリ、カルカユエニ、天チクム子チノ池ノ水ヲナカシ、アカノミツトカウス、彼ミツノホトリニ、カイタンノ作法 キシキ ヲサメ玉也、法ミフクトク カイタンノシュ仏トサタメ、ヒシヤモンタウヲ 作ヲキ玉フ也、サレハ ホツシニナリ、行ノ時ハ、彼水ヲ アカ水トサタメクム也、コレニヨツテ、高良 出家クハンチヤウノトキ、カイタンフマスニスル也」 同書160頁

「一、三タウトハ、コマタウ クモンチタウ カイタンタウナリ
  コマタウハ 上宮ヘアリ、クモンチタウハ 北谷ニアリ
  カイタンタウハ ヘツシヨニアリ、カイタンノホンソンヲ ヒシヤモンニスルコトハ、法躰聖人ハ ヒシヤモンノケシンナリ、ホツタイシヤウニンノ 彼水本ヘ カイタンヲ オサメラレタル也、カルカユエニ、キヤウニ入ハ アカノ水ニ 彼ミツヲクム也、コレニヨツテ、高良山ノ衆僧 カイタンフマスニ、クハンチヤウセラルヽナリ」 同書161頁

 カタカナが多く難解な文章ですが、おおよそ次のようではないでしょうか。不正確かもしれませんが、古賀訳を示します。

「一、大善寺は長久元年(1040年)に建てられたるなり。
 一、大菩薩御法身の時の戒・定・慧の三の筥(はこ)、その他の仏道具を別所に納められたるなり。かかるが故に、天竺無熱池の池の水を流し、閼伽の水と号す。彼の水のほとりに、戒壇の作法 儀式 納め賜う也。法味福徳 戒壇の主仏と定め、毘沙門堂を 作り置き賜う也。されば法師になり、行の時は、彼の水を閼伽水と定め汲む也。これによって高良 出家潅頂の時、戒壇ふまずにする也。」 同書160頁
「一、三堂とは、護摩堂 求問持堂 戒壇堂なり。
  護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり、戒壇堂は別所にあり。戒壇の本尊を毘沙門にすることは、法躰聖人は毘沙門の化身なり。法躰聖人の彼の水本へ戒壇を納められたる也、かかるが故に、きやうに入らば閼伽の水に彼の水を汲む也。これによって、高良山の衆僧、戒壇ふまずに潅頂せらるるなり。」 同書161頁

 「戒壇」記事の直前に「大善寺建立」記事があるため、戒壇が大善寺にあったようにも読めますが、「護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり 戒壇堂は別所にあり」に見える「上宮」(高良大社のこと)「北谷」「別所」はいずれも高良山中にある地名ですので、この「戒壇」「戒壇堂」は高良山中にあったように思います。また、同書付録の「高良玉垂宮神秘書参考地図(1)」にも「別所」に「毘沙門堂」「戒壇」という記載があります。
 『高良記』など高良大社文書によれば、「高良玉垂命」の〝御発心〟を九州年号の白鳳十三年癸酉(673年)、あるいは天武元年を「白鳳元年」とする後代改変型九州年号の「白鳳二年癸酉」(673年)のことと記されています(注⑤)。こうした伝承が正しければ、筑後の高良山に戒壇が設けられ、僧侶の受戒儀式が行われたこととなります。真偽のほどは不明ですが、九州王朝の戒壇寺院研究において検討すべき伝承と思われました。同書「戒壇」記事の存在をご教示いただいた日野さんに感謝します。

《追記》本稿執筆後にブログ「ひもろぎ逍遙」に『高良記』の「戒壇」を紹介した記事「『神秘書』「別所」に天竺から流れて来る水と戒壇があった」があることに気づきました。同ブログのアドレスを記しておきます。ご参考まで。https://lunabura.exblog.jp/30574108/

(注)
①『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」とする記事が見える。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
②各地の研究者と情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を行っている。
③筑後一宮の高良大社(久留米市御井町)に伝わる文書(巻物一巻)。
④『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年(1972)。
⑤『高良玉垂宮神秘書同紙背』に次の記事が見える。本来の九州年号「白鳳」(661~683年)と後代改変型「白鳳」(元年は672年)が混在した珍しい史料である。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁


第2706話 2022/03/24

下野薬師寺と観世音寺の創建年

 『柿本家系図』に見える柿本人麻呂の「実子」とある「男玉」が東大寺大仏の鋳造に関わっていたため、東大寺関連史料を精査しています。その過程でいくつもの貴重な発見が続いています。その一つに、下野薬師寺の創建年記事の発見がありました。

 「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 「天智天皇九年庚午」とありますから、九州年号の白鳳十年(670)に下野薬師寺が創建されたとする記事です。わたしはこの年次を見て驚きました。九州年号史料(注①)に見える太宰府の観世音寺創建と同年だったからです。しかも、両寺院は東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされています。『古代を考える 古代寺院』(注②)では次のように解説されています。

 「地方の古代寺院の中でこの両寺が特筆されるのは、後述のような戒壇が置かれたことにもよるが、その設置以前から特別な地位をあたえられていたこともみのがせない。
 例えば、天平勝宝元年(七四九)に諸寺の墾田の限度額が定められ、両寺はともに五〇〇町とされた。これは、諸国国分寺の半分にすぎないけれど、一般定額寺の一〇〇町とは比較にならないし、法隆寺や四天王寺などの大寺とも同額であった。(中略)つまり、両寺が中央の大寺に準ずる扱いを受けていたことは、遠くはなれた地方に所在しながら、中央との結びつきが強かったこと、そしてすでに特別な地位が与えられていたことをしめしている。おそらく、それは創建の由来にもとづくのであろう。」同書269頁

 観世音寺と下野薬師寺に与えられた「特別な地位」が「創建の由来」にもとづくという指摘は示唆的です。また、両寺の墾田が法隆寺や四天王寺と同額の五〇〇町であったというのも重要な指摘ではないでしょうか。再建法隆寺や四天王寺(難波天王寺)・観世音寺が九州王朝の寺院であったことが古田学派の研究により明らかとなっていることから、創建年が共に白鳳十年(670)で後に戒壇が置かれた観世音寺と下野薬師寺は九州王朝(倭国)時代の七世紀後半において、九州王朝の戒壇が置かれたのではないかとわたしは考えています。そのことが〝由来〟となって、八世紀の大和朝廷(日本国)の時代も両寺に戒壇が置かれたのではないでしょうか。
 ちなみに、下野薬師寺跡から出土した創建瓦とみられる複弁蓮華文瓦は飛鳥川原寺の系譜をひき、天武期ごろのものとされています(注③)。先の『東大寺要録』には川原寺の創建年を次のように伝えています。

 「行基之建立齊明天皇治七年辛酉建立」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 ここにみえる「齊明天皇治七年辛酉」は九州年号の白鳳元年(661)に相当し、下野薬師寺の創建瓦(複弁蓮華文瓦)が飛鳥川原寺の系譜をひくという見解は年代的にも妥当な判断です。
 以上のように、観世音寺と下野薬師寺の両寺は九州王朝の戒壇が置かれるべく、白鳳十年(670)の同時期に創建されたとする仮説が妥当であれば、大和朝廷の東大寺に相当する九州王朝の近畿における戒壇はどの寺院に置かれたのでしょうか。白鳳十年であれば前期難波宮が焼失する前ですから、難波に九州王朝の中心的戒壇が置かれたはずと思われます。その第一候補としては、やはり天王寺(後の四天王寺)ではないかと推定するのですが、今のところ史料根拠を見出せていません。
 なお、下野薬師寺の創建を大宝三年(703)とする史料(注④)もありますが、出土創建瓦の編年からは白鳳十年(670)説が有力です。

(注)
①『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」とする記事が見える。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
②狩野久編『古代を考える 古代寺院』吉川弘文館、1999年。
③『下野薬師寺跡発掘調査報告』栃木県教育委員会、1969年。
④『帝王編年記』


第2695話 2022/03/06

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (5)

 須恵器セリエーションの分類作業におけるハードル(d)は考古学者でなければ判断を誤りかねないケースで、文献史学の研究者にはかなり難しいものです。

(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 出土土器型式の地域差や定義の違いにより、分類を間違えそうになったという、わたしの体験を紹介します。「洛中洛外日記」〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟(注①)で紹介しましたが、牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注②)に掲載された須恵器坏に次のような説明があり、わたしは途方に暮れました。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋に「つまみ」はないが、説明ではそれらを「坏G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、説明ではでは「坏B」とする。

 「つまみ」がない須恵器蓋を坏Gや坏Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、調査報告書を発行した大野城市に上記の点について質問したところ、次の回答が届きました。その要旨を転記します。

【質問1】26頁第16図73・74の「坏G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「坏G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏G」と表現しています。
【質問2】37頁第24図83の「坏B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏B蓋」には「つまみ」があり、坏身には「足=高台」を有しています。
 「坏G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏B」と表現しています。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、坏G蓋・坏B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。

 以上の回答とともに、資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋坏については、奈良文化財研究所が使用している名称坏H(古墳時代通有の合子形蓋坏)、坏G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、坏B(高台付きの坏)、坏A(無高台の坏)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 すなわち、蓋に「かえり」が付いているものは「つまみ」がなくても坏Gに分類していたのです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの坏G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、坏Gに見なすということのようです。蓋に「つまみ」がない坏Bも同様です。こうしたことから、調査報告書の須恵器を分類する際は「つまみ」の有無だけでの単純な型式判断で済ませることなく、地域差も考慮しなければならないことを知ったのです。
 以上のことから、太宰府関連遺構出土の須恵器坏セリエーション分類作業は、当地の考古学者の協力を得たり、地域差について教えを請うことから始めなければならないことに気づき、わたしは土器編年研究に一層慎重になりました。他方、土器セリエーションによる相対編年は考古学界の先進的研究者に採用されつつあります。その成果が古田史学・九州王朝説と整合する日が来ることを期待し、わたしたち古田学派研究者による精緻なセリエーションでの土器編年確立が待たれます。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2547話(2021/08/22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟
②『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。

 


2694話 2022/03/05

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (4)

 須恵器セリエーション分類作業におけるハードルとして次の四点を示しました。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 まず最初に、(c)についての体験を紹介します。水城の築造時期を探るために考古学エビデンスとできる堤体内からの出土須恵器に注目し、報告書(注①)を精査したところ、東門付近の木樋遺構SX050とその木樋付近SX051から須恵器が出土していました(第5次)。これらの土器は水城堤体内部(基底部)からの出土であり、築造当時までに使用あるいは廃棄されていたものですから、その土器年代以後に水城が築造されたことを意味します。
 『水城跡 下巻』192頁の図面(Fig156)に掲載された須恵器はSX050(坏身1点)とSX051(坏蓋5点、坏身6点、高坏の脚2点)の14点ですが、高坏の2点を除けばいずれも坏Hと呼ばれる型式の須恵器坏です。他方、山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注②)では次の説明がなされています。

 「水城跡では水処理を目的とした木製の箱型の暗渠である『木樋』が土塁の下に設置されているが、木樋の設置坑は長さ80㍍にわたって水城を縦断するように土塁の構築中に設定され、土塁の構築とともに埋められていた。5次と62次調査ではこの設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」202頁

 更に「第2表 遺跡出土遺物表」(213頁)中の「水城跡」「5次」「SX050,051」欄の坏Hと坏Gに「○」印があり、同木樋遺構から須恵器坏HとGが出土していることを指示しています。しかし、土器の図面(Fig156)には坏Gが見当たらないので、わたしは困惑しました。しかし、太宰府市教育委員会の考古学者である山村さんが、「設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」と明記していることから、少量の坏Gが伴出していることを疑えません。従って、図面(Fig156)に掲載された14点以外にも須恵器が出土していたと考えざるを得ません。更に、「短脚の高坏が一定量出土」という表記からも、図面(Fig156)に掲載されている2点以外にも「一定量」の高坏が出土したことがうかがえます。
 このことから、水城堤体内(木樋遺構SX051)から出土した須恵器の全てが報告書に掲載されているわけではないことに気づいたのです。ですから、正確な土器セリエーションを確立するためには、報告書に掲載されていない全ての出土須恵器のデータが必要となるわけです。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』192頁Fig156に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。
②山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2693話 2022/03/03

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (3)

 山村信榮さんが「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」で説明されたように、確実な須恵器セリエーション分類のためには出土土器のサンプル数が重要です。この分類方法そのものはそれほど難解ではないのですが、文献史学の研究者には困難な課題が少なくありません。わたしの経験だけでも次のようなハードルがあり、未だに解決できていない問題もあります。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器杯H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 上記の(a)(b)については説明は不要と思いますので、(c)(d)の具体例を紹介します。(つづく)


第2692話 2022/03/02

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (2)

 太宰府関連遺構の全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)にセリエーションという考古学の専門用語が用いられており、とても興味深い内容でした。出土土器のセリエーションという現象の比較による詳細な太宰府遺構の相対編年がなされており、その説得力を高める工夫がなされています。この山村論文では従来の編年について次のように指摘しています。

 「大宰府の成立を概観する際に重要な時間軸についても解決すべき課題がある。九州における大宰府成立期に係わる考古学的な時間軸は、遺跡から出土する頻度の高い須恵器が用いられてきた。(中略)しかし、型式と期の設定を同一化し、設定した土器型式を、重箱を重ねる方式で時間軸をたてる方式には問題点があり、研究史や新たな編年案についてかつて考察したことがある。また、実年代に関わる諸問題についても指摘した。」199頁

 こうした従来の相対編年方法に替えて、次のようなセリエーションの概念を導入した編年方法を明示しています。

 「本稿においては九州編年における『期』として括られた遺物の一群から一つの典型的な型式を抽出し、型式間には時間の流れに従った量的増減がありながらの共伴を認め、新しい型式の出現をもって期を区切る考え方で時間軸を立てる。」200頁

 そして、六~七世紀の須恵器杯H・G・Bのセリエーション(共伴状況)とその時間帯(フェイズ)を具体的に説明され、各遺構の編年を設定しています。同時にこの編年作業の難しさや限定条件についても触れています。

 「(前略)一つの遺構が存在した厳密な時期を知るためには埋没した環境が知られることや、一定量の同器種複数系統の土器が出土する必要がある。現実的には本論で取り扱う官衙や古代山城の特定の一つの遺構や層から多量の土器が出土するのは稀で、少量の土器が示す時期には不確実性がある。しかし、同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土であっても一定の時間的変遷の傾向は遺物群の前後関係から見て取れる場合が少なくない。遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の存在した時期を知ることはできる。」200頁

 山村さんはこのように土器のセリエーションによる遺構・層位の存在時期の幅(フェイズ)の判断の可能性について述べられており、いずれも重要な視点が含まれています。具体的には次の視点です。

(1) 少量の土器が示す時期には不確実性がある(注②)。
(2) 同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土でも一定の時間的変遷の傾向は見て取れる場合が少なくない。
(3) 遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の時期を知ることはできる。

 (2)(3)の視点は、巨大遺構である大野城や水城の編年に活かされており、山村さんは出土須恵器セリエーションに基づいて、両遺構の造営時期などについて、「現状では大野城の築造開始期は『日本書紀』の記述に沿う形で理解しておく。ともあれ、出土した須恵器の土器相が水城と整合的であることを指摘しておきたい。」(203頁)としています。すなわち、両遺構の須恵器セリエーションによる相対編年と暦年とのリンクに『日本書紀』の記事(注③)が採用されていることから、大野城と水城の築造開始時期を七世紀第3四半期と〝現状では理解〟されているようです。
 ちなみに、わたしは水城の完成時期を考古学エビデンスによれば七世紀中葉頃(『日本書紀』天智三年(664)水城築造記事の年代を含む。注④)、大野城はその規模の巨大さから完成は七世紀中葉(注⑤)で、築造開始は七世紀前半まで遡ると考えた方がよいと思っています。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②服部静尚「孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白」、古田史学の会・関西例会、2022年2月。同発表の質疑応答で、セリエーションによる相対編年を行う際の、母集団として必要な出土土器サンプル数についての筆者からの質問に対して、25点との返答がなされた。同研究は古田学派による初めての本格的な須恵器セリエーションの採用であり、注目される。
③『日本書紀』によれば水城の築造記事が天智三年(664)条、大野城の築城記事が天智四年(665)八月条見える。
④古賀達也『洛中洛外日記』2620話(2021/11/24)〝水城築造年代の考古学エビデンス(3)〟において、次のように述べた。同要旨を転載する。
〝水城築造年代のエビデンスとできるのは、堤体内から出土した土器です。堤体内からの出土土器は少数ですが、水城の基底部に埋設した木樋の抜き取り跡から須恵器杯Gが出土しています。他方、水城の上や周囲から出土した主流須恵器が杯Bであることを併せ考えると、水城の築造年代は杯Gが発生した7世紀中葉以降かつ杯B発生よりも前ということができます。具体的年代を推定すれば640~660年頃となり、「7世紀中葉頃」という表現が良い。〟
⑤大野城大宰府口城門から出土したコウヤマキ柱根最外層の年輪年代測定が648年とされており、大野城築造が650年頃まで遡る可能性がある。

 

【写真】大宰府政庁出土土器編年図(参考図です)


第2691話 2022/03/01

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (1)

 太宰府関連遺構の造営年代の研究のため、七世紀の須恵器編年の報告書や論文を読んできました。その中で全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)に興味深い言葉が用いられていました。それはセリエーションとという考古学の専門用語です。web上の論稿(注②)では次のように説明されています。

 「セリエーションとは、何だろうか?代表的には、以下のような説明がなされている。
 身辺の流行現象を見ればわかるように、モノは突如出現するわけでもないし、それ以前からあった同種のモノに直ちに置き代わるわけでもない。新しいモノは次第にあるいは急速に台頭し、それに合わせて、古いモノは次第に姿を消す。こうしたモノの変遷を視覚的・数量的に示す手法がセリエーションである。アメリカ考古学で開発されたこの方法(後略)」(上原真人 2009 「セリエーションとは何か」『考古学 -その方法と現状-』放送大学教材:129.)

 従来の考古学の土器編年では、ある遺構や層位から出土した主要土器、あるいは最も新しい土器の編年をその遺構・層位の年代とすることが通例でした。しかし、実際は複数の年代の土器が混在しているので、その混在率を数値化して相対編年するという考え方は実に合理的な方法です。
 こうしたセリエーションという考え方や編年方法を、表現は違いますが古田先生は30年ほど前から主張されていました(注③)。そのことを古田先生からお聞きしたのは、わたしの記憶では佐賀県吉野ヶ里から弥生時代の環濠集落が発見されて話題になっていた頃だったと思います。このセリエーションという概念はとても重要ですから、わたしも前期難波宮に関する論稿(注④)で触れたことがあります。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②「第2考古学」セリエーション[総論] https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2017/04/08)〝古田先生の土器編年の方法〟
【以下、転載】
 近年、わたしは考古学土器編年について勉強を進めてきました。その結果、土器の相対編年は研究者によってずれが見られるものの、比較的信頼できるのではないかと考えるようになりました。従来、古田学派の研究者は土器の相対編年は近畿を古く見て、筑紫は新しくする傾向にあり、信頼できないとする見解が多数だったのです。時には100年以上のずれが発生しているとする見解さえありました。わたし自身も永くそのように捉えてきました。
 しかし、考古学者も一元史観に基づいているとはいえ、それなりの出土事実に基づいて編年されているのですから、彼らがどのような論理性により土器の相対編年や暦年とのリンクを組み立てているのだろうかと、先入観を排して発掘調査報告書を見てきたのですが、特に大阪歴博の考古学者による難波編年がかなり正確で、文献史学との整合性もかなりとれていることがわかったのです。
 そして近年は筑紫の土器編年について考古学者の論稿を精査してきたのですが、これもまたそれほど不自然ではないことがわかりました。現時点でのわたしの理解では、北部九州では20~30年ほどのずれをがあるのではないかと考えていますが、土器の1様式の流行期間が従来の25年ほどとする理解よりも長いとする見解が出されていることもあって、編年観そのものは比較的正確ではないかと感じています。
 わたしは土器の相対編年の方法について、20年以上前に古田先生から次のようなお話をうかがったことがあります。それは、遺構から複数の様式の土器が出土したとき、その中の最も新しい土器の年代をその遺構の年代としてきた当時の編年方法に対して、複数の様式の土器が出土した場合は各様式の土器の割合で遺構ごとの相対編年を比較すべきという考え方でした。自然科学の「正規分布」の考え方を土器の相対編年においても援用する考え方で、現在の考古学ではこの考えが受け入れられています。古田先生の先見性を示す事例といえます。
 わたしはこうした古田先生の先進的な土器相対編年の考え方を知っていましたので、ある遺構から新しい様式の土器が少数出現したからといって、その新しい様式が流行した年代をその遺構の年代とするのは学問的には誤りと考えていました。ですから、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、その整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土することを理由に、前期難波宮造営年代を須恵器坏Bが流行した天武期とする論者があったのですが、その学問の方法は誤りであると反論してきました。
 考えてもみてください。ある土器様式が発生したとたん、それまでの土器様式が無くなって新様式の土器だけが出土することなど絶対にありえません。土器様式の変遷というものは、発生段階は少数でそれ以前の土器に混ざって出土し、流行に伴って多数を占め、その後は新たに発生した新新様式の土器と共存しながら、やがては出土しなくなるという変遷をたどるものです。これは自然科学では極めて常識的な考え方(正規分布)です。近年ではこの考え方をとる考古学者が増えているようで、ようやく古田先生の見解が考古学界でも常識となったようです。
【転載おわり】
 ここでは、前期難波宮の整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土したと書いたが、後にそれは不正確な情報に基づいていたことに気づいた。現在では前期難波宮整地層からは須恵器杯Bは出土していないと理解している。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構」―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
「続・前期難波宮の学習」『古田史学会報』114号、2013年2月。