古田武彦一覧

第3561話 2025/12/18

多元史観で見える蝦夷国の真実 (13)

   ―安日彦以前の「山」系図―

 津軽と筑紫の交流を裏付ける、砂沢水田遺跡(青森県弘前市)と板付水田遺跡(福岡市博多区)の工法の類似と、津軽に逃げた安日王伝承を記す「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」を根拠とするわたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。それは『真実の東北王朝』で発表された次の論証と仮説です(注①)。

 〝不思議な史料がある。もちろん、『東日流外三郡誌』の中だ。
「譜
安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命 *山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命 *長髄彦命――荒吐五王

  右の如く、東日流国古宮に遺れるを祖系図とせば、誠に以て耶馬台国王なるを偲ぶるに、日之本国に神代あるべきもなく、民族の起こしたる国造りなり。
元禄十年は月二日 藤井伊予」
(小館衷三・藤本光幸編『東日流外三郡誌』第一巻古代編、北方新社、昭和五十八年刊、一〇頁)
右は、安日彦・長髄彦以前の系譜だ。
ほとんどの場合、いきなり、右の両者から話がはじまるのが常だ。
ところが、ここにはこの両人を「九代目」とする系譜がある。それが両人活躍の当地、安東浦の林崎、その荒吐神社に伝えられていた。その文書を、元禄十年(一六九七)、藤井伊予が書写した。その書写本を、さらに孝季が「再写」しているのだ。孝季の「偉大なる書写の大業」が、津軽における学的伝統をもっていたことが知られよう。

 さて、「安日彦命・長髄彦命、前」の八代には、きわ立った特徴がある。いずれもみな、「山」の一字を冠していることだ。
あの、記・紀の天照大神以降の各代に、しばしば「天、(=海)」が冠せられているように、否、それ以上に、一回の例外もなく、「山」が冠せられている。

 そしてその故地(筑紫)をはなれた、安日彦・長髄彦において、はじめて「山」がなくなる。

 してみると、彼等の故国は、「山」と呼ばれるところであった。――そういう様相を呈しているのだ。

 ところで、読者は記憶せられているであろう。三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域であり、両者に共通する「邪馬(=山)」こそ、この地域の中心国名であった、と。

 これは『失われた九州王朝』以来の、わたしの年来の持説だった。

 今、その「山」をこの系図に見出し、わたしは慄然とせざるをえない。

 『東日流外三郡誌』は、あまりににも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む、一大史料集成だった。〟 (『真実の東北王朝』第五章 東日流外三郡誌との出会い 「『山』を父祖の地とする勢力」)
※「*山大日見子(妹)」は「山大日之國命」の左に併催。八幡書店版『東日流外三郡誌』1古代篇 (436頁)には、「山大日美子(妹)」とある。「*長髄彦命」は「安日彦命」の左に、兄弟として併記。
それぞれの名前にはルビがふってあるが、本稿では省略した。(古賀)

 『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓後、この一節に〝再会〟したとき、わたしは震え上がりました。当シリーズを書き進め、ようやくたどり着いた考察が、『東日流外三郡誌』に採録された安日彦・長髄彦の祖系譜に基づく古田先生の仮説と一致していたからです。

 江戸時代の津軽の伝承を採録した『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料として使用することに、わたしは一貫して用心してきました。むしろ、意識的に避けてきました。当の『東日流外三郡誌の逆襲』でも、「『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料としてどの程度信頼できるのかという悩ましい問題が残っています。」と述べていたほどです(注②)。あまりにも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む『東日流外三郡誌』を史料根拠として古代史研究に使用することに、二の足を踏んでいました。

 しかし恩師の仮説は『東日流外三郡誌』を古代史研究に使用したもので、その論理・論証を無視することはできません。論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。古田学派の研究者であれば、恩師のこの言葉から逃げてはならないからです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』「特別対談『東日流外三郡誌の逆襲』」 398頁。


第3560話 2025/12/17

多元史観で見える蝦夷国の真実 (12)

 筑紫から津軽に逃げた「愛瀰詩」の伝承

 本シリーズの最後に、古田先生によるちょっと怖い仮説を紹介します。

 神武紀歌謡に見える、勇敢な、かつ敬意を表す字面で記された「抵抗勢力」愛瀰詩(えみし)を天孫降臨時(筑紫侵攻)のニニギが戦った筑紫の先住民とした場合、筑紫と東北地方(蝦夷国)との交流を示す痕跡があるはずです。それこそが、本シリーズの「洛中洛外日記」3546話(2025/11/03)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(2) ―古代の津軽と筑紫の交流―〟同3549話(2025/11/15)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(5) ―津軽に逃げた安日王伝承―〟で紹介した考古学と文献史学の二つのエビデンスです。

《考古学エビデンス》―古代の津軽と筑紫の交流―
古代に遡る津軽(蝦夷国)と筑紫の交流の痕跡として、青森県弘前市の砂沢水田遺跡がある。同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似する。同遺跡は弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことを示す。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村の弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていたことを示す。

 これらは関東の稲作遺構よりも早く、言わば、関西や関東を通り越して筑紫の稲作集団や同技術・土器文化が津軽(蝦夷国)へ移動伝播したことを示している。

《文献史学エビデンス》―津軽に逃げた安日王伝承―
「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」は始祖を「孝元天皇」とするものだが、その後に「開化天皇―大毘古命―建沼河別命―安部将軍―安東―(後略)」と続き、「建沼河別命」と「安部将軍」の間に次の傍記が挿入されている。
「兄安日王
弟長髓彦
人皇之始。有安日長髓〈以下十一行文字不分明故付記之〉安東浦等是也。
安国
安日後孫。」※〈〉内は細注。

 ここに見える安東浦とは西津軽群深浦町深浦のこと。「秋田家系図」では、安日王は弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の始祖となったとある。わたしの研究では、これは『日本書紀』の神武東征記事の影響を受け、系図に挿入されたもので、本来は天孫降臨説話からの盗用とする。古田武彦氏も安日彦・長髄彦兄弟がニニギ軍の天孫降臨(筑紫侵攻)により、津軽へ稲穂(稲作技術)を持って逃げた伝承とした(注①)。

 この考古学と文献史学両分野の筑紫と津軽との交流を示すエビデンスは、神武紀の「愛瀰詩」伝承もこのことと深く関係しているのではないかとする仮説を成立させます。そしてこの仮説は、当シリーズ3548話(2025/11/08)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(4) ―都加留は蝦夷国の拠点か―〟、3558話(2025/12/14)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(10) ―「蝦夷国」深奥の謎、和訓「エミシ」―〟で提起した次の問題の解をも示唆します。

❶『日本書紀』斉明五年(659年)七月条では、なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されているのか。しかも三種の蝦夷の冒頭だ。最も遠方で小領域の都加留を最初に紹介するのは不自然。
国名表記の字面にも〝格差〟が見える。都加留の場合は一字一音表記で、「都」のように好ましい漢字が使用されている。比べて、麁蝦夷・熟蝦夷の場合は「蝦」や「夷」のように貶めた漢字だ。都加留に「蝦夷」表記がないのはなぜか。

❷わが国の古代史学では蝦夷をエミシと訓むのが常だ。なぜ、わが国では蝦夷を「カイ」ではなく、エミシと訓むのか。

 これらの考察は、〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟と発展するのです。このわたしの考察には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(注②)を書き終えたとき、亡き恩師の仮説から逃げることができないことに、わたしは改めて気づいたのです。(つづく)

(注)
①古田武彦「第五章 東日流外三郡誌との出会い」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。


第3559話 2025/12/15

多元史観で見える蝦夷国の真実 (11)

 ―盗まれた神武紀の「愛瀰詩」説話―

 古田先生は『日本書紀』神武紀に見える「愛瀰詩」(注①)を〝神武の軍の相手側、大和盆地の現地人を指しているようである〟とされました。すなわち近畿の先住者(銅鐸圏の住民)と見なし、神武に追われた「愛瀰詩」を東北の蝦夷国と称された人々と同類、あるいは有縁の人々と理解されたようです(注②)。しかし、わたしはこの「愛瀰詩」を天孫降臨時、ニニギが戦った北部九州の先住民と考えています。

 わたしは記紀に見える神武東征記事に天孫降臨説話が盗用されているとする説を2002~2003年に発表しました(注③)。記紀の神武東征説話中に、大和侵攻の主体を「天神御子」(『古事記』)・「天神子」(『日本書紀』)とする記事が突然のように、あるいは「天皇」記事中に紛れ込んでいることにわたしは注目し、「天孫」(アマテラスの子孫)ではあっても、神武は「天神御子」「天神子」(アマテラスの子)ではないとして、この「天神御子」「天神子」を主人公とする説話部分は天孫降臨時のニニギの筑紫・肥前侵攻説話の盗用としました。

 こうした視点に立てば、同じく「天神子」の名前が「天皇」説話に紛れ込んでいる「愛瀰詩」との戦闘譚もニニギらによる天孫降臨説話であり、そこに現れる「愛瀰詩」は北部九州(筑紫・肥前)の先住民ではないでしょうか。なお、神武歌謡の「愛瀰詩」を佐賀県を舞台とした説話とする先行研究が福永晋三氏より発表されています(注④)。古田先生も神武歌謡に筑前糸島で歌われたものがあるとする研究を発表しています(注⑤)。

 この仮説が正しければ、ニニギに追われた「愛瀰詩(エミシ)」と呼ばれ人々は筑紫から東北地方(蝦夷国)に落ち延び、そのため蝦夷国はエミシ国と呼ばれるようになったのではないでしょうか。ちなみに、佐賀県三養基郡には「江見(エミ)」という地名があり、「愛瀰詩」と語源的に関係があるのかもしれません。(つづく)

(注)
①次の神武紀歌謡に「愛瀰詩(エミシ)」が見える。
愛瀰詩烏、毗儴利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。
〔えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず〕
(「ひだり」は〝ひとり〟。「ももなひと」は〝百(もも)な人〟。『岩波古典文学大系』による。二〇五頁)
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 293~294頁。
③古賀達也「盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新・史料批判」『古田史学会報』48号、2002年。『古代に真実を求めて』第五集、明石書店、2002年、に転載。
同「続・盗まれた降臨神話 ―『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判―」 『古代に真実を求めて』第六集、明石書店、2003年。
④福永晋三「於佐伽那流 愛瀰詩(おさかなる えみし) ―九州王朝勃興の蔭」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也共著、明石書店、2000年。
⑤古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年。


第3558話 2025/12/14

多元史観で見える蝦夷国の真実 (10)

 ―「蝦夷国」深奥の謎、和訓「エミシ」―

 古田先生の見解によれば、「蝦夷国」の造字は中国側によるもので、〝「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〟として、蝦夷の音はカイとされました(注)。

 他方、わが国の古代史学では蝦夷をエミシと訓むのが常でした(後にエゾと訓む史料が現れる)。しかし、なぜ、わが国では蝦夷をエミシと訓むのか、ここに蝦夷国研究における深奥の謎があると、わたしは捉えています。

 そもそもエミシという名称の初出は『日本書紀』神武紀です。古田先生は次のように紹介します。

 **敬称として使われた「えみし」**

 では、「えみし」とは。これが、新しい課題だ。『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。

 愛瀰詩烏、毗儴利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。

 〔えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず〕

  (「ひだり」は〝ひとり〟。「ももなひと」は〝百(もも)な人〟。『岩波古典文学大系』による。二〇五頁)

 この「愛瀰詩」は、神武の軍の相手側、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、

 「夷(えみし)を」

という〝文字〟を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の〝天子中心の夷蛮呼称〟の文字だ。このさいの〝神武たち〟は、外来のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末~九世紀〉に付加された称号)。

 第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという〝差別文字〟を当てていない。「愛瀰詩」という、まことに麗しい文字が用いられている。これは、決して〝軽蔑語〟ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は〝水の盛なさま〟)。彼等は〝尊敬〟されているのだ。〔『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版 293~294頁〕

 古田先生はこのように述べ、〝「蝦夷」の語は、字面では、差別字。発音では、佳語〟としました。わたしはこの先生の見解に賛成です。

 そして、神武紀の「愛瀰詩」を大和盆地の現地人、すなわち近畿の先住者(銅鐸圏の住民)と見なし、〝日本列島の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。〟としました。

 このことから、神武に追われた「愛瀰詩」を東北の人々、すなわち、中国から蝦夷国と称された人々と同類、あるいは有縁の人々と理解されたようです。

 中国史書に見える「倭国」を〝九州王朝〟と称したように、この蝦夷国を〝東北王朝〟と先生は名づけました。この認識こそ、古田史学・多元史観の面目躍如です。(つづく)

(注)古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3557話 2025/12/11

多元史観で見える蝦夷国の真実 (9)

古田先生の蝦夷国観(『真実の東北王朝』)

『失われた九州王朝』(注①)で示された古田先生の蝦夷国観は、『真実の東北王朝』(注②)において、更に研ぎ澄まされました。同書第九章「歴史の踏絵 東北王朝」に示された次の二つの視点です。

まず一つ目は、蝦夷国の領域について論じたものです。

**蝦夷国と陸奧国の実態は同じ**

エジプトへ向かう機内で、わたしの思いは「蝦夷国」にあった。あの多賀城碑に銘刻された国名。その実態は、何か。

この問題である。

そして従来の論者が依拠してきた「陸奧国」という国名。それとの関係は何か。

それらを、機内の「夜」の中で、くりかえし反芻していたのである。そしてその想念の結節点、それは次の一語――「蝦夷国と陸奧国の相補性」だった。

すなわち、この両語は〝別の実態〟をもつ国名ではない。一方から見れば「蝦夷国」、他方から見れば、その同じものが「陸奧国」と呼ばれる。そういうことだ。「陸奧国」の方は、もちろん、近畿天皇家側からの〝呼び名〟だ。「蝦夷国」の方は。――これが、わたしの問いだった。〔ミネルヴァ書房版 284~285頁〕

 

二つ目は、「蝦夷国」の字義と誰による命名かについて論じたものです。

**『蝦夷国』とは中国側の造字**

「蝦夷国」とは、何か。この問題をさらに追いつめてみよう。

先ず、誰が、この字面を構成したか。――その答えは、ズバリ言って、中国だ。決して近畿天皇家ではない。

この点、従来の学者は、漫然と、つまり、確たる論証なしに、「近畿天皇家側の造字」と〝信じ〟て、叙述しているものが少なくない。おそらく、『日本書紀』や『古事記』に「蝦夷」の語が多出しているからであろう。

しかしながら、忘れてならぬ史料がある。中国のものだ。

「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」(冊府元亀、外臣部、朝貢三)

これは、当然ながら、〝中国中心の目〟から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現れている。

これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である。(それを〝うけいれなかった〟から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〔ミネルヴァ書房版 289~290頁〕

「蝦夷」を中国側の造字とする古田先生の視点と『冊府元亀』に見える「外臣」「朝貢」は、中国と蝦夷国との〝国交〟を不可避としています。こうした視点と蝦夷国観は、蝦夷国研究にとって避けられないテーマなのです。ところが、近畿天皇家一元史観に立つ、わが国の古代史学界はそれを欠いたまま、蝦夷を論じており、ここにも千数百年続く、近畿天皇家一元史観の宿痾を見るのです。(つづく)

(注)

①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


3555話 2025/12/09

多元史観で見える蝦夷国の真実 (8)

  古田先生の蝦夷国観

   (『失われた九州王朝』)

 このシリーズでは、蝦夷国を独立した国家とする多元史観に基づく認識が必要であることを主張していますが、これはわたしが古田史学に入門以来、抱き続けた問題意識でした。その学問的背景にあったのは古田武彦初期三部作の一つ、『失われた九州王朝』(注①)の次の一節です(ミネルヴァ書房版 213~217頁)。要約して紹介します。

「蝦夷国 本書の論証の目指すところは、九州に連続した王権にあった。これと近畿の王権との関連が焦点となってきたのである。けれども、これと対をなすべき問題がある。近畿の王権の、さらに東方に位置した「蝦夷国」の問題だ。」

 このような書き出しの後、「洛中洛外日記」3554話(2025/12/01)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(7) ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―〟でも紹介した『日本書紀』斉明紀(斉明五年)の蝦夷記事を取り上げて、次のように指摘します。

「ハッキリいえば、何か〝珍獣〟まがいの扱いだ。(中略)

 このような『日本書紀』の文面にふれたあと、わたしは中国側の文献『冊府元亀(さっぷげんき)』(注②)の中に、つぎの文面を見出して、ハッと胸を突かれた。「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」〈冊府元亀、外臣部、朝貢三〉。ここでは、蝦夷国人は観賞用の「珍獣」でも、「珍物」でもない。レッキとした蝦夷国の国使として、唐朝に貢献してきた、と記録されている。年代も『日本書紀』とピッタリ一致している。」

 そして、結論として次のようにまとめています。

 「以上の結論と関連事項を記そう。
(一)『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家派遣の遣唐使が、『旧唐書』や『新唐書』に記載されていないのと同じ扱いである。すなわち、倭人を代表する王権ではなく、辺域に国家として、いまだ『旧唐書』などの「正史」には記載されていないのである。

(三)なお、これと類似した現象は、『冊府元亀』の「琉球国」の記事においてもあらわれている。「煬帝、大業三年(六〇七)三月、羽騎尉朱寛を遣わして、琉球国に使せしむ」〈冊府元亀、外臣部、通好〉。ただし、「琉球国」の場合は、『隋書』俀国伝においても、すでに、「俀国」とは別個に出現している。
以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写。――両者の対照があざやかである。」

 五十年前に出版された『失われた九州王朝』にある、古田先生の蝦夷国観こそ、本シリーズを貫くわたしの蝦夷研究のバックボーンなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②『冊府元亀』は北宋時代に成立した類書。王欽若・楊億らが真宗の勅命により大中祥符六年(1013)に完成させた。巻数は1000巻に及び、分類は31部1104門(実際は1116門)。


第3553話 2025/11/23

多元史観で見える蝦夷国の真実 (6)

 ―蝦夷(蛮族)か蝦夷国(古代国家)か―

 中国史書の『通典』『唐会要』などには「蝦夷国」と表記されており、中国側は蝦夷国が倭国や日本国と同様に東夷の国と認識しています。他方、『日本書紀』には「蝦夷国」という国名表記は二カ所(斉明紀)しか見えません(この点は後述する)。他方、「齶田(秋田)蝦夷」(斉明紀)・「越蝦夷」(天武紀)・「越蝦蛦沙門」(持統紀)・「陸奧蝦夷沙門」(持統紀)などの用例があり、「蝦夷」を「倭人」などと同様の人種名として使用されています。

 こうした『日本書紀』の「蝦夷」使用例の影響を色濃く受けて、日本古代史学において、国家としての「蝦夷国」という認識が不十分なまま、程度の差はあれ、〝大和朝廷に逆らう東北の未開の蛮族〟として蝦夷研究がなされてきたのではないでしょうか。これは大和朝廷一元史観の通説派だけではなく、わたしたち多元史観・九州王朝説を是とする古田学派においても、七世紀後半頃の日本列島に、倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国の三国が鼎立(注①)していたとする多元的歴史観を徹底できなかったように思われます。

 通説では、大和朝廷による東北地方の未開の蛮族である蝦夷を討伐(皇化)しながら、律令制下の陸奧国が北へ東へと拡大するというイメージで説明するのが常であり、国家としての蝦夷国への日本国(大和朝廷)による侵略戦争とする視点がなかったのではないでしょうか。

 わたしは国家としての蝦夷国(「蝦夷」という国名を自称していたかどうかは未詳)が実在したのではないかと考えています。その根拠として、注目すべき八世紀の金石文があります。次の銘文を持つ多賀城碑です(注②)。

「西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
将軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日」

 多賀城碑には「蝦夷国」「靺鞨国」(注③)という日本国以外の国名と、日本国の律令制下の「国」である「常陸国」「下野国」が記されており、当時の大和朝廷の「蝦夷国」認識がうかがえます。同時代の大和朝廷側の金石文ですから、当時の蝦夷国認識を知る上で最も貴重な同時代史料です。なお古田説によれば(注④)、多賀城は蝦夷国内部に位置するとされています。碑文中に「陸奧国」が見えないことも注目されます。(つづく)

(注)
①古田史学・九州王朝説では、中国の王朝(唐)が承認した列島の代表王朝は九州王朝(倭国)であり、701年に九州王朝から大和朝廷(日本国)への王朝交代がなされたとする。近年のわたしの飛鳥・藤原出土荷札木簡研究によれば、七世紀第4四半期頃(天武期)から近畿天皇家は九州島と蝦夷国を除く日本列島を影響下に置いていたと考えられる(古賀達也「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』199号、2021年)。
②多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑(国宝)。当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、神龜元年(724)の多賀城創建と天平寶字六年(762)の改修を伝える。
③靺鞨(まっかつ)は、中国の隋唐時代に満洲・外満洲(沿海州)に存在したツングース系農耕漁労民族の国で、粛慎・挹婁の末裔。
④古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。

〖写真説明〗多賀城碑拓本・多賀城碑。新婚旅行での多賀城碑前の記念写真。


第3530話 2025/09/14

ミネルヴァ書房・杉田社長からの電話

 半月後に迫った弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)出版記念講演会(9/27、弘前市立観光館。秋田孝季集史研究会主催)の準備で忙しくしていますが、先日、京都市山科区に本社を置くミネルヴァ書房の杉田啓三社長からお電話をいただきました。古田先生の追悼講演会以来のことですから、お声を聞くのも十年ぶりです。

 開口一番、「『東日流外三郡誌の逆襲』を送ってくれてありがとう。三日かけて読んだ。これは面白いねえ。」とのこと。京都の人文・社会科学系出版の雄、ミネルヴァ書房と言えば、本作りのプロ中のプロの集団。そこの社長の杉田さんからのお褒めの言葉だけに、感激しました。「三十年かかりました」と言うと、「ようあれだけ調べたねえ。それにしても偽作論者はひどい。彼らには何を言っても無駄だろうけれども、本当によう調べたと思う。」

 このようなやりとりのあと、三十数年前に起きた和田家文書偽作キャンペーンと「市民の古代研究会」への激しい組織攻撃(理事会の切り崩し、裏切りなど)を受け、最後はわたし一人で「古田史学の会」の立ち上げを決意し、集まってくれた数人の同志と、そして古田武彦先生と共に、全国の古田ファン・古田史学支持者を糾合するため、北海道から九州まで行脚し、「古田史学の会」の組織を作り、この本の発刊に至ったことを杉田社長に説明しました。ですから、「古田史学の会」が今日あるのは、偽作論者や偽作キャンペーンの賜とも言えそうです。何よりも、『季刊 邪馬台国』や週刊誌・書籍、右翼雑誌などから名指しの攻撃を受けたことにより、わたし自身も精神的・学問的にタフになりました。

 思い起こせば、当時、古田先生は次のように言われました。
「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが十年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかった。」
このとき、先生は六十七歳、わたしは三十八歳でした。
話を戻します。ミネルヴァ書房からは、これまで「古田史学の会」の本を二冊出版していただきました。『「九州年号」の研究』(2012年)と『邪馬壹国の歴史学』(2016年)です。どちらも「古田史学の会」編の自信作です。電話の最後に、「また機会があれば「古田史学の会」の本を出していただきたいと思います。」と述べ、拙著へのお褒めの言葉に対して重ねてお礼を申し上げました。


第3526話 2025/09/05

『東日流外三郡誌の逆襲』

     出版記念講演のリハーサル

 本日、「多元的古代研究会」主催のリモート研究会で、「和田家文書の真実」というテーマを発表させていただきました。9月27日(土)の弘前市(秋田孝季集史研究会主催)と10月25日(土)に東京(八幡書店主催)で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のリハーサルを兼ねて発表しました。
この三十年間の研究成果をパワポファイル120枚を使用して説明しましたが、最後に、これから十年をかけて『東日流外三郡誌』の編者秋田孝季の生涯と思想を研究し、古田武彦先生ができなかった『秋田孝季』の伝記執筆のための研究を続け、後継者に委ねたいと締めくくりました。この思いを綴ったのが『東日流外三郡誌の逆襲』の最後に収録した「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」です。その末尾の一節を転載します。同書出版に込めた思いの一端が読者に伝われば幸いです。

【以下、転載】
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。
それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。
〔令和七年(二〇二五)五月十二日、筆了〕


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3511話 2025/08/01

運命の一書

 『東日流外三郡誌の逆襲』近日刊行

 30年もかかってしまいましたが、今月中頃までには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)が発刊されます。この本を出すまでは死ぬことはできないと心に決めてきました。版元をはじめ、原稿執筆依頼に応じていただいた皆様に深く感謝いたします。

 弘前市での出版記念講演会を弘前市立観光館にて9月27日(土)に行うことも決まりました(秋田孝季集史研究会主催)。講演会には偽書派を代表する論者、斉藤光政さん(東奥日報)をご招待することにしていましたが、氏が7月24日にご逝去されたことを知りました。斎藤さんとは30年前に青森で一度だけお会いしたことがあります。そのときの斉藤記者と古田先生とのやりとりは今でも記憶しています。『東日流外三郡誌の逆襲』刊行直前のご逝去でもあり、不思議なご縁と運命の巡り合わせを感じます。激しい論争を交わした相手ではありますが、それだからこそ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 『東日流外三郡誌の逆襲』末尾の拙稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」の一節を紹介します。

〝五 真偽論争の恩讐を越えて

 本書を手に取り、ここまで読み進めでくださった方にはすでに十分伝わっているかと思うが、和田家文書の歴史は不幸の連続であった。なかでも所蔵者による偽作だとする、メディアによるキャンペーンはその最たるものであった。本稿で提起したような分類や正確な認識によることもなく、本来の学問的な史料批判に基づいた検証とは程遠い、浅薄な知識と悪質な誤解に基づく偽作キャンペーンが延々と続けられた。口にするのも憚られるようなひどい人格攻撃と中傷が繰り返された。そういった悪意の中で、和田家(五所川原市飯詰)は離散を強いられたのである。和田家文書を真作として研究を続けた古田武彦先生に対しても、テレビ(NHK)や新聞(東奥日報)、週刊誌などでの偏向報道・バッシングは猖獗を極めた。まるで、この国のメディアや学問が正気を失ったかのようであった。

 しかしそれでも、真偽論争の恩讐を越え、学問の常道に立ち返り、東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書を史料批判の対象とすること。これをわたしは世の識者、なかでも青森に生きる方々にうったえたい。本書はその確かな導き手となるであろう。その結果、和田家文書の分類が見直されることになったとしても、これまでの研究結果とは異なる新たな事実がみつかることになろうとも、わたしたち古田学派の研究者は論理の導くところへ行かなければならない。たとえそれが何処に至ろうとも。〟

 同書を多くの皆様、とりわけ青森県の方々に読んでいただきたいと願っています。


第3499話 2025/05/21

『古事記』序文、古田先生からの叱責

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。7月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 今回の例会では萩野秀公さんから『古事記』序文などについての研究が発表されたのですが、質疑応答のおり、〝古事記とは稗田阿礼が口述した記憶を太安萬侶が筆録したもの〟とする理解に対して、それは誤解であると述べました。実はそのことについて、わたしにはほろ苦い思い出がありました。

 それは今から34年前のこと。信州の昭和薬科大学諏訪校舎で一週間にわたり開催された「シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争」(主催:東方史学会、平成三年(1991)8月)に、わたしは「市民の古代研究会」事務局長として同シンポジウム実行委員会に参画していました。会場での質疑応答の時、〝古事記は稗田阿礼の言葉を太安萬侶が筆録したもの〟と、わたしが不用意に発言したとたん、古田先生から〝それは誤りであり、稗田阿礼の口述以外の史料にも基づいて古事記は編纂されている〟とのご注意がありました。そして、こんなことも知らないのかと言わんばかりの勢いで厳しく叱責されました。数百人の聴衆の面前でしたので、自らの不勉強を深く恥じ入りました。入門以来、これほど先生から叱られたのも初めての経験でしたので、それからは生半可な知識や思いつきで、もっともらしく意見を述べることはしないよう、気をつけてきました。三十代半ばの頃、こうした苦い経験がありましたので、例会での発言に至ったものです。

 6月例会では下記の発表がありました。関西例会担当者が西村さんから上田さんに交替しましたので、発表希望者は上田武さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを20部作成されるようお願いします。

〔6月度関西例会の内容〕
①万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」 (川西市・正木 裕)
②仁徳帝 ―縄文語で解く記紀の神々― (大阪市・西井健一郎)
③『もう一つの万葉集』李寧煕著の紹介 (大阪市・西井健一郎)
④関西例会会計報告・ハイキング報告 (八尾市・上田武)
⑤九州の遺跡が示す卑弥呼の三角縁鏡 など (大山崎町・大原重雄)
⑥皇国史観について (大山崎町・大原重雄)
⑦続・『記紀』及び『続紀』等の根本資料について (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋(9~10月)の出版記念東京講演会の状況報告
❸九州古代史の会月例会(福岡市)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹久留米大学公開講座で古賀(7/06)・正木(7/27)が講演

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
07/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)。