古賀達也一覧

第2831話 2022/09/09

「延喜二年籍」の史料事実と歴史事実

 八王子の大学セミナーハウスで毎年開催されている〝古田武彦記念古代史セミナー〟が、今年も近づいてきました。一昨年は、古代戸籍の二倍年暦についての研究「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注①)を発表させていただきました。
 この研究テーマの発端となったのは、古田先生が明らかにされた倭人の二倍年暦(二倍年齢)が日本列島ではいつ頃まで続いたのだろうかという疑問を抱いたことでした。そこで注目したのが「延喜二年阿波国戸籍」に見える超高齢の年齢分布という次の〝史料事実〟でした(注②)。

 【延喜二年阿波国戸籍】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
 合計 50 361 411 100.0

同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。もちろん〝史料事実〟と〝歴史事実〟とは異なる概念ですから、史料事実をそのまま歴史事実と見なし、別の仮説の根拠とすることは文献史学の学問の方法上できません。
 そこで、わたしはこの超高齢分布戸籍という〝史料事実〟は、二倍年暦を淵源とする二倍年齢の痕跡ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は一年で二歳とする古い二倍年齢計算法が阿波国では十世紀時点でも継続採用されていたのではないかと考えたのです。そこで、古田先生が提唱された二倍年暦説を用いてこの〝史料事実〟の解釈を試み、当時の阿波国の人々の二倍年齢使用という〝歴史事実〟を論証しようとしたのです。ところがそれほど単純な問題ではないことがわかりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf
②平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。


第2830話 2022/09/08

中国での「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)には、中国の研究者からも厳しい批判論文が発表されました。張富祥氏による「『夏商周断代工程』の間違い」(注①)という論文で、次のような書き出しで始まります。

〝暫定的に公表された「1996年から2000年までの夏商周断代工程の成果に関する報告書(簡易版)」(以下、「報告書」という)は、わが国の「5000年」の歴史の複合体を暗示しているように思われる。どう見ても不人気である。純粋に学術的な観点からは、大げさで不完全な特定の日付と数字の組み合わせはそれほど重要ではないかもしれません。おそらく、それらの背後にある一連の概念と意図こそ、学界による反省と思慮に値するものです。〟

 中国語(簡体字)の論文なので、わたしは上手に訳せませんが、主な批判点はつぎのようなことでした。結論部分をかなり要約して転載します。

〝一、研究アプローチの見直し
 古代年代学研究の難しさはよく知られていますが、「史料」がないわけではありません。現時点で実現可能なアプローチは、既存の古代文献「史料」に基づいている必要があり、既存年表をほとんどの学者が受け入れられるレベルにまで調整するよう努める必要があります。
 正直なところ、プロジェクト(夏商周断代工程)は急いで実行されており、既存の「史料」は体系的に注意深く研究されてはいません。「報告書」に反映されている研究アプローチはほとんどすべての既存史料を解体し、さまざまな古典または引用された文書と不適切な比較を行い、自分たちが「最良の選択肢」と考える年代を採用しています。〟

〝二、汎科学的議論の考察
 偏った研究アプローチに関連して、プロジェクトによって提唱された学際的なアプローチも汎科学的になりがちです。プロジェクトの年代学研究の基本原則は、文字史料が考古学的結果、科学技術的な年代測定、および碑文と矛盾する場合、前者よりも後者を信じるべきとすることです。この原則は特定の歴史年代を決定するという点では、文献史学と比較して利点がありません。プロジェクトにおける学際的な手法の適用には、長所と短所があると言うべきで、多くの間違いと教訓を反省する必要があります。〟

〝古代史の年代を考古学で検証するには、まず適用範囲の問題があります。調査の対象が数万年または数十万年前の遺物である場合、試験資料は比較的適用可能な年代順のデータを提供でき、誤差は数百年または数千年に拡大されても依然として有効です。
 しかし、それが文字の時代(歴史時代)に限定され、時系列の詳細に至る場合、試験方法は限界を示します。プロジェクトでは炭素年代測定値は±20年程度の精度が求められています。現在の技術水準を考えると実現不可能な精度です。たとえ試験が正確であっても、考古学的な層序区分や発掘された遺物が実際の年代を決定するための直接的な根拠になり得ないことは誰もが知っています。〟

〝プロジェクトにおける学際的なアプローチの使用は、大部分がとてつもないものであり、得られた結果も欧米人がよく使う比喩で言えば、プロジェクトが設定した時代に剣がかかっているとも言え、ちょっとした疑問があれば、剣が落ちて時代を殺してしまうかもしれません。科学研究の基礎は実験と帰納であり、社会科学に科学技術的手段を一概に適用することはできず、また科学自体にも欠点があり、汎科学的理解は決して科学を尊重するものではありません。〟

 わたしの拙い訳でわかりにくいと思いますが(注②)、張氏は「夏商周断代工程」が文献よりも考古学・炭素年代測定などの結果を優先していることを批判し、周王の王年のような詳細な年代を求めるには文献に依らなければならないと主張しています。具体的には『竹書紀年』『魯国年代記』などを重視し、周王の即位年を推定しています。
 わたしの見るところ、張氏の「夏商周断代工程」に対する批判は的を射ていると思うのですが、結局、張氏にも二倍年暦の概念がないため、周王の年代や在位年数の復元には成功していないと言わざるを得ません(注③)。しかし、国家プロジェクト「夏商周断代工程」に対する氏の厳しい批判精神に触れ、勇気ある研究者だと思いました。

(注)
①張富祥(Zhang Fuxiang)「『夏商周断代工程』の間違い」、『捜狐』デジタル版、2019年4月1日。
https://www.sohu.com/a/305083439_523187
②たとえば「汎科学的」に対応する適切な日本語訳を思いつかなかった。不適切な訳があるかもしれず、中国語に堪能な方の助言をいただければ幸いである。
③張氏の説によれば、周の建国年次を前1027年(『竹書紀年』に基づく)であり、「夏商周断代工程」の結果(前1046年)と大きくは変わらない。


第2829話 2022/09/07

日本からの「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)の結論、特に西周各王の紀年が間違っていると、わたしが確信した理由の一つに、日本人研究者からの有力な批判を知ったことでした。特に佐藤信弥さんの著書にはその理由が詳述されており、周代研究の現状を知るのにも大変役立ちました。「夏商周断代工程」以降の古代中国史研究を紹介した佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(注①)は、「夏商周断代工程」の研究結果への学界からの批判を次のように紹介しています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟同書108頁

〝夏商周断代工程の年表では懿王の在位年数は八年であり、銘文の紀年と矛盾する。あるいは『史記』の三代世表では第八代の孝王が懿王の弟、すなわち共王の子とされているが(周本紀では孝王は共王の弟とされている)、夏商周断代工程では孝王の在位年数も六年しかなく、いずれにせよ夏商周断代工程が設定した西周の王の紀年が誤っていたことが示されてしまったのである。
 北京大学の金文研究者朱鳳瀚はその誤りを認め、年表の修正を試みた。朱鳳瀚は夏商周断代工程の専門家チームのひとりである。彼は取り敢えず懿王元年とされる前八九九年から懿王の在位年をそのまま引き延ばそうとしたが、ここでまた問題が生じた。懿王一〇年にあたる前八九〇年の正月(一月)の朔日は丙申の日であり、銘文の「甲寅」は一九日となり、一日から一〇日までという月相の初吉の範囲に合わないのである。結局「天再び鄭(てい)に旦す」を基準に定めたはずの懿王元年の年も誤りであったと認めざるを得なくなった。〟同書110~111頁

 こうした批判を認めざるを得なくなった「夏商周断代工程」の専門家による年表修正、そして修正により新たな矛盾が発生したことを紹介し、佐藤さんは次のように指摘しました。

〝「夏商周断代工程は国家プロジェクトの一環として進められたのではなかったのか? それがあっさりと間違いでしたと掌(てのひら)を返してしまって問題がないのか?」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、金文に見える紀年を頼りに西周の王年を復元するという試み自体が、もともと誰がやっても無理が生じるものであり、このように新しい材料の出現にともなって修正を迫られるものなのである。(中略)
 金文の紀年による西周王年の復元は、中国だけでなく、日本も含めた外国の研究者も取り組んでいる研究課題であるが、一方でこのような観点から王年の復元自体に否定的な意見もある(実は筆者も否定的な立場をとる)。〟同書111~112頁

 様々な解釈が可能な抽象的な金文に対して、自説に都合の良い解釈を当てはめ、年代を確定するという「夏商周断代工程」の方法自体に、わたしの疑念は決定的なものとなりました(注②)。その後、中国の研究者からも更に厳しい批判論文が発表されました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。
 同『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2260話(2020/10/13)〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟
 同「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。


第2828話 2022/09/06

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (2)

 『古今和歌集』古写本(注①)の「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山を いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説が杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注②)に紹介されています。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 おそらくこうした偽作説の根拠になったと思われる不自然な状況があります。たとえば、同歌が『古今和歌集』の巻第八「離別哥」ではなく、巻第九「羈旅哥」冒頭に収録されていることです。この「天の原」歌の題詞・左注には、中国の明州の海辺で行われた中国の友人達との別れの席で、仲麻呂が夜の月を見て歌ったと語り伝えられているとあります。

 「もろこしにて月を見てよみける」
「この哥は、むかしなかまろ(仲麿)をもろこし(唐)にものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに、めいしう(明州)といふところのうみべ(海辺)にて、かのくにの人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」(注③)※()内の漢字は古賀による付記。

 この歌は別離の夜会で仲麻呂が歌ったとあるのですから、その通りであれば「羈旅哥」ではなく、その直前の「離別哥」に入れられるべきものです。しかも、この歌を詠んだときの作者の進行方向は、「ふりさけみれば かすがなるみかさの山」とあるのですから、日本ではなく唐のはずです。唐へ向かう遣唐使船上で振り返ると、「かすがなるみかさ山」から出た月が見えたという歌なのです。ですから、作者が唐に向かうときに歌ったのだからこそ「羈旅哥」に入れられたのではないでしょうか。
古田先生はこの歌の作歌場所を壱岐の〝天の原〟とされ、仲麻呂が遣唐使の一員として唐に渡るときに詠んだもので、その歌を明州で思い出して歌ったと理解されました(注④)。古田説の場合、偽作ではなく、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の左注が不正確だったとするものです。すなわち、「よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」とあるように、伝聞情報に依ったと記していることも、古田説成立の背景と思われます。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した次の二つの古写本がある。前田家所蔵『古今和歌集』清輔本、保元二年、1157年の奥書を持つ。京都大学所蔵『古今和歌集註』藤原教長著、治承元年、1177年成立。
②杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
③『古今和歌集』日本古典文学大系、岩波書店。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2827話 2022/09/05

「夏商周断代行程」と水月湖の年縞

 1996年から始まった中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」は、古代中国王朝(夏・殷・周)の実年代を多分野(文献史学・考古学・天文学・暦学)の研究者による共同作業で確定するというもので、その報告書が2004年に発表、国家から承認されました。それまでは古代王朝の実年代は東周(周代の後半、春秋・戦国時代)までしかわからないとされていましたが、このプロジェクトにより周の建国年次(前1046年)まで明らかになったと発表当時は注目されました。
 この研究結果により、『論語』や周代の二倍年暦説は成立しないとの批判(注①)もあったのですが、わたしは「夏商周断代工程」の方法論に疑問を抱いていましたので、周代(特に西周)は二倍年暦でなければ史料事実を説明できないと考えていました。ですから、このプロジェクト結果は正しいのだろうかと疑っていましたし、今では〝間違っている〟と確信しています(注②)。その理由の一つがC14炭素年代測定値を根拠にしていることでした。
 同プロジェクトの経緯や概要と結論について著された岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(注③)を読んで、最初に感じた疑問が、西周の王年の証明に使用された各遺跡出土物(人骨・木炭等)の炭素年代測定値幅が約20年~80年であり、紀元前11世紀から8世紀の炭素年代測定の精度がそこまで高いのだろうかということでした。もしその測定値と周の各王年が一致したのであれば、それは2000年頃の補正値(intCAL98か、1998年)が採用されているはずで、最新の補正値intCAL20(2020年)やその前の補正値intCAL13(2013年)など、数度にわたり補正値が変化しているので、最新補正値では王年との対応が崩れているのではないかと思ったからです。特にintCAL13は水月湖(福井県)の年縞(注④)により補正され、その精度が画期的に向上しています。(つづく)

(注)
①中村通敏「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない 『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」『東京古田会ニュース』178号、2018年。
 同「『史記』の「穆王即位五〇年説」について」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
 服部静尚「二倍年暦・二倍年齢の一考察」『古田史学会報』171号、2022年。
②古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。
③岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』柏書房、2005年。
④萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。


第2826話 2022/09/04

『多元』No.171で論じた 「夏商周断代行程」

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.171が届きました。同号には拙稿「周代の史料批判 「夏商周断代行程」の顛末」を掲載していただきました。同稿は、周代史料(伝世史料・金文・竹簡)の性格と史料批判上の留意点を説明し、中国の国家プロジェクト「夏商周断代行程」の問題点を指摘したものです。
 『論語』や周代の二倍年暦説への批判の根拠として、周代史料(金文・『竹書紀年』)の〝史料事実〟や「夏商周断代行程」の〝結論〟を指摘する意見もあるため、周代史料の取り扱い(例えば、金文は様々な解釈が可能)が難しいこと、プロジェクト「夏商周断代行程」の学問の方法への疑義や、結論に対して学界からの批判があることを紹介しました。
 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」は、古代中国王朝の実年代を多分野の研究者による共同作業で明らかにするというもので、その報告書が2004年に発表されました。わたしは、知人の台湾人研究者の協力の下、同報告書(中文)精査の準備をしており、後日、その結果を報告したいと思います。


第2825話 2022/09/03

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)

 上京区のお店で、「古代歌謡に詠まれた王朝」というテーマで話しをすることになりました。そこで改めて勉強しなおしたところ、『古今和歌集』の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説があることを知りました。杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注①)によれば、次のような偽作説です。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から出ると論じたことがあります(注③)。
この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌ったみかさ山は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。杉本氏の論文も古写本の「みかさの山を」が原型であるとされており、この点では古田先生やわたしの考えと一致するのですが、「偽作説」については検討に値する視点ではないかと、今回、気づきました。(つづく)

(注)
①杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2824話 2022/09/02

「二倍年暦」研究の思い出 (12)

―弥生人骨の年代判定とグラフ化―

 『論語』をはじめとする周代史料の二倍年暦論証という古田先生の遺訓については、多くの論文を発表し、ある程度はお応えすることができたと考えています。しかし、それらを一冊の本にする仕事がまだ残されています。他方、二倍年暦説そのものに対する考古学的批判(弥生人骨の年齢分布)や中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(注①)により周代の一倍年暦は証明されたとする批判もありました(注②)。
 何度も述べていますが、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えていますので、新たな批判も歓迎するところでした。特に弥生人骨の年齢判定や中国での「夏商周断代工程」などは未知の分野でしたので、それらの研究に触れる良い機会にもなりました。しかも、前者は理系分野の研究ですから、わたしもその方法論については関心を抱いていましたし、化学工場で品質管理・製品検定責任者の経験もありましたので、どちらかというと漢籍や古文研究よりも得意な分野でした。この分野については既に反論済みと考えていますが(注③)、あらためてその論点を紹介します。
 わたしの『論語』二倍年暦説を批判された中村通敏さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」(注④)において、五十歳を越える古代人が20%以上いたとされた根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが次のように引用されています。
【以下、転載】
 注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 1942.2 祥伝社
p169~p172 死亡時年齢の推定 要旨
 骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(20~40)、熟年(40~60)、老年(60〇~)の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、15歳くらいまでは1歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。
 注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 2005.1
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】
 そして、中村さんは提示されたグラフに次のような説明を付されています。「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」
 わたしは上記の「注」を読み、中村稿の「生存者の年齢推移図」グラフを仮説(一倍年暦)の根拠に用いるのは危険と感じました。同グラフに違和感を覚えたのです。その理由は次の通りです。

(ⅰ) 松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。
(ⅱ) そして、「壮年(20~40)、熟年(40~60)、老年(60~)の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
(ⅲ) 出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法は理解できるが、その三段階の年齢枠は何を根拠に(20~40)(40~60)(60~)と設定されたのかが不明。
(ⅳ) 出土人骨の相対的年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定は困難。古代史に詳しい知人の医師にもたずねたが、そのような技術はまだ確立されていないとのこと。
(ⅴ) 従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢枠が現代とは異なり、仮に(15~30)(30~40)(40~)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判定によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
(ⅵ) 他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、信頼性は高い。これによれば、倭人の一般的寿命は四十~五十歳である。
(ⅶ) 中村さん提示のグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0%に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
(ⅷ) 弥生時代の出土人骨を50歳・60歳・70歳に区別できるほどの測定技術があるのか不審(従って、コンピューターソフトでグラフ化した70歳付近のパーセント数は信頼性が劣る)。しかも年齢比定に必要な、別の手段(墓誌など)で没年齢が判明している弥生人の「標本人骨」の存在など聞いたことがない。
(ⅸ) 同時代の文字記録(倭人伝)という一次史料と現代の考古学者による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の推定方法の当否である。

 このように、同グラフ作成に至る方法論や一次史料(倭人伝)との整合が脆弱であるため、仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんの意見にも賛成できませんでした。さらに、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを用いることにも問題なしとは言えません。
 以上のようにわたしは反論しました。なお、出土縄文人骨年代判定にベイズ推定統計学を採用する試みも見られ(注⑤)、注目していますが、今でもわたしの反論は基本的に妥当と思っています。(つづく)

(注)
①岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)にプロジェクト「夏商周断代工程」が紹介されている。同プロジェクトは古代中国王朝の実年代を多分野の研究者による共同作業で明らかにするというもので、その報告書が2004年に発表された。
②中村通敏「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない 『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」『東京古田会ニュース』178号、2018年。
 同「『史記』の「穆王即位五〇年説」について」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
 服部静尚「二倍年暦・二倍年齢の一考察」『古田史学会報』171号、2022年。
③古賀達也「『論語』二倍年暦説の論理 ―中村通敏さんにお答えする―」『東京古田会ニュース』179号、2018年。
④中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号、2009年。
⑤長岡朋人「縄文時代人骨のライフヒストリーの解明」日本学術振興会、最近の研究成果、2011年。


第2823話 2022/09/01

「二倍年暦」研究の思い出 (11)

―周代と漢代の「寿命」の落差《ケースD》―

 周代の二倍年暦から一倍年暦に代わった漢代では、人の年齢や寿命の表記が半減するわけですから、この激変の痕跡が漢代史料に遺されているはずとわたしは考えました。この痕跡《ケースD》を発見できれば、周代に二倍年暦が実在したとする論証上の有力なエビデンスになります。

《ケースD》周代の二倍年暦(二倍年齢)記事と、漢代の一倍年暦(一倍年齢)時代の記事とで、ちょうど二倍の年齢差が発生した史料痕跡がある場合。寿命や年齢が半減するため、そのことによる影響が漢代史料に遺る可能性がある。

 この史料調査は難航しましたが、京都府立図書館に通い詰め、ついに見つけることができ、論文発表しました(注①)。それは中国の古典医学書『黄帝内経素問』に記された、黄帝と天師岐伯との問答です。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」『素問』上古天真論第一(注②)

 上古の人の百歳という長寿命に疑義を呈した黄帝から天師岐伯への質問形式を採った記事です。同書の作者は二倍年暦による百歳を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。
 ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦時代に入っており、上古の二倍年暦の記憶が失われていたことになります。『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見え、前漢代に編纂されたようですから、漢代では二倍年暦の記憶が失われていたことがわかります。そして、その時代の人の動作が衰える年齢が百歳ではなく五十歳(年半百)と認識されていたこともわかります。
 更に、この記事の重要な点は、比較した年齢、上古の百歳と今時の五十歳がちょうど半分になっていることです。このことから、二倍年暦が漢代よりはるか昔に存在していたとしなければ、この記事に示された作者の疑問(認識)の発生理由を説明できないのです。なお、同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
 こうして、『論語』や周代の二倍年暦説を論証するための四つのケース《A・B・C・D》全てのエビデンスを確認できました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1660話(2018/04/29)〝『論語』二倍年暦説の史料根拠(4)〟
 同「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2019年。
 同「二倍年暦と『二倍年齢』の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
 同「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』171号、2022年。
②『素問』はweb辞書「維基文庫」に収録されている。


第2822話 2022/08/31

「二倍年暦」研究の思い出 (10)

二倍年暦から一倍年暦への換算痕跡《ケースC》

 『論語』や周代の二倍年暦説論証の方法として、よりスマートで決定的な証明とも言える《ケースC》の調査結果(注①)を紹介します。

《ケースC》二倍年暦で書かれた周代史料と、そのことについて後代に一倍年暦に換算された史料状況がある場合。

 この《ケースC》に相当する史料の存在に気づいたのは比較的近年でした。それは周王の在位年数を精査していたときのことでした。ちょうど在位年数が二倍か半分になる史料が併存することを知ったのです。それは次の周王の在位年数です。

○九代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例がある。『竹書紀年』『史記』は八年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は十六年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ない。

○十代厲(れい)王も在位年数がちょうど二倍になる例がある。『史記』などでは厲王の在位年数を三七年、その後「共和の政」が十四年続き、これを合計した五一年を『東方年表』は採用。他方、『竹書紀年』では二六年とする。

 このように周王の在位年について異なる複数の史料・説があり、その比が1:2となる場合、その発生理由を原因不明の誤記誤伝とするよりも、二倍年暦とそれを一倍年暦に換算した結果と考えるのが合理的判断です。
 おそらく、ある王権が暦法をそれまでの二倍年暦から一倍年暦に変更した際(注②)、それまでの二倍年暦による年齢や在位年数などの記録をもとに、一倍年暦に換算した新たな記録が成立するわけですが、後世になって周代記事を含む史料が編纂されたときに、年数がちょうど半分か二倍となる異伝が発生したのではないでしょうか。従って、紹介した九代夷王と十代厲王の在位年数に二倍異なる異説・異伝があることは、周代の二倍年暦実在を論理的に証明できるエビデンスとなるのです。
 なお、わたしがこの異なる在位年数の存在に気づいたのは、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)のおかげでした。周代の二倍年暦の史料根拠としてあげた下記の周王の長期在位年数について、それは『東方年表』編纂者が採用した一つの説にすぎず、二倍年暦の根拠とするには信頼性が劣るという趣旨の批判を「古田史学の会」関西例会で頂いたことによります(注③)。

○成王(前1115~1079)在位37年
○昭王(前1052~1002)在位51年
○穆王(前1001~947)在位55年
○厲王(前878~828)在位51年
○宣王(前827~782)在位46年
○平王(前770~720)在位51年
○敬王(前519~476)在位44年
○顯王(前368~321)在位48年
○赧王(前314~256)在位59年
※『東方年表』(平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編)による。

 この谷本さんからの指摘を受けて、改めて諸史料を精査したところ、在位年数をちょうど二倍か半分とする異伝を記す史料を見いだしたのです。わたしは〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えています。谷本さんの批判に感謝したいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟
 同「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』171号、2022年。
 同「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号(2022年)に投稿中。
②周代の二倍年暦から一倍年暦に代わった時期について、西周末か東周のある時期から一倍年暦を採用したのではないかと推定している。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」2342話(2021/01/07)〝古田武彦先生の遺訓(20) ―東周時代(春秋・戦国期)の暦法混在―〟
 同「洛中洛外日記」2343話(2021/01/08)〝古田武彦先生の遺訓(21) ―『史記』秦本紀、百里傒の二倍年齢―〟
 同「洛中洛外日記」2346話(2021/01/11)〝古田武彦先生の遺訓(24) ―周王朝の一倍年暦への変更時期―〟
 同「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』171号、2022年。
③谷本茂「『論語』の「二倍年暦」をめぐって」古田史学の会・関西例会、2018年3月。


第2821話 2022/08/30

「二倍年暦」研究の思い出 (9)

―孔子の弟子、曾参の二倍年暦《ケースB》―

 『論語』二倍年暦説の論証的手法の一つとして、次に《ケースB》の検討結果(注①)を紹介します。

《ケースB》更に時代と史料を絞り込み、孔子の弟子の史料に二倍年暦が確認できる場合。孔子とその弟子らは同じ暦法(年齢計算方法)に基づいて会話していたはず。そうでなければ、寿命や年齢に関する師と弟子の対話が成立しない。

 『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で七十歳(孔子の年齢記事「七十従心」)も当時としては長寿だったとする解釈が可能です。そこで、孔子に学んだ弟子達による寿命や年齢記事を調査したところ、曾参による次の記事が目にとまりました。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」『曾子』曾子疾病

 この記事は曾参の会話中に見えるもので、この百歳は当時の一般的な人の寿命のことであり、その百歳の中に疾病や老幼があるとしています。すなわち、百歳記事が頻出する他の周代史料と同様に、この会話は二倍年暦(二倍年齢)を共通認識として成立しています。
 これ以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。

 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」『曾子』曾子立事

 大意は、三十~四十歳で無芸であったり、五十歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは一倍年暦の十五~二十歳、二五歳にあたります。類似した人間評価が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。

 「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」『論語』子罕第九

 この記事も、四十歳五十歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、『曾子』曾子立事と同じように四十歳や五十歳(一倍年暦の二十歳、二五歳)を人間評価の基準年齢としています(注②)。従って、『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。古田先生も同様の見解を発表されています(注③)。
 以上のように、孔子(『論語』)と弟子の曾参(『曾子』)が語る人間評価基準年齢が共に二倍年暦に基づいていると考えられ、〝周代は二倍年暦だが、『論語』はなぜか一倍年暦だった〟とするのは憶測であり、論理的には成立し得ないと言わざるを得ません。(つづく)

(注)
①古賀達也「『曾子』『荀子』の二倍年暦」『古田史学会報』59号、2003年。
 同「続・二倍年暦の世界」『新・古代学』第8集、新泉社、2005年。
 同「『論語』二倍年暦の史料根拠」『古田史学会報』150号、2019年。
②大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」(『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦、ミネルヴァ書房、2015年)で、二倍年暦の可能性があると指摘された『論語』陽貨第十七の次の記事も、四十歳(一倍年齢の二十歳)を人間評価年齢の一つの基準としており、本稿の結論と対応している。
 「子曰く、年四十にして悪(にく)まるれば、其れ終らんのみと。」『論語』陽貨第十七
③古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。


第2820話 2022/08/29

「二倍年暦」研究の思い出 (8)

―周代史料、二倍年暦の論証《ケースA》―

 『論語』の二倍年暦説の論証的手法の一つとして、前話で紹介した《ケースA》の検討結果を詳述します。

《ケースA》『論語』が成立した周代の史料に二倍年暦が採用されており、その中で『論語』だけが一倍年暦とは言いがたい史料状況が確認できた場合。その場合でも『論語』だけは一倍年暦であると主張するのであれば、なぜ『論語』だけは別なのかという証明責任がそう主張する側に発生する。

 初期の二倍年暦研究「仏陀の二倍年暦」(注①)を発表した後、わたしは中国古典の本格的調査に入りました。既に古代中国の伝説の聖帝、堯・舜・禹の長寿記事が二倍年暦(二倍年齢)とする古田先生の指摘がありましたので、わたしは周代史料を中心に調査しました。そうして発表したのが「孔子の二倍年暦」(注②)でした。そこでは次の史料事実と論理展開を紹介しました。

(1) 春秋時代、管仲の作とされる『管子』は、次の長寿記事から二倍年暦で記されていると判断できる。
 「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」大匡編

(2) 『列子』の次の長寿記事も二倍年暦を採用していると判断できる。
 「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」天瑞第一第七章
 「林類年且に百歳ならんとす。」天瑞第一第八章
 「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」周穆王第三第一章
 「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」周穆王第三第八章
 「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」湯問第五第二章
 「百年にして死し、夭せず病まず。」湯問第五第五章
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」楊朱第七第二章
 「百年も猶ほ其の多きを厭ふ。況んや久しく生くることの苦しきをや、と。」楊朱第七第十章

(3) これらの結果、時代的に『管子』と『列子』の間に位置する『論語』も二倍年暦が採用されていると推察できる。

(4) また、『論語』爲政第二の孔子の生涯と類似する表現が『礼記』に見える。
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」『礼記』曲礼上篇
 この記事は、人(官吏か)の生涯の一般論を述べたもので、たまたま超長生きした人の具体例ではない。この「人の生涯の一般論」か「たまたま超長生きした人の具体例」なのかは、史料に見える長寿年齢表記が二倍年暦の根拠として使用できるか否かの実証的方法論上の重要な視点だ。「たまたま超長生きした人の例ではないのか」という批判に対抗するために、わたしが二倍年暦表記であると論証する際に強く意識した問題であった。

(5) 周王朝の歴代天子の在位年数にもその痕跡がうかがわれ、「たまたま超長生きで在位年の長い天子がいた」とは考えにくい状況が見える。特に『穆天子伝』で有名な穆王は百歳を越えたと伝えられており(『史記』では、五十歳で即位し五五年間在位)、これは二倍年暦によると考えざるを得ない。たとえ一人でも二倍年暦と理解せざるを得ない周王がいる以上、その王朝では二倍年暦が採用されていたとするのが、史料理解の基本である(穆王だけが二倍年暦で記されていた、としたいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生する。注③)。在位年数の長い王たちがこれだけいる以上、この史料事実を「誤記誤伝」や「学者によって異論が存在する」という解釈で否定するのは、学問の方法として不適切である。
 『東方年表』(平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編)によれば次の長期在位年数の周王がいる。
○成王(前1115~1079)在位37年
○昭王(前1052~1002)在位51年
○穆王(前1001~947)在位55年
○厲王(前878~828)在位51年
○宣王(前827~782)在位46年
○平王(前770~720)在位51年
○敬王(前519~476)在位44年
○顯王(前368~321)在位48年
○赧王(前314~256)在位59年

 以上のように、周代史料に百歳という長寿記事が頻出する史料状況から、周代では二倍年暦が採用され、その時代の寿命や年齢を記した史料は、後代の一倍年暦による換算を受けていない限り、基本的に二倍年暦で記述されていると見なさざるを得ません。従って、周代史料の『論語』も同列に捉えるのが無理のない解釈、すなわち論理的理解ではないでしょうか(注④)。(つづく)

(注)
①古賀達也「仏陀の二倍年暦」『古田史学会報』51、52号。2002年。
②古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号。2002年。
③中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」では古代王朝の〝年代断定〟がなされ、穆王の没年齢を75歳と〝認定〟したとのことだが、「夏商周断代工程」には異論が出されている。このことについては「洛中洛外日記」2260話(2020/10/13)〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟で指摘してきたところだが、別途詳述したい。
④古賀達也「『論語』二倍年暦の史料根拠」(『古田史学会報』150号、2019年)にて詳述した。