「 古賀達也 」一覧

第175話 2008/05/12

再考、難波宮の名称

 163話で、 前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていたとする考えを述べましたが、4月の関西例会で正木裕さん(本会会員、川西市)から、孝徳紀白雉元年と二年条に見える味経宮(あじふのみや)が前期難波宮ではないかとの異論が出されました。その主たる根拠は、白雉二年に味経宮で僧侶2100余人に一切経を読ませたり、2700余の燈を燃やしたりという大規模な行事が行えるのは、前期難波宮しかない。更にそこで読まれた安宅・土側経は、翌年完成する難波宮の地鎮に相応しい経典であるというものでした。
 この説明を聞いて、成る程と思いました。というのも、わたし自身も味経宮は前期難波宮ではないかと考えた時期があったからです。ただ、孝徳紀を読む限り、白雉改元の儀式が味経宮でのこととは断定できず、『続日本紀』に見える「難波宮」説を採ったのでした。
 しかし、正木さんの異論を聞いて、再考したところ、『万葉集』巻六の928番歌にある

「味経の原に もののふの 八十伴の男は 庵して 都なしたり」

が、聖武天皇の時代の後期難波宮を示していることから、後期難波宮が「味経の原」にあったこととなり、同じ場所にあった前期難波宮も味経の原にあった宮、すなわち味経宮であるという理解が可能となることに、遅まきながら気づいたのです。なお、この歌には「長柄の宮」という表現もあり、難波宮は「長柄の宮」とも呼ばれていたようです。
 そして、ここでは「長柄豊碕宮」と呼ばれていないことが注目されます。前期と後期難波宮は「長柄豊碕宮」とは別であるということは、この歌からも言えるのではないでしょうか。ちなみに、この歌を笠朝臣金村が読んだのは、『日本書紀』成立直後の頃と推定できますから、孝徳紀の「難波長柄豊碕宮」という記事を知っていた可能性、大です。それにもかかわらず、「難波長柄豊碕宮」とはしないで、「味経の原」「長柄の宮」と読んでいることは同時代史料として、重視しなければなりません。
   以上のことから、正木さんの異論、「前期難波宮の名称は味経宮」説は検討されるべき有力説と思われます。


第172話 2008/05/01

聖武詔報「白鳳以来、朱雀以前」の論理

 わたしは今日からゴールデンウィークです。先週の土曜日に明日香村の万葉文化館までドライブしてきましたので、今回は自宅でのんびりする予定です。

 さて、3月の関西例会で「聖武詔報の再検討−『白鳳以来、朱雀以前』の新理解−」という研究を発表したのですが、九州年号である白鳳と朱雀が近畿天皇家の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に記されていることは、九州年号実在説の直接証拠ともいうべきものです。このことを古田先生は30年来指摘されているのですが、大和朝廷一元史観を「飯の種にしている古代史学界は沈黙を守ったままであることは、ご存じの通りです。まったく非学問的態度であると言わざるを得ません。この聖武天皇による「証言」は九州王朝を滅ぼした側のトップの発言であり、公式記録『続日本紀』に採用された記録であるだけに、その意味は重要であり、プロの学者であれば理解できないはずがありません。
 にもかかわらず、この白鳳と朱雀は『日本書紀』に記された白雉と朱鳥を、よりおめでたい鳥の名前に改変したものという、何の史料根拠もないへんてこな旧説(屁理屈)で、プロの学者達はすませているのです。おめでたいのは彼らの頭かもしれませんが、彼らは九州王朝説はなかったことにしたい、古田武彦はいなかったことにしよう、という「共同謀議」のまま30年来頑張っているのですが、何とも痛ましい限りです。プロの学者として恥ずかしくないのでしょうか。
 このような態度は、自然科学では実験データの無視・改竄に相当するもので、およそ許されることではありません。企業研究では、まずそのような研究者(社員)はクビでしょう。わたしは職業柄、いろんな自然科学系の学会発表を聴講してきましたが、このような発表は未だ聞いたことがありません。日本古代史学界は「学問」の学界ではない、そのような疑惑さえ生じさせる惨状です。わたし自身、彼らが古田説を知ってて無視・排除する現場を少なからず見てきていますし、古田先生からは更に多くの「実例」をお聞きしています。本当に酷いものです。(つづく)


第171話 2008/04/27

九州王朝の白鳳六年「格」

 大和朝廷に先だって九州王朝が律令を制定していたことを古田先生が指摘されていますが(「磐井律令」)、それであれば律令体制下の行政命令に相当する「格 きゃく」も存在していたものと推定されます。大和朝廷の史料では、『類従三代格』などが著名ですが、九州王朝系の「格」の痕跡をこの度「発見」することができました。
 4月の関西例会でも発表したのですが、『日本後紀』延暦十八年(799)十二月条に、亡命百済人等の子孫による賜姓を請う記事があり、その中で祖先が百済から亡命した際、当初、摂津職(難波)に安置され、その後の「丙寅歳正月廿七日格」にて甲斐国に移住を命じられたと述べています。この丙寅歳は666年に相当し、九州年号の白鳳六年のことです。この時代は九州王朝の時代ですから、「丙寅歳正月廿七日格」は九州王朝が発した「格」ということになります。
 更に言うならば、最初に留めおかれた所が「摂津職」とありますから、大和朝廷の『養老律令』などで規定された「摂津職」は、その淵源が九州王朝律令にあったこととなります。従来は、難波宮があったため大和朝廷は摂津を「国」ではなく、「職」にしたと理解されてきましたが、九州王朝の時代から既に「摂津職」とされていたことは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対応しており、思いがけない発見となりました。すなわち、九州王朝は副都がある摂津を「職」と命名位置づけていたことになるのです。『日本後紀』の九州王朝「格」記事は、摂津職の淵源まで、明らかにしてくれたのでした。


第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)


第152話 2007/11/18

『古代出雲への旅』を読む

 関和彦著『古代出雲への旅』(中公新書)を読んでいます。『出雲風土記』に基づいて江戸時代に神社巡りをした小村和四郎の旅行記の発見から、その追跡実地調査を記した読みやすく面白い本でした。特に、短里で記されている『出雲風土記』を長里で理解したため、現地の実状と一致しない様子などが、興味深く読めました。と同時に、わたしも出雲の国を巡ってみたくなりました。どなたか、短里の概念で『出雲風土記』を実地調査されてはいかがでしょうか。きっと、新発見があるはずです。
   昨日の関西例会では下記の発表がありましたが、常連の正木さん、冨川さんは快調に新発見をものにされており、頼もしい限りです。伊東さんの沖ノ島遺跡の報告も興味深い内容でした。
   インターネットを見られての初参加の方もあり、早速、本会にご入会いただきました。この日は大阪で3軒ハシゴして、今日は昼まで寝てしまいました。
 
  〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 太寿・極寿(豊中市・木村賢司)
  2). 藤原不比等の実像(奈良市・飯田満麿)
  3). 第4回古代史セミナー・古田武彦の報告(豊中市・大下隆司)
  4). 明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点(川西市・正木裕)
  5). 「近江大津御宇天皇代」の挽歌九首を読む(相模原市・冨川ケイ子)
  6). 沖ノ島3(生駒市・伊東義彰)
  7). 東日流王朝in『真澄全集』/「東日流」の巻(奈良市・太田斉二郎)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・伊勢州は西海道にあった・他(奈良市・水野孝夫)

 


第149話 2007/10/21

「水間君は倭王武」説

 昨日の10月例会の発表は次の通りでした。また、故林俊彦さんを偲んで、参加者全員による黙祷を行いました。ホームページを見て初めて参加された方も2名おられ、盛況でした。研究発表では林さんから教えていただいた滋賀県の甲良神社の伝承などから、雄略紀10年に登場する水間君は倭王武ではないかとする仮説を、わたしは発表しました。いわば林さんへの追悼研究発表となりました。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 遅ればせながら「一」の島(豊中市・木村賢司)
2). コバタケ珍道中・九州編(木津町・竹村順弘)
3).「魏晋朝短里」説とその論理(神戸市・田次伸也)
4). 『讃留霊公胤記』の紹介(向日市・西村秀己)
5). 甲良神社と水間君(京都市・古賀達也)
6). 百済の「大后」(相模原市・冨川ケイ子)
7). 薩夜麻の「冤罪」3(川西市・正木裕)
8). 磐余彦、東征する「五百箇・気吹と膽駒山(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・延喜式祝詞「出雲国造神賀詞」の解釈・他(奈良市・水野孝夫)


第147話 2007/10/09

甲良神社と林俊彦さん

 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。
 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。
 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


第144話 2007/09/23

藤樹神社を訪ねて

 昨日はヴィッツを借りて滋賀県へドライブしてきました。三連休の初日ということもあって、ラクティスやプリウスなどの希望車種は予約が満杯で借りることができませんでした。

 今回のドライブの前半では、洛北八瀬大原から途中トンネルを抜け、朽木村を通り、高島市の藤樹神社を訪ねました。言わずと知れた、近江聖人中江藤樹 (1608〜1648)を祀った神社です。神殿を参拝した後、境内にある藤樹記念館を見学。改めて偉大な人物に触れることができ、感動しました。藤樹関連書籍が販売されていましたので、『中江藤樹のことば−素読用』中江彰編を買い、読んでいます。その後、近くにある藤樹の墓所にも寄って、手を合わせまし た。
   『中江藤樹のことば−素読用』の中から、特に印象に残った言葉をご紹介しましょう。
 
    千里をかよう誠(まこと)
  思ひ出は学びし本(もと)の心より千里を通う誠忘るな。(和歌「森村叔の行を送る」)
 
 遠くから藤樹に学びに来た門人へ宛てた和歌で、学んだ中味よりも、遠い近江の僻遠の地にやってきた、そのまことの心を決して忘れてはならない、という内 容です。古田史学の会関西例会へ、相模原市から新幹線で毎月参加される冨川ケイ子さんのような熱心な門人がいたのですね。
 
    同志の交わり
  同志の交際は、恭敬を以て主と為すべし。和睦を以てこれを行ひ、一毫も自ら便利を択(えら)ぶべからず。もとって勝たんことを求むるなかれ。(「学舎坐右戒」)
 
 同志は、たがいにうやうやしい態度で接すること。なかむつまじく、いささかも自分の都合勝手なことをしてはならない。心ねじけて人に勝つなかれ、という 内容は深く考えさせられます。古田史学の会の会員は同志のようなものですから、この藤樹の言葉を私も噛みしめたいと思いました。


第122話 2007/02/23

庚午年籍の保存命令

 今日も一日、花粉症に苦しみながら仕事をしました。洛北の山の杉花粉は半端じゃありません。かなりこたえます。というわけで、今夜は中島みゆきの「サーモン・ダンス」(アルバム『転生』収録)を聴いて、元気を取り戻しながらこの日記を書いています。

 「生きて泳げ 涙は後ろへ流せ 向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ」というフレーズが大好きな曲です。昔、古田先生から聞いた話しですが、先生も中島みゆきの曲を聴きながら原稿を書かれていたそうです。みゆきファンのわたしとしては、中島みゆきの曲を古田学派の応援歌に認定したいぐらいです。まあ、半分本気、半分冗談ですが。

 さて、このところ庚午年籍についての考察を続けてきましたが、もう少し論及したいと思います。九州王朝により670年に造籍された庚午年籍は、大和朝廷に交代した後も、大宝律令などで永久保存が命令され、その書写は九世紀段階でも全国的レベルで続けられたことについては、既に述べてきたところです。
 701年時点以降も全国的に庚午年籍が残っていたということは、この庚午年籍の永久保存を九州王朝も命じていたと考えざるを得ません。そうでなければ、神亀四年(727)になっても九州諸国の庚午年籍七七〇巻が残っていたとは考えにくいのではないでしょうか。
 このように考えると、庚午年籍は九州王朝にとっても特別に重要な戸籍であったことになります。それでは、なぜ特別に重要な戸籍だったのでしょうか。おそらくは、白村江敗戦以後の混乱した状況下で、氏族の再編成も含めて行われた造籍事業だったからではないでしょうか。これからの研究課題です。


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。