藤原京一覧

第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3102話 2023/09/01

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (6)

 喜田貞吉の、明治から昭和にかけての次の三大論争は、その当否とは別に重要な学問的意義を持っています。

Ⅰ《明治~昭和の論争》 法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》    「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》 藤原宮「長谷田土壇」説

 喜田の三大論争のうち、真の意味で決着がついたのは、古田先生が参画したⅡ「教行信証」論争だけのように、わたしには見えます。それらの概略は次の通りです。

Ⅰ. 法隆寺論争は、昭和14年の若草伽藍の発掘調査で火災跡が発見されて、喜田の再建説が通説となった。再建問題では喜田指摘の「勝利」だが、西院伽藍が古いとする建築史学の指摘は、五重塔心柱の年輪年代で復活。真の決着はついていない。米田説(移築説)が有力。

Ⅱ.『教行信証』は親鸞自筆坂東本(東本願寺蔵)の筆跡調査により、親鸞真作が確かめられた。「今上」問題での喜田指摘は有効だったが、古田先生の科学的筆跡調査(デンシトメーター)により、親鸞〝無学の坊主〟説は「惨敗」。

Ⅲ. 藤原宮論争は大宮土壇説(出土事実)で決着したわけではない。真の論争はこれから。なぜなら〝大宮土壇では京域の南東部が大きく香久山丘陵に重なり、条坊都市がいびつな形となる〟とする喜田の指摘は今でも合理的だからだ。

 それぞれの論争に深い学問的意義、特に「学問の方法」において示唆や教訓が含まれています。何よりも喜田の文献(執筆者の意図・認識)を尊重する史学者の良心と、文献を軽視する姿勢(注)への批判精神は、古田先生の学問精神に通じるものを感じます。(つづく)

(注)たとえば「偽書説」など、その主観的な定義を含めて〝文献を軽視する姿勢〟の一種と見なしうる。これは文献史学における重要な問題であり、別に詳述する機会を得たい。


第3039話 2023/06/11

律令制都城論と藤原京の成立(4)

 ―「倭京」の成立と論理―

 新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)には、藤原宮(大宮土壇)に先行して造営された条坊は「倭京条坊」であり、〝藤原京以前に「倭京」と呼ばれた条坊都市が当地にあった〟とする仮説が示されています(注②)。そして、「倭京」創建を孝徳期~斉明期とします。その根拠として、『日本書紀』孝徳紀や天武紀などに見える「倭京」記事を挙げています。ですから、この仮説は文献史学の分野である『日本書紀』の新解釈に依っており、考古学的エビデンスを根拠としたわけではありません。
古田学派では倭京を九州王朝の王都、太宰府条坊都市のこととする理解が主流です(注③)。その根拠は九州年号の「倭京(618~622年)」です。また、「倭京」の直前の年号「定居(611~617年)」も、倭京造営にあたり、多利思北孤がその地を王都建設予定地に定めたことによると理解されています(注④)。従って、倭京とは7世紀前半に造営された倭国の新都(太宰府条坊都市)の名称であり、それに伴う九州年号と考えられています。
他方、『日本書紀』には孝徳白雉四年(653)~天武元年(672)の期間にのみ「倭京」記事が散見します。これらの倭京記事を根拠に「倭京条坊」の造営時期を孝徳期~斉明期とされたようですが、「孝徳白雉四年(653)」の頃は太宰府条坊都市「倭京」が九州王朝(倭国)の王都として機能していたと考えられますから、『日本書紀』に見える「倭京」を「藤原宮先行条坊にあった京」のことと理解するのは困難ですし、論証も成立していません。これは『日本書紀』の記事を史実として、そのまま信用してもよいのかという、文献史学における論証の問題であり、新庄説は論証不十分と云わざるを得ないのです。
もちろん、『日本書紀』編者は九州年号の「倭京」を知っているはずですし、九州王朝の国名が「倭」であったことも知っています。そして王朝交代直前の7世紀末頃には、自らの中枢領域である大和を「倭国」と称したことが藤原宮出土「倭国所布評」木簡により判明しています(注⑤)。『日本書紀』の史料批判や論証はこうしたことを前提に行わなければなりません。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』(星雲社、2015年)94~111頁に類似の諸仮説が紹介されている。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に再録。
『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
④同「太宰府建都年代に関する考察 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房。2012年)所収。
正木 裕「盗まれた遷都詔 聖徳太子の『遷都予言』と多利思北孤」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編・明石書店。2015年)所収。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。


第3037話 2023/06/09

律令制都城論と藤原京の成立(3)

 新庄宗昭さんが『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)で発表された諸仮説の大半については、わたしも同意見です。他方、新庄説のなかでも最も賛成できないテーマが、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期(新庄説)とするのか、天武期(通説)とするのかです。最大で約30年もの差異がありますので、考古学的出土物(エビデンス)により、どちらが妥当かは明らかになると思います。

 藤原宮と藤原京の造営経緯を簡単に言えば、藤原京条坊造営開始が先行し、一旦造った条坊道路や側溝などを埋め立てて、その上に藤原宮(大宮土壇)が造営されています。通説ではその年代を、天武期に条坊の造営が開始され、持統期に藤原宮が創建されたとします。

この年代観の根拠となったのが、藤原宮下層から出土した干支木簡です。「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記した木簡が三点あり、天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)に相当します。これらの木簡は藤原宮下層の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮下層条坊道路を掘削して造られたことが判明しています。従って、下層条坊の造営開始は天武十三年以前と考えることができ、更に下層遺構出土土器が藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しています。

 更に下層条坊遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されたことがわかっています。また、下層条坊の側溝出土土器(須恵器坏B)の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。考古学エビデンスである干支木簡(683~684年)や年輪年代(682年伐採)、出土土器(須恵器坏B)編年に基づけば、下層条坊の造営は天武期頃とするのが適切であり、孝徳期・斉明期とするのはさすがに無理とわたしは考えています(注③)。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
③古賀達也「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3031話 2023/06/04

律令制都城論と藤原京の成立(1)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟にて(注①)、「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」という演題で発表予定でしたが(注②)、セミナー実行委員会の橘高修さん(東京古田会・副会長)より演題と発表要旨を変えて欲しいとの要請がありました。そこで、Skypeで2時間ほど面談し、その事情などをお聞かせ頂いたところ、同じセッションで発表される新庄宗昭さんの藤原京成立論に対応した内容とし、パネルディスカッションにて論議を深めて欲しいとのことでした。たしかに発表者が自説を述べ合うだけではなく、共通の論点で論議するという趣旨には大賛成で、今までのセミナーにはない面白い企画と思い、了承しました。
そこで、演題と要旨を次のように修正し、発表内容も企画意図にあわせることを約束しました。

《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 橘高さんの要請に応えるべく、新庄さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注③)。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3005話 2023/05/04

新庄宗昭著『実在した倭京』を読む

本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023、注①)で、わたしも「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」を発表させていただきます(注②)。わたしの発表は二日目(11月12日)の【セッションⅡ】理系から見た「倭国から日本国へ」で行いますが、同セッションでは新庄宗昭さんも〝藤原京の先行条坊〟について発表されるようです。倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代の舞台が藤原宮ですから、テーマに適った研究です。新庄さんは建築家ですので、ケミストのわたしと共に〝理系から見た〟王朝交代研究の発表を期待されているのだと思います。
発表後にはパネルディスカッションが予定されているため、新庄さんの主張についても事前に勉強しておく必要があり、同氏から贈呈していただいた著書『実在した倭京』(注③)を繰り返し読んでいます。建築家らしい主張や視点が明快で、共感できました。なかでも、井上和人さんの次の記述を《井上命題》と呼び、同書に通底する主題として繰り返し紹介される筆致に、古田先生の学問精神と相通じるものを感じました。

〝都城の条坊道路のような体系的な施設を設定するには、周到な計画が前提とされていたという当たり前の事実であり、また、そうでなければ斎宮方格地割をはじめとする広大な領域に及ぶ都市的地割は実現し得なかったであろう。それとともに、整然とした状況を復元し難い場合には、そこには変則的な状況を生じさせざるを得なかった理由が介在していると判断する必要があるのであり、いたずらに往事の技術水準の低さに原因を帰したり、分析の不十分さあるいは分析者自身(つまり私)の不明さを等閑視して、往事の人々の作業の粗略さに理由を求めて、そこで判断を停止してはならないということも学んだ。〟(注④)

この文を氏は《井上命題》と呼び、「古代だから技術が低かっただろう、古代だから中途半端であったろう、などという研究者の判断は眉に唾をつけて読んだ方がよい。古代の技術者を蔑視すべきではない。」とされました。この意見には大賛成です。わたしも、化学者の末席を汚すものとして、理系的発想によるアプローチを試みる予定です。新庄さんとのディスカッションが楽しみです。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
④井上和人「斎宮方格地割研究への提言」『古代都城制条里制の実証的研究』学生社、2004年、377頁。


第2986話 2023/04/14

前期難波宮と藤原宮の官僚群の比較

 数学・論理学などの公理(研究者が事実と考えても良いと合意できる命題)を歴史学というあいまいで不鮮明な分野に援用して、古代史研究における「公理」として論証に使用できないものかとわたしは考えてきました(注①)。今回は七世紀の律令制都城の絶対的な存立条件として〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在(注②)〟を「公理」として位置づけるために、大宝律令(701年)で規定した中央官僚と同規模の官僚群を九州王朝(倭国)律令でも規定していたとする理由を説明します。
わたしは次の根拠と論理構造により、七世紀後半の九州王朝にも同規模の中央官僚群がいたと考えています。

(1) 前期難波宮(九州王朝時代、七世紀(652~686年)に存在した列島内最大の朝堂院様式の宮殿)の規模が、大宝律令時代の王宮・藤原宮の朝堂院とほぼ同規模であり、そこで執務する中央官僚群もほぼ同規模と見なすのが妥当な理解である。

(2) 同様に、約八千人の中央官僚を規定した『養老律令』成立時代の平城宮の朝堂院も藤原宮とほぼ同規模であり、そこで執務した中央官僚群の規模も同程度と考えるのが妥当。

(3) 従って、九州王朝時代の王宮・前期難波宮で執務した中央官僚群の規模を約八千人と見なしても、大きく誤ることないと考えて良い。

(4) 701年を境に、出土木簡の紀年表記が干支から年号(大宝元年~)へと全国一斉に変更されていることから、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代は、事前に周到に準備(各国・各評への周知徹底)されていたはずであり、王朝交代はほぼ平和裏に行われたと考えられる。同様の変更は行政単位(「評」から「郡」へ)でも見られる。

(5) 上記の史料事実は「禅譲」の可能性を示唆し、従って、王朝交代時(701年)の倭国と日本国の版図はほぼ同範囲と見なしてよい。おそらくは九州島から北関東・越後までか。この時期の東北地方は蝦夷国である。

(6) 701年に成立した大宝律令は、七世紀最末期の九州王朝時代に編纂を開始したと考えられ、その時点での九州王朝(倭国)領域の統治を前提に編纂されたことを疑えない。このことは(4)(5)とも整合する。

 以上のことから、わたしが「公理」と見なした〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在〟は、七世紀の律令制都城存立の絶対条件と考えています。なお、前期難波宮創建時(652年)時点の律令と王朝交代直前の律令とでは、官職数や官僚人数に差があったことは推定できますが、前期難波宮の規模を考慮すると、大きくは異ならないのではないでしょうか。この点、九州王朝律令の復元研究が必要です。(つづく)

(注)
①歴史研究に「公理」という概念や用語を使用することに、数学を専攻された加藤健氏(古田史学の会・会員、交野市)や哲学を専攻された茂山憲司氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、その難しさや危険性について、注意・助言を得た。留意したい。
②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2982話 2023/04/09

律令制都城論の絶対条件=「公理」

 昨日のリモート勉強会で発表した「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」では、次の二つの方法論とそれに基づく解釈を提起しました。

〔方法1〕史料(エビデンス)がより豊富な八世紀の歴史像に基づき、七世紀の歴史像を復元する。
〔方法2〕律令制王都存立の絶対条件(公理)を抽出し、七世紀の王都候補からその条件全てを備えた遺構を王都とみなす。

 特に〔方法2〕で示した律令制王都存立の絶対条件は、数学や論理学でいう公理(注①)の様なものであることを力説しました。もちろん、歴史学では人や人の行動・認識を主な研究対象とするため、厳密な意味での「公理」とは異なり、曖昧さがあります(注②)。そこで、多元史観や一元史観に関わらず、〝多くの研究者が真実であると認めた命題〟を歴史学的「公理」と見なし、それに立脚して論を立てるという方法を実行したものです。そうして律令制都城存立の五つの絶対条件を抽出し、それらを「公理」と見なしました。

【律令制王都の絶対条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これら五つの「公理」はそれぞれ独立していますが、同時に互いに「系」として連結されており、一つの「公理」が別の「公理」を不可欠なものとして導き出すという論理的性格を有しています。従って、どれか一つが抜けても律令制都城の存立を妨げますので、七世紀の九州王朝王都の当否の判断基準として不可欠な存立条件となります。ですから、これらの「公理」による判断は、曖昧な解釈や個人的主観による仮説成立を拒否します。そして結論として、律令制による全国統治が可能な七世紀の王都候補は、難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)であることを指し示すのです(注③)。(つづく)

(注)
①フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では「公理」を次のように説明している。
「公理(こうり)は、その他の命題を導き出すための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系(axiomatic system)という。公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。
公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない。知の体系の公理化は、いくつかの基本的でよく知られた事柄からその体系の主張が導きだせることを示すためになされることが多い。
ユークリッド原論などの古典的な数学観では、最も自明な前提を公理、それに準じて要請される前提を公準として区別していた。」
②歴史学に数学的な論理や方法論が採用困難なことについて、次の拙稿で触れた。
「洛中洛外日記」2877話(2022/11/15)〝「学説」「学派」が存在しえない領域「数学」〟
「数学の証明と歴史学の証明 ―数学者との対話―」(未発表)
③九州王朝の都である太宰府(倭京)は規模が小さく、《条件1》《条件2》を満たしているとは言いがたい。そうしたこともあり、七世紀後半の九州王朝(倭国)は倭京と難波京の両京制を採用したと考えられる。九州王朝の両京制について、次の拙稿で論じた。
古賀達也「洛中洛外日記」1862話(2019/03/19)〝「複都制」から「両京制」へ〟
同「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(一)~(十)〟
同「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」(未発表)

 

参考 YouTube講演
七世紀、律令制王都の絶対条件 — 律令制官僚の発生と移動 古賀達也
2023年 3月18日 古田史学の会関西例会
https://www.youtube.com/watch?v=zwDzaWhbOqo


第2966話 2023/03/16

律令制王都諸説の比較評価

 律令制王都には少なくとも五つの絶対条件(注①)を備えていなければならないことに気づき、古田学派内で論議されている諸説ある七世紀の王都について比較評価してみました。もっと深い考察が必要ですが、現時点では次のように考えています。◎(かなり適切)、○(適切)、△(やや不適切)、×(不適切)で比較評価を現しました。

(1)官衙 (2)都市 (3)食料 (4)官道 (5)防衛
倭京(太宰府)  △   〇    〇    〇    ◎
難波京     ◎   ◎    〇    〇水運  ◎
近江京     〇   ×    〇    〇水運  〇
藤原京     ◎   ◎    〇    〇    ◎
伊予「紫宸殿」  ×   ×    〇    〇水運  ×

 伊予「紫宸殿」説は、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地を九州王朝の「斉明」天皇が白村江戦の敗北後に遷都したとする説で、古田先生や合田洋一さんが唱えたもので、王都遺構は未検出です(注②)。
実は、今回の5条件による評価結果に、わたしは驚きました。近江京の評価が思いのほか低かったからです。その理由は、当地の発掘情況や地勢的にも琵琶湖と比良山系に挟まれた狭隘の地であることから、八千人にも及ぶ律令制官僚やその家族が居住可能な巨大条坊都市はありそうもないことです。
わたしは以前に「九州王朝の近江遷都」(注③)を発表していましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「九州王朝系近江朝」説(注④)を発表しています。ですから、近江京が王都であったことを疑ってはいません。しかし、今回の考察によれば近江京は律令制王都の条件を満たしていません。このことをどのように理解するべきでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟において、律令制王都の絶対条件として次の点をあげた。
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

②古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(二〇一五)。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年。
④正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。


第2964話 2023/03/14

七世紀、律令制王都の有資格都市

 多元的古代研究会の月例会(3/12)で、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な5条件を提示しました。下記の通りです。

《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これらの条件を満たしてる七世紀の都城は、わたしの見るところ次の3都市です。倭京(太宰府)、難波京(前期難波宮)、新益京(藤原宮)。なお、近江京(大津宮)は、《条件1》の全貌が未調査、《条件2》の巨大条坊都市造営が可能なスペースが近傍にないことにより、有資格都市とするにはやや無理があると考えました。この点、重要ですので後述したいと思います。(つづく)


第2963話 2023/03/13

七世紀の九州王朝都城の〝絶対条件〟

昨日は多元的古代研究会月例会でリモート発表させていただきました。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」で、藤原宮(京)は九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であるため、そこに遺された両王朝の接点としての考古学的痕跡(古代貨幣・地鎮具・造営尺・土壇)の視点から王朝交代の実態に迫りました。更に、「七世紀の九州王朝都城論」という最新研究テーマも追加発表しました。
この新テーマは同会の和田事務局長から打診されていた、本年11月の〝八王子セミナー2023〟での発表のために研究していたものです。その論旨は、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な条件を提示し、その条件を満たしてる都城はどこであり、仮説の当否はこの〝絶対条件〟と整合する必要があるとするものです。その〝絶対条件〟とは少なくとも次の五点です。

《条件1》約八千人の中央官僚(注①)が執務できる官衙遺構の存在
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道・水運の存在
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設(注②)や地勢的有利性の存在

これらの条件を満たせない地を、律令制時代(七世紀)の九州王朝の王都とする仮説は〝空理空論〟との批判を避けられないでしょう。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②「逃げ城」としての山城は、厳密な意味での王都の「防衛」施設とは言いがたい。この点、大野城や基肄城は太宰府防衛の羅城(水城・土塁)と一体化しており、王都防衛施設と見なし得る。