九州年号一覧

大和朝廷(日本国)に先立つ九州王朝(倭国)の存在、その一番目が年号の論証です。

第2561話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(7)

 1992年1月から始まった「大化改新」共同研究会と並行するように、同年11月に注目すべき研究が発表されました。増田修さんの「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」(注①)という論文です。同論文が掲載された『市民の古代』14集をテキストとして、増田さんは翌1993年4月の共同研究で、九州王朝律令の推定研究について発表されました。その様子を、安藤哲朗さん(現、多元的古代研究会・会長)が次のように報告しています。

〝ついで増田氏より『市民の古代 14集』「倭国の律令」をテキストとして、「倭国の律令は古田氏の所説の如く筑紫君磐井の頃から、晋の泰始律令を継承して作られた。日本書紀の冠位十二階など隋書にある同じ十二階でも「官位」と、発音は同じでも大きく異なる。戸令・田令・公式令などは倭国の残影が感じられる。正倉院戸籍の美濃と筑前の相違は西晋と両魏の差である。大宝令以前の律令の存在があることから近江令が推定されているが、日本書紀に記述のない近江令の存在は否定されるべきである」と論じられた。〟(注②)

 この報告にあるように、増田さんの九州王朝(倭国)律令の検討範囲は広く、古田学派にとって同分野の基本論文の一つに位置づけられるものでした。わたしも「大宝二年籍」について研究(注③)してきましたので、なにかと参考にさせていただきました(注④)。なお、同論文には「大化改新詔」についての言及は見えません。(つづく)

(注)
①増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。「古田史学の会」HPに収録。
②安藤哲朗「第六回 共同研究会(93・4・16)」『市民の古代ニュース』№118、1993年6月。
③古賀達也「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」『市民の古代・九州ニュース』No.18、1991年9月。
 古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年11月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2149話(2020/05/10)〝「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2117~2198話(2020/03/22~08/08)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(1)~(22)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2199話(2020/08/08)〝田中禎昭さんの古代戸籍研究〟


第2560話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(6)

 1992年1月から東京の文京区民センターを舞台にして始まった「大化改新」共同研究会での発表で、古田先生を別にすれば、わたしが最も注目したのが大越邦生さん(1992年12月)と増田修さん(1993年4月)の研究でした。大越さんの研究は、「大化改新詔」や『大宝律令』「大宝二年籍」などを史料根拠として、多元史観により田積法や班田収授の受田額などに焦点を絞ったもので、古田先生も次のように評価されています。

 「重大な問題。研究史上の新視点。用語が不変であれば、体制の変化は判り難い。(郡・評、朝臣・条里制単位)。」(注①)

 後に大越さんは「多元的古代の土地制度」(注②)として論文発表されていますのでご参照下さい。同論文を読んで、最も考えさせられたのが、王朝交替とほぼ同時期に変化する制度と、新王朝の『大宝律令』に反していても、長期にわたり変わらずに継続する九州王朝系の制度があるということでした。前者の代表例が、行政単位名「評」から「郡」への全国一斉変更(701年)です。戦後の坂本太郎さんと井上光貞さん師弟の「郡評論争」は有名ですが、藤原宮跡などから出土した荷札木簡により、700年までは「評」、701年からは「郡」であったことが判明し、「郡評論争」は決着しました。
 この「評」から「郡」への事例のように、わたしは王朝交替により、全国一斉に強権的に制度変更がなされるものと漠然と理解していました。ところが大越論文により、『大宝律令』とは異なる田積基準(口分田)の実例が大宝二年の筑前国戸籍など西海道戸籍に遺存していることを知り、それまでの認識を改めざるをえませんでした。特に、西海道戸籍から数理計算的に検出された受田額が、筑前・豊前・豊後の国ごとに異なり、いずれも『大宝律令』田令の基準と大きくかけ離れているという学界での律令研究の成果(注③)は、王朝交替や九州王朝説でも簡単には説明できないほど複雑な現象であることに驚きました。
 大越さんは、これらの史料状況発生理由を701年の王朝交替によるものとされ、次のように論文冒頭に述べられています。

〝こうした研究が示唆するところは「改新之詔」の郡や部、京師や畿内は、七〇一年の大宝令を五十五年近く繰り上げ、年次の偽造を行っていた。つまり真の歴史の転換点は七〇一年にあったということにある。
 私は、これまでの古田氏をはじめとする研究につけ加えて、「改新之詔」第三条の田積法・田租法においても同様の結論を見い出したのでここに報告する。〟165頁

 このように『日本書紀』の「大化改新」諸詔は、『大宝律令』制定など55年後に行われた〝九州年号「大化」の改新〟であり、その画期点を701年とする古田説を是とされました。なお、氏は七世紀での面積単位「代」が、八世紀には「町」に変更されたことについても、九州王朝説と701年での王朝交替の視点で論じられています。このテーマについては別述したいと思います。(つづく)

(注)
①安藤哲朗「第六回 共同研究会(92・12・18)」『市民の古代ニュース』№114、1993年2月。
②大越邦生「多元的古代の土地制度」『古代に真実を求めて』4集、明石書店、2001年。「古田史学の会」HPに収録。
③虎尾俊哉「浄御原令に於ける班田収授法の推定」『班田収授法の研究』昭和三六年(1961)。


第2559話 2021/09/08

古田先生との「大化改新」研究の思い出(5)

 藤田友治さんの研究「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」により、九州年号「大化」と「大化改新」を結びつけるという学問的可能性が拓けたのですが、その九州年号「大化」の年代について影響を与えたのが丸山晋司さん(市民の古代研究会・幹事)による『二中歴』の研究でした(注①)。
 九州年号史料には「大化」の位置(元年干支)について複数の異伝があるため、暦年特定という課題が未解決でした。主なものとして次の例があり、九州年号研究者間で激しい論争が続いていました(注②)。

  「丸山モデル」 686~691年 元年干支「丙戌」 丸山晋司さんが提唱。
 『二中歴』年代歴 695~700年 元年干支「乙未」 古田先生が支持。
 『皇代記附年代記』698~700年 元年干支「戊戌」 中村幸雄さんが支持。

 丸山さんは自らが提唱された「丸山モデル」と呼ばれる年号立てを原型とされ、『二中歴』の年号立てを誤伝としました。わたしも「丸山モデル」が正しいと当初は考えていましたが、古田先生から史料批判の方法や考え方を直接に学ぶ機会があり(注③)、先生と同様に『二中歴』が最も九州年号の原型を留めているとする理解に至りました(注④)。
 丸山さんは『二中歴』の成立が鎌倉初期であることに価値を見出され、〝鎌倉時代から室町時代にかけて、僧侶が偽作した〟とする偽作説への反証としました。こうした丸山さんの九州年号研究や偽作説との論争について、古田先生は高く評価されていました。たとえば、『失われた九州王朝』朝日文庫版(注⑤)の「あとがき」に次のように紹介されています。

〝以上のように、現在の写本状況からは、『二中歴』を「原型」として判断せざるをえないのである。この点、論争中にこの『二中歴』を扱われた、所功・丸山晋司の両氏に深く感謝したい(所氏は、九州年号否定論。丸山氏は「旧形式〔『善化(善記)』〕型」の支持者である)。〟587頁

 こうした中村幸雄さん、藤田友治さん、丸山晋司さんの九州年号研究に支えられて、『日本書紀』孝徳紀の大化年間(645~649年)に見える「大化改新」諸詔を、50年ずれた九州年号の大化年間(695~699年)に九州王朝が公布したものとする作業仮説の検証へと、古田先生は突き進まれたのでした。九州年号の大化年間は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替(ONライン、701年)直前の時期に相当します。それは王朝交替の真実に肉薄する、古田学派による本格的な「大化改新」研究の幕開けを告げるものでした。そして、1992年1月からスタートした「大化改新」共同研究会からは、古田先生はもとより、大越邦生さんや増田修さんを筆頭とする優れた研究成果が陸続と発表されることとなります。(つづく)

(注)
①丸山晋司「九州年号の史料批判 ④『二中歴』の成立」『市民の古代研究』17号、市民の古代研究会編、1986年9月。
 丸山晋司「九州年号の史料批判 ⑤『二中歴』が依拠した文書」『市民の古代研究』18号、市民の古代研究会編、1986年11月。
 丸山晋司「古代年号は鎌倉期以降に偽作されたか ―『二中歴』に見る古代年号」『季節《特集 古田古代史学の諸相》』12号、エスエル出版会、1988年8月。
 丸山晋司「『古田武彦九州年号論』批判 ―『二中歴』を中心に―」
『市民の古代』11集、市民の古代研究会編、1989年。
 丸山晋司「古代逸年号「『二中歴』原型論」批判」『古代逸年号の謎 ー古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。
②『市民の古代研究』『市民の古代研ニュース』紙上で九州年号原型論について論争が続いていた。「大化」以外には「白雉」の原型論や「法興」などが争点になった。主な九州年号研究者に、丸山晋司氏(八尾市)、中村幸雄氏(大阪市)、平野雅曠(熊本市)、石川信吉氏(東京都)、千歳竜彦氏、増田修氏(東京都)、古賀達也(京都市)がいた。
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2016/08/19)〝『二中歴』の思い出〟を希望会員へネット配信した。以下、転載する。
 わたしが古田先生の門を叩いたのが31歳のときでしたから、もう30年も昔のことになります。以来、主に九州年号の研究に取り組んできたのですが、当時、九州年号群史料として最初に『二中歴』に着目されたのは丸山晋司さんでした。「市民の古代研究会」に入会し、九州年号の先駆的研究者だった丸山さんには特に懇意にしていただき、九州年号史料について多くのことを教えていただいた先輩でした。和田家文書偽作キャンペーンのとき、古田先生と袂を分かたれましたが、九州年号に関する研究業績は優れたものがありました。
 丸山さんが『二中歴』に着目された理由は、その成立年代の古さでした。他の九州年号群史料は早くても室町時代成立でしたが、『二中歴』は鎌倉時代初頭の成立と考えられ、採録史料の多くは平安時代に遡るという史料性格を有しています。九州年号を鎌倉時代から室町時代にかけて順次偽作されたとする古代史学界の「あん暗黙の通説」を否定する史料として、丸山さんは『二中歴』を重視されたのです。
 その後、古田先生も『二中歴』に注目されましたが、その理由は成立年代の古さだけではなく、その九州年号の細注に記されている記事などから、九州王朝系史料に基づいているという史料性格を重視されたことによります。わたしもこの古田先生の見解に賛成し、『二中歴』の九州年号が最も原型に近いという立場に立ちました。
 現在、わたしの手元には丸山さんからいただいた『二中歴』尊経閣文庫「古写本」の九州年号部分のコピーと前田育徳会による解説のコピーがあります(昭和14年刊)。それと、八木書房発行『二中歴』影印本(尊経閣文庫蔵「古写本」)の全コピーを持っています。八木書房版は現在入手可能な最も良質な『二中歴』影印本ですが、その大部のコピーをわたしは古田先生からいただきました。20年ほど前のある日、上京区の拙宅に古田先生がひょっこり見えられ、風呂敷に包んだ同コピーをわたしにプレゼントされたのです。膨大なページ数にもかかわらず、古田先生がコピーされ、拙宅まで持参していただいたもので、今でも深く感謝しています。
 そのコピーのおかげで、わたしは『二中歴』の全貌を知ることができ、研究にも役立っています。『二中歴』研究の度に同コピーを書架から引っ張り出すのですが、今でも古田先生に励まされているような気持ちで、同コピーを精査する日々が続いています。
④古賀達也「洛中洛外日記」346~351話(2011/11/06~17)〝九州年号の史料批判(1)~(6)〟
 古賀達也「『二中歴』の史料批判 ―人代歴と『年代歴』が示す『九州年号』―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
 古賀達也「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
⑤古田武彦『失われた九州王朝』《朝日文庫版》朝日新聞社、1993年。


第2558話 2021/09/07

古田先生との「大化改新」研究の思い出(4)

 古田先生がそれまでの慎重姿勢から本格的な「大化改新」研究に進むに当たり、〝決め手〟となったのが藤田友治さんの研究「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」(注①)でした。この研究の発端に、わたしも関わっていたのでよく憶えています。
 当時、「市民の古代研究会」では遺跡巡りを兼ねて、宇治橋断碑の現地調査を行っていました(注②)。入会して間もなかったわたしは、藤田さん(当時、同会・事務局長)に「宇治橋断碑には銘文を囲む界線や罫線があるが、これは古代の金石文には珍しいように思いますが」と質問しました。この質問がきっかけとなったようで、藤田さんは、金石文に界線・罫線が描かれるようになったのはいつ頃かという界線の技術の発達史を調査されました。その結果、同碑(原石碑部分)の成立を延暦年間(782~806年)と推定されました。

 「原石碑部分と思われる断碑を他の金石文と比較して考察すると、界線は外枠・縦界線・割付ありを示す浄水寺南大門碑(七九〇年)と同じ特徴を示すから、延暦年間(七八二~八〇六年)と推定される。」181頁

 これらを根拠として、『日本書紀』成立(720年)以後に宇治橋断碑の碑文は成立しており、宇治橋断碑を『日本書紀』の大化年号を史実とする証拠にはできないとしました。更に、「この結論は、九州年号論、『大化改新』論等にさまざまな展開をもたらしうるであろう。」と、九州年号・九州王朝説に基づく「大化改新」研究へと発展することを予想されたのでした。
 こうした藤田さんの研究内容は、論文発表前に古田先生にも届いていたようで、「市民の古代研究会十周年記念講演会」(注③)で古田先生は次のように述べられています。

〝『日本書紀』の「大化」は六四五年であるのに対し、九州年号がわの「大化」は七世紀の終わりごろに近いところに、出没している。各文献において少しずれるのです。それがひとつと、それ以上に大事なことは、宇治橋という、ここ(大阪市)に近い所に「金石文」がある。京都の宇治です。そこに「大化二年」で干支が「丙午」と書いてある。六四六年にあたる形で書いてある。金石文である以上、これを簡単に否定するわけにはいかない。したがって、残念ながら、“涙をのんで”これを「保留」したわけなんです。(中略)
 ところが、最近、藤田友治さんが宇治橋断碑に取り組まれて、今日の資料にも藤田さんから提供していただいたものが入っていますが、どうもこれは乗り越えられると、詳しくは藤田さんの論文が『市民の古代』に載ると思いますので、(後略)〟(注④)

 藤田さんのこの研究成果により、『日本書紀』の「大化」年号も九州年号からの〝盗用〟と見なすことが可能となり、九州王朝説に基づく「大化改新」研究への扉が開いたのです。しかし、もう一つの問題が残っていました。講演で「『大化』は七世紀の終わりごろに近いところ」と表現されているように、九州年号史料には「大化」の位置(暦年)について複数の記述があるため、暦年特定という課題が未解決でした。これには、「市民の古代研究会」の丸山晋司さん(当時、市民の古代研究会・幹事)の九州年号研究が寄与しました。(つづく)

(注)
藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
②広野千代子『「市民の古代」遺跡めぐりの旅』(自家版、1991年)によれば、宇治橋断碑調査は1987年7月19日の「山城地方の遺跡・神社」巡りのときである。同書は「市民の古代研究会」の遺跡めぐりを担当されていた広野千代子さん(後に同会・副会長に就任)が執筆されたもので、わたしは副担当として協力していた。多元史観・古田史学が、そう遠くないうちに教科書に載るようになると、わたしは信じて疑わなかった、牧歌的で良い時代であった。その数年後、「市民の古代研究会」は分裂し、後に解散することになる。
 同書には、古田先生による「鴨川の水のように ―発刊によせて―」の一文が寄せられている。一部抜粋し紹介する。
〝『市民の古代』の大阪講演会は、春秋行われるのが慣例である。(中略)四~五時間に及ぶ講演のあと、夕食をともなう懇親会が二時間余り。それからさらに、喫茶店にたむろしてのダベリ合い、とつづくのだけれど、まだ、そのあと。楽しいひとときがつづくことがある。梅田から東向日町へ、阪急電車の中だ。JRのこともある。京都から来ておられる小川澄子さん・古賀達也さん・そして広野さん。わたしも、向日町帰りだから、一時間足らず、また話がはずむのである。
 楚々たる小川さんも、馥郁(ふくいく)の広野さんも、無類の聞き上手だから、わたしはつい引きこまれて、最近の研究目標、いや、探求へのとりとめもない夢を語りはじめる。(中略)それに古賀さんが加われば、いつも新鮮な課題を見つけ、エネルギッシュに取り組んでおられる、その姿に、わたしが快い刺激と高揚をうけること、いうまでもない。
 京へ、京へ。――京への夜ふけの電車は、そのような人間の心情の高まりを運んで疾走するのだ。〟
③昭和63年(1987)5月23日、「市民の古代研究会」結成十周年記念講演会がなにわ会館(大阪市天王寺区)で開催された。10月30日には東京(労音会館、千代田区)でも開催された。
④古田武彦講演録「金石文と史料批判の方法 ―黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。65~66頁。演題中の「稲荷台鉄剣」とは、千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した銀象嵌の文字が刻まれた「王賜」銘鉄剣のこと。


第2557話 2021/09/06

古田先生との「大化改新」研究の思い出(3)

 「市民の古代研究会」では、『日本書紀』孝徳紀の大化改新詔は七世紀末の九州年号大化期に九州王朝により発せられたものではないかとする研究が進められていました。そして、その仮説成立の〝障壁〟となっていた「大化二年丙午之歳」の銘文を持つ宇治橋断碑に関する研究が1988年頃から論文発表され始め、大化を九州年号とすることに慎重だった古田先生の認識に変化が起こります。それは次の論文です。

○中村幸雄「宇治橋に関する考察」『市民の古代』10集、市民の古代研究会編、1988年。
○藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」 同上

 両氏は「市民の古代研究会」以来の先輩〝兄弟子〟であり、後に「古田史学の会」創立に当たっては、行動を共にしていただいた同志でした(古田史学の会・全国世話人として参加。共に故人)。中村さんは九州年号の研究仲間でもあり、「大化」年号原型論などで厳しく論争したこともありました(注①)。藤田さんは、古田先生と中国吉林省集安で好太王碑の現地調査を行うなど、金石文研究で成果をあげられていました(注②)。
 中村さんは、宇治橋碑は中世に造られた「川施餓鬼参加勧誘碑」であり、そこに記された「大化二年丙午之歳」は石碑が造られた年ではないとしました。従って、宇治橋断碑は『日本書紀』大化(645~649年)の実在を証明する同時代金石文ではなく、本来の九州年号「大化」の年代は、『皇代記附年代記』に記された大化(698~700年)であるとしました。そして、「結語」に次のように記し、大化改新詔の実年代を九州年号の大化(698~700年)の頃と示唆されました。

〝私は本稿で採用した「大化元年=持統十二年=六九八年」説を、いわゆる「大化改新」に適用し、『日本書紀』の六四五~六四七年の「大化の諸詔令」は、むしろ大宝律令発布(七〇一年)直前の持統大化、六九八~七〇〇年に移動させる方が適切であることを(中略)いずれ別稿「新大化改新論争の提唱」として発表するつもりである。〟

 後に発表された「新『大化改新』論争の提唱」(注③)によれば、「大化」年間(698~700年)に発せられた「大化改新詔」は持統天皇によるものであり、このころは九州王朝と大和朝廷の並立時代とされました。中村さんは平成七年(1995)三月に物故され、この論文は遺稿として『新・古代学』3集(新泉社、1998年)に掲載しました(注④)。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に〝中村幸雄論集(遺稿集)〟があるので、参照されたい。
②好太王碑現地調査は1984年3月に行われた。藤田氏の業績は『藤田友治追悼集 ともに生きる』(藤田友治追悼集刊行会、2006年)に詳しい。
中村幸雄「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」『新・古代学』3集、新泉社、1998年。「古田史学の会」HPにも収録した。
④古賀達也「学問の方法と倫理 二 歴史を学ぶ覚悟」(『古田史学会報』38号、2000年6月)において、次のように紹介した。
〝いま一人、忘れがたい人に中村幸雄氏(当時、市民の古代理事)がおられる。小生が市民の古代との決別と本会設立の決意を中村氏に電話で伝えた時、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人らとは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一から出直したらええ」と言われ、小生と行動を共にすることを約束されたのであった。「理事」などという堅苦しい肩書きをいやがられ、「自分は世話人でよい」と早朝の例会会場予約や裏方を黙々と務められた、実に庶民的で気さくな方であった。ちなみに、本会の「全国世話人」という制度と名称は、こうした氏の意を汲んで決めたものである。しかし、その翌年、氏は急逝された(一九九五年三月十七日、享年六八才)。会分裂と本会設立の心労が禍したのであろうか。訃報に接した夜、小生は家人の目も憚らず、泣いた(注2)。〟
〝(注2)故人は例会での研究発表を大変楽しみにされていたという(寿子夫人談)。急逝直後の関西例会は追悼例会として、生前故人が準備されていたレジュメに基づいて、藤田友治氏が代わって報告された。また、『新・古代学』3集には遺稿「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」を掲載し、霊を弔った。〟


第2556話 2021/09/05

古田先生との「大化改新」研究の思い出(2)

 古田先生が東京で「大化改新」共同研究会を立ち上げられたとき、次のような問題意識を持っておられました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える大化年間の一連の詔勅は、『二中歴』に記された九州年号の「大化」年間(695~700年)に九州王朝より発せられたものではないかという作業仮説でした。その仮説の検証を中心として、共同研究会では戦後の大化改新詔研究史の勉強も進められていました。そのとき、古田先生からいただいた重要論文(注①)のコピーをわたしは今でも大切に持っています。
 『日本書紀』の大化と九州年号の大化の存在から、孝徳紀の大化改新詔は七世紀末の九州年号大化期に九州王朝により発せられたものではないかとするアイデアは、既に1980年代後半頃には関西の九州年号研究者の間ではささやかれていたのですが、古田先生は慎重な姿勢をくずされず、態度を保留されていました。それは次の二つの理由からでした。

(1)「大化」年号は宇治橋断碑に見え、その干支(注②)が『日本書紀』大化(645~649年)と一致することから、「大化」を九州年号とすることにはまだ慎重であるべき。
(2)九州年号であったとしても、その年代には諸説(注③)あり、暦年とのリンクが確定できていない。

 ところが1992年頃には、大化を七世紀末頃に実在した九州年号とする立場に古田先生は立たれ、「大化改新」の共同研究へと進まれました。(つづく)

(注)
①坂本太郎「大化改新詔の信憑性の問題について」『歴史地理』83-1、昭和27年(1952)2月。
 井上光貞「再び大化改新詔の信憑性について ―坂本太郎博士に捧ぐ―」『歴史地理』83-2、昭和27年(1952)7月。
佐伯有清「八世紀の日本における禁書と叛乱」『日本歴史』84号、昭和30年(1955)。
 井上光貞「大化改新の詔の研究」『井上光貞著作集 第一巻』岩波書店、1985年。初出は『史学雑誌』73-1,2、昭和39年(1964)。
 岸俊男「造籍と大化改新詔」『日本書紀研究』第1冊、塙書房、1964年。
 井上光貞「伊場と木簡」『古代史研究の世界』吉川弘文館、昭和50年(1975)。
 鎌田元一「評の成立と国造」『日本史研究』176号、1977年4月。
②宇治橋断碑の現存部分には大化年号は見えないが、後代史料(『帝王編年記』)によれば欠失部分に「大化二年丙午之歳」(646年)とあり、『日本書紀』孝徳紀の大化と干支が一致している。
③九州年号史料には、大化について主に次のタイプがある。
  「丸山モデル」 686~691年 ※丸山晋司氏が作成。
 『二中歴』年代歴 695~700年
 『皇代記附年代記』698~700年


第2542話 2021/08/18

太宰府出土、須恵器と土師器の話(6)

 牛頸窯跡群を筆頭に各地の窯から太宰府条坊都市に食器用途の須恵器、煮炊き用途に使用された土師器が供給されています。ところが、太宰府の土師器は、他地域とは異なる特徴を持つことが知られています。それは製法に関することで、ある時期から回転台(ろくろ)を使用して土師器が造られるようになることです。
 回転台成形による土器製造技術は須恵器製造技術と共に伝わったと考えられていますが、その後も土師器は地域伝統の「手持ち成型」技法で造られていました。ところが太宰府では須恵器杯Bの流行と同時期に土師器も回転台により造られるようになりました。これは大和の「宮都」にだけ見られた現象とされているようで、中島恒次郞さん(太宰府市都市整備部)の「日本古代の大宰府管内における食器生産」(注①)では次のように説明されています。

 「大宰府官制成立時に発現する回転台成形の土師器生産は、宮都以外に発現した一大画期とでもいえる事象で、大宰府管内においても重要な出来事である。」671~672頁
 「古代官衙成立後に発現する回転台成形の土師器を国家的な食器として見た時、九州内においては成川式土器、兼久式土器のように様式名称を上げることができるように大宰府との距離と正比例する強度で在地伝統が強くなる。逆を述べると大宰府を国家的な様相の極としていることになる。(中略)在地伝統の技術として捉えた手持ち成形の土師器は、実は都を包括する畿内では通有の事象であり、九州において在地伝統の技術を保持している集落と都がある畿内が同じ保守的様相を保っていることになる。」672~673頁

 この説明の重要点は、わたしの理解するところ次の通りです。

(1) 太宰府の官制成立時・官衙成立後に回転台成形の土師器が発現する。
(2) 須恵器と土師器が共に回転台成形になるのは、大和の「宮都」と太宰府にのみ見られる〝国家的〟現象である。

 そして、中島さんは土師器も回転台成形になった背景として、世襲工人の崩壊(筑前・筑後・肥前)や食器製造工人集団の統合がなされたためとしています。

 「(筑前・肥前・筑後の)土師器は、回転台成形の製品が優勢な大宰府を一方の極とし、前代からの系譜を引く手持ち成形の製品が優勢な集落を一方の極とする様相が観察できる。ただし、時間の経過とともに集落様相は、Ⅲー2期(八世紀後半~九世紀前半)には回転台成形の土師器が優勢へと転換していく。その背景は、生産工人のあり方を文献史学ならびに考古資料観察から導き出した、世襲工人の崩壊による多様な人々による生産への転換を想定している。」667頁 ※()内は古賀による注。
 「食器構成においてみるとⅢー1期(八世紀前半)において律令制国家的様相である土師器―須恵器の器種互換性・法量分化が成立し、国家的様相下に入るとともに、食器製作技法を見ると、地域の利害を無視した生産体制として土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離を行ったと解せる事象が顕在化することになる。この食器生産体制の編成と時期を同じくして条坊制施行、官道整備、水城・大野城・基肄城の再整備など大規模でかつ広範な分野で国家制度を体現するための諸制度が敷かれていくことになる。」673頁 ※同上。

 こうした中島さんの見解について、その編年(暦年とのリンク)には賛成できませんが、「土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離」が行われたということについては、あり得ることと思います。既に論じられていることとは思いますが、そうした現象面の解釈以上に、なぜ律令官制成立時期に土師器も回転台成形になったのかという理由こそ追究すべき問題と思います。そこにも歴史的必要性があったと考えるからです。
 わたしは九州王朝説に基づいて、次のような背景を推定しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都(倭京元年、618年。注②)と律令制統治体制確立による急激な人口増加が太宰府地区で発生したため、それに対応した食器量産体制拡充のため、より生産性が高い回転台成形が土師器にも採用されたとする理解です。当然、これは須恵器増産のための牛頸窯跡群拡大と軌を一にした政策と考えざるを得ません。そうすると、その時期は七世紀前半頃に位置づけるのが穏当となるのですが、中島さんの編年とは50年ほど異なり、太宰府土器編年の検討が必要となるわけです。
 なお、中島さんのいう「大宰府官制」とは、王朝交替後の『大宝律令』下における八世紀の「大宰府官制」を指していますから、そのこと自体は妥当な見方です。実際に七世紀中頃に減少した牛頸窯跡群は八世紀になると再び増加していることが知られています(注③)。ですから、七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期と回転台成形土師器の発生時期との考古学的対応の検討が重要です(注④)。その当否はまだわかりません。これから精査したいと思います。(つづく)

(注)
①中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③石木秀哲(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年。(同年2月に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集)
④拙論〝前期難波宮九州王朝複都説〟によれば、「七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期」には前期難波宮も含まれるので、検討範囲は難波地域(大阪市)や陶邑窯跡群(堺市)も対象となる。


第2541話 2021/08/17

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (17)

 ―九州年号「継体」の非「仏典」的性格―

 中断していた九州年号の出典調査を再開しました。今回は「継体」(517~521年)です。現存する最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』「年代歴」に見える最初の九州年号が「継体」です。その他の九州年号群史料に「継体」はなく、その次の「善記」(522~525年)を最初の年号としています。
 これらの史料状況から、最初の九州年号が「継体」か「善記」かで、古田学派内では諸説が出されていました(注①)。古田先生やわたしは九州年号研究の結論として、『二中歴』「年代歴」が持つ史料的な信頼性、「継体」という天皇諡号が「九州年号」として誤って追加されることは考えにくいという論理性を重視し、「継体」を最初の九州年号とする見解に落ち着きました(注②)。しかし、それではなぜ他の九州年号史料に「継体」は見えず、「善記」を「年号の始め」とする記事が散見するのかという、うまく説明できない問題がありました。
 そのような研究状況にあって、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「継体」は九州年号「善記」建元時において、過去に遡って追号された年号とする仮説を発表されました(注③)。こうした研究を背景にして仏典調査を行ったところ、『大正新脩大蔵経』検索サイト(注④)でヒットした「継体」は全て七世紀から中世に成立した次の仏典でした。すなわち、いずれも「継体」(517~521年)年号よりも後代のもので、出典として適切なものではありません。

【「継体」が見える仏典】
○『辯正論』唐の法琳の著。 高祖の武徳九年(626年)の撰。八巻十二篇。
○『大唐西域記』唐僧玄奘がインド周辺の見聞を口述し、弟子の弁機がそれを筆録したもの。貞観二十年(646年)の成立。全12巻。
○『北山録』唐の神清(霊庾と号す)の撰。元和元年(806年)に成立。
○『佛祖統紀』南宋の僧志磐が咸淳五年(1269年)に撰した仏教史書。全54巻。
○『海東高僧傳』朝鮮、古代三国の高僧の伝記を集めた書。高麗の覚訓撰。高宗二年(1215年)に撰述。
○『演義抄』湛叡(1271-1346年)による。
○『五教章通路記』鎌倉時代後期の東大寺の学僧、凝然(1240-1321年)による。
○『佛祖歴代通載』古代より元統元年(1333年)に及ぶ仏教編年史書。撰者は元代の梅屋念常。全22巻。
○『夢窓正覺心宗普濟國師語綠』夢窻疎石は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。

 以上の史料状況によれば、「継体」は非「仏典」的な年号であり、仏典の影響を色濃く受けた「善記」以降六世紀の九州年号とは異なり、仏典を出典としない異質な年号のようなのです。このことが西村説と整合するのか、あるいは「継体」は九州年号ではなく誤伝の類いとする説の根拠となるのか、検証のための新視点になるのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①丸山晋司「古代逸年号“『二中歴』原形論”批判」『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて』(株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)は「継体」を九州年号ではなく誤伝とする。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日文庫版「補章 九州王朝の検証」(朝日新聞社、1993年)にて、『二中歴』の九州年号が原型であることの説明がなされている。
 古賀達也「洛中洛外日記」349話(2011/11/15)〝九州年号の史料批判(4)〟
 古賀達也「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
 古賀達也「九州王朝の建元は『継体』か『善記』か」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③西村秀己「倭国(九州)年号建元を考える」『古田史学会報』139号2017年4月。
④SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php




第2519話 2021/07/13

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (15)

 ―九州年号出典調査の現状と展望―

 『二中歴』「年代歴」の九州年号を基礎史料(注①)として用い、『大正新脩大蔵経』検索サイト(注②)で九州年号の出典調査を行ってきました。現時点での調査結果は次の通りで、九州王朝(倭国)が受容した仏典候補を概観することにより、九州王朝史研究にも役立つことと思います。

【『大正新脩大蔵経』による九州年号出典調査】
継体 517~521年(5年間)
善記 522~525年(4年間)『十誦律』『大寶積經』「洛中洛外日記」2516話
正和 526~530年(5年間)『大乘菩薩藏正法經卷』「洛中洛外日記」2517話
教到 531~535年(5年間)『彌沙塞部和醯五分律』『賢愚經』「洛中洛外日記」2518話僧聴 536~540年(5年間)『彌沙塞部和醯五分律』「洛中洛外日記」2515話
明要 541~551年(11年間)
貴楽 552~553年(2年間)
法清 554~557年(4年間)
兄弟 558年   (1年間)
蔵和 559~563年(5年間)『大乘菩薩藏正法經』「洛中洛外日記」2514話
師安 564年   (1年間)
和僧 565~569年(5年間)
金光 570~575年(6年間)
賢接 576~580年(5年間)
鏡当 581~584年(4年間)
勝照 585~588年(4年間)
端政 589~593年(5年間)
告貴 594~600年(7年間)
願転 601~604年(4年間)
光元 605~610年(6年間)
定居 611~617年(7年間)
倭京 618~622年(5年間)
仁王 623~634年(12年間)
僧要 635~639年(5年間)『四分律』「洛中洛外日記」2513話
命長 640~646年(7年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳 661~684年(23年間)
朱雀 684~685年(2年間)
朱鳥 686~694年(9年間)
大化 695~703年(9年間)
大長 704~712年(9年間)※大長年号の期間については古賀説(注③)による。

 これまでの調査の成果と展望は次の通りです。

(1) 九州年号史料間での異伝、たとえば「善記」と「善化」、「教到」と「発到」などについて、仏典との整合から『二中歴』タイプが妥当であることが確認できた。
(2) 九州年号の出典として「律書」(『四分律』『五分律』『十誦律』)が目立つことから、九州王朝仏教が中国のどの仏教思想(戒律)・集団(僧伽)の影響を受けたのか推定できる可能性がある(注④)。
(3) 九州王朝(倭国)は、6世紀は『五分律』、7世紀は『四分律』の影響を受けたようであることから、中国南朝から北朝への国際交流の変化が影響している可能性が考えられる。

 研究途中ではありますが、以上のような興味深い課題も見えてきました。本テーマを引き続き取り組みますので、もう少しお付き合い下さい。(つづく)

(注)
①これまでの九州年号研究の結果として、『二中歴』「年代歴」に記された九州年号の漢字や期間が最も原型に近いと考えられる。
②SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
③古賀達也「最後の九州年号」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 古賀達也「続・最後の九州年号」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④九州王朝仏教がどの戒律の影響を受けたのかという視点については、日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のサジェスチョンを得た。


第2518話 2021/07/12

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (14)

九州年号「教到」の出典は『賢愚經』『五分律』か

 九州年号は、「善記」(522~525年)、「正和」(526~530年)と続き、その次が「教到」(531~535年)です。その字義は〝仏の教えが到る(仏教伝来)〟か〝仏の教えが記された経典が到る(仏典伝来)〟と考えられ、仏教に関わりが深い年号と、当初から古田学派では考えられてきました。わたしは30年前に、九州王朝(倭国)への仏教初伝を418年(戊午の年)とする説(注①)を発表しており、九州年号「教到」(531~535年)は新たな経典や僧の来倭に関わるものと推定しています。
 いずれも仏教に関係しており、仏典には「教到」の語句が多数見えるはずと思っていたのですが、『大正新脩大蔵経』の検索ではそれほど多くはなく、九州年号「教到」(531~535年)よりも漢訳の時期が早い次の経典に見えました。

○『賢愚經卷第二』(慧覺訳、南宋代 445年)
 「王即遣使。往告求婚。指其一兄貌状示之。言爲此兒。求索卿女。使奉教到。」

○『賢愚經卷第四』(慧覺訳、南宋代 445年)
 「尋更白言。尊者有好言教到大家邊。」

○『菩薩瓔珞經卷第十四一名現在報』(竺佛念訳、東晋代)
 「晝夜孜孜不違道教。到時入城不左右顧視。」

○『五分律卷第十彌沙塞』(佛陀什、竺道生訳、南宋代)
 「以此白佛。速還報我。摩納受教。到已頭面禮足却住一面。」

 これら四例の内、『賢愚經』の二例は「教到」がワンセットになっていますが、『菩薩瓔珞經卷』と『五分律』は「不違道教」「到時入城」と「受教」「到已」のように、二つの文の末尾と先頭で「教」「到」と並んでいます。この訓みが正しいのかどうか疑問がないわけではありませんが、経典原文には句読点はなく漢字が並ぶだけですから、いずれも「教到」の二字がワンセットのようにも見えます。ですから、文脈から読み取れば『賢愚經』が出典となる可能性が高く、表面的な文字の並びだけを見れば、いずれの経典も出典の可能性を持ちます。ただ、『五分律』は九州年号「僧聴」(536~540年)の出典候補としてもあがっており、そこに「教到」があることは注目されます。
 それでは教到年間(531~535年)の直前頃にどのような〝教え〟が九州王朝(倭国)に〝到った〟のでしょうか。『二中歴』「年代歴」の九州年号「教到」には細注記事がありませんから、今のところ不明とする他ないのですが、「教到」年号を持つ次の伝承があります。九州修験道の中心地の一つとされる英彦山霊山寺の縁起、『彦山流記』(注②)に見える次の記事です。

○「但踏出当山事、教到年比、藤原恒雄云々。」

 英彦山に関する最も古い縁起とされる『彦山流記』は、奥付に「建保元年癸酉七月八日」とあり建保元年(1213)の成立と見られます。この記事は当山の開基を九州年号の教到年(531~535年)としています。また同書写本末尾には「当山之立始教到元年辛亥」と記されており、教到元年(531)の開山とあります。また、元禄七年(1694)に成立した『彦山縁起』や寛保二年(1742)の『豊鐘善鳴録』(注③)によれば、彦山霊山寺の開基は継体天皇二五年(531)北魏僧善正によるとあります。いずれにしても英彦山霊山寺の開基が仏教初伝の通説538年よりも早いとする史料です。
 北魏僧善正が教到元年に英彦山霊山寺を開基したとありますから、九州王朝(倭国)の中枢領域(筑前・筑後)に来たのはそれ以前のことになります。そのときに持参した経典、あるいは善正その人の来倭を記念して、「教到」と改元した可能性もありそうです。『彦山流記』や『彦山縁起』などを精査すれば、何かわかるかもしれません。(つづく)

(注)
①古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
 古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集、古田史学の会編、1996年。明石書店から復刊。
②「彦山流記」『山岳修験道叢書十八 修験道史料集Ⅱ』五来重編所収
③『豊鐘善鳴録』は豊前国における禅宗関連史料のようであり、著者は河野彦契(?-1749年)。同書の序には「寛保二年」(1742年)の紀年と「永谷指月庵南軒」という署名が見える。