九州年号一覧

大和朝廷(日本国)に先立つ九州王朝(倭国)の存在、その一番目が年号の論証です。

第2838話 2022/09/17

九州年号関連研究三件の発表

 本日はドーンセンター(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会もドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会では、珍しいことに九州年号関連の研究が三件発表されました。特に興味深く拝聴したのが、萩野さんの発表で、白雉開元の儀式が行われたのは前期難波宮ではなく、太宰府とするものでした。古田先生がご健在の時、先生(太宰府説)とわたし(前期難波宮説)とで厳しく論争したテーマでしたので、当時のことを思い出し、懐かしい気分になりました。このときのことを拙稿「古田先生との論争的対話 ―『都城論』の論理構造―」(『古田史学会報』147号、2018年)で紹介していますので、ご参照ください。
 正木さんからは九州年号の訓みについての試案が発表されました。基本的には日本呉音と思われるが、途中から日本漢音に変化した可能性についても言及されました。難しいテーマなので例会参加者を交えて検討が行われました。従来「ぜんき」と訓まれていた善記は、日本呉音では「ぜんこ」になり、白雉・白鳳は「びゃくち」「びゃくほう」、大化に至っては「たいけ」になるとのことで、ちょっと驚きました。『古代に真実を求めて』26集に大原重雄さん作成の「九州年号年表」を掲載しますので、そこに九州年号の訓みが付記される予定です。
 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

 なお、例会後の懇親会では、関西例会のリモート参加について役員とネット配信担当者とで検討を続けました。希望される「古田史学の会」会員に参加登録費(初回のみ)をお支払いいただいて、関西例会へのリモート参加を認める方向で話しがまとまりました。これから、具体的な検討に入ります。

〔9月度関西例会の内容〕
①日本書紀に出現する九州年号の成立に関する作業仮説(茨木市・満田正賢)
②白雉開元式は本拠地で(東大阪市・萩野秀公)
③神代七代の神(三)(大阪市・西井健一郎)
④『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について(神戸市・谷本 茂)
⑤『隋書』俀国伝の「此後遂絶」の解釈(京都市・岡下英男)
⑥装飾古墳絵画の馬に乗る小さな子(大山崎町・大原重雄)
⑦倭国にあった二つの王家 ―海幸山幸説話―(八尾市・服部静尚)
⑧不改常典とは(八尾市・服部静尚)
⑨九州年号の訓み(川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 10/15(土) 会場:ドーンセンター(大阪市中央区)
 11/19(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)
12/17(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)


第2812話 2022/08/21

九州年号「白鳳十二(三カ)年 輝月妙鏡律尼」石碑

 おそらくは後代成立と思われる「白鳳十二(三カ)年」の九州年号を持つ石碑を紹介します。「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟で触れましたが、愛媛県越智郡朝倉村(現、今治市)にある「樹の本古墳」(円墳か)の墳頂に江戸時代作製と見られる石碑があり、これが白鳳時代開基とされる浄禄寺の輝月妙鏡律尼の没年を記した石碑で、九州年号「白鳳」が記されています。
 十年ほど前に合田洋一さんのご案内で現地を訪問し、この石碑を実見したところ、「白鳳十二年七月十五日」と没年月日が彫られていました。年号だけで干支はなく、その風化状態から判断して、後代成立と思います。当地の『朝倉村誌』(注①)には輝月妙鏡律尼の没年を「白鳳十三年七月十五日」と紹介していますので、わたしの見間違いかもしれず、再確認の必要があります。輝月妙鏡律尼のことは白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)が「斉明天皇と『狂心の渠』」(注②)で紹介していますので、ご参照ください。後代成立とはいえ、「九州年号」金石文は希少です。

(注)
①『朝倉村誌』1986年。
②白石恭子「斉明天皇と『狂心の渠』」『古田史学会報』164号、2021年。『朝倉村誌』から次の記事を引用している。
 「人皇三十八代斉明天皇、当国の当所御下向の時(西暦六六一年)浅地に車無寺を建立し、その末寺尼坊として、朝倉下村原見の下より岡の保田の下通りの水無之所に、小千玉興の助力によって建立し、樹之本山浄禄寺といい、本尊は阿弥陀如来、後には薬師如来を生木に彫刻し、併せて本尊とする。この浄禄寺尼坊の住持が、車無寺の無量上人の弟子である輝月妙鏡律尼であった。この尼は原見の下に井出二筋を掘り、水を渡して、この水で山口村下まで、田地を開き、作物よくみのり、二筋の井手の間へ家多く立って、在家の者が栄えた。それでこの所を尼ヶ井手と言い伝えた。また浄禄寺本尊である、生木の薬師如来の仏徳によって、祭礼や祝儀の時は、前日に家具を、この本尊に頼みおくと、入用の品物を必要な数だけそろえてくださるので、附近の村人は大変ありがたく、その恩恵に浴していた。(中略)この生木の薬師如来は六八四年(天武天皇白鳳十三年)の大地震によって枯れ、白鳳十三年七月十五日をもって尼僧輝月妙鏡律尼も遷化した。」


第2811話 2022/08/18

九州年号金石文「朱鳥三年 鬼室王女」石碑

 将来の九州王朝や九州年号研究者のための資料作成を続けてきました。一応、知見の範囲の資料が完成しましたので、過日の多元的古代研究会リモート勉強会や、わたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」で紹介させていただきました。しかし、未検討の九州年号金石文が残っていることに気づきましたので、逐次追加しています。
 その追加資料の一つが、「朱鳥三年 鬼室王女」石碑です。数少ない同時代九州年号金石文である「朱鳥三年 鬼室集斯」墓碑はこれまでも度々紹介してきましたが(注①)、百済人官人として近江朝に仕えた鬼室集斯の娘の石碑が滋賀県蒲生郡の山中にあるという記事や伝承が平野雅曠さん(古田史学の会・会員、故人、熊本市)から報告されています。それは「市民の古代研究会」の研究紙(隔月刊)『市民の古代研究』21号に発表された論稿「鬼室集斯の墓」(注②)です。それによれば、次の銘文を持つ石碑が蒲生郡の山中にあるという記事を紹介されています。

 「朱鳥三年戊子三月十七日
  鬼室王女 施主国房敬白」

 平野稿より関係部分を転載します。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍に朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
 続いて、(要旨)………
「集斯が近江に来た頃、娘は十七才位だったらしい。四十才に近かった集斯は大学寮の長官になり、娘を秘書役として補佐させた。
 二年余りの頃、役所の少壮学士と恋愛問題が噂され、父の耳に入った。父は娘を厳しく戒めると共に解雇した。
 鬼室集斯は、白村江敗戦の百済王族の出身であり、娘の相手は、敵に当たる新羅の出でもあったからであろう。
 鬼室王女のことは、それからの消息がと切れている。そして忽然としてあるとき、日野川上流の熊野に現れる。ある日百姓の若者が吊り橋を渡ろうとしたところ、その吊り橋が真中から切れていた。その垂れ下がった片方に、えもいわれぬ美しい女が、ぶら下がったまま眠り込んでいるのを見た。若者は助ける。その若者が実は都で噂のあったあの少壮学士だったという。
 二人は百姓をしながら幸せに暮らしたが、やがて父の鬼室集斯の追手に知られてしまう。王女は逃れて竜王山に深く入り、五大の滝に立った。現在石碑の建っているところは、この滝からさらに登った台地にあった。すると飛瀑の中の王女は、三日三晩目に黒髪が白髪となっていた。それを見定めた追手は引揚げた。ところが、おさまらないのは若者の夫で、妻をもとの姿にかえそうとして禁を破ってしまった。若者はそれが祟って悶絶して死んだ。王女はしかし、白髪をそりおとすと、若い尼僧になっていた。死んだ夫の供養のため仏門に入り、後年蒲生郡の平林で入寂した。平林から近いあの石塔寺は、王女を慕った百済系の氏族が、王女の菩提寺として建てたものだろう、という。
 竜王山にある鬼室王女の石碑には、『朱鳥三年戊子三月十七日』と彫ってあるから、父の鬼室集斯が死ぬ七ヶ月前である。四十七、八才くらいで亡くなったらしい。」(後略)

 この印象に残る秘話がどのように伝承されてきたのか、鬼室王女の石碑がどこにあるのか、わたしはこれまで三回ほど現地調査に赴きましたが、未発見のままです。もし実見できれば、同時代九州年号金石文かどうかの調査を行いたいと願っています。

(注)
①古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第二集(明石書店、1998年)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)収録。
 同「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
 同「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」『九州倭国通信』199号、2020年。
②平野雅曠「鬼室集斯の墓」『市民の古代研究』21号、1987年。


第2807話 2022/08/11

ポアンカレ予想と古田先生からの宿題

 昨晩のNHK番組「笑わない数学」は〝ポアンカレ予想〟がテーマでした。世紀の天才数学者アンリ・ポアンカレ(1854~1912)により提起された「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相と言えるか?」という問題です。番組では、「宇宙の外に出ずに、宇宙の形がざっくり丸いか丸くないか、確かめる方法はあるか?」とも説明されましたが、わたしの数学力ではチンプンカンプンでした。
 「洛中洛外日記」(注①)で紹介したこともありますが、ポアンカレの名前を聞くたびに古田先生からいただいた二冊の本のことを思い出します。それはポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』(岩波文庫)で、古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの学力では難しくて、少ししか読めていません。
 それは十五年ほど前だったと記憶していますが、九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注②)という名称について、科学や物理学での「モデル」という概念と比べて使用方法が間違っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できずにいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。それがポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』だったのです。
 この二冊は昭和36年版で、紙は黄変していますが、傍線や書き込みが一切なく、わたしは違和感を抱きました。古田先生からは多くの書籍をいただきましたが、新品のものはともかく、古い本には先生による書き込みや傍線が引いてあるのが常でしたので、この二冊だけは異質だったのです。それでも今回よく見ると、『科学と方法』の238~244頁の部分の上部の角が折り曲げられており、これも古田先生の蔵書によく見られたもので、その部分は特に留意されていたと思われます。それは第三篇「新力學」の第二章「力學と光學」に相当する部分です。なぜ古田先生がそこに興味を持たれたのかはわかりませんが、先生の勉強や学問の幅の広さに改めて驚いています。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、理解はできなくても、せめて完読だけはしておきたいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1977話(2019/08/31)〝古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」〟
②「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。


第2806話 2022/08/10

九州年号「勝照二年」棟札の紹介

 「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で九州年号が記された棟札を紹介し、2803話(2022/08/07)〝二枚あった慈眼院「定居二年」棟札〟で、「定居二年(612年)」が記された泉佐野市日根野慈眼院所蔵の棟札を追加しました。その後、「勝照二年(586年)」と記された棟札が高知県高岡郡日高村の小村神社にあることを報告した別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)の論稿を思い出しました。それは『古田史学会報』146号に掲載された「実在した土佐の九州年号 小村神社の鎮座は『勝照二年』」 です。
 別役稿によれば、同棟札は貞和三年(1347年)の成立で、同時代九州年号史料ではありませんが、九州年号で由来を記す貴重なものです。現存しているようでので、実見してみたいものです。
 従って現時点の知見では、「九州年号棟札」記事は下記の通りです。

(1) 賢称(576~580年) 「賢称」『偽年号考』 神明社棟札 愛知県渥美郡大津村神明社
(2) 鏡當(581~584年) 「鏡常」 蓮城寺棟札 大分県大野郡三重町蓮城寺
(3) 勝照二年(586年) 「勝照二年」『土佐遺語』 土佐国二宮小村神社貞和三年(1347年)棟札 高知県高岡郡日高村小村神社
(4) 勝照四年(588年) 「勝照四年戊申」『山形県金石文』羽黒山棟札 山形県東田川郡羽黒町羽黒山本社
(5) 定居二年(612年) 「定居二年壬申四月二日」 日根神社棟札 泉佐野市日根野 慈眼院所蔵
(6) 定居二年(612年) 「古三韓新羅国修明正覚王」「定居二年壬申卯月二日」 日根神社棟札 泉佐野市日根野 慈眼院所蔵
(7) 白雉二年(653年) 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年に造営する由、書付けてありしと云」『太宰管内志』豊後之四・直入郡「建男霜凝日子神社」


第2803話 2022/08/07

二枚あった慈眼院「定居二年」棟札

 九州年号「定居二年(612年)」記事が記された泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札を紹介しましたが、その他にも多数の棟札が泉佐野市には現存しています。調査の結果、慈眼院には「定居二年(612年)」と記された棟札がもう一枚あることがわかりました。
 『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(注①)によれば、慈眼院には日根神社の三枚の棟札が所蔵されており、その内の一枚が「洛中洛外日記」(注②)で紹介した「慶長七年(1602年)」棟札です。今回、新たに見いだしたのは「天正八年(1580年)」成立の小ぶりの棟札(注③)で、次のように記されています。

(表)
  大井関
  正一位
  大明神
(裏)
  定居二年壬申四月二日備
  大井関正一位大明神雖然
  天正四年二月十八日煙焼故
  天正八年庚辰三月八日造立
  社頭者也則天正八年閏
  三月廿二日御遷宮有之導師
  十輪院政金法印也

 大井関大明神(日根神社)の由来を九州年号「定居二年壬申」で示し、その後の社殿の焼亡・再建年次などを記録した棟札です。この棟札で注目すべきことは、もう一枚の慶長七年(1602年)棟札(板札)よりも二十年ほど早く成立していることです。そして、同神社の由来を九州年号「定居」で記録した慶長七年棟札(板札)が孤立していないことを明らかにした点です。このことは、新羅国太子「修明正覚王」が定居二年(612年)に当地に来たという伝承の信憑性を高めます。
 今回、もう一枚の「定居二年」棟札の存在を知り、棟札以外にも当地の古記録などに同様の伝承が遺されているのではないかという心証を得ました。先に紹介した『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に見える「日根造」「新羅国人億斯富使主より出づる也」(注④)もその一つに違いありません。これから、現地調査を進めたいと思います。

(注)
①「日根神社資料三 慶長七年(一六〇二) 板札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、71~72頁。
②古賀達也「洛中洛外日記」2796話(2022/07/24)〝慈眼院「定居二年」棟札の紹介〟
 同「洛中洛外日記」2797話(2022/07/26)〝慈眼院「定居二年」棟札の古代史〟
③「日根神社資料二 天正八年(一五八〇) 本殿棟札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、70頁。
④『新撰姓氏録』和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる新羅国人億斯富使主は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。


第2800話 2022/08/01

倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣

 羽黒山を開山したと「勝照四年」棟札(注①)に記された「能除大師」は「参仏理大臣(みふりのおとど)」という名前でも伝承されています(注②)。わたしはこの能除の別称に「大臣」という官職名が付いていることが気になっていました。「勝照四年」(588年)の頃ですから、羽黒山は蝦夷国内と思われ、それであれば能除は蝦夷国の大臣だったのだろうか、あるいは倭国(九州王朝)の大臣が布教のために蝦夷国内の出羽に派遣されたのだろうかと考えあぐねていたのです。ところが意外なことから決着が付きました。
 「洛中洛外日記」で連載した蝦夷関連の拙稿を読み返していたら、次のことを既にわたしは書いていました。それは「洛中洛外日記」2391話(2021/02/25)〝「蝦夷国」を考究する(8) ―多利思北孤の時代の蝦夷国―〟で紹介した次の『日本書紀』の記事でした。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約した、という内容です。
 すなわち、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのかもしれません。従って、能除の別称が「参仏理大臣」であることは、この『日本書紀』の記述通りであり、倭国の臣下として蝦夷国の有力者であろう能除の別称としてふさわしいのです。
 敏達十年(581年、九州年号の鏡當元年)は能除による羽黒山開山「勝照四年」(588年)の七年前であり、時期的にも対応しています。こうして、倭国(九州王朝)と蝦夷国との歴史が一つ明らかになったと思われます。ちなみに、『拾塊集』(注③)には「能除太子者崇峻天皇之子也」とあり、没年月日を「舒明天皇十三年(641年)八月二十日」(九州年号の命長二年)としています。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②「出羽三山史年表(戸川安章編)」(『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版)によれば、能除の別称を「参弗理大臣」とする。
 『出羽国羽黒山建立之次第』(同)には「崇峻天皇の第三の御子、(中略)名を参弗梨の大臣と号し上(たてまつ)る。」とある。
③『拾塊集』(著者・成立年代ともに不明)『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版。


第2798話 2022/07/29

後代成立「九州年号棟札」の論理

 後代に成立した「九州年号棟札」二点を「洛中洛外日記」で紹介しました。それは「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)と「定居二年」(612年)銘を持つ泉佐野市日根野の慈眼院所蔵棟札(慶長七年・1602年成立。注②)で、いずれも『記紀』には見えない古代の歴史事実の一端を記した貴重な史料でした。このような後代成立「九州年号棟札」が持つ史料性格とその論証力の発生理由について深く考えてみることにします。

(1)まずその史料性格の最大の特徴として、神仏を護る建築物の由来を後世に遺す記録文書という点があげられます。すなわち、日本人のメンタリティーとしての〝神仏に誓って嘘は記さない〟という史料性格です。
(2)従って、大和朝廷の正史などに記されていない九州年号を使用しているということは、それを偽年号とは考えておらず、その年号を用いて表記した記事の年代や内容についても作成者は史実として認識していることが貴重です。
(3)同様に、他者の目に触れることを前提としており、他者に対してもその記事の信憑性が疑われていないということが前提となって成立していることも重要です。
(4)通常、棟札には建築物と棟札の成立年次が記載されており、史料の成立年代と成立場所が自明という利点があり、史料批判の一助となります。
(5)今回、研究対象とした二点の棟札には「勝照四年戊申」「定居二年壬申」とあり、「○○天皇の○○年」という『日本書紀』成立後の表記様式ではないことから、九州年号記事部分については、九州年号使用時期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に成立した痕跡が濃厚です。
(6)更に、「羽黒開山能除大師」や「新羅国修明正覚王」という『日本書紀』には見えない人名や記事であることも、九州王朝系史料に基づく記事として、信憑性を高めます。

 おおよそ、以上のような史料性格・史料状況を有していることから、今回の二点の棟札は古代史研究に使用できる貴重な史料ということができるのです。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(泉佐野市史編纂委員会、1998年)などによれば次の銘文が記されている。
「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」


第2797話 2022/07/26

慈眼院「定居二年」棟札の古代史

 泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札冒頭に記された九州年号「定居二年(612年)」記事(注①)は、七世紀初頭における当地への新羅国太子「修明正覚王」渡来を伝えた貴重な史料です。わたしはこの記事は歴史事実を伝えているのではないかと考えています。その理由は次の通りです。

(1)七世紀前半に搬入された百済や新羅の土器が難波から多数出土しており、その量は国内最多であることが報告されている(注②)。従って、朝鮮半島と難波との交流が認められる。
(2)古代において最大規模の灌漑用溜池である狭山池(大阪狭山市)が七世紀第1四半期頃に築造されている(注③)。おそらく、前期難波宮(652年)・難波京造営による人口増加に備えて、食糧増産のために九州王朝が築造したと考えられる。この大土木工事のために朝鮮半島の技術者が当地に迎え入れられたのではあるまいか。
(3)上町台地に難波天王寺(四天王寺)が九州年号「倭京二年(619年)」に造営されたことが『二中歴』年代歴に見え、出土した創建瓦の編年と一致している。このことは七世紀前半における九州王朝の難波進出を示している。
(4)新羅国太子「修明正覚王」が来た定居二年(612年)とほぼ同時期(定居元年)に百済国の淋聖太子が周防国多々良浜(山口県防府市)に渡来した伝承が色濃く遺っている(注④)。「修明正覚王」の渡来も、この時期の倭国(九州王朝)と朝鮮半島諸国(新羅・百済)との交流の一つと位置づけることができる。
(5)『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる「新羅国人億斯富使主」は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。
(6)「大井関大明神」という神名からうかがえるように、この地に土着し、日根造となった「修明正覚王」の子孫たちは、近隣の川を水源として関を造り開墾を進めたと思われるが、この日根造らは狭山池を築造した技術集団の流れを受け継いだのではあるまいか。

 以上のようにわたしは考えています。特に「定居二年」という九州年号を用いて祖先の歴史を伝承していることは、九州王朝との関係を示すものではないでしょうか。

(注)
①『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(泉佐野市史編纂委員会、1998年)などによれば次の銘文が記されている。
「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」
②寺井誠「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)に次の指摘がある。
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」
③狭山池の堤体内部から出土した木樋(コウヤマキ)の年輪年代測定(伐採年616年)により、七世紀前半の築造とされている。
④「九州年号目録」『市民の古代』11集、新泉社、1989年


第2796話 2022/07/24

慈眼院「定居二年」棟札の紹介

 「洛中洛外日記」2791話(2022/07/19)〝慈眼寺「定居七年」棟札の紹介論文〟で紹介した慈眼院棟札(定居七年・617年)ですが、泉佐野市日根野慈眼院(注①)のご住職から教えていただいた資料(注②)などにより、同棟札の全文を確認することができました。その冒頭部分を転記します。

「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」

先の「洛中洛外日記」で紹介した「定居七年」ではなく、「定居二年」(612年)に新羅国の太子「修明正覚王」が当地に来て、「當国主大井関正一位大明神」になったという「日根野大井関大明神」の由来が冒頭に記されています。その後、天下が乱れ、同社は天正四年(1576年)のおそらくは兵火で消失し、慶長七年(1602年)に豊臣秀頼により再興されたことが後段に詳述されています。
 従って、この棟札銘文に見える「定居二年」は同時代九州年号史料ではありませんが、当時の古代史認識が示された史料として貴重です。次にその古代史認識とは、どのようなものであったのかについて迫ってみます。(つづく)

(注)
①大阪府泉佐野市日根野にある真言宗の寺院。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。(ウィキペディアによる)
②『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年


第2795話 2022/07/23

羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言

 羽黒三山神社の公式ホームページの解説(注①)により、羽黒山開山伝承が後世(江戸時代初期)において改変を受けていたことがわかりました。当時、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥が、羽黒山を開山したとされる能除を天皇家の血筋と関連付けるために、崇峻天皇の太子である蜂子皇子のこととしたようです。そうせざるを得なかった理由の一つに、「勝照四年戊申」(588年)という開山年次を記した伝承の存在があったと思われます。慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札(注②)に「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあったことがそのことを指し示しています。
 開山の時代(六世紀末頃)にあって、行方が不確かな〝皇族〟を探し求めた結果、崇峻天皇の子供の蜂子皇子が能除の候補者に最も相応しいと、宥俊や天宥は考えたのでしょう。なお、能除を崇峻天皇の第三皇子とする、十六世紀成立の史料「出羽国羽黒山建立之次第」(注③)もあるようですが、わたしは未見のため、調査したうえで別述したいと思います。
 このような後世(江戸時代初頭)の開山伝承の改変を、おそらくは現在の羽黒三山神社のホームページ編集者は感じ取っているものと思われます。それは諸説を併記した次の用心深い記述姿勢からもうかがわれます。

「開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。」

 以上の史料状況からすると、最も信頼性が高い史料は棟札の「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」という記事であり、能除は参仏理大臣(みふりのおとど)とも呼ばれたという『記紀』には見えない伝承ではないでしょうか。これらを九州王朝説の視点で考察すれば、九州年号「勝照四年」(588年)で記録された原伝承があり、その人物は能除あるいは参仏理大臣と呼ばれていたとできそうです。しかも、六世紀末頃の出羽地方が舞台であることを考慮すれば、倭国(九州王朝)から蝦夷国領域への仏教東流伝承の一つではないかと思われます。
 エビデンスが少なく、わたしの勉強不足もあり、まだ断定できる状況ではありませんが、蝦夷国研究のための一つの作業仮説として提示します。

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③大友義助「出羽三山・鳥海山の山岳伝承」(五来重編『修験道の伝承文化』名著出版、1981年)に「出羽国羽黒山建立之次第」が紹介され、その奥書には「永禄三年庚申霜月上旬」(1560年)の年次があるとのこと。

 


第2794話 2022/07/22

羽黒山開山伝承と「勝照四年」棟札との齟齬

 「洛中洛外日記」2792話(2022/07/20)〝失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社〟で紹介した「勝照四年戊申」棟札は慶長十一年(1606年)の修造時に作られたもので、同時代「九州年号棟札」ではありません。しかしながら、羽黒山開山伝承が後世の改変を受けていたことを証言する貴重な史料のようです。このことについて説明します。
 羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっています。羽黒三山神社のホームページ(注①)では次のように説明されています。

〝開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。
 江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。父の崇峻天皇が蘇我馬子(~626)に暗殺され、皇子の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子(574~622)の勧めに従い出家し斗擻の身となって禁中を脱出し、丹後の由良の浜より船出して日本海を北上し鶴岡市由良の浜にたどり着く。そこで八人の乙女の招きに誘われ上陸し、観音の霊場羽黒山を目指す。途中道に迷った皇子を三本足の八咫烏が現れ、羽黒山の阿古屋へと導く。そこで修行された後羽黒山を開き、続いて月山を開き、最後に湯殿山を開かれた。この日が丑年丑日であったことから、丑年を三山の縁年とするというものである。さらに、文政六年(1823)覚諄別当は開祖蜂子皇子に菩薩号を宣下されたいと願い出て、「照見大菩薩」という諡号を賜った。それ以後羽黒山では開祖を蜂子皇子と称し、明治政府は開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂に定めた。〟

 この解説によれば、「開祖・能除仙」が羽黒山に到着したのは崇峻天皇(~592)暗殺後となりますが、棟札(注②)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」(588年)では暗殺の四年前となり、年次が矛盾します。そこで注目されるのが、「江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。」という記事です。
 この説明通りであれば、能除を崇峻天皇の太子としたのは江戸初期からとなり、それ以前は別の〝本来の伝承〟があったのではないでしょうか。棟札の成立が慶長十一年(1606年)の修造時ですから、本来の伝承の一端が「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」として記録されたと思われるのです。この二つの開山伝承の齟齬は重要です。(つづく)

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。