2014年02月20日一覧

664話 2014/02/20

難波京に7世紀中頃の
条坊遺構(方格地割)出土

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』166号(2013年10月)によると、難波京に7世紀中頃(孝徳朝)の条坊遺構(方格地割)が出土したことが報告されました(「孝徳朝難波京の方格地割か ~上本町遺跡の発掘から~」高橋工)。
 大阪市中央区法円坂にある宮殿遺構(前期難波宮と後期難波宮の二層からなる遺構)を中心とする難波京に条坊があったのかどうか、あったとすれば孝徳期 (7世紀中頃)の前期難波宮の頃からか、聖武天皇(8世紀初頭)の後期難波宮の頃からなのかという論争が続けられてきましたが、今回の発見で結論が出るかもしれません。
 ちなみに一元史観の通説では前期難波宮を「孝徳紀」に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」とされていますが、法円坂と長柄・豊碕(豊崎)は場所が異なっていることから、古田先生や西村秀己さんは前期難波宮は「難波長柄豊碕宮」ではないとされています。わたしもこの意見に賛成です(直線距離ではありません が、中央区法円坂と北区豊崎とは地下鉄の駅で5駅も離れています。中央線・谷町四丁目駅~御堂筋線・中津駅)。前期難波宮の上層遺構である後期難波宮は聖武天皇の宮殿で、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と記されており、「難波長柄豊碕宮」とは呼ばれていないという史料事実も、このことを支持していま す。
 わたしは、前期難波宮九州王朝副都説の立場から、前期難波宮の頃には部分的であるにせよ、条坊が造られたのではないかと考えてきました。何故なら、九州王朝は条坊都市「太宰府」を7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)に造営していますから、当然難波副都にも条坊を造るであろうと考えたからです。
 『葦火』166号で紹介された条坊遺構(方格地割)は二層からなっている「溝」の遺構で、条坊(方格地割)と位置が一致していることから条坊道路の側溝と見られています。遺構の概況は、下層の溝が埋められ、その盛土層を掘って上層の溝が造られています。出土土器の検討から、上層の溝からは8世紀の土器 が、盛土層からは7世紀後葉の特徴を持つ土器が出土しています。下層の溝の遺構からは時期を特定できる土器は出なかったそうですが、盛土層の土器より古い時代ですから、「孝徳朝難波京」の頃(7世紀中頃)と判断されました。結論として、「(下層の溝)は天武朝より古く、最初に難波宮が造られた孝徳朝に遡る 可能性が高いと考えられるのです。」とされています。
 詳細な報告書を待ちたいと思いますが、難波京が条坊都市であったとすれば、九州王朝の首都である条坊都市「太宰府」に対応した、副都にふさわしい規模と様式であると思われます。