一元史観による四天王寺創建年
先日、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人、大阪市)より資料が郵送されてきました。4月12日に行われた「難波宮址を守る会」総会での記念講演会のレジュメでした。講師は京都府立大学教授の菱田哲郎さんで、「孝徳朝の難波と畿内の社会」というテーマです。近畿天皇家一元史観による講演資料ですので、特に目新しいテーマではありませんでしたが、四天王寺の創建時期についての説明部分には興味深い記述がありました。
そこには四天王寺について、「聖徳太子創建は疑問あり」「瓦からは620年代創建 650年代完成」とあり、「620年代創建」という比較的具体的な創建時期の記述に注目しました。かなり以前から四天王寺創建瓦が法隆寺の創建瓦よりも新しいとする指摘があり、『日本書紀』に見える聖徳太子が6世紀末頃に 創建したとする記事と考古学的編年が食い違っていました。菱田さんのレジュメでは具体的に「620年代創建」とされていたので、瓦の編年研究が更に進んだ ものと思われました。
四天王寺(天王寺)の創建年については既に何度も述べてきたところですが(「洛中洛外日記」第473話「四天王寺創建瓦の編年」・他)、『二中歴』所収 「年代歴」の九州年号部分細注によれば、「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とあり、天王寺(現・四天王寺)の創建を倭京二年(619)としています。すなわち、『日本書紀』よりも『二中歴』の九州年号記事の方が考古学的編年と一致していることから、『二中歴』の九州年号記事の信憑性は高く、『日本書紀』よりも信頼できると考えています。菱田さんは四天王寺創建を620年代とされ、『二中歴』では「倭京二年(619)」とあり、ほとんど一致した内容となってい るのです。
このように、『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。
1,現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。
2.その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。
3.『日本書紀』に書かれている四天王寺を6世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。(四天王寺は当初は玉造に造営され、後に現・四天王寺の場所に再建されたとする伝承や史料があります。)
4.『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。
5.そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を作った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。『二中歴』以外の九州年号史料に散見される 「聖徳」年号(629~634)との関係が注目されます。この点、正木裕さんによる優れた研究(「聖徳」を法号と見なす)があります。
6.従って、7世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。
7.『二中歴』「年代歴」に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。
8.『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついた理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建を隠し、自らの事績とすることが目的であった。
以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮が九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は7世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』「年代歴」の天王寺創建記事(倭京二年・619年)と創建瓦の考古学的編年(620年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。西井さんから送っていただいた「一元史観による四天王寺創建瓦の編年」資料により、こうした問題をより深く考察する機会を得ることができました。西井さん、ありがとうございま した。