九州王朝説に突き刺さった三本の矢(8)
「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対して、前期難波宮九州王朝副都説という仮説を提起したのですが、この仮説を支持する考古学的事実、すなわち前期難波宮跡のある上町台地から北部九州(九州王朝中枢の筑前・筑後・他)の土器が出土していたことが寺井誠さん(大阪歴博)により報告されていました。「洛中洛外日記」224話(2009/09/12)に寺井論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)の存在を知ったいきさつを記していますので、ご参照ください。こうして、古田先生からのダメだしの一つ、前期難波宮遺構から九州の土器が出土しているのかという質問をクリアできたのでした。
続いて、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)に記された大規模な白雉改元の儀式が、実は白雉二年二月条(652)からの切り貼りにより移動させられていたことを発見し、「白雉改元の史料批判」(『九州年号の研究』所収)として発表したのですが、652年は九州年号の白雉元年壬子の年に当たり、しかも『日本書紀』によればその年の秋には前期難波宮が完成しており、その前期難波宮であれば大規模な白雉改元の儀式が行えることに気づきました。
通説では白雉改元の儀式は『日本書紀』の記述通り650年のこととされており、その結果、そのような儀式が行える大規模な宮殿は前期難波宮完成前の上町台地には存在しておらず、どこで行われたのかという説明に困っていました。
この困惑は九州王朝説でも同様で、北部九州にもこの儀式が行えるような大規模宮殿跡は知られていません。古田先生もこの問題に気づいておられ、様々な試案を考えられていました。しかし、そうした大規模宮殿が北部九州に見つかっていないということは認識されていました。ですから、『日本書紀』に記されているような白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ないとする私の仮説に対して、最後は古田先生にも「検討すべき仮説」と認めていただいたわけです。
九州年号の白雉改元の儀式を行うのは九州王朝であり、その儀式が行われたのは九州王朝の宮殿であることは当然でしょう。そしてそれが可能な規模の宮殿は日本列島内では、九州年号の白雉元年(652)に完成した前期難波宮だけです。これら考古学的根拠と文献史学の根拠と論理性により、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説へと発展していきました。こうしてようやく、大和朝廷一元論者からの《三の矢》に対抗しうる仮説をわたしたち古田学派は手にしたのでした。(つづく)
〔補論〕難波から九州王朝中枢領域である筑前・筑後の土器が出土していたことについて、それが何を意味するのかを指摘しておきたいと思います。
この考古学的事実は前期難波宮造営時に、難波へ九州王朝中枢の土器を持った人々、すなわち九州王朝中枢地域の人々が訪れていたことを意味します。従って、九州王朝は国内最大規模の前期難波宮の造営を知悉していたことを疑えません。ということは、前期難波宮の造営を九州王朝が承認していたこともまた疑えません。
こうした論理性からみて、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿とするのならば、九州王朝は自らの宮殿よりも何倍も巨大な宮殿を配下の豪族(近畿天皇家)が造営することを認めたということになりますが、九州王朝説に立つ限り、こうしたことを認めることはできないはずです。
この点、大和朝廷一元論者であれば、何の迷いもなく、「前期難波宮は近畿の孝徳天皇の宮殿であり、孝徳天皇が全国に評制を施行し、全国支配をするにふさわしい規模と様式(朝堂院)を持つのは当然であり、だから九州王朝説など成立しない」と断言できます。このことの意味を九州王朝副都説に反対される九州王朝説論者は正しく深く認識していただきたいものです。そして「他流試合」の厳しさをご理解いただければ幸いです。