2018年01月一覧

第1592話 2018/01/31

1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《1月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/01/02 『古代に真実を求めて』21集のタイトル案
2018/01/14 『九州倭国通信』No.189のご紹介
2018/01/17 壱岐のカラカミ遺跡から「周」刻銘土器出土
2018/01/21 新春古代史講演会でご挨拶
2018/01/25 ユーチューバー募集
2018/01/28 『古代に真実を求めて』21集のタイトル決定


第1591話 2018/01/29

『古代に真実を求めて』21集の目次

 『古代に真実を求めて』21集のタイトルを「発見された倭京 太宰府都城と官道」とすることに決定しました。現在、校正と編集作業が進められています。順調にいけば三月末頃には発刊できる見通しです。「古田史学の会」2017年度賛助会員には1冊進呈いたします。大手書店やアマゾンでも購入できます。
 目次は下記の通りで、優れた論文や興味深いコラムなどが収録されています。多元的太宰府研究と九州王朝官道研究の最新論文集です。お楽しみに。

古代に真実を求めて第二十一集

発見された倭京

発見された倭京
–太宰府都城と官道

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

巻頭言 「真実は頑固である」  古賀達也
 
Ⅰ「九州王朝説による太宰府都城の研究」

太宰府都城と羅城        古賀達也
倭国の城塞首都「大宰府」    正木 裕
都督府の多元的考察       古賀達也
大宰府の政治思想        大墨伸明
太宰府条坊と水城の造営時期   古賀達也
太宰府都城の年代観(近年の研究成果と九州王朝説) 古賀達也
太宰府大野城の瓦        服部静尚
条坊都市の多元史観―太宰府と藤原宮の創建年― 古賀達也
観世音寺の「碾磑」について   正木 裕
よみがえる「倭京」大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言― 正木 裕

【コラム】「竈門山旧記」の太宰府
 【コラム】三山鎮護の都、太宰府
 【コラム】『養老律令』の中の九州王朝
 【コラム】太宰府条坊の設計「尺」の考察
 【コラム】牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市
 【コラム】太宰府政庁遺構の字地名「大裏」

Ⅱ「九州王朝の古代官道」

五畿七道の謎          西村秀己
「東山道十五国」の比定     山田春廣
南海道の付け替え        西村秀己
風早に南海道の発見と伊予の「前・中・後」 合田洋一
古代官道―南海道研究の最先端(土佐国の場合)― 別役政光
  古代官道は軍事ハイウェイ  肥沼孝治

 【コラム】東山道都督は軍事機関
 【コラム】長宗我部地検帳に見る「大道」
 【コラム】九州王朝は駅鈴も作ったか

一般論文

倭国(九州)年号建元を考える  西村秀己
前期難波宮の築造準備について  正木 裕
古代の都城―宮域に官僚約八千人― 服部静尚
太宰府「戸籍」木簡の考察 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也

【フォーラム】
九州王朝の勢力範囲       服部静尚

古田史学の会・会則
全国世話人・地域の会名簿
編集後記 


第1590話 2018/01/28

高天原(アマ国)の領域

 松中祐二さんの論文「安本美典『古代天皇在位十年説』を批判する 卑弥呼=天照大神説の検証」によれば、天照大神が居た高天原(アマ国)は朝鮮半島南部洛東江流域の伽耶地方が有力とされました。そこは倭人伝に見える狗邪韓国や後に任那国(倭地)が置かれた地域と重なるようです。
 古田説では、高天原と称された天国(アマ国)の所在地を壱岐・対馬などの海上領域とされました。その根拠は、筑紫や新羅などへ高天原から天下る際に中継地なしに直接に行っていることから、それが可能な領域として、壱岐・対馬などを高天原(アマ国)とされました。この点では松中さんも同様に伽耶地方であれば途中経過地なしで筑紫や新羅などに天下り可能とされています。
 もし松中説が正しければ高天原(アマ国)の中心は伽耶地方となり、壱岐・対馬とされた古田説と異なるのですが、両説を比較検討すると松中説の方が良いように思われます。というのも、古田説では平野部が少ない対馬は祭司の場で、軍事拠点は壱岐と見なされてきたのですが、それにしても筑紫や出雲と比べれば狭く、そのような狭小地域の人口・生産力・軍事力により、筑紫や出雲を制圧(天孫降臨・国譲り)できたことに若干疑問があったからです。もちろん、朝鮮半島から伝わった鉄器で武装した集団としてアマ国を捉えていましたので、その鉄器を背景にして戦争に勝ったと一応は理解してきました。
 ところが、松中説では朝鮮半島南部の伽耶地方を、岩戸開き神話の舞台であり天照大神らが君臨した拠点とするのですから、筑紫や出雲と対等に渡り合える国土面積や農業生産力があったと考えられます。まして、鉄器使用が日本列島に先駆けて始まっていたことでしょうから、農業生産力も戦闘力も青銅器の比ではありません。
 このように、従来の古田説よりも松中説の方が天孫降臨を可能とした国力バランスをうまく説明できるのです。そうなると、九州王朝の淵源は朝鮮半島南部にあったということにもなり、当地の考古学的痕跡の調査や、記紀のアマ国神話の再検証が必要となりそうです。これらの裏付けがあれば、松中説は九州王朝史研究にとって画期的な新説となる可能性を秘めています。


第1589話 2018/01/27

天照大神と天孫降臨の実年代

 松中祐二さんの論文「安本美典『古代天皇在位十年説』を批判する 卑弥呼=天照大神説の検証」を読みました。「九州古代史の会」の新年会で松中さんらと博多界隈で夜遅くまで飲んだのですが、そのおりに倭人の二倍年暦や天照大神の岩戸開き神話が皆既日食に基づくとした場合の実年代についての研究を聞かせていただきました。その後、冒頭の論文を送っていただいたのですが、ようやく読むことができました。
 一読して、その論究の緻密さに驚きました。さすがは理系(医師)の研究者らしく、難解な計算式を駆使し、しかも論理構成の鋭さは見事でした。その主テーマは安本美典氏の「古代天皇在位十年説」への批判ですが、古代人の寿命の短さは在位年数が短くなることを意味しないとする指摘には意表を突かれました。また、縄文人や弥生人の平均寿命や15歳での平均余命の研究を紹介され、古田先生の二倍年暦説は妥当であることを、弥生人の100歳の生存確率計算により明らかにされています。
 論文中、わたしが最も関心を抱いたのが、天照大神の実年代を平均在位数計算から求めた数値と、岩戸開き神話の背景が皆既日食であったとした場合、共に紀元前200年頃で一致するとされた論証でした。ちなみに、安本氏は天照大神を卑弥呼とする自説の根拠の一つに、3世紀に起こったとされる皆既日食をあげられているのですが、これも松中氏の研究によれば、北部九州においては安本氏が指摘した日食は日の出前に始まり、地平線に太陽が出る頃には食分は小さく、神話のような現象は発生しないと批判されています。そして、三世紀以前に発生した皆既日食としては紀元前206年に朝鮮半島南部で発生したものしか候補がなく、結論として天照大神の実年代を紀元前200年頃、場所は朝鮮半島南部洛東江流域の伽耶地方が有力とされました。
 この松中説が正しければ、天照大神や天孫降臨の実年代が紀元前200年頃となり、九州王朝の淵源を探る上でも貴重な視点となることでしょう。まさに目の覚めるような秀逸の論文でした。


第1588話 2018/01/26

倭姫王の出自

 過日の「古田史学の会」新春古代史講演会で正木裕さんが発表された新説「九州王朝の近江朝」において、天智が近江朝で九州王朝の権威を継承するかたちで天皇に即位できた条件として次の点を上げられました。

①倭王として対唐戦争を主導した筑紫君薩夜麻が敗戦後に唐の配下の筑紫都督として帰国し、九州王朝の臣下たちの支持を失ったこと。
②近江朝で留守を預かっていた天智を九州王朝の臣下たちが天皇として擁立したこと。
③九州王朝の皇女と思われる倭姫王を天智は皇后に迎えたこと。

 いずれも説得力のある見解と思われました。天智の皇后となった倭姫王を九州王朝の皇女とする仮説は、古田学派内では古くから出されてはいましたが、その根拠は、名前の「倭姫」を「倭国(九州王朝)の姫」と理解できるという程度のものでした。
 実は二十年ほど前のことだったと記憶していますが、倭姫王やその父親の古人大兄について九州王朝の王族ではないかと、古田先生と検討したことがありました。そのきっかけは、わたしから次のような作業仮説(思いつき)を古田先生に述べたところ、「論証が成立するかもしれませんよ」と先生から評価していただいたことでした。そのときは古田先生との検証作業がそれ以上進展しなかったので、そのままとなってしまいました。わたしの思いつきとは次のようなことでした。

①孝徳紀大化元年九月条の古人皇子の謀叛記事で、共謀者に朴市秦造田久津の名前が見える。田久津は朝鮮半島での対唐・新羅戦に参加し、壮絶な戦死を遂げており、九州王朝系の有力武将である。従って、ここの古人皇子は九州王朝内での謀叛記事からの転用ではないか。とすれば、古市皇子は九州王朝内の皇子と見なしうる。
②同記事には「或本に云はく、古市太子といふ。」と細注が付されており、この「太子」という表現は九州王朝の太子の可能性をうかがわせる。この時代、近畿天皇家が「太子」という用語を使用していたとは考えにくい。この点、九州王朝では『隋書』国伝に見えるように、「利歌彌多弗利」という「太子」が存在しており、「古市太子」という表記は九州王朝の太子にこそふさわしい。
③更に「吉野太子とい云ふ」ともあり、この吉野は佐賀県吉野の可能性がある。

 以上のような説明を古田先生にしたのですが、他の可能性を排除できるほどの論証力には欠けるため、「ああも言えれば、こうも言える」程度の作業仮説(思いつき)レベルを超えることができませんでした。
 ちなみに、「ああも言えれば、こうも言える。というのは論証ではない」とは、中小路駿逸先生(故人。元追手門学院大学教授)から教えていただいたものです。わたしが古代史研究に入ったばかりの頃、「論証する」とはどういうことかわからず、教えを乞うたとき、これが中小路先生からのお答えでした。


第1587話 2018/01/25

『続日本紀』にあった「大長」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)を読んでいますが、そこに「大長」という表記があり、驚きました。

 「大長」は最後の九州年号(倭国年号。704〜712年)ですが、愛媛県松山市出土の木簡に「大長」という文字が見えることを以前に紹介したことがあります。それは「洛中洛外日記」490話(2012/11/07)「『大長』木簡を実見」の次の記事です。

【以下引用】
坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ -四国の古代-」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田Ⅱ遺跡出土)の実見です。(中略)

 さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。
あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。
「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ
これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。(後略)
【引用終わり】

 このとき見た「大長」木簡は年号としては不自然な表記で、何を意味するのか全くわかりませんでした。仮に「大長」という文字があったとしても、それだけでは「大長者」のような熟語の一部分の可能性もあるからです。

 ところが『律令時代と豊前国』には役職名らしき「大長」「小長」という表記が紹介されており、出典は『続日本紀』とのこと。そこで『続日本紀』天平12年9月条を見ると、豊前国企救郡の板櫃鎮(北九州市小倉北区。軍事基地か)の軍人と思われる人物について次のように記されていました。有名な「藤原広嗣の乱」の記事です。

「戊申(24日)、大将軍東人ら言(もう)さく『逆徒なる豊前国京都郡鎮長大宰史生従八位上小長谷常人と企救郡板櫃鎮小長凡河内田道とを殺獲す。但し、大長三田塩籠は、箭二隻を着けて野の裏に逃れ竄(かく)る。(後略)」

 このように板櫃鎮の「小長」凡河内田道と「大長」三田塩籠が広嗣側についた軍人として記されています。おそらく大長が「鎮」の長官で小長が副官といったところでしょう。なお、「京都郡鎮長」との表記も見えますが、おそらくは京都郡に複数ある「鎮」全てを統括する役職名ではないでしょうか。『続日本紀』のこの記事によれば、大宰府側の軍事基地として「鎮」があり、その役職として「大長」「小長」があったことがわかります。この役職名が他の史料にもあるのかこれから調査したいと思いますが、松山市出土「大長」木簡の「大長」もこうした役職名の可能性があるのかもしれません。


第1586話 2018/01/23

筑前と豊前の古代寺院造営編年

 このところ、久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、各地の資料館図録をお借りすることが多くなりました。先日の「古田史学の会・関西例会」でも多数の図録を持参され、参加者に回覧されたのですが、中でも福岡県の苅田町歴史資料館が発行した『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)に貴重な情報が掲載されていましたので、お借りしました。
 最初に注目したのが、筑前と豊前の古代寺院のリストでした。それぞれ11の寺院が記載されており、その造営年が筑前よりも豊前のほうが古い寺院が多いのです。次の通りです。

《筑前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴・時期
大分廃寺 ・新羅系   ・七世紀後
観世音寺 ・老司式   ・八世紀前
般若寺  ・老司式   ・八世紀前
杉原廃寺跡・百済系   ・七世紀末
塔の原廃寺・山田寺式  ・七世紀後
三宅廃寺跡・老司式   ・八世紀前
城の原廃寺・不明    ・八世紀前
長者原廃寺・不明    ・八世紀前
御輿廃寺跡・不明    ・八世紀前
浜口廃寺跡・鴻臚館式  ・八世紀前
長安寺跡 ・鴻臚館式  ・八世紀前

《豊前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴 ・時期
天台寺跡 ・新羅百済高句麗・七世紀後
椿市廃寺 ・新羅百済高句麗・七世紀後
上坂廃寺 ・百済     ・七世紀後
木山廃寺 ・百済     ・七世紀後
垂水廃寺 ・新羅百済   ・七世紀後
相原廃寺 ・百済     ・七世紀後
塔の熊廃寺・新羅     ・八世紀前
小倉池廃寺・不明     ・七世紀後
法鏡寺跡 ・法隆寺式百済 ・七世紀後
虚空蔵寺跡・川原寺式法隆寺式・七世紀後
弥勒寺跡 ・鴻臚館式   ・八世紀前

 このリストでは、「7世紀後」とすべき「老司式」を「八世紀前」と編年されており、問題もありますが、筑前よりも豊前の寺院の方が全体として古い造営年代となっています。九州王朝説から考えると、首都(太宰府)がおかれた筑前に、古い寺院が多くあってほしいところです。このリストの当否の確認も含めて、九州王朝における豊前の位置づけを検討する必要を感じさせるものでした。


第1585話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(4)

 二つ目の史料痕跡は「大宝二年籍」です。大和朝廷は大宝2年(702)に全国的な造籍を実施しています。当時、行政上の必要から定期的に造籍が行われていたと考えられ、それは6年毎という説が有力です。
 現存する古代戸籍では「大宝二年籍」が最も古く、その様式(書式・用語)の比較研究により、西海道(九州)戸籍が最も統一され整っていることがわかっています。通説では、大宰府により九州各国の戸籍が統一されたと理解されているようですが、九州王朝説にたてば、その様式の高度な統一性は九州王朝の直轄支配領域が九州島であったためと考えられます。従って、その様式の統一性は「大宝二年籍」で初めて現れたものではなく、九州王朝の時代に淵源があり、庚午年籍でも同様の統一性が九州島内諸国では見られたはずです。他方、九州以外では様式が統一されていなかったため、その影響が「大宝二年籍」にも現れたと考えざるを得ません。
 この戸籍様式の九州島内の「統一」と九州以外の「不統一」という史料事実こそ、庚午年籍が筑紫都督府と近江朝とで別々に造籍された痕跡と思われるのです。
 以上、紹介した二つの史料痕跡から、庚午年籍造籍主体に関しても、筑紫都督府と近江朝の二重権力状態を仮定すれば、正木説は更に有力説になるのではないでしょうか。(了)


第1584話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(3)

 筑紫都督府(唐軍の支援を受けた薩夜麻)と近江朝(九州王朝家臣に擁立された天智)という二重権力状態での全国的な庚午年籍造籍(670年)が、筑紫都督府による九州地方と、近江朝による九州以外の地域で行われたとする作業仮説を支持する二つの史料的痕跡について紹介します。
 一つは「洛中洛外日記」1167話「唐軍筑紫進駐と庚午年籍」でも紹介した『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)

 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻には大和朝廷の官印が押されていなかったことがわかります。それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられます。この管理の差が、筑紫都督府と近江朝の二重権力構造によりもたらされたと考えることができます。
 更に深く考えると、筑紫都督府には九州王朝(倭国)の「官印」が無かったということも言えるかもしれません。白村江戦をひかえて九州王朝官僚群が近江朝に「遷都」していたとすれば、「官印」も近江朝が所持していたことになるからです。もちろん、太宰府(筑紫都督府)に戻った薩夜麻が新たに「官印」を作製したことも考えられますが、その場合の印文は「倭国王之御璽」、あるいは「筑紫都督倭王之印」のような内容ではないでしょうか。そうすると、既に「日本国」に国号を変更していた大和朝廷の立場からは、それらを「官印」とは認められなかったものと推察します。
 この点、近江朝は670年に国号を「日本国」に変更していたとする史料(『三国史記』新羅本記)があり、そうであれば近江朝の官印は「日本国天皇之印」のような印文と考えられますから、神亀四年(727)の日本国の時代においては、そのままで問題なく、新たに「官印を以てこれに印す」必要はありません。
 このように『続日本紀』のこの記事は、庚午年籍が筑紫都督府(九州地方)と近江朝(九州以外)で別々に造籍されたとする作業仮説を支持するものと理解できるのです。(つづく)


第1583話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(2)

 九州王朝系「近江朝」という正木説は魅力的な仮説とわたしは考えていますが、先に指摘したように庚午年籍(670年籍)の全国的造籍の主体についての疑問点があります。この問題点を解決するために次のような可能性を考えてみました。論点整理を兼ねて箇条書きにします。

①正木説によれば、筑紫君薩夜麻は唐に捕らえられ、唐の配下の筑紫都督として唐軍と共に帰国(667年とされる)した。
②そうであれば、唐軍は筑紫の宮殿や墳墓を破壊する必要はない。
③現に大宰府政庁も観世音寺も破壊されずに8世紀以後も残っている。観世音寺の創建を670年(白鳳10年)とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)もあり、そうであれば唐軍進駐時での造営となる。防衛施設の水城にも破壊の痕跡はなく、8世紀以後も整備補修されていたことが考古学的にも明らかとなっている。
④筑紫都督(薩夜麻)を介して倭国を間接支配しようとする唐軍にとって、その造籍事業に反対する必要はなく、むしろ近江朝と対抗するためにも薩夜麻の筑紫支配強化に協力する必要がある。大宰府政庁Ⅱ期(筑紫都督府)の造営もその一貫か。
⑤以上の理解から、正木説が正しければ、白村江戦後の倭国には近江朝(反唐の天智)と筑紫都督府(親唐の薩夜麻)との二重権力状態が発生していたと考えられる。
⑥他方、庚午年籍が筑紫を含め全国で造籍されていたことは、『続日本紀』など後代史料により明らか。
⑦二重権力状態での全国的造籍を説明できる作業仮説として、筑紫都督府による九州地方の造籍と近江朝による九州以外の地域での造籍事業が同時期に行われたと考えざるを得ない。

 以上のように、①〜⑥の論理展開により、作業仮説⑦に至りました。次回は、この作業仮説を支持する史料的痕跡を紹介します。(つづく)


第1582話 2018/01/22

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝庭か(1)

 昨日の新春古代史講演会(古田史学の会主催)では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が最新の研究成果を発表されました。どちらも刺激的な仮説が発表されましたが、正木さんの「九州王朝の近江朝」という新仮説は様々な問題の解明に役立つ反面、新たな疑問も生まれるものでした。
 正木説によれば、白村江戦など唐や新羅との決戦に備え、九州王朝(倭国)は難波宮より安全な近江大津宮へ「遷都」したとされ、唐に捕らえられ、その配下の筑紫都督として帰国した薩夜麻に対して、近江朝廷の九州王朝の家臣たちは留守役の天智を天皇に擁立し、九州王朝の皇女だった「倭姫王」を天智は皇后に迎え、九州王朝の権威を継承したとされました。
 この正木説によれば、庚午年籍の造籍を全国に命じたのは近江朝廷(天智)となります。他方、従来の古田旧説によれば庚午年籍は筑紫の九州王朝による造籍とされてきました。ところが晩年の古田新説では、筑紫太宰府は唐の軍隊に制圧され、宮殿や陵墓は破壊され、九州王朝(倭王・斉明)は伊予の「紫宸殿」に逃れたとされました。この古田新説では筑紫での庚午年籍造籍は不可能となりますし、正木説でも唐と対立した近江朝は、少なくとも唐軍が進駐している九州地方の造籍はできないことになります。しかし、庚午年籍が筑紫や全国で造籍されたことは明らかです。このことは古田先生も正木さんも認めておられます。
 庚午年籍を全国的に造籍させた権力主体について、正木説でも古田新説でもうまく説明できないと思われるのです。(つづく)


第1581話 2018/01/20

モンゴルで後漢時代の銘文発見

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。2月は福島区民センターで、関西例会としては初めて使用する会場です。お間違えなきよう。地図を『古田史学会報』2月号に掲載予定です。
 正木事務局長による「会務報告」では、モンゴルの砂漠の岩壁から後漢時代の銘文「匈奴遠征の詩」発見のニュースが紹介されました。『後漢書』に記録された内容通りの銘文が発見されたことは、『後漢書』や『三国志』など中国史書の記事の信憑性が高いことを指し示し、倭人伝の記事は信用できるとした古田先生の「『三国志』の著者、陳寿を信じ通す」という姿勢が正しかったことを改めて証明することとなりました。
 1月例会の発表は次の通りでした。発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①『翰苑』の「哥彌多弗利(高松市・西村秀己)
②伊都国の「世々王有り」の疑問(姫路市・野田利郎)
③反論に答えて -奈良盆地での近畿王権成立は困難 -(奈良市・原幸子)
④「河内戦争」に関する疑問(茨木市・満田正賢)
⑤三角縁神獣鏡の大規模国産工房(京都市・岡下英男)
⑥百姓と民の使い分け、十七条憲法(八尾市・服部静尚)
⑦フィロロギーと古田史学【その8】(吹田市・茂山憲史)
⑧「海幸山幸神話」と「日子穂穂手見命」について(東大阪市・萩野秀公)
⑨多元史観と『不改の常典』(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 1/21「古田史学の会」新春講演会(大阪府立大学i-siteなんば)の連絡と協力要請・会費入金状況・新会員の紹介・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内・「九州古代史の会」正月例会と新年会の報告(古賀)・「東京古田会」難波宮、古市古墳群見学の報告・「古田史学の会」関西例会の会場、2月(福島区民センター)・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の編集状況・モンゴルで後漢時代の銘文「匈奴遠征の詩」発見・その他