2019年02月一覧

第1846話 2019/02/28

「わが説にななづみそ」(『玉勝間』本居宣長)

 『玉勝間』の「師の説になづまざる事」の一節は次のような書き出しで始まっています。

 「おのれ古典を説(と)くに、師の説と違(たが)えること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふことも多かるを、いとあるまじきことゝ思ふ人多かめれども、これすなはちわが師の心にて、常に教へられしは、後に良き考への出来たらんには、必ずしも師の説に違ふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし。こはいと尊き教へにて、わが師の、世に優れ給へる一つ也。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻92頁)
 ※原文の平仮名を一部漢字に改めました。以下、同じ。(古賀)

 宣長は、古典の研究において、師(賀茂真淵・他)と異なる説になることが多いが、これはもっと良い説があれば師の説にこだわることはないという師の教えによるものであり、この教えこそ師が優れていることの一つであると述べています。こうした考えが、「師の説にななづみそ」の根拠となっているわけです。ところが宣長は、この考えを更に一歩押し進めて、次節の「わが教え子に戒(いまし)めおくやう」で次のように記しています。その全文を紹介します。

 「吾に従ひて物学ばむともがらも、わが後に、又良き考へのいで来たらむには、必ずわが説になゝづみそ。わが悪しき故(ゆえ)を言ひて、良き考へを拡めよ。全ておのが人を教ふるは、道を明らかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 学問研究において良い説があるのであれば、宣長は自らが師の説になづまないだけではなく、わたしの説にもなづむなと弟子らに述べているのです。そして、学問(道)のことを思わずに、いたずらに師(宣長)を尊ぶのはわたしの望むところではないとまで言い切っています。実に公明正大であり、自説よりも学問と真実探求の方が大切とする、宣長の偉大さがうかがわれる文章です。この本居宣長の言葉を〝学問の金言〟として伝えてこられた村岡先生と古田先生の真摯な姿勢を、わたしたち古田学派の研究者は正しく受け継ごうではありませんか。
 なお、引用した岩波文庫の『玉勝間』は1934年の発行で、校訂者は村岡典嗣先生です。冒頭の解説文も村岡先生の手になるもので、「昭和九年五月十三日」の日付が記されています。


第1845話 2019/02/27

「そしらむ人はそしりてよ」(『玉勝間』本居宣長)

 古田先生の恩師、村岡典嗣先生が本居宣長研究で名声を博されたことは有名です。名著『本居宣長』を何と二十代のとき(明治44年[1911]、27歳)、しかも仕事(『日独新報』記者)の傍ら困窮生活の中で執筆、上梓されています。そのまっすぐな生き様は古田先生の人生を見ているかのようです。見事な師弟と言わざるを得ません。お二人の先生に学ぶべく、「洛中洛外日記」で本居宣長の『玉勝間』の一節「そしらむ人はそしりてよ」を今回のタイトルに選びました。
 村岡先生が本居宣長の学問の姿勢に深く共感されていた痕跡は、各著作に残されています。また、古田先生が学問の金言としてわたしたちに紹介されていた本居宣長の言葉「師の説にななづみそ」は、本居宣長の『玉勝間』が出典ですが、この言葉は村岡先生も大切にされていたものです。この思想を古田先生は村岡先生から受け継がれたものと思われます。
 『玉勝間』には「師の説になづまざる事」という一節があり、次のような言葉が記されています。

 「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 宣長が師の説とは異なる説を述べたことに対して、師の教えに背くものとして他の弟子から非難されていたようです。そのような声に対して「そはせんかたなし」として、他人からの非難を恐れて真実追究の〝道を曲げ、古(いにしえ)の意を曲げる〟ことが師の心に適うものであろうかと宣長は反論しています。
 畏(おそ)れながら、わたしにはこの宣長の言葉(気持ち)は痛いほどよくわかります。昨年11月に開催された「八王子セミナー」の席上で、ある発表者から、古賀は古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝副都説)を発表しているとして激しく非難されたことがありました。わたしの説がどのような根拠と理由により間違っているのかという学問的批判であれば大歓迎なのですが、「古田先生の説とは異なる」という理由での非難でした。このときのわたしの心境がまさに「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」だったのです。
 他方、そうした非難とは全く異なり、古田先生の〝学問の原点〟の一つとして本居宣長の「師の説にななづみそ」があると発表された方もありました。どちらの姿勢・発言が古田先生の学問を正しく受け継いでいるのかは言うまでもないことでしょう。(つづく)


第1844話 2019/02/26

紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理

 福岡県久留米市の犬塚幹夫さんから吉報が届きました。紀元前2世紀頃の「国産の硯」が糸島市と唐津市から出土していたという新聞記事(2019.02.20付)の切り抜きが送られてきたのです。朝日新聞・毎日新聞・西日本新聞の福岡版です。記事量は毎日新聞が一番多かったのですが、学問的には西日本新聞の解説が最も優れていました。同記事のWEB版を本稿末尾に転載しましたので、ご覧ください。
 今回の出土遺跡は福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡で、弥生中期中頃(紀元前100年頃)と編年されています。今回の新聞報道を受けて、〝やはり弥生中期まで遡ったか〟と、わたしは驚きと同時に論理的納得性を感じました。それは「天孫降臨」の時期との関係で、重要な問題を惹起させるものだからです。
 古田説によると天孫降臨は弥生時代の前期末から中期初頭とされています。その理由はこの時期に西日本の遺跡から金属器が出土し始めることから、日本列島に金属器で武装した集団が侵入した痕跡と見なし、それを記紀に見える「天孫降臨」事件のことと理解されたことによります。ただし、弥生時代の編年がより古くなる学界の動向もあり、その実年代は再検討が必要とされました。
 今回の硯の時代が弥生中期中頃と編年されていることから、それは早ければ「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃と推定できます。そうであれば、金属器で武装した天孫族(倭人)はその頃から文字(漢字)を使用していた可能性が高まったことになります。もちろん彼らは前漢鏡に記された文字の意味も理解していたであろうし、自らも漢字漢文を初歩的ではあれ受容し、自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうことも、当然の論理の帰結と思われるのです。
 この漢字を受容していた天孫族が、「天孫降臨神話」に登場する神々の名前を漢字表記していたとなると、記紀に見える神々の漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立していたものがあるのではないでしょうか。少なくとも、そうした可能性をも意識した文献史学の研究方法の確立が必要となりました。すなわち、今回の硯の発見は、記紀研究等において、そうした学問的配慮を要求する時代の幕開けを告げたのです。

【西日本新聞 WEB版】2019年02月20日 06時00分
弥生中期に硯製造か
糸島、唐津の遺跡 国学院大の柳田氏発表「国内最古級」

 弥生時代中期中ごろに国内で板状硯(すずり)を製造した痕跡を福岡県糸島市と佐賀県唐津市の遺跡の遺物から確認した、と国学院大の柳田康雄客員教授が19日発表した。柳田教授によると弥生時代中期中ごろは紀元前100年ごろで、国内最古級。中国で同様の硯が現れる時期と重なり、世界でも「最古級」の国産板状硯の存在は、日本での文字文化の受容がかなり早かったことを示唆し、弥生時代像を大きく変える可能性もある。
 硯は、中国では自然石を利用した石硯が紀元前200年ごろの前漢初期に出現したとされる。長方形の板状硯は石を薄くはいで形を整え、木の板にはめ込んで使用した。近年、北部九州を中心に弥生時代から古墳時代初頭にかけての硯が相次いで確認されている。
 硯の製造が判明したのは、糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と唐津市の中原(なかばる)遺跡。潤地頭給遺跡からは工具とみられる石鋸(いしのこ)2片と、厚さ0.6センチ、長さ4.1センチ以上、幅3.6センチ以上の硯未完成品の一部が出土。中原遺跡では厚さ0.7センチ、長さ19.2センチ、幅7,2センチ以上の大型硯未完成品をはじめ、小型硯の未完成品、石鋸1片、墨をするときに使う研石の未完成品があった。いずれも柳田教授が過去の出土品の中から見つけた。
 従来、前漢が朝鮮半島北部に楽浪郡を設置(紀元前108年)したことが朝鮮半島や日本に文字文化が広がるきっかけとなったと考えられてきた。今回の発表で、硯の出現が楽浪郡設置よりも古くなる可能性もあるが、柳田教授は楽浪郡を経由せずに文化が日本に波及した可能性も想定する。
 九州大の溝口孝司教授(考古学)は、硯の製造時期について「もう少し証拠を固める必要がある」としながらも、硯の確認が相次ぐ状況を踏まえ「柳田氏の調査は尊重すべき情報。今後、竹簡や硯を置いた台など、硯以外の文字関連遺物がないか、慎重に調べる必要がある」と話す。柳田教授は24日に奈良県である研究会で、今回の結果を報告する。
=2019/02/20付 西日本新聞朝刊=


第1843話 2019/02/23

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(7)

第1842話で森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ー宝満山は何故万葉集に詠われなかったのかー」を紹介し、「みかさ山」とあれば論証抜きで「奈良の御蓋山」のこととしてしまう〝凍りついた発想〟を大和朝廷一元史観の「宿痾」と指摘しました。同様に優れた研究や史料事実に基づきながらも、その解釈や結論が大和朝廷一元史観による〝凍りついた発想〟となっている論文が『大宰府の研究』には他にも見られます。その残念な論文の一つが井形進さん(九州歴史資料館)の「大宰府式鬼瓦考 ーⅠ式Aを中心にー」です。
 九州王朝太宰府における王朝文化の象徴のような迫力ある「大宰府式鬼瓦」の芸術性の高さは、古代日本列島内随一の鬼面瓦として有名です。井形さんも「大宰府式鬼瓦考 ーⅠ式Aを中心にー」において、次のように紹介されています。

 「大宰府式鬼瓦は、大宰府政庁跡を中心とする、いわゆる大宰府史跡をはじめとして、筑前・筑後・肥前・肥後北部・豊前など、九州北部の官衙や寺院跡から出土する遺物である。その系譜をひく、大宰府系などと称されるような鬼瓦は、九州南部からも出土しており、それらの存在も併せ考えると、九州全域、つまり大宰府官内全域に影響を及ぼしたことになる。」(561頁)
 「大宰府式鬼瓦Ⅰ式Aの迫真的で立体的、各部位が有機的に連動した造形は、奈良時代の鬼瓦の中にあっては異質なものである。」(564頁)
 「大宰府式鬼瓦の第一の特徴として指摘されるのは、鬼面の立体性、そして彫塑作品としての水準の高さである。このような、大宰府式鬼瓦において最も重要な鬼面の源を、統一新羅に求めることはできない。」(566頁)
 このように大宰府式鬼瓦の異質性・高水準について指摘し、その造形美との関係性がうかがえる遺物として、福岡県福智町の神崎1号墳出土の獅噛環柄頭大刀の柄頭にあしらわれた獣面、観世音寺梵鐘の龍頭などを紹介されています。これらの点は九州王朝説から見れば、大宰府式鬼瓦こそ日本列島内で先進的で最高の王朝文化の精華と位置付けることが可能ですが、井形さんはなんとしたことか次のような結論へと進まれます。

 「日本で鬼面文を棟端瓦に採用したことについては、一般に大宰府式鬼瓦が最初とされている。しかしそうであれ、それは必ずしも、大宰府の先進性を示すものだと考えることはできないと思う。具体的な造形の成立についてはともかく、鬼面の採用を決定したのは中央だと考えている。そもそも大宰府は出先機関であるし、それに資料的に見ても、大宰府式鬼瓦ときびすを接するようにして全国に鬼面文鬼瓦が展開してゆくわけであるが、それにあたって大宰府から都へという流れや、その後の全国への展開を考えるのは、不自然な上に迅速に過ぎるように感じられるからである。」(570頁)

 このように考察され、大宰府式鬼瓦の先例として平面的で陳腐な鬼の姿全体の造形を持つ平城京式鬼瓦Ⅰをあげられました。。
 列島内最大規模で唯一の古代防衛施設である水城・大野城・基肄城などを毎日のように誰よりも見ているはずの、九州王朝のお膝元ともいえる九州歴史資料館の優れた考古学者であっても、このような〝凍りついた発想〟から抜け出すことができない、大和朝廷一元史観の「宿痾」の深刻さを感じざるを得ません。
 井形さんが論文末尾に次のように記されていることが、かすかな希望と言えるのかもしれません。

 「とはいえ大宰府式鬼瓦こそは、そのような中にあって、確かに九州を一つと見なしうる場合もあることを、雄弁に物語る存在なのである。(中略)大宰府ありし日には、大宰府の威武を象徴する存在として雄々しく楼上に君臨し、いま大宰府史跡の象徴として扱われている大宰府式鬼瓦は、九州の歴史や文化を考え語る上でも、他をもって代え難い意義をもった大切な文化財として、ひときわ大きな存在感を見せているのである。」(572-573頁)

 大宰府式鬼瓦が九州王朝(倭国)の象徴として認識されるその日まで、大和朝廷一元史観の「宿痾」に立ち向かうことは、わたしたち古田学派の歴史的使命なのです。(つづく)

※太宰府出土「鬼瓦」に関して、次の「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。
第1673話 太宰府出土「鬼瓦」の使用尺
第1675話 太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)


第1842話 2019/02/20

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)

 前回までは『大宰府の研究』掲載の考古学論文を中心に紹介してきましたが、同書にはちょっと趣が異なる論文もあります。森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ―宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか―」です。これは古代歌謡学とでもいうべきジャンルの論文ですが、わたしはこのサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」に興味を引かれ、読み始めました。

 というのも、わたしは『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂の有名な歌、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」の「みかさの山」は奈良の御蓋山(標高約二八三m)ではなく太宰府の東にそびえる三笠山(宝満山、標高八二九m)のこととする古田説を支持する論稿を発表し、その中で万葉集に見える「みかさ山」も、通説のように論証抜きで奈良の御蓋山とするのではなく、筑紫の御笠山(宝満山)の可能性も検討しなければならないとしていたからです。森弘子さんの論文のサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」を見て、わたしと同様の問題意識を持っておられると思い、その論証と結論はいかなるものか興味を持って読み進めました。

 論文冒頭に、「秀麗な姿で聳える『宝満山』」「宝満山は古くは『竈門山』とも『御笠山』とも称し」と紹介された後、「筑紫万葉」とされる『万葉集』の歌を分析されています。古代歌謡に対する博識をいかんなく発揮されながら論は進むのですが、論文末尾に結論として次のように記されています。

 「宝満山の歌が一首も万葉集にないのは、たまたまのことかも知れない。しかしやはりこの山が、歌い手である都から赴任した官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかったということであろう。」(557頁)万葉集になぜ宝満山が歌われていないのかという鋭い問題意識に始まりながら、論じ尽くした結果が「たまたまのことかもしれない」「官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかった」では、何のための論文かと失礼ながら思ってしまいました。宝満山が御笠山という別名を持っていたことまで紹介されていながら、『万葉集』に見える「みかさ山」の中に宝満山があるのではないかという疑問さえ生じない。すなわち、『万葉集』に「みかさ山」とあれば疑うことなく「奈良の御蓋山」のこととしてしまう、この〝凍りついた発想〟こそ典型的な大和朝廷一元史観の「宿痾」と言わざるを得ないのです。(つづく)

※「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

平城宮朱雀門で観月会 みかさの山にいでし月かも??(『古田史学会報』28号、1998年10月)
○「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』43号、2001年4月)
○〔再掲載〕「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』98号、2010年6月)
○三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-(『九州倭国通信』193号、2019年1月)
○「洛中洛外日記」
第731話 「月」と酒の歌
第1733話 杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)


第1841話 2019/02/19

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(5)

『大宰府の研究』には、先に紹介した井上信正論文「大宰府条坊論」の他にも太宰府都城編年に関して大きなインパクトを持つものがあります。その一つが高倉彰洋さん(西南学院大学名誉教授)の「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」です。それは主に文献史学の研究により、観世音寺の伽藍完成を朱鳥元年(686)とするもので、この説を以前から高倉さんは主張されていました。
 実は太宰府都城編年において、最も矛盾が集中して現れるのが観世音寺創建年についてでした。井上信正説が最有力説として登場してからは、観世音寺の扱いが研究者間で密かな課題(悩みの種)となっていました。というのも観世音寺創建年については次のような諸問題(矛盾)が山積していたためでした。

1.通説では、天智天皇が亡き母斉明天皇を弔うために670年頃に観世音寺建立を発願し(『続日本紀』)、落成は8世紀中頃の天平18年(746)とされてきた。その間、80年近くを要しており、他の主要寺院には見られない長期の造営期間である。
2.他方、7世紀末頃には既に観世音寺が存在していたことを示す史料がある(注①)。
3.創建瓦の老司Ⅰ式瓦は藤原宮式瓦よりも古く、従来は7世紀後半頃(天智期)に編年されていた。後に、藤原宮式中段階の瓦と同時期とする見解が発表された(注②)。
4.観世音寺の本尊仏(注③)は百済伝来の阿弥陀如来像(銅製)と伝えられており、百済滅亡以前に渡来したと考えざるを得ない。そうであればその阿弥陀如来像を安置した観世音寺本堂は660年頃には存在していなければならない。
5.国内最古の銅鐘とされる観世音寺の鐘(国宝)は7世紀後半の鋳造と見られている(注④)。
6.『二中歴』などの後代史料に観世音寺を「白鳳年間」「白鳳10年(670)」の創建とする記事が見える(注⑤)。

 以上のような諸事実を直視すれば、観世音寺の創建年代は早ければ白鳳10年(670)、遅くても藤原宮完成年頃(694年遷都。『日本書紀』)となります。ところが観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期よりも、その南に拡がる条坊都市の成立が早いとする井上信正説が最有力説として登場したために、観世音寺創建年代を7世紀後半から末頃にしてしまうと、太宰府条坊都市の成立は大和朝廷の都藤原京よりも早くなってしまい、このことは一元史観の学界にとって不都合な事実となってしまいます。もちろん九州王朝説に立てば、当たり前のこととして受け入れることができます。このことを古代史学界や考古学界の識者が知らないはずがありません。ですから、観世音寺創建年をより新しくしたいという動機が諸論文に見え隠れするようになりました。
 そのような学界の状況下で、今回紹介した高倉論文は観世音寺伽藍完成を朱鳥元年(686)とするものですから、それを認めると太宰府条坊都市の造営は藤原京よりも数十年は早くなってしまうのです。わたしが高倉説が九州王朝説から見れば不十分ではあるものの高く評価するのはこの点にあります。
 更に高倉論文には、観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」を従来説の7世紀後半頃(天智期)よりも新しく編年(藤原宮式中段階)した岩永省三さんの説に対して次のような反論が論文中の「注17」でなされており、注目されます。

 「観世音寺伽藍の完成を朱鳥元年としたとき、創建瓦の老司Ⅰ式の年代が課題となる。近年の老司Ⅰ式に関する諸説を検討した岩永省三は、本薬師寺式系譜に有り、藤原宮式の中段階に併行するとする〔岩永二〇〇九〕。藤原宮中段階の瓦は藤原宮大極殿に葺かれている。大極殿の初見が文武二年(六九八)だから、中段階の瓦も六九八年以前に造られていたことになる。ただ、岩永が指摘するように藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。堂宇の建設に際して、まず骨格となる柱を建て、未完成の堂宇の内部や板材などの建築素材を雨の害から守るために瓦を葺くから、造瓦は大極殿造営事業の初めに行われる。それは六八〇年代前半であり、朱鳥元年に観世音寺伽藍の完成を考えたとき、老司Ⅰ式は藤原宮の瓦より数年早くなることになるが、国宝銅鐘の上帯・下帯を飾る偏行唐草文がその可能性を強める。」(517頁)

 老司Ⅰ式瓦の年代を藤原宮式まで新しく編年するという岩永説に対して、「藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。」とする高倉さんの批判は重要です。例えば大宰府式鬼瓦は立体的で美術品としての芸術性も高いのですが、大和朝廷の藤原宮の「鬼瓦」には曲線模様だけで「鬼」はなく、平城宮の時代になってもその鬼瓦の鬼の文様は扁平です。すなわち、大和朝廷の都の鬼瓦よりも地方都市とされた太宰府の鬼瓦の方が「王朝文化」を体現していることは著名です。
 それと同様に軒瓦も大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建瓦老司Ⅰ式が「精緻流麗」とする高倉氏の指摘は急所を突いたものです。しかし、それではなぜ太宰府の瓦の方が「精緻流麗」なのかという、学問としての本質的な問いへは進まれていません。ここに高倉さんの依って立つ大和朝廷一元史観の限界を見ることができます。
 ところが、九州王朝説に立てば、大和朝廷に先立つ列島の代表王朝「倭国」の都、王朝文化が先駆けて花開いた太宰府の瓦が「精緻流麗」であることは当然のこととして受け止めることができます。また、観世音寺が藤原宮(694年遷都)よりも古く、さらに太宰府条坊都市はその観世音寺(白鳳10年[670]創建)よりも古いという、井上信正説が通説の太宰府編年に鋭く突き刺さっていることも見えてくるのです。(つづく)

(注)
①「(朱鳥元年)観世音寺に封二百戸を施入する。」(『新抄格勅符抄』)
②岩永省三「老司式・鴻臚路館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』№7 2009年
③講堂の本尊は観世音菩薩立像(塑像)。天平年間の作製と見られている。
④「戊戌年」(698年)銘を持つ妙心寺鐘(国宝、京都市)の兄弟鐘とされており、観世音寺鐘の方が古く編年されている。
⑤『日本帝皇年代記』『勝山記』に白鳳10年(670)の創建と記されている。

※観世音寺に関しては次の「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

第219話 観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」の論理
第336話 『勝山記』の観世音寺創建記事
第405話 太宰府編年の再構築
第410話 観世音寺の水碓(みずうす)
第587話 観世音寺と観音寺
第588話 阿部周一さんからの「鎮西」試案
第811話 山崎信二さんの「変説」(1)
第1053話 瓦の編年と大越論文の意義
第1178話 観世音寺式寺院の意義に新説か
第1179話 観世音寺の創建年と瓦の相対編年
第1182話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)
第1186話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)
第1295話 井上信正説と観世音寺創建年の齟齬
第1392話 『二中歴』研究の思い出(5)
第1412話 観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦
第1638話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)
第1639話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)
第1640話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(3)
第1641話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)
第1642話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(5)
第1644話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)
第1694話 観世音寺古図の五重塔「二重基壇」
第1696話 観世音寺古図の史料性格
第1697話 「観世音寺古図」と資財帳の不一致
第1698話 「観世音寺古図」と出土遺構の不一致
第1699話 五重塔「創建基壇」の階段
第1772話 土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)


第1840話 2019/02/18

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(4)

『大宰府の研究』には、木村龍生さんの「鞠智城の築城とその背景」の他にも注目すべき鞠智城関連の論文があります。亀田修一さん(岡山理科大・教授)の「繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城」です。古代の代表的な山城の考古学的研究の概況を紹介された論文ですが、その中にわたしが以前から注目していた鞠智城の年代別の出土土器量グラフが掲載されていました。
 拙稿「鞠智城と神籠石山城の考察」(『古田武彦は死なず』所収〔『古代に真実を求めて』19集〕2016年、明石書店)でも触れましたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、鞠智城から出土する土器の年代別出土量は7世紀末から8世紀初頭に最大値を示した後、その後の約半世紀はゼロになるのです。この異常変化の背景や理由を一元史観ではうまく説明できておらず、次のような説明に終わっています。

 「(前略)鞠智城が七世紀後半に築城され、八世紀中葉前後に一時空白、九世紀後半に一時使用されたようではあるが、十世紀にはほとんど使用されなくなった様子を示しているようである。」(292頁)

 この七世紀末頃の鞠智城の最盛期とその直後の八世紀中葉の出土土器ゼロへの激減こそ、701年に起こった九州王朝の滅亡や大和朝廷による筑紫支配や肥後進出の痕跡ではないでしょうか。九州王朝による防衛施設として鞠智城をとらえたとき、その変遷(701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替)の反映として考古学的出土事実を理路整然と説明できると思われるのです。(つづく)


第1839話 2019/02/17

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(補)

 「洛中洛外日記」で連載した表題のテーマについて、学術論文とするために加筆削除修正などを行い、『古田史学会報』に投稿しました。特に論証上必要な次の「注」を加えましたので、ご参考までに転載します。

【以下、転載】
③『難波宮址の研究 研究予察報告第四』掲載須恵器「35」と『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』掲載須恵器[7]が同じ土器であると判断したのは次の資料事実等による。
(a)それぞれの図版を比較すると、両土器のサイズや形態が近似している。
(b)『研究予察報告第四』には発掘調査地区名(出土地)を「第十二次北地区」としている。他方、『研究予察報告第五』では「第十四次東地区(第十二次北地区)」と併記されており、「第十二次北地区」と「第十四次東地区」が同じ場所であることを示している。
(c)『研究予察報告第四』には須恵器「35」以外に子持勾玉「37」が掲載されているが、その勾玉と同型同サイズで破損箇所も同じ子持勾玉「6」が『研究予察報告第五』に掲載解説されている。このことから、『研究予察報告第四』では解説無しで実測図に掲載された出土物が『研究予察報告第五』で再録解説されていることがわかる。同様の再録遺物はこの他にも見える。
 このように『研究予察報告第四』の実測図に解説無しで掲載された須恵器「35」などを、次号の『研究予察報告第五』で再録解説した事情について、両報告書の執筆者である中尾芳治氏に確認したいと考えている。


第1838話 2019/02/16

本日の二大テーマ「大化改新詔」と「磐井の乱」

 本日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催します。6月16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です。会員の皆様のご出席をお願いします。
 今回の関西例会では服部静尚さんと正木裕さんから古代史の重要テーマ「大化改新詔」と「磐井の乱」についての研究発表がなされました。いずれも九州王朝説や古田説に密接に関わるテーマで、論争や質疑が活発になされました。
 服部さんは、『日本書紀』孝徳紀に記された一連の「大化改新詔」について、『大宝律令』に基づく詔勅を孝徳期にずらしたものか、実際に孝徳期に出されたものかという古代史学界で永年にわたり論争が続いているテーマをとりあげられました。そして、各詔を個別に検証し、7世紀半ば(孝徳期)に出されたものとしても問題なく、逆に『大宝律令』の頃としなければならない例はないとされました。それに対して、西村秀己さんから、『日本書紀』では九州年号の「大化」が50年ずらして転用されており、その目的は「大化改新詔」を「大化」年号ごと移動させたとする立場から反論がなされました。この論争は関西例会では数年前から続けられているもので、まだまだ決着がつきそうにありません。引き続き、新たな視点からの検討や論争が必要と思われました。双方の主張に一理あり、わたし自身まだ判断できませんが、どちらかというと西村さんの意見に近いような気がします。
 正木さんからは、古田学派内でも諸説あるテーマ「磐井の乱」の実態について、史料に基づいた丁寧な検証が必要と訴えられ、その第一回目として『日本書紀』継体紀の検証結果を中間報告されました。旧古田説では「磐井の乱」ではなく「継体の反乱」とされましたが、その後、新古田説として「乱」そのものがなかったとされました。この問題について、一定の決着をつけようとする今回の正木さんの試みについて、これからの展開が楽しみです。
 正木さんによる事務局長報告では、毎週のように関西各地(大阪市・豊中市・和泉市・京都市)で開催される研究会・講演会の報告があり、関西で古田史学の影響力が着実に広まっていることが実感されました。各取り組みにおける会員の皆様の物心両面にわたるご協力に心から感謝いたします。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①「筑紫天皇家」という新しい概念について(茨木市・満田正賢)
②古代人の神へのアプローチの普遍性(京都府大山崎町・大原重雄)
③「肥後の翁」は誰か 住吉神社の神領についての補足(奈良市・原 幸子)
④大化改新・大化の詔 分析(八尾市・服部静尚)
⑤水曜研究会での論議紹介「大化改新」(八尾市・服部静尚)
⑥「帝王本紀」の理解(東大阪市・萩野秀公)
⑦「磐井の乱」とは何か(1)(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
◆新入会員、会費納入状況の報告。
◆『古代に真実を求めて』22集「倭国古伝」編集状況(服部静尚編集長)。
◆2/01 「続日本紀研究会」服部さん発表の報告。
◆2/03 新春古代史講演会(大阪府立ドーンセンター)の報告。
◆2/15 「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター)の報告。講師:正木裕さん。演題:三々九度の起源を求める三千年の旅。
◆2/19 「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。講師:服部静尚さん。演題:聖徳太子と四天王寺。毎月第三火曜日18:30〜20:00(会場:キャンパスプラザ京都)。
◆2/22 「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木裕さん主宰)。講師:正木裕さん。演題:羽衣伝承の真実。
◆3/05 「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館)。講師:正木裕さん。演題:よみがえる日本の神話と伝承。
◆3/11 「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター)
◆3/25 五代友厚展での講演案内(会場:辰野ひらのまちギャラリー)講師:服部静尚さん、正木裕さん。
◆4/19 『古代に真実を求めて』出版記念講演会。「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催(会場:奈良県立情報図書館)。講師:正木裕さん、服部静尚さん、古賀。
◆6/16 「古田史学の会」会員総会と懇親会(会場:I-siteなんば)。
◆「水曜研究会」の案内(最終水曜日に開催。会場:豊中倶楽部自治会館)連絡先:服部静尚さん。
◆「古田史学の会」関西例会の会場。3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催。
◆その他。


第1837話 2019/02/15

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(3)

『大宰府の研究』には優れた考古学論文がいくつも収録されていますが、太宰府以外に肥後の鞠智城に関する論文もあり、編集者の意図がうかがわれます。たとえば木村龍生さんの「鞠智城の築城とその背景」(367〜376頁)は、鞠智城が筑後・肥後・豊後などを結ぶ交通の要衝にあることや、鉄や米の生産地との関わりなどについて解説された好論です。その末尾には次のような一節があり、木村さんの問題意識が示されています。

 「なお、鞠智城と同じように、成立時期が文献に出てこない重要施設として大宰府がある。大宰府も政庁が成立する以前には古墳時代の集落が形成されていたものと考えられる。それがいつの段階かに、大宰府として成立していたということになる。大宰府についても、政庁が成立する以前は、既存施設の改修が行われ、何らかの拠点あるいは施設として使用されていたのではないかと、個人的には考えている。そういう点からして、鞠智城と大宰府はその成立過程が似ているように感じているし、成立後の変遷はお互い連動するように変遷していくという特徴がある[小田 二〇一二、西住・矢野・木村 二〇一二]。このような点から、鞠智城の研究は大宰府の研究と連動して行っていく必要がある。今後の大宰府の研究成果からも、鞠智城の新たな研究視点・検討課題も出てくるものと考えられる。」(376頁)

 この木村さんの「鞠智城と大宰府はその成立過程が似ているように感じているし、成立後の変遷はお互い連動するように変遷していくという特徴がある。このような点から、鞠智城の研究は大宰府の研究と連動して行っていく必要がある。」という指摘は貴重です。この視点こそ、九州王朝の都城「太宰府」とその防衛拠点「鞠智城」という九州王朝説による研究課題に他ならないからです。
 鞠智城造営年代については6世紀末〜7世紀初頭頃とする考察を「洛中洛外日記」の1206話「大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営」、1207話「鞠智城7世紀前半造営開始説の登場」、1272話「『季刊考古学』136号を読む」で発表していますので、ご照覧いただければ幸いです。
 なお、2016年5月にわたしが鞠智城を訪問したとき、同遺跡付属の温故創生館が休館日にもかかわらず、木村さんに鞠智城のご案内と出土物の解説をしていただきました。改めて感謝いたします。(つづく)


第1836話 2019/02/13

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(2)

太宰府に関する最先端研究の集大成『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)は九州王朝説・古田学派の研究者も謙虚に学ぶべき一冊です。一元史観の考古学者や研究者の言うことは信用できない、信用しなくてよいとして、頭から拒絶される方もおられるようですが、たとえ一元史観によっていたとしても歴史学における「先行研究」ですから、学ぶべき知見は少なくないとわたしは考えています。批判するのであれば、なおさらその対象論文を正確に読み取り検討する必要があります。
 わたしは遺跡や遺物を研究対象とされている考古学者からはこれまでも多くのことを教えられてきましたし、画期的な業績や研究も数多くありました。その優れた考古学的業績の一つが井上信正さん(太宰府市教育委員会)の太宰府条坊研究です。これまでも「洛中洛外日記」で何度も紹介してきたところです。
 『大宰府の研究』にも井上さんの論文「大宰府条坊論」(461〜481頁)が収録されており、わたしは真っ先に読みました。これまでの太宰府条坊研究史を紹介され、後半は自らが発見された90m四方の太宰府条坊が政庁や観世音寺に先行して造営され、その時期は藤原京条坊と同時期の7世紀末頃とする説を解説された論文です。その多くは既に発表された井上論文により知っていた内容でしたが、従来の自説を更に一歩進められた注目すべき予察が「(3)当初の条坊区画、範囲、そして変遷に関する予察」と論文末尾の「註」に記されていました。それは政庁Ⅰ期時代の初期条坊の範囲とその中央宮殿の位置に関する次のような記述です。

 「四条路と二十二条路は、水城の東西各門を通る官道との接続が想定される政庁Ⅱ期当初からの重要道である。この間は政庁Ⅱ期当初から条坊範囲と認識されていたことは間違いない。ここには十八区画(坪)あるが、これを坊と同様、二区画(坪)をもって一条とみると、範囲は九条となる。これも宮都と同じ条数となる。」(478頁)

 「註(28) 条坊の東西軸の設計について考察する中で、官道が接続する南北十八坪(九条)の規格と政庁・広場・朱雀門の配置関係に注目し、Ⅰ期条坊を利用したが故の特徴がⅡ期整備に表出していると考えるものである。これに右郭四坊路ラインをⅠ期の条坊の南北基準線とする想定〔井上二〇〇九a〕を加味すると、Ⅰ期条坊は通古賀地区を中心とした九条九坊(十八坪×十八坪)だった可能性もでてくるが、後考を待ちたい。」(480頁)

 太宰府条坊図がないと文章だけではわかりにくいのですが、ここでの井上さんの予察は次のようなものです。

①水城の東西の門に繋がる官道の位置などから、太宰府条坊創建当時(政庁Ⅰ期と同時期)の条坊の範囲は、現在の条坊都市よりも狭く、九条九坊の範囲であった(二区画を一条、一坊とする)。
②この「九条九坊」の条坊数は「宮都(平安京など)」と同様である。
③当初(Ⅰ期)の条坊都市の南北中心線は扇神社がある通古賀地区の現右郭4坊路となる。

 井上さんは以前の論文でも政庁Ⅰ期当初の条坊の中心を通古賀の扇神社付近とされ、その根拠として扇神社付近からは7世紀の土器が出土し、その真南線上に基肄城山頂があることから、それをランドマークとして、条坊の南北中心軸が設定されたのではないかと推察されていました。
 この井上さんの「註」で示された予察こそ、7世紀前半頃に多利思北孤が造営した九州王朝の都「倭京」としての太宰府条坊都市の本来の規模と様式(条坊都市の中央に宮殿が位置する「周礼型」)ではないでしょうか。そして、7世紀後半頃(670年頃)に政庁Ⅱ期の宮殿と朱雀大路(Ⅱ期)を増設し、北闕型(条坊都市の北側に宮殿を置く)の都市にしたものと思われます。このように、井上さんの研究や仮説は九州王朝研究にとって、多利思北孤や筑紫君薩野馬の都「倭京」を復元研究するうえでも重要なものなのです。この井上論文は『大宰府の研究』の中でも出色の研究ではないでしょうか。(つづく)


第1835話 2019/02/10

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(1)

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りした『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)は太宰府に関する最先端研究の集大成ともいうべきもので、古田学派の研究者にとっても学ぶべき知見が多数紹介されています。今後、太宰府研究に当たっては先行説を知る上でも必読の一冊です。同書は歴史学や考古学の専門書ですから、読む機会のない方も少なくないと思われますので、「洛中洛外日記」で重要な点や興味深いテーマに絞って、九州王朝説の視点から紹介することにします。
 とは言っても、全43論文700頁以上の大作ですから、わたしも精査や理解に時間がかかりますので、どのようなペースでいつまで続けられるかわかりません。途中で挫折するかもしれませんが、読者の皆さんには気長にお付き合いしていただければ幸いです。(つづく)