2019年09月一覧

第2003話 2019/09/29

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(7)

 『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説(思いつき)についても、それが妥当か否か、「古田史学の会」関西例会で研究者のご意見を聞いてみました。
 そうしたところ、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)から、『日本書紀』に見える「四道将軍」が「都督」ではないかとするご指摘をいただきました。そこで更にわたしが「将軍と都督を同じとしても問題ありませんか」とたずねると、中国史書には「将軍」と「都督」が同じ人物とする例があるとの返答でした。確かに『宋書』倭伝にも倭の五王の称号として、倭王武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」としており、その称号中に「都督」と「将軍」があります。
 茂山さんが指摘された『日本書紀』崇神十年九月条に見える、いわゆる「四道将軍」(大彦命・武渟川別・吉備津彦・丹波道主命)を「四道」(「北陸」「東海」「西道」「丹波」)に派遣する記事は、景行紀の「東山道十五國都督」の先例かもしれません。しかし、この記事の実年代は4世紀頃とされていますから、倭国が中国南朝の冊封を受けていた時代です。当時は倭王自身が中国の天子の下の「都督」「将軍」と思われますから、日本列島内征討軍のトップが倭王と同列の「都督」の称号を持つことは考えにくいと思われます。
 とは言え、この記事のように「道」毎に「方面軍」を派遣し、支配領域を拡大するという戦略は倭国の伝統的な方法ではないでしょうか。茂山さんのご指摘により、こうしたテーマへの認識を深めることができました。(つづく)


第2002話 2019/09/28

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)

 九州王朝(倭国)の「都督」を論じる際、必ず触れなければならない出色の論文があります。山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)です。
 この山田論文はそれまで不明とされてきた『日本書紀』景行五五年条に見える、「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であるという、目の覚めるような論証に成功されました。その上で、この「東山道十五國の都督」任命記事について、「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代において、信頼する有力な者を『東山道の周辺諸国』を監察する『都督』(軍を自由に動かすことができる官職)に任命した」と解されました。この指摘は九州王朝の全国支配体制を考察する上で、貴重な仮説と思われます。
 山田論文にある「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代」こそ、日本列島初の朝堂院様式の宮殿(朝庭)を持つ前期難波宮創建(652年、九州年号の白雉元年)の頃に対応するものと思われます。すなわち、7世紀中頃の評制施行時期に「東山道十五國都督」が任命されたのではないでしょうか。この点、もう少し丁寧に論じます。それは次のようです。

①山田論文によれば、景行紀の「東山道十五國」という表記は太宰府を起点とした国数であることから、それは九州王朝系史料に基づいている。
②そうであれば、彦狭嶋王を「東山道十五國の都督」に任じたのも九州王朝と考えざるを得ない。
③従って、「都督」という官職名も九州王朝系史料に基づいたことになる。
④中国南朝の冊封を受けていた時代は、九州王朝の倭王自身が「都督」であるから、その倭王が部下を「都督」に任じたということは、中国南朝の冊封から外れた6世紀以降の記事と見なさざるを得ない。
⑤『二中歴』「都督歴」によれば最初の「都督」に蘇我臣日向が任じられた年を「孝徳天皇大化五年(649)」としていることから、彦狭嶋王の「東山道十五國の都督」任命もこの頃以降となる。

 およそ、このような論理構造(論証)によれば、景行紀の「都督任命」記事は、本来は7世紀中頃のこととすべきではないでしょうか。この理解が正しければ、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかと想像されます。しかしながら、彦狭嶋王の年代はもっと古いとする研究(藤井政昭「関東の日本武命」、『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)もあり、この点、引き続き検討が必要です。(つづく)


第2001話 2019/09/27

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(5)

 『二中歴』「都督歴」に見える記事「孝徳天皇大化五年(649)」を根拠に、九州王朝が評制施行と同時期に筑紫の「都督」も任命したと理解してよいのか、それとも本来は「太宰帥」とあった官職名を「都督歴」成立時に唐風に「都督」と記したと理解するのかで、7世紀後半の「評制」期において、「都督」を「評督」の上位職としてよいのかどうかが決まります。そこでこのテーマに関して、9月21日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を聞いてみました。
 正木さんのご意見は、筑紫小郡の「飛鳥」にいた九州王朝の天子が太宰府に「都督」を置いたというものでした。これは九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 この見解に立ったとき、更に問題となるのが、この筑紫の「都督」を「評督」の直属の上司とできるのかということです。行政区画としての「評」の上には「国」があり、行政単位としての「国」が機能していたとすれば、そのトップとして「国司」「国造」の存在もあったわけですから、その場合、「評督」の直属の上位職は「国司」あるいは「国造」となります。これは7世紀後半における九州王朝(倭国)の統治形式やそれを定めた「九州王朝律令」に関わる重要な研究テーマです。
 そうなりますと、九州王朝における「都督」の性格に関する考察が必要です。このことについても、わたしには思い当たることがあり、「古田史学の会」関西例会に参加されていた研究者にご意見を聞いてみました。(つづく)


第2000話 2019/09/26

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(4)

 『二中歴』「都督歴」冒頭の次の記事を根拠に、わたしは「評督」の上位職として、筑紫に「都督」もいたという可能性について考えて続けてきました。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 もしこの「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649)」に筑紫に「都督」がいたことになり、同時にその居所の「筑紫本宮」が筑紫の「都督府」と考えざるを得ません。そうすると『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」は、「評督」の上位職である「都督」がいた九州王朝による「筑紫都督府」と理解することが可能となります。
 この天智紀の「筑紫都督府」を巡っては、古田学派内でも九州王朝の「都督府」とする説と、白村江戦後に唐が倭国に置いた「都督府」とする説があり、今日まで論争が続いてきました。古田先生も両説の間を揺れ動かれたことがあるほどの難問ですので、用心深く検討を続けます。(つづく)


第1999話 2019/09/25

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(3)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた二つ目の質問「都督は評督の上位職位か」について、わたしは用語としての「評督」の淵源として「都督」があり、両者の関係は認められるが、職掌としては「都督」は「評督」の上位職ではないと返答しました。
 このときのわたしの認識は、『宋書』などに見える倭王が「都督」と名乗っているのは、中国南朝の冊封を受けた九州王朝(倭国)の時代のことであり、評制が施行された7世紀中頃は中国南朝は滅んでおり、九州王朝(倭国)の天子は「都督」を名乗っていないと考えていました。九州王朝の天子(倭王)が各地の「評督」を任命したわけですから、この時代では「都督」が「評督」の上位職ではありえないとしたわけです。
 しかし、この考えは本当に正しいのだろうかと、講演会以後、わたしはずっと気になっていました。というのも、『二中歴』所収「都督歴」冒頭の次の記事が脳裏に浮かんでいたからです。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 この記事については、「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟1579話(2018/01/18)〝「都督歴」と評制開始時期〟で論じていますのでご参照いただきたいのですが、この「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649年)」に初めて蘇我臣日向が「筑紫本宮」の「都督」に任じられたわけですから、ちょうどこの時期に施行された「評制」と対応しています。そうすると、全国各地の「評督」の上位職として「筑紫本宮」の「都督」も存在していたことになります。もちろんこの場合の「都督」は九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 通説ではこの「都督」とは「太宰帥」の唐風の呼び方であり、実際に7世紀中頃に「都督府」や「都督」が筑紫に実在していたとはされていません。しかし、この通説の理解が正しいとは考えにくいため、やはり7世紀中頃に任命された各地の「評督」の上位職として筑紫の「都督」がいたと考えるべきではないかと、わたしの認識は揺れ動いていたのです。(つづく)


第1998話 2019/09/23

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(10)

 飛鳥(飛鳥池遺跡・石神遺跡等)からの出土木簡に「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」とあることから、そのような職掌が飛鳥浄御原宮にあったことは明らかですが、通説のように「浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたとするには、その「官」はいわゆる上級官省(大蔵省・中務省・民部省・宮内省・刑部省・兵部省・治部省などに相当する官省)とはいえず、その下部官庁ばかりです。もちろん、たまたま「下部官庁」木簡だけが遺存し出土した可能性も否定できませんが、それにしても不自然な出土状況とわたしは感じていました。たとえば藤原宮や平城宮からは上級官省を記した木簡も出土しているからです。

 前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかとわたしは推定しています。従って、藤原宮(京)が完成するまでは、前期難波宮か近江大津宮にそれら上級官省が残っていたと思われます。例えば『日本書紀』に見える次の記事などはその痕跡ではないでしょうか。

○「丁巳(二十四日)に、近江宮に災(ひつ)けり。大蔵省の第三倉より出でたり。」天智十年(671)十一月条
○「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉く焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」朱鳥元年(686)正月条

 この「大蔵省」が7世紀当時の名称なのか、『日本書紀』編纂時の名称なのかという問題はありますが、「大蔵省」に相当する官庁が近江宮や難波宮にあったとする史料根拠と思われます。7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交替の経緯を考察する上で、こうした推測は重要な視点と思われます。考古学的にも、孝徳天皇没後も白村江戦の頃までは、飛鳥よりも難波の方が出土土器の量は多く、遺構の拡張なども活発であることが明らかにされており、わたしの推測と整合しているのです。
大阪歴博の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号、2017年3月)に次の指摘があり、注目しています。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)


第1997話 2019/09/22

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(2)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた質問は次の二つです。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

 ①の回答として、評制開始時期を七世紀中頃、より正確には648〜649年頃としました。このこと自体は妥当な見解ですが、その根拠として、「七世紀中頃に評制が全国的に開始されたとする史料が10点くらいある」と説明しました。しかし、これはわたしの思い違いでした。ある地域の「建評」記事が記された史料を加えればそのくらいはあるのですが、全国的な評制開始と解しうる記事は管見では次の5史料でした。詳細は「洛中洛外日記」(2018/01/13)〝評制施行時期、古田先生の認識(9)〟をご参照下さい。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)
 「難波朝廷天下立評給時」
 難波朝廷(孝徳期、七世紀中頃)が天下に評制を施行(立評)したと記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」
 この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、七世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて、「評」を「郡」と書き換えているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということです。それ以外の時期に全国的に「評制」が開始されたとする史料は見えませんから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ません。
 先に述べたように、ある地域における七世紀中頃での「建評」記事はこの他にも散見されますが、そうした地域限定記事だけを根拠に九州王朝の全国的「評制」開始時期を判断することはできません。(つづく)


第1996話 2019/09/21

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者からとても重要なご質問をいただきました。それは次の二つの質問です。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

講演会では会場使用の締め切り時間が迫っていたこともあり、丁寧な返答ができませんでしたし、わたしの記憶違いなどもあって、不十分で不正確な回答となってしまいました。
 その後、ご質問の内容と自らの回答の当否が気になっていたため、検討を続けてきました。その結果、九州王朝(倭国)における「都督」問題について新たな可能性に気づきましたので、この「洛中洛外日記」でご質問への回答に修正を加え、新たに到達した認識について報告します。ご質問していただいた方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられればよいのですが。(つづく)


第1995話 2019/09/21

「奈良新聞」が『倭国古伝』を紹介

 本日、「古田史学の会」関西例会がI-siteなんばで開催されました。10月、11月はアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)、12月はI-siteなんばで開催します。
 今日の発表で最も印象深かったのが谷本さんの『古事記』真福寺本の史料批判でした。真福寺本に見える「沼弟(ぬおと)」を〝銅鐸の音〟とされた古田説に対して、「弟」は「矛」の誤字あるいは古い字体と考えた方がよく、通説通り「沼矛(ぬほこ)」と解すべきとされました。
 同様の研究は安藤哲朗さん(多元的古代研究会・会長)もなされており(未発表)、また真福寺本の字形は「沼弟」ではなく、「治弟」であるという指摘も古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人)がされてきたところです(「洛中洛外日記」657話 2014/02/08〝『古事記』真福寺本を見る〟)。わたしも真福寺本(1371〜1372年書写)とほぼ同時期に成立した『古事記』道果本(1381年書写。天理図書館蔵)には「沼矛」とあることを「洛中洛外日記」676話(2014/03/11)〝『古事記』道果本の「天沼矛」〟で報告したことがありましたので、感慨深く谷本さんの報告を聞きました。
 正木事務局長からは、「奈良新聞」9/19に『倭国古伝』が写真付きで紹介されたことの報告がありました。同新聞を竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からいただきました。「奈良新聞」読者3名に『倭国古伝』をプレゼントするという企画で、「九州王朝から大和朝廷へ、8世紀初頭の王朝交替で葬り去られた古代の真実を再発見する論考を集めた。勝者の史書と、各地に残る敗者の伝承を読み解く。『姫たちの古代史』『英雄たちの古代史』『神々の古代史』の3部構成。」と、同書を正確に好意的に紹介されていました。ありがたいことです。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔9月度関西例会の内容〕
①なぜ蛇は神なのか? オロチを切るスサノオ(大山崎町・大原重雄)
②横穴式石室について(八尾市・服部静尚)
③竹斯国と国の領域ー隋書国伝の新解釈ー(姫路市・野田利郎)
④「日本」をヤマトと読ませた『日本書紀』の謎解明への一考察(高槻市・佐々木茂男)
⑤『古事記』真福寺本の史料価値(神戸市・谷本 茂)
⑥「石井の乱」と九州年号「継体」ー石井の乱はいつ発生したかー(大阪市・西井健一郎)
⑦三品論文「継体紀の諸問題」の二つの要点について(茨木市・満田正賢)
⑧筑紫君磐井は「九州年号」を作り、聖徳太子の生涯も「九州年号」で記されていた(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆新入会員情報(8月から7名入会。『倭国古伝』読者の入会が多い)。

◆9/16(月・祝) 13:30〜17:00『倭国古伝-姫と英雄と神々の古代史』出版記念東京講演会(文京区民センター)と懇親会の報告。

◆「奈良新聞」9/19に『倭国古伝』が写真付きで紹介されました。

◆10/26(土) 13:30〜15:30 「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール(近鉄八尾駅から徒歩5分)
 ①「九州王朝説とは」②「恩智と玉祖-河内に所領をもらった神様」講師:服部静尚さん。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(正木 裕さん主宰)
 9/27 18:45〜20:15 「中国正史の東夷伝と短里-漢書から梁書まで」講師:谷本 茂さん(古田史学の会・会員)。
   ※会場:アネックスパル法円坂。
 10/25 18:45〜20:15 「古墳・城郭を地域に活かす」講師:正木 裕さん。   ※10月から、会場が以前の森ノ宮キューズモールに戻ります。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 10/01 10:00〜12:00 「万葉集①〜白村江の戦い・開戦前夜」講師:正木 裕さん。
 11/05 10:00〜17:00 「万葉集②〜白村江の戦い」講師:正木 裕さん。    ※この回の会場:奈良新聞本社西館(奈良市法華寺町2番地4)
 12/03 10:00〜12:00 「万葉集③〜白村江の戦い」講師:正木 裕さん。    ※この回の会場:奈良新聞本社西館(奈良市法華寺町2番地4)

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 10/08 14:00〜16:00 「壬申の乱」講師:服部静尚さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
10/15 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」講師:服部静尚さん。

◆9/14 豊中歴史同好会の参加報告。


第1994話 2019/09/19

福島原発事故による古田先生の変化(3)

 古田先生が、ミネルヴァ書房版『ここに古代王朝ありき』巻末の「日本の生きた歴史(五)」(2010年8月6日)を執筆された翌年の3月11日に東北大震災が発生し、数日後には福島第一原発が爆発しました。この災難に「古田史学の会」も翻弄されました。とりわけ、「古田史学の会・仙台」の会員の方々と連絡がとれず、何ヶ月も憂慮する日々が続きました。東北大学ご出身の古田先生には尚更のことと思われました。たとえば、阪神淡路大震災のときも古田先生は被災者に心を痛められ、当時出版されたご著書の印税などを神戸市に寄贈されたこともあったほどですから。
 特に原発の爆発事故には深く関心を示されたようで、翌2012年11月20日には東京大学教授の安冨歩さんの著書『原発危機と東大話法』(2012年1月、明石書店)が古田先生から贈られてきました。今までも歴史関係の本や論文を頂いたことは少なくなかったのですが、この種の本を先生から頂いたのは初めてのことでした。
 そうしたこともあって、古田先生と原発問題などについて話す機会が増えました。そのことを記した「洛中洛外日記」を紹介します。

【以下、転載】
「洛中洛外日記」514話(2013/01/15)
「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であり、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあり、今回書いてみました。
【転載おわり】

 おそらく、福島第一原発の爆発事故により、古田先生は核兵器や原発についての考察をより深め、考えを変えられたのではないかとわたしは推測しています。(つづく)


第1993話 2019/09/18

ミネルヴァ書房「日本評伝選」200巻

 「古田史学の会」では会員論集『古代に真実を求めて』を明石書店(東京)から発行していますが、ミネルヴァ書房(京都市)からも『「九州年号」の研究』『邪馬壹国の歴史学』を発行していただいています。ミネルヴァ書房は古田先生の著書復刻を手がけておられ、現在では手に入りにくくなっていた古田先生の著書が書店や図書館に並ぶこととなりました。古田史学を再び広く世に知らせる事ができ、ミネルヴァ書房には感謝しています。
 そのミネルヴァ書房・杉田啓三社長への取材記事が「読売新聞」2019年9月16日の文化欄に掲載されていることを服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長)から教えていただきました。その記事は「日本評伝選」200巻発行の記念特集のようで、「半永久的に続ける覚悟」との見出しと共に杉田社長の写真が掲載され、比較的大きな扱いでした。
 同社が刊行を続けている「日本評伝選」は日本の歴史的人物を一人ずつ紹介するという人気企画です。ちなみにその最古の人物として邪馬壹国の俾弥呼が選ばれており、もちろん著者は古田先生です。記事には杉田社長のお話として、古田先生の名前が次のように出されています。

 「政治家、学者から芸術家、外国人まで幅広いラインアップにこだわりを詰め込んだ。卑弥呼の正式な名前に焦点を当てた『俾弥呼(ひみか)』(古田武彦著)や、伝説のプロレスラーの生涯を追った『力道山』(岡村正史著)など硬軟取り混ぜ、近年は『田中角栄』(新川敏光著)が話題を呼んだ。」

 わたしは、てっきり『親鸞』も古田先生が書かれるものと思っていましたが、残念ながら別の方が書かれています。この企画は「半永久的に続ける覚悟」とのことですから、いつの日かには『古田武彦』も出版されることでしょう。ちなみに古田先生の恩師『村岡典嗣』(水野雄司著、2018年)は既に出版されています。そういえば、古田先生は「わたしは『秋田孝季(あきたたかすえ)』を書きたい」とおっしゃっていました。村岡先生が書かれた名著『本居宣長』を意識してとのことと思います。


第1992話 2019/09/17

難波京(上町台地)建造物遺構の方位

 昨日開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会は90名ほどの参加があり、盛況でした。「東京古田会」「多元的古代研究会」をはじめてとしてご協力いただきました皆様に御礼申し上げます。来年ももっと面白い『古代に真実を求めて 23集』を発行して、全国各地で講演会を開催したいと思います。
 講演会後の懇親会では肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、東村山市)と隣席になり、近年、肥沼さんが精力的に研究を進められている「方位の考古学」について意見交換させていただきました。そして、わたしが研究している前期難波宮・難波京の年代別の建築物遺構の方位について説明しました。
 そこで、わたしが参考にした研究論文を紹介します。それは、平成26年(2014)3月、大阪歴博から発行された『大阪上町台地の総合的研究 ー東アジア史における都市の誕生・成長・再生の一類型ー』に収録された市川創さんの「受け継がれた都市計画 ー難波京から中世へー」という論文です。
 それには難波京の年代として7世紀中葉から9世紀初頭を大きくは四期(Ⅰ:7世紀中葉〜後葉、Ⅱ:7世紀後葉〜8世紀初頭、Ⅲ:8世紀前葉〜8世紀後葉、Ⅳ:8世紀末〜9世紀初頭)に分類し、難波京から出土した79の建造物遺構の年代とその方位を地域別にまとめた一覧表が提示されており、年代により建物の方位がどのように変化しているのか、あるいは変化していないのかが一目でわかります。
 同一覧表によれば、難波宮周辺と四天王寺周辺とその間は条坊に沿った正方位(正確には南北軸が東偏0度40分)が多くみられますが、その他の地域では難波京内でも条坊とは無関係に方位置はばらばらです。そのことから、難波京の条坊は朱雀大路を中心に東は2街区、西は4街区ほどの範囲と見られるとされています。そして、「京の完成度」として、「台地上に位置し起伏が大きいという地形上の制約もあり、正方位の地割が面的に京域を覆うには至らない。」とされています。
 なお、条坊区画距離の実測値から計算すると条坊の造営尺は1尺=29.49cmとされています。これは藤原京造営尺とほとんど同じです。他方、前期難波宮の造営尺は1尺=29.2cmと復元されており、宮殿と条坊の使用尺が異なることから前期難波宮造営時期と条坊造営時期が異なるのではないかと市川さんは指摘(難波京の本格的な測設を天武朝とする)されています。同時期の部分もあるとする説もあり、今後の研究課題です。
 652年(九州年号の白雉元年)に完成したと『日本書紀』に記されている前期難波宮と、難波京条坊は正方位なのに、619年(九州年号の倭京二年)の創建と『二中歴』に記されている難波天王寺(四天王寺)は約4度西偏しています。どちらも九州王朝による造営とわたしは考えていますが、なぜこの違いが発生したのか、今のところよくわかりません。
 このような話を肥沼さんにさせていただきました。「方位の考古学」はまだ生まれたばかりの学問領域ですから、これからしっかりとしたエビデンスに基づいて研究を進めたいと考えています。