2020年12月一覧

第2311話 2020/12/06

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(2)

 「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木さんが発表された〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟で、『三国志』に長里が混在する可能性があるケースとして次の諸点をあげられました(古賀からの追加例を含む)。

(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない里数値の場合。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合。
(3)長里により成立した成語の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走る名馬)とは逆のケース。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 これらのケースでは長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は公認の短里で『三国志』を編纂するという姿勢を貫いたはずです。長里記事をどのように引用・記載するべきか、編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。
 正木さんからの、『三国志』長里混在の可能性という問題提起により、魏朝での短里採用時期へと関西例会の論議は進展しました。(つづく)


第2310話 2020/12/05

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)

 本年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」〟というテーマを発表されました。福岡市の比恵・那珂遺跡の紹介など多彩な研究成果や新情報が紹介され、好評を博しました。
 その質疑応答において、魏朝で短里が使用されたのはいつからかという質問に対して、明帝の景初元年(237)ではないかと正木さんは回答されたのですが、それには史料根拠がなく、論証されていないというような反論が出されました。時間がなかったので、わたしは発言しませんでしたが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が既に景初元年(237)短里開始説を論証し、論文発表されていることをご存じないようでした。良い機会ですので、同説の発表経緯も含めてあらためて紹介することにします。
 ことの発端は、約6年前の「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)での正木さんの発表〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟でした。そのとき次のような論議が行われました。
 正木さんからは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。そして、魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが「暦法を周制に変更した明帝の時ではないか」とする見解を示されました。(つづく)


第2309話 2020/12/04

古田武彦著『古代通史』が復刻(ミネルヴァ書房)

 ミネルヴァ書房(京都市)から古田武彦著『古代通史』(注①)が復刻されました。ミネルヴァ書房から贈呈していただいた同書には、『東日流外三郡誌』の編著者秋田孝季と和田長三郎の名前が記された寛政宝剣額(注②)のカラー写真(青山富士夫氏撮影)が掲載されており、和田家文書調査のため古田先生と二人で津軽半島を駆け巡った当時を思い出しました。
 同書には復刻にあたり、新たな二編が加えられています。冒頭の青木洋さんによる「復刊によせて」と古田光河さん(ご子息)による「あとがきにかえて」です。青木さんは自作のヨットで世界一周した著名なヨットマンです。倭人が太平洋を横断したとする説を発表された古田先生と懇意にされていた方です。古田光河さんは親子間の会話や想い出が紹介されており、古田先生の新たな一面をうかがい知ることができました。
 その「あとがきにかえて」にも紹介されていますが、同書冒頭の「投石時代から狩猟時代へ」に「論証」という言葉が繰り返し使われています。次の通りです。

 「なぜ違っているのかということの論証が必要」「新しい論証の連続」「論証をもとにして」「論証の連続」「論証が時代別に分かれている」(同書1頁)

 本編冒頭の一頁にこれだけ「論証」という言葉が見えます。古田先生がいかに論証を重視されていたのかおわかりいただけると思います。わたし自身も古田先生に私淑した30年間、次の言葉を繰り返し聞かされました。「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(注③)。「学問は実証よりも論証を重んずる」(注④)。「論証は学問の命」。これらの言葉の意味は古田先生の著書にも記されていますし、復刻された本書もこの精神で貫かれています。

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』は原書房から1994年に発刊され、この度、ミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション27」として復刻された。
②青森県市浦村の山王日枝神社に奉納された宝剣額。「寛政元年(1789)八月一日」の日付を持ち、秋田孝季と和田長三郎(吉次)が『東日流外三郡誌』完成を祈願したもの。
③古田武彦『真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房、2013年)によれば、旧制広島高校時代の恩師岡田甫氏から学んだソクラテスの言葉とのこと。
④村岡典嗣氏のこの言葉は次の論稿にて紹介されている。
 古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『文芸研究』100~101号。東北大学文学部、1982年。同論文は『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版、1983年)に収録された。
 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』「日本の生きた歴史(十八)」ミネルヴァ書房、2013年にも紹介されている。


第2308話 2020/12/03

古田武彦先生の遺訓(17)

周代史料の史料批判(優劣)について〈後篇〉

 『竹書紀年』などの伝世史料や金文にも検討すべき問題があり、厳密な意味での同時代史料として取り扱うには克服すべき課題がありました。その結果、現時点で一次史料としての信頼性を有すのは竹簡であることがわかりました。しかし、学術調査で出土した竹簡であればよいのですが、古物商ルートで入手した盗掘品の場合、偽造の可能性もあるので、信頼してもよいものか懸念がありました。
 ところが、古物商ルートで入手したと思われる精華簡『繋年』(注)の場合、放射性炭素同位体年代測定法により紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、戦国期後半の同時代史料といえるのです。
 このように、竹簡の場合は放射性炭素同位体年代測定法により成立年代の確認が可能なため、伝世史料や金文よりも成立年代の信頼性が担保できるというメリットがあります。ただし、竹簡は伝世史料に比べると情報量が少ないため、やはり研究には伝世史料を用心深く使用せざるを得ないのが現実です。このような周代史料の実情を、わたしは定年退職後の勉強の結果知ることができ、ようやく周代暦年研究のスタートラインに立つことができました。(つづく)

(注)精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、2388点の竹簡からなる膨大な史料である。このうち、138件からなる編年体の史書が『繋年』と名付けられ、2011年に発表された。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されている。


第2307話 2020/12/02

古田武彦先生の遺訓(16)

周代史料の史料批判(優劣)について〈中篇〉

 主な周代史料には伝世史料(『春秋左氏伝』『周礼』『国語』『竹書紀年』など)、金文(殷周の青銅器に記された文字)、竹簡(精華簡『繋年』など)があります。これらの史料批判として、一般論としては竹簡や金石文などの考古史料が確かな史料として位置づけられるのですが、それほど単純ではないことがわかってきました。
 これはわたしの初歩的なミスだったのですが、当初、『竹書紀年』は出土竹簡に基づいており、信頼性が高いと思っていました。ところが調べてみると、それはとんでもない誤解でした。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』(注①)に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注②)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明によれば、今ある『竹書紀年』は三世紀の出土後に散佚し、その千年以上後の清代になって収集されたものであり、元の姿をどの程度遺しているのか、用心してかからなければならない伝世史料なのでした。
 金文についても同様で、同時代金石文と単純にとらえることができないこともわかりました。殷周の青銅器の中には古美術商ルートで出回ったものも少なくなく、偽造の可能性がついてまわります。次に出土であってもその遺構の編年の問題があります。というのも、その時代における青銅器の偽造、あるいは模造という可能性があり、殷周時代との同時代性の確認が必要です。
 このような「周代史料」の実態がわかってきましたので、それでは最も信頼できる史料は何なのかという課題について熟慮しました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②西晋(265~316年)。


第2306話 2020/12/01

古田武彦先生の遺訓(15)

周代史料の史料批判(優劣)について〈前篇〉

 『論語』が成立した周代における二倍年暦(二倍年齢)研究のために、周代史料について調査勉強を続けてきました。そのなかで各種史料の優劣を見極める作業、史料批判について認識を改めることが多々ありました。そのことについて説明します。
 古田先生の下で研究や現地調査を行う中で、史料批判について具体例をあげて学んだことがありました。その代表的なものは次のようなことでした(順不同)。

①木簡などの同時代史料を優先する。
②より古い史料を優先する。ただし、『三国志』写本のような例外もある(書写年代がより古い紹興本よりも、新しい紹熙本が原文の姿「対海国」「一大国」を遺している)。
③同時代金石文を優先する。ただし、金石文成立時の作成者の意思(作成目的)や認識(当時の常識)の影響を受けており、史実と異なる可能性があることに留意が必要。
④史料性格を分析し、史料作成目的を把握する。
⑤史料内容が関連諸学や安定して成立している先行説と整合しているか。
⑥現代の認識では理解できない、あるいは矛盾し、誤りと思われる内容にこそ、当時の古い姿が遺されているケースもあり、注意が必要。安易に原文改訂してはならない。

 このようなことを折に触れて教えていただきました。文献史学では、まずこの史料に対する目利き(史料批判)が重要です。ところが、周代史料の場合、史料状況がもっと複雑であり、より論理的な深い考察が史料批判に求められていることに気づきました。(つづく)