明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(2)
「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木さんが発表された〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟で、『三国志』に長里が混在する可能性があるケースとして次の諸点をあげられました(古賀からの追加例を含む)。
(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない里数値の場合。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合。
(3)長里により成立した成語の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走る名馬)とは逆のケース。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。
これらのケースでは長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は公認の短里で『三国志』を編纂するという姿勢を貫いたはずです。長里記事をどのように引用・記載するべきか、編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。
正木さんからの、『三国志』長里混在の可能性という問題提起により、魏朝での短里採用時期へと関西例会の論議は進展しました。(つづく)