多賀城碑「東海東山節度使」考(1)
―茂山憲史さんからのメール―
今春発行予定の会誌『卑弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の再校を行っていますが、校閲していただいている茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)より拙稿「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」の誤り(多賀城碑の誤引用)を指摘するメールが届きました。下記の内容ですが、わたしはこのご指摘に含まれる重要論点に気づき、驚きました。
【茂山さんからのメール要約】
今回は、校正というよりご相談です。
「東山道節度使」➔ 「東海(道)東山(道)節度使」
案について、厳密に考える必要はないとも思うのですが、原碑に「道」はありませんから、考えてみました。
東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。
いかがでしょうか?
茂山憲史
このメールにある「原碑」とは多賀城碑のことで、拙稿では碑文(注①)を紹介しておきながら、「東海東山節度使」を「東山道節度使」と誤引用していることをご指摘いただいたものです。もちろん再校で訂正させていただきますが、わたしが驚いたのはメール後半の〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。〟という部分でした。わたしはこの多賀城碑文の「東海東山節度使」が持つ、拙稿にとって重要な意味に気づいていなかったのです。
そもそも拙稿の主要論点は、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の秀逸な論文「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」「東山道都督は軍事機関」(注②)や肥沼孝治さん(同、所沢市)の「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(注③)で提起された九州王朝官道の全容と、それぞれの官道が九州王朝の〝方面軍〟としての軍事行政機能を有しているという仮説に基づき、その〝方面軍〟の目的地についてでした。拙稿では各官道の目的地を最終的には次のようにしました。
【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)
今回の茂山さんの指摘は、この仮説に対応した表記として多賀城碑の「東海東山節度使」を理解され、〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とされたものです。茂山さんが提示されたこの視点により、多賀城碑文そのものに対する、わたしの理解が更に深まったのです。(つづく)
(注)
①多賀城碑碑文
「西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日」
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)
③肥沼孝治「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(同上)