2021年06月一覧

第2506話 2021/06/30

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3)

 ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―

 九州王朝が釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)へと変容したとされた服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)は、その史料痕跡として次の「命長七年文書」を挙げられました(注①)。

         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

 これは信州の善光寺史料(注②)に収録されたもので、聖徳太子から善光寺如来に宛てた書簡の一つと伝えられてきたものです。往復書簡として全六通の内の最初のものです。法隆寺にも〝善光寺如来の御文箱〟という寺宝が伝えられており、その内の一通が「公開」されています。これらのことについては拙稿「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」(注③)などで発表していますのでご参照ください。
 わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。
 九州王朝の仏典受容史の視点から同文書を見たとき、服部さんが指摘されたように、『無量寿経』などによる浄土信仰の影響を受けていることは歴然です。そこで、「名号称揚七日」という部分に焦点を当てて、どの経典の影響が強いのかを調査したところ、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)の一つ、『仏説阿弥陀経』(注⑤)の次の説話に注目しました。

『仏説阿弥陀経』(抜粋)
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏。与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏。極楽国土。舍利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。」

 七日間、一心不乱に「執持名号」することにより、善男子と善女人は臨終後に阿弥陀仏の極楽国土に往生できるとされており、「名号称揚七日」とある「命長七年文書」はこの『仏説阿弥陀経』の影響を受けているのではないでしょうか。もちろん仏典全てを精査したわけではありませんので、有力な可能性の一つとして提起したいと思います。この見解が正しければ、七世紀前半頃までには九州王朝へ『仏説阿弥陀経』が伝来していたことになります。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立。
③古賀達也「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」『古田史学会報』15号、1996年8月
 古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④阿部周一「『厩戸勝鬘』とは誰か」ブログ〝古田史学とMe〟、2021年2月27日。
⑤ウィキペディアによれば、『仏説阿弥陀経』一巻は姚秦の鳩摩羅什訳(402年ごろ訳出)。


第2505話 2021/06/29

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (2)

    法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想

 近年の「古田史学の会」関西例会では、九州王朝仏教についての研究発表があり、論議検討がなされています。『古田史学会報』164号(2021年6月)に掲載された服部静尚さんの論稿「女帝と法華経と無量寿経」もその一つで、「女人往生」の視点から、六~七世紀における仏典受容に着目され、釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)への流れを説明されています。同研究は会報発表に先だって本年四月の関西例会で口頭発表されました。浄土信仰の痕跡はわが国には古くからあったとする論文を読んだ記憶があったのですが、そのときには出典を思い出せませんでした。その後、九州王朝における仏典受容史の勉強をしていて、ようやく出典の一つを思い出しました。東野治之さんの『日本古代史料学』(注①)に収録されている「太子信仰の系譜」という論文で、次のように記されています。

〝太子の作とされる三経義疏の一つは『勝鬘経義疏』であるが、勝鬘経では勝鬘夫人という女性が主役になっている。こういう経典が注釈の対象にされたのは推古女帝の存在と無関係ではなく、逆に太子が勝鬘経を講義したという伝えも認めていいであろう。もう一つの注釈『法華義疏』は、いうまでもなく法華経の注であるが、法華経の「薬王菩薩本事品」という章には、女性の阿弥陀浄土への往生が述べられていて、これも女性に縁がある。太子は日本人として最初に法華経を将来、流布した人とみられていた(『延暦僧録』上宮皇太子菩薩伝)。
 光明皇后のころになると、女性救済を説く「題婆達多品」を加えた法華経が普及しており、太子忌日の法華経講讃が企画されたのも、女性としての関心から出ているのではないだろうか。〟同書、39頁

 ここにあるように、法華経「薬王菩薩本事品」に女性の阿弥陀浄土への往生が述べられているという指摘は興味深いものです。もちろん、九州王朝説に立てば、近畿天皇家の聖徳太子伝承は九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績を転用したとする視点での史料批判が必要です。
 なお、「薬王菩薩本事品」には次の説話が見えます。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品二十三」
(前略)
 宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。(後略)

 当時、「成仏」できないとされた「女人」でも、薬王菩薩本事品を聞いて説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いています。
 拙稿「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」(注②)で紹介したように、九州年号の「端政」年間(589~594年)での法華経伝来記事「自唐法華経始渡」が『二中歴』「年代歴」にあり、これは多利思北孤の時代に相当します。ですから法華経の受容により、同「薬王菩薩本事品」に基づく女人往生を可能とする阿弥陀浄土信仰が六世紀末頃の九州王朝宮廷内の女性達にもたらされたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①東野治之『日本古代史料学』岩波書店、2005年。
②古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第2504話 2021/06/28

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (1)

 本年六月十九日に開催された奈良市での講演会(注①)で、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)と並んで講演させていただきました。わたしの講演テーマは、九州王朝(倭国)への仏教伝来時期と初伝僧(清賀上人)に関する研究でした。講演後の質疑応答で、会場から「清賀上人が伝えた仏教経典は何か」とのご質問をいただきました。大変重要な質問であり、わたし自身も気になっていたことでしたが、伝承が断片的にしか遺っていないので、現時点では不明と回答せざるを得ませんでした。このときの質問が気になったままでしたので、この機会にこれまでの研究を再確認し、考察を深めてみたいと思いますので、少々お付き合い下さい。
 九州王朝の仏典受容については古田先生は当初から問題意識を示されており、『失われた九州王朝』(注②)の「第三章 高句麗王碑と倭国の展開 阿蘇山と如意宝珠」で触れられたのが最初です。遅れて、わたしも九州年号研究の一端として、「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」(注③)を発表しました。それは、九州年号群史料として著名な『二中歴』「年代歴」の九州年号細注に見える仏典記事を史料根拠としたものでした。たとえば次のようなものです。

(1)法清(554~557年) 法文唐渡僧善知傳
(2)端政(589~594年) 自唐法華経始渡
(3)定居(611~617年) 法文五十具従唐渡
(4)仁王(623~634年) 自唐仁王経渡仁王会始
(5)僧要(635~639年) 自唐一切経三千余巻渡
(6)白雉(652~660年) 国々最勝会初行之

 六~七世紀の九州年号時代における仏典受容の様子が少しわかる記事です。これらの記事と『日本書紀』に見える関連記事を比較すると、『二中歴』の九州年号細注とは時期が異なっており、細注記事の方が早いことがわかりました。従って、これら細注記事は近畿天皇家のことではなく、九州年号で事績を記録した九州王朝(倭国)の仏典受容史であると論じました。
 更に僧要年間(635~639年)の「自唐一切経三千余巻」という唐からの一切経(注④)伝来記事は、隋代(開皇十七年、597年)に成立した『歴代三宝紀入蔵録』(費長房撰述。1076部、3292巻)と時代も巻数も対応しており、細注記事は史実を記録したとする根拠になりました。ちなみに、『日本書紀』には一切経伝来記事は見えません。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」や関西の古代史研究団体共催による講演会。六月十九日(土)、奈良新聞本社ビル。
 ○講師 関川尚功(元橿原考古学研究所員) 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 ○講師 古賀達也(古田史学の会・代表) 演題 日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピカタ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を編纂したもの。


第2503話 2021/06/26

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (3)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘に対して、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年については妥当な年代ではないかと思うのですが、もう一つ、妥当と思われる年輪年代測定値があります。前期難波宮址水利施設から出土した木製の水溜枠です。
 『難波宮址の研究 第十一』(注①)によれば、井戸がなかった前期難波宮の水利施設(石組)が出土し、その周辺から多くの木材も出土しました。中でも大型の水溜枠の木材には樹皮が残っており、年輪年代測定により伐採年が634年とされました。『日本書紀』によれば、前期難波宮の完成年が孝徳天皇白雉三年(652年、九州年号の白雉元年)とされ、その18年前に伐採されたことになります。同水利施設からは須恵器坏Hや坏Gが多数出土しており、7世紀中頃の遺構であるとされ、出土木材の伐採年とも整合しています。ちなみに、同遺構からは7世紀後半の須恵器坏Bは出土していませんので、前期難波宮から出土した「戊申年」(648年)木簡などと共に、前期難波宮孝徳期造営説はほとんどの考古学者から支持されて定説となりました。更に前期難波宮を囲んでいだ塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値も612年、583年であり(注②)、孝徳期造営説を支持するものとされました。
 この木枠の年輪年代測定は奈良文化財研究所の光谷拓実さんによるもので、次のように解説されています。

 「(前略)№1の木枠の形状は、原材から板状に割り、若干一部分を成形しただけのもので、転用材ではない。したがって、634年と確定した年輪年代は原木の伐採年である。」『難波宮址の研究 第十一』208頁。

 そして、「年代を割り出すヒノキの暦年標準パターンには、37B.C.~845A.D.のものを使用した」と説明されています。この「ヒノキの暦年標準パターン」は、鷲崎さんが

 〝飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。〟(注③)

 と批判されたもので、この年輪年代の新旧標準パターンを鷲崎さんは次のように説明されています。

○旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
○新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。

 法隆寺五重塔心柱と同様に、前期難波宮水利施設の木枠にも旧標準パターンが採用されており(注④)、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値(634年)が、伴出した7世紀中頃の土器編年からも妥当と考えざるを得ないことから、法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値(594年)も妥当とせざるを得ません。少なくとも、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値を100年新しくすると後期難波宮の時代となり、それは極めて困難です(出土層位も出土遺物も全く異なり、まず不可能)。
 以上のように、鷲崎さんが100年古く間違っているとした遺物の中でも、法隆寺五重塔心柱と前期難波宮水利施設木枠の年輪年代測定値は妥当なものと、わたしには見えます。
 しかしながら、新旧標準パターンや測定木材の原データを公開すべきという、鷲崎さんの主張(注⑤)は正当なものです。国民の税金で運営・測定した奈良文化財研究所のデータは全国民の共有財産です。そうした国民からの(個人情報でもなく、人権や国益も損なわない)学術データの開示要請に応えない姿勢は、どのような事情があるのかはわかりませんが、学問的態度とは言い難いとする批判を避けることはできないでしょう。また、自説の根拠となる基礎データを掲載しないというのは、自然科学の研究論文ではおよそ考えられないことです。

(注)
①『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
②古賀達也「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
 古賀達也「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟
③鷲崎弘朋「年輪年代法による『弥生古墳時代の100年遡上論』は誤り」考古学を科学する会、第80回2019年5月24日、https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/。
④光谷拓実「法隆寺五重塔心柱の年輪年代」『奈良文化財研究所紀要』2001年。同報告には「前37~838年」のヒノキの暦年標準パターンを使用した旨、記されている。
⑤鷲崎氏らによる奈良文化財研究所への情報開示請求書と同不開示決定通知書が次のサイト「邪馬台国の位置と日本国家の起源」に掲載されている。http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/


第2502話 2021/06/25

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (2)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説にも影響を受けるものがあります。
 たとえば、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年が100年後の694年となり、米田良三さんが提唱された法隆寺移築説(注①)の成立根拠の一つが失われます。他方、現法隆寺の再建年代を和銅年間(708~714年)とする通説と修正伐採年(694年)が整合し、通説が更に有力となります。このことも、年輪年代測定値が100年古く誤っていることの根拠の一つとされています。というのも、従来説では、594年に伐採した心柱が約100年後の法隆寺再建時に使用されたことになり、伐採から100年も放置(不使用)した合理的説明に苦慮してきたからです。
 この点、移築説であれば、100年前に建立された古い寺院を移築したという説明が容易にでき、通説の再建説よりも有力な仮説であると古田学派内では考えられてきました。ところが、年輪年代測定値は100年古く間違っているという鷲崎さんの指摘により、移築説が成立困難となったわけです。
 しかしながら、法隆寺五重塔の建築様式は8世紀初頭の頃とは考えにくいと思います。たとえば、心柱を基壇地下に埋め込むタイプは古いもので、とても8世紀の寺院建築とは思えません。また、版築基壇が二重に形成されているのも古い様式とされてきました(注②)。更に、金堂の釈迦三尊像光背銘(注③)に記された「法興元卅一年」(621年)という紀年が年輪年代測定による伐採年(594年)と近いことも、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』新泉社、1991年。
②「二重基壇」については、白鳳十年(670年)創建の観世音寺五重塔(太宰府市)にも採用されており、決定的な根拠とはできないが、現法隆寺は古い寺院を移築したものとする説と矛盾しない。なお、観世音寺の「二重基壇」については次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1694話(2018/06/19)〝観世音寺古図の五重塔「二重基壇」〟
 古賀達也「『観世音寺古図』の史料批判 ―塔基壇と建物、非対応の解明―」『東京古田会ニュース』182号、2018年9月。
③古田説ではこの釈迦像や光背銘文を、九州王朝の天子阿毎多利思北孤(『隋書』による)のためのものとする。


第2501話 2021/06/24

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (1)

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が指摘された、炭素14年代測定での国際補正値と日本補正値とで、弥生時代や古墳時代では100年程の差が生じるケースについて調査していましたら、年輪年代測定値もAD640年以前では実際よりも100年古くなるという見解があることを知りました。鷲崎弘朋さんという方の説で、「考古学を科学する会」という団体のサイト(注)に次の記事がありました。

【以下転載】
第80回 2019年5月24日 年輪年代法による「弥生古墳時代の100年遡上論」は誤り(鷲崎弘朋)

 年輪年代法で、弥生中後期および古墳開始期が通説より100年遡上した(池上曽根遺跡等)。しかし、肝心の標準パターンと基礎データは非公開でブラックボックス。また、飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。

①旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
②新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。
 (後略)
【転載終わり】

 わたしは年輪年代測定法は1年単位で年代が判断できる優れた方法と評価してきましたので、この鷲崎さんの指摘に驚いています。もちろん、その当否を判断できるほどの知見を持っていませんので、何とも言えないのですが、もしこの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説についても影響を受けるものがありそうです。知り合いの考古学者にたずねてみたところ、鷲崎さんの説は有名で、考古学界内では賛否両論があるとのことでした。(つづく)

(注)考古学を科学する会 https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/


第2500話 2021/06/23

関川尚功さんとの古代史談義(3)

―なぜ古墳から木簡が出土しないのか―

関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は様々な問題意識をお持ちで、その中に〝なぜ古墳から木簡が出土しないのか〟というものがあり、わたしも同様の疑問を抱いていたので、意見交換を行いました。
国内で出土した木簡は7世紀中頃のものが最古で、紀年が記されたものでは、前期難波宮址の「戊申年」(648年)木簡が最も古く(注①)、次いで芦屋市の三条九之坪遺跡からの「元壬子年」(652年、九州年号の白雉元年)木簡があります(注②)。
一般的には水分を多く含んだ地層から出土しており、普通の地層では木簡は腐食し、残りにくいとされています。古墳石室内の環境では腐食が進み、木簡が遺らないのではないかと推定しています。あるいは木簡を埋納する習慣そのものがなかったのかもしれません。
他方、中国では漢代の竹簡が出土しており、油分を含む竹であれば材質的に遺存しやすいようにも思います。ところが、関川さんによれば、古墳時代の日本には竹簡に使用できるような竹がなかったとのことでした。孟宗竹のわが国への伝来は遅かったということを聞いたことはありますが、竹取物語など竹に関する古い説話(注③)があるので、古代から竹は日本列島にあったのではないかと文献を根拠に反論すると、「古墳から出土しない以上、古墳時代の日本には竹は伝来していなかったと判断せざるをえない」と、関川さんは考古学者らしく、出土事実に基づいて説明されました。しかし、鏃が出土しているので、細い〝矢竹〟はあったはずとのことでした。
古代の日本と中国における木簡と竹簡の採用事情が、情報記録文化の差によるものか、湿度などの自然環境の差によるものなのか、興味深い研究テーマです。先行研究論文などを読んでみることにします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」419話(2012/05/30)〝前期難波宮の「戊申年」木簡〟
古賀達也「洛中洛外日記」1984~1985話(2019/09/07-08)〝難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)~(2)〟
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 ―「三壬子年」木簡の史料批判―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」同上。
③『万葉集』(巻十六、3791番長歌の詞書)に「竹取の翁」の説話が見える。


第2499話 2021/06/22

関川尚功さんとの古代史談義(2)

―古墳の巨大化は畿内から―

 6月19日の古代史講演会後の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)との古代史談義の一つに、〝古墳の巨大化〟についてがありました。関川さんによれば、古墳が巨大化するのは大和からであり、弥生時代の先進地域である北部九州ではないとのこと。なぜ大和で最初に古墳が大型化したのか、その理由の解明が必要とされました。
 おそらく、通説では大和で自生した大和政権(後の大和朝廷)が箸墓古墳などの大型前方後円墳を造営し、全国に影響力を拡げたということになるのですが、古田説(九州王朝説)ではこの現象をあまりうまく説明できていません。従来は、高句麗との交戦状態にあった九州王朝(倭国)には、大型古墳を造営する余力がなかったためと説明してきました。古田学派内ではこの説明で納得してもらえるのですが、通説を支持する人への説得力は残念ながら有していません。なぜなら、〝列島内最大規模の巨大古墳群を造営できる大和・河内の勢力こそが列島の代表王朝〟とする単純簡明な論理構造が「頑強」だからです。
 関川さんは、通説とも異なる視点でこの問題を考えておられました。畿内大和の箸墓古墳などを造営した勢力は、北部九州の鉄器製造技術を受容し、東海地方や吉備の土器も多数出土することから両地域の影響も色濃く受けています。他方、古墳を大型化する〝文化・風習〟は山陰・北陸などの弥生時代の大型墳丘墓の影響を受けたのではないかとされました。
 こうした古墳時代前期の大和の考古学的事実は、どのような歴史的背景の存在があって成立したのか、多元史観・九州王朝説による説明が必要です。(つづく)


第2498話 2021/06/21

『古代に真実を求めて』25集の原稿募集

 過日の「古田史学の会」会員総会でも紹介しましたように、『古代に真実を求めて』編集長が服部静尚さんから大原重雄さんに交替となりました。服部さんには7年間にわたり、「古田史学の会」発行書籍の編集責任者を担当していただき、後世に残る優れた書籍を発行していただきました。本稿末尾にその一覧を掲載しています。まだお持ちでない方は、ぜひ書店・アマゾンにてご注文ください。出版不況が続いており、本会発行書籍の販売部数も伸び悩んでいます。皆様のご支援をお願いいたします。
 新編集長の大原さんには、既にリモート編集会議を主宰していただき、来春発行予定の『古代に真実を求めて』25集の企画検討を進めています。25集への投稿を下記の通り募集します。会員の皆様のご投稿をお待ちしています。

□古田史学論集 第25集『古代に真実を求めて』原稿募集

1.特集テーマは「古代史の争点」として、邪馬壹国・倭の五王の時代・聖徳太子・大化改新を扱います。
 ○一般論文 1万5千字以内  ○コラム 2千字程度
2.原稿は、PDFではなく、WORDファイルを添付してメール送信してください。
3.採否は編集部にお任せください。
4.締め切り 2021年9月末
5.宛先 大原重雄さん hidetya@kyoto.zaq.ne.jp

□服部静尚さんが編集された「古田史学の会」書籍一覧

『古代に真実を求めて』明石書店
18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 (2015年)
19集 追悼特集 古田武彦は死なず (2016年)
20集 失われた倭国年号《大和朝廷以前》 (2017年)
21集 発見された倭京 ―太宰府都城と官道― (2018年)
22集 倭国古伝 ―姫と英雄(ヒーロー)と神々の古代史― (2019年)
23集 「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝― (2020年)
24集 俾弥呼と邪馬壹国 ―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年― (2021年)

『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』ミネルヴァ書房(2016年)


第2497話 2021/06/20

関川尚功さんとの古代史談義(1)

―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―

 昨日、奈良新聞本社ビルで開催された古代史講演会(注)での関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の講演は、考古学者として出土事実にこだわる氏の気概と熱意、そして学問に対しての誠実なお人柄を感じさせるものでした。講演会後の懇談の場においても様々な知見を紹介していただきました。また、関川さんは長野県出身とのことで、古田先生が松本深志高校で教鞭をとっておられたことをご存じでした。そうしたこともあって、会話が弾みました。そこでの貴重な意見や古代史談義を紹介します。
 関川さんの一貫した主張は、考古学は出土事実に基づかなければならず、文献史学や理化学に〝寄りかかる〟のではなく、それぞれが対等な立場で切磋琢磨すべきというもので、考古学者として真っ当なご意見と思いました。その上で、それぞれの結論が一致すれば、より強力な見解となり、異なっていれば更に研究・検討を深めることになるとのこと。わたしも、この考え方や姿勢に大賛成です。
 講演でも、炭素14年代測定値について、国際標準補正値(IntCal)と日本補正値(JCal)とでは、弥生時代から古墳時代にかけてズレが大きく、国内の出土物の場合はより正確な国内補正値を使用しなければならないと指摘されました。たとえば、纒向遺跡出土物(桃の種)の測定に国際補正値を使用すると古くなり(100~250年)、それが「邪馬台国」時代とする根拠に使われたりするが、国内補正値であれば4世紀となるので、「邪馬台国」大和説に有利となる国際補正値による年代発表は問題であるとされました。
 この他にも、大きな木材の場合は年輪差があり、サンプリング部位によっては遺跡より古い年代を示すことがあり(「古木効果」と呼ばれる)、測定値をそのまま遺跡の年代判定に使用すべきではないことを、同一遺跡の複数の測定値を示して指摘されたのが印象的でした。(つづく)

(注)「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)、奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―


第2496話 2021/06/19

関西例会、古代史講演会、会員総会を開催

 本日、先月に続いて奈良新聞社本社ビルで「古田史学の会」関西例会が開催されました。午後は元橿原考古学研究所員の関川尚巧(せきがわ・ひさよし)さんをお招きして、恒例の古代史講演会(共催)と「古田史学の会」会員総会を開催しました。7月例会は福島区民センター(参加費500円)で開催します。
 リモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)、別役政光(古田史学の会・会員、高知市)らが参加されました。
 今回、最も注目されたのが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の発表でした。薬師寺東塔擦銘は後代(11世紀)に追刻されたとする町田甲一説などを紹介され、同擦銘の分析により、藤原京にあった本(もと)薬師寺は九州王朝の中宮天皇らによる寺であったとする仮説です。質疑応答の中で、同仮説が更に展開され、飛鳥における「天皇」「皇子」木簡なども九州王朝のものとする見解が示されました。わたしとしては賛成することに躊躇する内容でしたが、根拠や論理性が明確な鋭い仮説で、従来の服部説をより徹底した見解でもあることから、論文発表を要請しました。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

 コロナ禍と雨天にもかかわらず、古代史講演会には50名のご参加があり、盛況でした。その後、講師の関川先生を囲んで、古代史談義に花が咲きました。
 会員総会では、事業報告・予算・決算・会計監査報告・人事など全てが滞りなく承認されました。また、『古代に真実を求めて』編集長を7年間勤められた服部さんに替わり、大原重雄さんが就任されました。ご出席いただいた皆さん、ありがとうございました。詳細は『古田史学会報』次号にて報告されます。

〔6月度関西例会の内容〕
①共存はしていない倭王武と武寧王(大山崎町・大原重雄)
②本薬師寺は九州王朝の寺(八尾市・服部静尚)
③「驛」記事についてのまとめ(東大阪市・萩野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
07/17(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 06/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社本社西館3階
 「伊勢王④」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 06/26(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん
 07/24(土) 14:00~16:30 「邪馬壹国と卑弥呼の世界」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 07/22(木・祝) 13:30~16:30
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)
「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―」 講師:正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 《未定》

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」