2021年06月一覧

第2494話 2021/06/17

「倭の五王」の王都、もう一つの古田説

―「南朝劉宋時代」(5世紀)は朝倉・小郡市中心―

 本年11月開催予定の八王子セミナーにて、〝「倭の五王」の時代の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」の再評価―〟という研究発表をさせていただく予定ですが、その準備として古田先生の関連著作の精読を続けています。中でも、その時代(5世紀)の王都の所在地についてがテーマの一つとされていますので、古田説がどのように変遷してきたのかについて調査し、「洛中洛外日記」2470話(2021/05/24)〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11) ―古田説の変遷とその論理構造―〟で次のように報告しました。要約して転載します。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。(中略)直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、(後略)。〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。(中略)筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 このように、古田先生はそのときどきの著作で、「倭の五王」の王都について論じられてきました。昨日、古田先生の晩年の著書『俾弥呼』(注①)を再読したところ、次の記述があることに気づきました。

〝「女王国」を、弥生時代の博多湾岸中心と考えても、あるいは「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心と考えても、いずれにせよ「東方、千里」は、瀬戸内海をはるかに越え、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心とする領域へと至らざるをえない。そういう表記なのである。〟144頁

 これは狗奴国の所在地を、『後漢書』「倭伝」(注②)に記された「東方、千里」を長里とみなして、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心領域とする説明部分です。ここでは、〝「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心〟とあるように、『宋書』の「倭の五王」時代(5世紀)の王都を「朝倉・小郡市中心」とされています。同書は2011年発刊ですから、古田先生最晩年頃の見解と思われます。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』(注③)では王都の所在地が「久留米市付近」とありますが、同書は東京古田会で『古田武彦と「百問百答」』として、2006年に出版されたものをリニューアルして2014年に刊行されたものです。2006年の旧版には(4)の記事はみつかりませんから、再版に際して付加されたようです。従って、どちらの見解が古田先生の最終的な認識かは、今のところ不明です。

(注)
①古田武彦『俾弥呼(ひみか)』ミネルヴァ書房、平成二三年(2011)。
②范曄(398~445年)『後漢書』では「拘奴国」と表記。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、平成二六年(2014)。


第2493話 2021/06/16

近畿の古墳時代開始の古田説と関川説

 「倭の五王」研究においては、文献史学と考古学の双方の整合と両立が不可欠です。特に考古学においては、古墳時代の編年の問題を避けては語れません。この点、古田学派の研究動向をみると、考古学分野の論考が残念ながら充分とはいえません。何よりも、わたし自身の勉強不足を痛感してきたからです。そうしたこともあって、元橿原考古学研究所員の関川尚巧さんの『考古学から見た邪馬台国』(注①)はとても勉強になっています。
 同書をもう十回近くは読みましたが、面白いことに気づきました。それは古田先生の見解と重要な部分で一致、あるいは対応しているケースが散見されることでした。一例をあげれば、近畿(畿内)における古墳時代の開始年代が一致しているのです。それは次の通りです。
 「洛中洛外日記」で紹介してきたところですが、関川さんは最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営年代について次のように述べられています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟『考古学から見た邪馬台国』131頁

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注②)で、次のように説明されています。

〝噂はともあれ、確かなこと、それは”近畿の「弥生中期」「弥生後期」は九州の「弥生中期」「弥生後期」よりもおくれている”――この事実だ。そのことは当然、次のことを意味するであろう。”近畿の古墳時代の開始は、九州の古墳時代よりもおくれているのではないか”という問いだ。
 (中略)
 そしてそのことは、近畿における古墳時代の開始は、右の三一六年よりもあとに、ずれおちることを意味する。つまり、近畿における古墳時代の開始は、早くても、四世紀中葉を遡らない、ということになるのである。〟『ここに古代王朝ありき』251頁

 表現は若干異なりますが、両者とも従来説とは異なる視点により、近畿(畿内)の古墳造営開始を四世紀前半頃とされています。古田先生の著作は昭和五四年(1979)のものですから、四十年以上も前の論理的考察結果が、最新の橿原考古学研究所による考古学的発掘事実に基づいた、関川さんの見解にほぼ一致していることに驚きました。
 この一致は、ただ単に近畿(畿内)の古墳時代の開始年代にとどまるものではありません。というのも、古田先生は続いて次の重要問題を提起されているからです。

〝このことは一体、何を意味するか。――すなわち、応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略の各「天皇陵」を、五世紀の倭の五王と結びつけてきた、あの時間帯の定点――考古学上の根本定式の崩壊である。〟『ここに古代王朝ありき』252頁

 このように「倭の五王」を考古学的に検証するにあたり、古墳時代編年そのものから検証し、論じなければなりません。これにはかなりの研鑽が必要となります。本年11月に開催される八王子セミナーまでに、どれだけ勉強が進むかはわかりませんが、古田先生の関連著作だけはしっかりと精読するつもりです。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第四部 失われた考古学」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

※「考古学上の根本定式」などについては別の機会に詳述します。


第2492話 2021/06/15

「倭の五王」以前(4世紀)の畿内大和

―大和の銅鐸の終焉を示す纒向遺跡―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には河内・大和の巨大前方後円墳群を造営した「倭の五王」へ続くとされ、最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営時期について4世紀後半頃とされています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟131頁

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

 そして箸墓古墳がある纒向遺跡について、示唆に富む数々の考古学的事実を紹介されています。その一つが、大和における〝銅鐸圏勢力の滅亡〟についてです。

〝大和の銅鐸と銅鏡
 (前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。
 また大福・脇本遺跡では、鋳造関連遺物と出土した銅鐸片により、青銅製品の原料としての再利用が考えられているが、その時期はほぼ弥生時代の終末であり、庄内期には銅鐸の使用は終わっているとみられる。
 銅鐸は大和の弥生社会では重要な役割を果たしたと思うが、その出土地は、西方地域から導入されながらも次第に東方地域を志向しており、後半期には近江・東海系の銅鐸も出土しているのである。(中略)
 そして、大和の銅鐸使用の終焉を示すところが纒向遺跡であるということは、最も象徴的なことといえよう。銅鐸自体も、本来、銅鏡のように大陸と共通する遺物ではなく、その発達も九州以東の地域の中でのことであり、古墳につながるような遺物ではないことは明らかである。〟69~70頁

 〝纒向遺跡が最も拡大するのは、箸墓古墳の造営時期という、かなり新しい時期のことであることも、古墳群との関係性をよく示している。
 また、出土遺物についても、これまでの大和の弥生遺跡の傾向と、ほぼ同様であることが知られる。それは、金属器や大陸系遺物の少なさ、それに対する東方地域の土器の多さなど、いくつもの共通性に現れているのである。(中略)
 このように、弥生時代から続く大和の遺跡のもつ特質というものが、箸墓古墳の造営の直前までそのまま受け継がれていることは、大型前方後円墳出現の基盤ともなる遺跡の内容としては、やや意外ともいえる。〟74頁

 ここで関川さんが述べられていることは重要です。要約すれば次のことを意味しています。

(1)弥生時代の大和の遺跡は北部九州や大陸の影響がほとんど見られず、むしろ東海地方などの東方地域との交流の強さを示している。
(2)弥生時代の近畿は銅鐸圏に属しているが、大和はその中心地ではない。
(3)纒向遺跡は、箸墓古墳の造営が始まる直前(4世紀前半頃か)までは銅鐸圏としての様相を見せている。
(4)箸墓古墳が造営されるときには銅鐸勢力は大和から駆逐され、纒向遺跡は銅矛圏の領域として最も拡大した。

 以上の事実は、弥生時代終末期には大和から銅鐸勢力が駆逐され、箸墓古墳などの巨大前方後円墳を造営する勢力が侵攻・台頭したことを示しています。
 古田先生は『盗まれた神話』『ここに古代王朝ありき』(注②)において、神武東征説話は銅矛圏(天国勢力。後の九州王朝)から銅鐸圏への軍事侵攻であるとされました。そしてその数百年後、神武の子孫達は奈良盆地を制圧し、更に銅鐸圏の中枢領域である大阪方面(大阪湾岸・淀川流域)へと支配領域を拡張したことが『古事記』(神武記・崇神記・他)に記されていることを論証されました。この文献史学による古田説と、関川さんが紹介された考古学的出土事実は対応しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
 古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2491話 2021/06/14

「倭の五王」大和説と南・北九州説

 『宋書』に記された「倭の五王」を九州王朝(倭国)の王とする古田説は文献史学に基づく最も妥当な説ですが、他方、通説では大和の王達(後の大和朝廷)のこととされ、それは考古学に基づいた説とされています。たとえば、「邪馬台国」北部九州説を支持されている関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと述べられています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在です。この論理(解釈)が、大和朝廷一元史観成立のための重要な根拠となっています。
 古田説と通説の他に、「倭の五王」南九州説というものもあります。江戸時代の学者、鶴峯戊申は『襲国偽僣考』(文政三年、1820年の序文を持つ。注②)において次のように主張しています。

 「允恭天皇十年。襲の王。讃。使を宋につかわす。」

 鶴峯は襲国を南九州の薩摩・大隅地方に比定していますから、「倭の五王」南九州説に立っています。
 このように、管見では「倭の五王」について、古田先生の北部九州説(九州王朝説)と通説の大和説、そして鶴峯の南九州説があります。これら三説にはそれぞれに根拠があり、それは次のようなことです。

〔古田説:王都は北部九州〕
 『宋書』の史料批判により、北部九州にあった邪馬壹国の後継王朝であることは明らか。→文献史学の成果に基づく。

〔通説:王都は大和〕
 5世紀における河内・大和の巨大古墳群の存在や、列島最大規模の都市遺構も難波から出土しており、それらは倭国・倭王の墳墓・都市にふさわしい。→考古学的事実に基づく。

〔鶴峯説:王都は南九州〕
 『宋書』など中国正史に見える倭国は大和朝廷ではない。南九州には九州島内最大規模の西都原古墳群がある。→文献史学と考古学的事実に基づく。

 ちょっと大雑把な説明ですが、おおよそ以上のようになります。三説の中で、文献史学と考古学の双方に根拠を持つのが、江戸時代の鶴峯説であることは意外な感じがします。わたしたち古田学派にとっても、この三説の優劣を検証することが、一元史観の論者を説得するためにも学問的に必要な作業です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②鶴峯戊申『襲国偽僣考』「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。


第2490話 2021/06/14

『古田史学会報』164号の紹介

 先週、『古田史学会報』164号が発行されましたので紹介します。一面に掲載された服部稿は、わが国おける仏教や仏典受容に関する考察で、古田学派における同分野での先駆的な研究の一つです。古田史学での仏典受容史研究については、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 高句麗王碑と倭国の展開 「阿蘇山と如意宝珠」)で触れられたのが最初です。そこでの示唆を受けて、わたしも論稿(注)を発表したことがあります。

 今回の服部稿は、九州王朝の時代において、女性が法華経と無量寿経(阿弥陀信仰)をどのような経緯で受け入れたのか(支持したのか)という従来にない新たな視点で論じられたもので、注目されます。女性の仏教信仰や関連仏典に関しては、「女人成仏」をテーマとした多くの論考が宗教関連学界で発表されていますが、多元史観・九州王朝説に基づく研究はまだ少なく、過去には古田先生が講演会で、「トマスの福音書(ナグ・ハマディ文書)」研究に関わって触れられたことがあり、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)により、「『トマスによる福音書』と『大乗仏典』 古田先生の批判に答えて」(『古田史学会報』74号、2006年6月)が発表されたことがある程度です。今後の後継研究の登場が待たれます。

 164号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』164号の内容】
○女帝と法華経と無量寿経 八尾市 服部静尚
○会員総会と古代史講演会のお知らせ
○九州王朝の天子の系列(中) 川西市 正木 裕
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
○何故「俀国」なのか 京都市 岡下英男
○斉明天皇と「狂心の渠」 今治市 白石恭子
○飛鳥から国が始まったのか 八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学・三十
多利思北孤の時代Ⅶ ―多利思北孤の新羅征服戦はなかった― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

(注)古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第2489話 2021/06/13

古田学派における「倭の五王」研究

 大和の考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は「邪馬台国」大和説批判を圧倒的な説得力で展開されました。その関川さんによる4世紀と5世紀の歴史認識が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にも少しだけ示されていますので、紹介します。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

〝対外交流の盛んな大和・河内の5世紀
 このような対外的な交流をめぐり、大和地域の弥生後期・庄内期の遺跡と全く対照的な内容を示すのは、古墳時代中期・5世紀の状況である。
 5世紀は、中国宋王朝との通交が行われ、半島諸国とも大きな関わりをもつ、いわゆる「倭の五王」の時代である。この時期、大阪平野や奈良盆地には巨大古墳が群生し、当時の政権の中枢が近畿中部に存在したことは明らかである。
 そして古墳にみる副葬品はもちろん、この時期の遺跡を発掘すれば、それ以前にはみられなかった半島系の韓式・陶質土器や古式の須恵器、さらには馬の歯・骨などが出土するのである。
 この時代の大和・河内が、政治ばかりでなく、対外交流の面でも、その中心にあり、それと共に新来の文物が到来する様を、古墳や遺跡からまぎれもなく実感することができる。〟77~78頁

 このように、「邪馬台国」が北部九州にあったとする関川さんでも、4世紀には大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと理解されています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在ですが、こうした結論に至る、関川さんの学問の方法は一貫しています。考古学的事実と文献史学における史料事実の解釈が整合すれば、その解釈を最有力説とする方法です。具体的には次のように述べられています。

〝箸墓古墳は墳丘長300m近い大型前方後円墳である。そして同じような墳形・規模をもつ古墳は、5世紀の百舌鳥・古市古墳群にもみることができる。これらの古墳群には、この時期最大級の現仁徳・応神陵を始めとする大型古墳がみられるが、その中には中国史書に倭国王として登場する人物の古墳が含まれていることは確実であろう。
 それならば、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。箸墓古墳の被葬者は、このような倭国王と同じ系列の古墳につながる、大和政権にかかわりのある人物であるとしか言いようがないのである。〟163頁

 こうした関川さんの理解は、大和朝廷一元史観成立の最大の根拠になりつつあります。「邪馬台国」論争は、関川さんの著書に示されたように、ほぼ古田説と同方向(北部九州説)へと収斂しつつあるようですが、「邪馬台国」の後継勢力が4世紀に大和へ進出し、大和政権の基礎を築き、5世紀には圧倒的な巨大古墳群を築造した「倭の五王」に続くとする通説を形成しているのです。
 これこそ、わたしが提起した「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」(注②)の《一の矢》に他なりません。これは、古田先生が提唱された多元史観・九州王朝説を是とする、わたしたち古田学派にとって避けることのできない課題です。考古学的事実に基づいて成立した「倭の五王」=「河内・大和の巨大前方後円墳の被葬者」という通説に、どう対峙するのかが問われています。本年11月の八王子セミナーで、この問題についてどのような議論が行われるのかが、わたしにとっての最大の関心事です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」(『古田史学会報』135、136、137号。2016年8、10、12月)、古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。


第2488話 2021/06/12

文献史学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、「邪馬台国」大和説を鋭く批判している関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)ですが、肝心の「邪馬台国」の位置については、その論理的だった姿勢に揺らぎがみえます。たとえば、『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には「邪馬台国」の所在について次の記述があります。

〝文献史学の大勢である邪馬台国九州説〟86頁

〝邪馬台国の位置問題についても、このような北部九州を起点とする、大きな文化の流れの中にあることは明らかで、その中で近畿中部の優位性を説くことは不可能である。〟160頁

〝邪馬台国は、このような対中国外交を専権として、他地域とは隔絶した内容をもつ、北部九州地域の中においてのみ出現することが可能であったと理解するのが、やはり順当な見方といえよう。
 このような趨勢においては、邪馬台国大和説は成り立つ術はないのである。〟161頁

〝当時の中国の政治情勢をみると、日本列島の中においては、九州以外に邪馬台国の存在を考えることはできないことになる。〟171頁

〝また、『魏志』は中国正史であるため、位置問題についても、それまで特に東洋史家を中心とした解釈と大局的な観点により、文献上からは、ほぼ九州説が大勢であるといえるのが主な邪馬台国論考を通覧してみた感想である。〟188頁

 このように、関川さんはご自身の専門分野である考古学だけではなく、文献史学・東洋史・地政学など多方面にわたる関連諸学の知見も取り入れて、「邪馬台国」の所在地を北部九州とされています。ところが、北部九州のどこかという問題には答えておられません。
 その理由は、文献史学の学者が、列島内最大規模の博多湾岸遺跡群を奴国(二万余戸)に比定してしまったため、奴国以上の規模(七万余戸)の「邪馬台国」(倭人伝原文は邪馬壹国)の候補地とできる弥生時代の大型遺跡など日本列島にはなく、そのために比定地を見失ってしまったことによります。その結果、関川さんは次のような結論へと向かわれました。

〝邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに超えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟180~181頁

〝卑弥呼の宮殿の行方
 このような遺跡の現状をみると、女王が都する所とされた邪馬台国中枢に相当する遺跡は、必ずしも湾岸地域にある奴国級の大型遺跡であると想定することはできないであろう。〟181頁

〝結論は、九州説の内容を肯定するというよりも、大和説は成り立たないという、いわば消去法による邪馬台国位置論という結果になった。〟187頁

 すなわち、関川さんのような文献にも詳しい考古学者でも、文献史学の〝誤解〟に躓かれたと言わざるを得ません。
 それではなぜ文献史学ではこのような結論、「邪馬台国」の位置不明となる博多湾岸「奴国」説に至ってしまったのでしょうか。それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』(注②)で提唱された、魏西晋朝における「短里」(1里約76m)の概念が、古代史学界にはなかったことによります。倭人伝の里程記事は短里で書かれており、それによれば、邪馬壹国の位置は博多湾岸となり、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を倭国の都に比定でき、文献史学と考古学の結論が整合できるのです。
 関川さんの古代史講演会(注③)もいよいよ一週間後となりました。この奴国の位置比定の根拠と当否について、ぜひともお聞きしたいと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2487話 2021/06/11

「邪馬台国」大和説と畿内説の落差

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。

〝畿内説と大和説
 邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
 しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
 また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁

 このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。

〝金属製品の少なさ
 大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
 さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
 また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
 大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁

 このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
 「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。


第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟


第2485話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟大和説、鉄器の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注①)において、考古学の視点から、邪馬壹国博多湾岸説の根拠として、漢式鏡・鉄器・絹などの出土量が大和に比べて北部九州が圧倒的に多いことを指摘されました。「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)も『考古学から見た邪馬台国大和説』(注②)で同様の見解を述べられています。

〝邪馬台国大和自生説の困難さ
 さらに、邪馬台国が大和において自生的に出現したというのであれば、すでに弥生時代の早い段階から近畿大和が北部九州より、対外交流や文化内容においても卓越性を持っていなければならないことになる。
 しかし、3世紀以前、時期を遡るほど北部九州の弥生文化は、中国王朝との交流実態を示す有力首長墓の副葬遺物を始めとして、近畿大和と比較にならないほどの内容をもっていることは明らかである。首長墓の地域比較においても、大和地域の墳墓が、北部九州に次ぐ瀬戸内・山陰・北陸地方の大型墳丘墓にも達していないという、その事実を認識する必要がある。古墳の出現年代を遡らせ、それを邪馬台国と結びつけるということは、むしろ近畿大和における邪馬台国の自生的な成立を、さらに困難にさせることになるのである。
 このことから、有力首長墓の存在が確認できず、さらに対外関係と無縁ともいえるこの時期の大和地域において、北部九州の諸国を統属し、積極的に中国王朝と外交を行った邪馬台国のような国が自生するということは、考え難いことといえよう〟147~148頁

 鉄器の出土について、次のように述べられています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が示すもの
 先にふれたように、庄内式の終わり頃、纒向遺跡で出土した鉄器製作にかかわる鞴(ふいご)の羽口には、福岡県・博多遺跡群と同じ形のものがある。そして、ここでは半島南部の陶質土器も伴っている。これをみても、この時期の鉄器生産技術というものが、半島南部より北部九州を経て及んだものであることは疑いない。
 (中略)この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。(中略)博多遺跡群における鉄器生産の規模は、この時期では列島内最大級という圧倒的なものである。北部九州から発する鉄器生産技術の広がりは、纒向遺跡のみならず、関東地方の遺跡まで及ぶという、はるかに広域な地域にわたっている。〟148~149頁)

 そして次のように結論されています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が、箸墓古墳の造営が始まるような時期に、ようやく北部九州からの技術導入で始まっているという事実は、やはり鉄の問題においても、邪馬台国大和説とは相いれるものではないことを示しているといえよう。〟150頁

 長く大和の遺跡を調査されてきた著者の発言だけに、誰も無視することはできないでしょう。北部九州における鉄器生産規模が圧倒的であることは、考古学者であれば誰もが知っている事実です。以前、大阪の考古学者と意見交換したときも、その方は「邪馬台国」畿内説を支持されていましたが、鉄器に関しては北部九州説が有利であることを正直に認めておられました。(つづく)

(注)
①古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
②関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。


第2484話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟九州説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には、「邪馬台国」研究史における「邪馬台国」〝非〟九州説の発生根拠や論理ついても紹介されています。学問研究においては、自説と異なる意見やその背景となる根拠と論理構造を理解することは大切ですので(注②)、関川さんの著書はとても役立ちます。読者の皆さんにも一読をお奨めします。
 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注③)によれば、江戸時代の松下見林以降の「邪馬台国」畿内説の背景として、〝古代より日本の代表権力者は近畿天皇家だけ〟とする皇国史観にあったことは明らかですが、さすがに現代では、そこまで露骨な理由は通用しませんので、どのような根拠に基づくのかを知りたいと思っていました。関川さんの著書には次のように説明されています。

〝邪馬台国「七万余戸」と弥生遺跡
 邪馬台国の所在地を北部九州の域内とすると、九州説の難点とされる主な理由に、『魏志』に伝える邪馬台国の戸数、「七万余戸」の記述がある。邪馬台国九州説においては、遺跡に対する異論が多い。その大きな理由は、邪馬台国時代の北部九州においては、戸数「二万余戸」の奴国、あるいは伊都国をはるかに越える遺跡は認め難い、ということである。
 それは大正期以来、北部九州の遺跡踏査を重ねた中山平次郎(1871~1956)が、九州説の有力候補地である筑後山門には際だった遺跡がみられないとし、邪馬台国九州説を否定した大きな理由である。
 当時、九州考古学の現状に最も通じた中山が、この踏査の結果を以て邪馬台国山門説を支持するのであれば、考古学上から中山の見解を否定することは、かなり困難な状況であったであろう。
 小林行雄も、「三世紀のことはわからないが、一、二世紀でも、また四、五世紀でも、九州地方に奴国より戸数の多い国がありえたとすることは、考古学的には不可能である。これは邪馬台国九州説にとって、致命的ともいえる難点となろう。」と述べている(小林行雄『女王国の出現』)。(中略)
 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに越えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟179~181頁

 この説明を読んで、わたしは「なるほど」と思いました。博多湾岸の遺跡を奴国とする以上、それ以上の規模の弥生時代の遺跡などおそらく日本列島にはないと思われます。すなわち、文献史学において、博多湾岸を奴国と比定したことが根本的な誤りであり、その結果、その文献史学の誤った通説に基づいて、考古学者が出土事実を解釈したことが、「邪馬台国」〝非〟九州説の成立根拠と経緯だったわけです。
 古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で述べられたように、『三国志』の時代に「奴」の字が「な」と発音されていた形跡はありません。倭人伝では、「な」の音に「難」「那」の字が当てられており、奴の字音は「ぬ」「の」「ど」が妥当とされました。したがって、後世に博多湾が「那(な)の津」と呼ばれていたことと結びつけて、博多湾岸を奴国に比定したことは、学問的な論証を経ていません。これは明らかに文献史学側の誤りでした。その結果、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を「二万余戸」の奴国としてしまい、「七万余戸」の邪馬壹国に比定できる規模の遺跡が〝所在不明〟になってしまったのでした。
 また考古学側も、国内最大規模の博多湾岸遺跡群を倭人伝中の国に比定するのであれば、最大戸数(七万余戸)の邪馬壹国がもっともふさわしいとする、考古学的出土事実に基づいた判断ができなかったことにも問題があります。
 なぜ、考古学側がこのような判断を現在でも採用しているのかについて、6月19日(土)に奈良新聞本社ビルで開催される関川さんの講演会(注④)の時にお聞きしてみようと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功
②〝学問は批判を歓迎し、相手をリスペクトした真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えています。これは恩師、古田先生から学んだ学問の精神です。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
④「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2483話 2021/06/09

箸墓古墳年代引き上げの是非

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で指摘されているように、弥生時代の大和からは倭国女王にふさわしい大型墳丘墓(首長墓)の出土がありません。そこで、「邪馬台国」畿内説論者が〝苦肉の策〟として採用したのが、従来は4世紀と編年されてきた箸墓古墳の年代を遡らせて、〝弥生時代(3世紀)の古墳〟とする強引な仮説です。もちろん、「学問の自由」ですから、どのような仮説の提起も許されますが、このことについても関川さんは次のように鋭く問題点を指摘されています。

〝逆行する近年の古墳出現年代
 古墳が出現する時期は、弥生時代以降のことであり、中国でいえば漢代より後のことである。考古学の対象としても、それほど古い時代ではない。このため、古墳時代に限れば、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」に対する、かつての考古学界の反応でも分かるように、過去に否定されている年代観なのである。(中略)
 古墳の年代は、古墳研究の根幹となるものであるが、それはこれまでの長い研究史の上に成り立っているものである。もし、それを変更するとなれば、確たる考古学的な年代根拠が必要となるはずであるが、それが未だに明らかにされないままに、年代のみが繰り上がっているところがやはり問題であろう。〟133~134頁

〝古墳の年代というものは、古墳から出土する多種にわたる遺物の総合的な年代観に基づいているのである。(中略)
 さらに、副葬品の中には、数の多い石製品・銅鏃、そして鉄製の刀剣・槍の武器類があり、鉄製甲冑もみられるのである。これら『魏志』にも現れないような遺物までも、3世紀―邪馬台国の時代に存在する、ということになる。このようなことは、これまでの古墳考古学の「常識」からみれば、それは簡単には容認できないはずであろう。〟134~135頁

 このように、関川さんは古墳考古学がこれまで積み上げてきた総合的な年代観とは異なる、箸墓古墳の年代を3世紀まで引き上げる近年の傾向に疑義を呈され、次のように結論付けられています。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

更に、〝我が意を得たり〟と思った、次の解説がありました。「邪馬台国」畿内説論者が、箸墓古墳を3世紀に編年する際に根拠(注②)とした、炭素14年代測定に関する次の記述です。

〝炭素14年代決定法の問題
 古墳3世紀遡上説の大きな根拠の一つに、特に土器付着物の炭素14年代法による結果がある。さほど古くはない古墳の年代を扱うのに、このような理化学的年代決定方法に、大きく依存するということ自体が、やはり問題であろう。これでは、考古学と理化学の双方による古墳の推定年代の結果について、相互比較することができないからである。
 さらに、年代測定にあたる理化学研究者により、測定資料としては保存の良い単年性陸産植物が最適であり、何を炊き出しているのか不明な土器付着物は、年代がかなり違ってくる可能性があることが指摘されている。
 事実、単年性の植物にあたる箸墓古墳周濠の桃枝や、ホケノ山古墳石槨内の小枝の分析報告では、新しい年代の数値を示しているのに対し、同じ箸墓古墳周濠出土土器の付着物や、ホケノ山古墳の木棺材では、それより古い年代の数値が出ていることは、これまでに知られているとおりである。
 年代値の使用にあたっては、どんな測定試料か、またそれが信頼できるのか冷静な判断が必要であると、年代測定者より助言されているのが、現在の状況である。〟136~137頁

 わたしも、水城や大宰府政庁の造営年代の根拠として、出土した「炭」などの測定値を採用する際には、サンプリング条件や試料性格を慎重に調査したうえで、その測定値が何を表すのかを判断する必要があると繰り返し注意を促してきましたので(注③)、関川さんの指摘はよく理解できます。理化学的年代測定で出された数値が何を意味するのかは、サンプルの性格やサンプリング条件の影響を受けますから、測定値が自説に有利か不利かというバイアスを除外して、慎重な判断が必要です。(つづく)

(注)
①関川尚功
②ウィキペディアによれば、「陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式土器が多量に出土した。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280~300年(±10~20年)と推定している。しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。」と解説されている。
③古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
 古賀達也「洛中洛外日」2451、2452話(2021/05/07-08)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(2)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2471~2475、2477話(2021/05/26-06/01)〝「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(1)~(6)〟